神輿みこし

神輿の起源

  勇ましい掛声に合わせて練り歩く神輿の巡行は祭礼のシンボルであり、掛声をかけて神輿を振り動かすを古来「神輿振り(みこしぶり)」といい、これは神威の発揚を求めるためといわれる。神輿は文字通り神の輿(こし)で神のための乗物であり、正しくは「シンヨ」と訓むが民間では「ミコシ」と言い、「御輿」と表記することがある。昔の乗物といえば「馬」か「輿」あるいは「車」であり、神幸用に神馬(じんめ)が飼われ、神輿が作られたのである。
  文献上における神輿の起源は、奈良時代の天平勝宝(てんびょうしょうほう)元年(749年)に東大寺の大仏を建立する際、宇佐(大分県宇佐市)から八幡神を迎えるにあたり、天皇が使用する高貴な紫色の輦輿(れんよ)に乗せ、東大寺の転害門(てんがいもん)で大勢の僧侶と文武百官に迎えられたという記録がある。貞観8年(866年)には八坂感神院に牛頭(ごず)天皇(素戔鳴尊)を勧請して、疫神祭(やくじんまつり)を行ったときにも神輿が用いられたという。疫神祭に神輿が出御したことは、正暦5年(994年)・長保3年(1001年)の記録にもある。
  歴史上著名な神輿は「日吉(ひえ)神社」の神輿で、平安時代の中期から後期にかけて日吉神社の神人と比叡山延暦寺の僧兵(宗徒)とが連合して神輿を担ぎ出し、入京してしばしば強訴を繰返した。百練抄治承元年(1177年)4月13日の条には「神輿7基」とあり、強勢ぶりが知られる。南都興福寺の僧兵たちが「春日神社」の神木動座と称して入京強訴したものとともに、当時都人の患いとなっただけでなく白河法皇を悩ませたことは有名である。
  神輿の具体的な姿が確認できる最初の例は、1170年代後半の成立とされる「年中行事絵巻」に描かれた祇園御霊会(祇園祭)の「八坂神社」の3基の神輿と、同じく稲荷際の5基の神輿である。祇園御霊会は2基の「鳳輦(ほうれん)型神輿」に1基の「葱花輦型神輿」、稲荷祭は4基の「切妻屋根を持つ神輿」と1基の「八角高御座(たかみくら)形鳳輦型神輿」である。これらの鳳輦型神輿や葱花輦型神輿いずれも屋根に照り起り(てりむくり)があって、現在の神輿に共通する。
  現存する神輿の最古例は、12世紀の製作とされる「鞆淵(ともぶち)八幡神社(和歌山県粉河町)」のもので形式は鳳輦型である。続く鎌倉時代初期の「誉田(ほんだ)八幡宮(大阪府羽曳野市)」の神輿も鳳輦型であるり、やはり両者とも屋根に照り起りがる。これに対し、1340年頃に製作された「手向山(たむけやま)神社(奈良市)」の1基の鳳輦型神輿と2基の葱花輦型神輿は屋根に起りがなく、その形態は天皇や皇后の乗物である輦に極めて類似している。
  神殿の常設化が進んで御旅所に神が渡る祭式が常態となるところで、神輿は常備されるに至った。神社で神輿を用いるのは、一般には「神幸祭(じんこうさい)(神輿渡御祭)」の時であるが、現在では氏子の地区である町々や村内を氏子が担いで練り歩き、その地区の神が巡幸するものと考えられている。
  



神輿の構造

  神輿の形状は四角・六角・八角からなり、全国には六角・八角形が数多く存在する国(旧国名)と四角形しかない国とがあり、北陸地方の加賀・能登の国は六角・八角形が非常に多いが、この例は稀で全国的には四角形が主流である。四角形がなぜ多いかというと、神輿は天皇の輦輿である鳳輦が基になり発展したという説があるためである。しかし、全国の古い祭りを目の当りにすると、神輿は神の乗物だけではないと思える神事を数多く見る事ができる。
  四角形の神輿は方輿(ほうよ)と呼ばれ、上から順に名称を記すと、「屋根部」・「身部」・「基台部」から構成されている。また、神輿には関西型と関東型があると思われる。

