相模さがみ

相模国の起こり

  相模国が成立したのは天武天皇12〜14年(683〜685年)にかけて諸国の国境が定められた時であるが、大化改新(645年)以前に相模の地には3つの勢力があった。第1は相模川の流域、郡で言えば平塚市が位置する大住郡をはじめ愛甲郡と高倉郡(高座郡)をエリアとする「相武(さがむ)国造」、第2は酒匂川流域を中心に足柄の足上郡・足下郡・余綾郡をエリアとする「師長(しなが)国造」、そして第3が鎌倉郡と御浦郡(三浦郡)をエリアとする「鎌倉別(かまくらわけ)」である。
  この3つの勢力は大化改新以後に郡の前身である「評(こおり)」に再編成され、その全体が相模国となった。評の官人には国造層が優先任用されたが、そのことは大宝令下の郡に受け継がれた。

●相武国
  『国造本紀』によれば後の相模国の境域内には相武国のほかに師長国があり、・・・
  大住・高倉両群の郡司家は壬生直(みぶのあたい)氏であることから、相武国造家は壬生直氏と想定されている。壬生直氏は皇子の養育料を負担する部民である「壬生部(みぶべ)/乳部」を統