●屋根部
  屋根部の頂上には露盤(ろばん)があり、露盤上には鳳凰もしくは葱花(そうか)(擬宝珠)をのせている。前記の鳳輦は鳳凰を、葱花輦は葱花を中央に据えているが、葱の花は長く散らないため吉祥飾りとして尊ばれ、鳳輦ともども天皇の行幸用に使用された。鳳輦は天皇だけの天皇だけの輦輿であるが、葱花輦は天皇以外の皇后など女人も使用した。このことから鳳凰神輿は男神で男神輿、葱花神輿は女神で女神輿といわれるようになったと思われるが、これは誤りで女神の神輿にも鳳凰は据えてあるし男神のものにも葱花はある。関西型の鳳凰は尾羽が下から上へ、関東型は上から下へとつけられている。
  鳳凰を受けるのが露盤で、この露盤より四方へ屋根が流れ、その隅には隅棟(すみむね)が下り、この棟を降棟(くだりむね)または野筋(のすじ)と呼ぶ。また、この流れ方は大抵の神輿で照り起り(てりむくり)形である。屋根は関西型では全体を金銅板で被っているが、関東型においては黒漆で塗られているのが通例である。
●身部
  屋根部を受けるのが身部であり、この身部は宮大工(または大仏師)の腕の見せ所である箇所が数多くあり、見栄えがする彫刻が施されるところでもある。そして関西と関東でもっとも異なる箇所でもある。
●基台部
  基台部は下台(しただい)とか台輪(だいわ)ともいわれ、この箱台に轅(ながえ)(舁ぎ棒)がつき、この轅を駕輿丁(かよちょう)(舁ぎ手)が舁ぐ。この轅は関西では常に備わっており、関東のように据え付けるのではない。

  「年中行事絵巻」からは、かつて種々の神輿の形態が存在した事が推測されるが、現在の神輿は宝形造で照り起りのある屋根に鳳凰を頂く形式が圧倒的である。
  「年中行事絵巻」に描かれた八坂神社の鳳輦型神輿を見ると、屋根は照り起りのある宝形造で屋根には鳳凰を乗せる。そして捻れ上がった蕨手(わらびて)の先端には小鳥が付けられ、周囲には囲垣(いがき)をめぐらし鳥居を設ける。このように、神輿の基本形態は既に平安時代末期に出来上がっていたと考えて良いだろう。
  現存する関西地方の神輿は比較的装飾的細部が少なく、建築で言えば住宅的であり輦的な要素をとどめるものと言える。これに対し、江戸神輿は極めて仏堂に近い構成で組物は禅宗様の三手先、詰組に扉口は桟唐戸といった形式が多い。平安時代の神輿から江戸神輿への変化は、時代と共に神輿の形式がより仏堂に近い形式へ接近してゆく過程であったといえよう。これらの他にも、仏教的な要素としては花鬘・瓔珞・幡などがあげられる。
  神輿は普通木造の黒漆または朱漆で、「台」と「胴」と「屋根」の三つの部分から成っている。形状は「四角形」・「六角形」・「八角形」などがあり、屋根の中央には「鳳凰」または「葱花(そうか)(ねぎの花の形をした飾り)」を置き、台には2本の棒を縦に置きさらにこれに横棒を取り付ける場合もある。枕草子に神輿を「梛(なぎ)の花」で飾ることが見え、本朝世紀天慶8年(945年)の条には、神輿に檜皮葺(ひはだぶき)と檜葉葺(ひばぶき)があり、前に鳥居をつけたものがあると記している。
  神輿を収蔵しておく庫を「神輿庫(じんよこ)」といい、普通は神社の境内に設けられる。神輿庫は俗に「神輿殿」・「神輿倉(みこしぐら)」と呼ぶことが多い。

神輿殿(三ノ宮)御輿殿(西沼目)

神輿を壊す

  各地に神輿をぶつけ合ったり落として壊す祭りがあり、「喧嘩祭り」とか「荒れ祭り」と言われている。この荒れは「生れ(あれ)」のことで御霊の新生を意味した。また、神輿を激しく揺する魂振(たまふり)りは神の霊魂に活力を与えて再生させるためのもので、鎮魂祭(たましずめのまつり)とも言われる。



甚句

  「甚句」は「甚九」とも表記し、民謡やはやり歌の一種である。一般にその作詞者や作曲者、またいつ頃から唄われてきたかは定かではない。


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参考文献
タイトル著者/編集出版/発行出版年
相模の神輿 神奈川の神輿監物恒夫(株)アクロス1985(昭60)
相模の神輿A 浜降祭と神奈川の神輿監物恒夫(株)アクロス1986(昭61)
江戸下町神輿(株)アクロス同左1987(昭62)
宮大工の技術と伝統 神輿と名王太郎手中正東京美術1996(平8)
平塚市文化財調査報告書 第三十四集平塚市教育委員会左同2003(平15)

  ※上記の文献は他のページでも引用していることがあります。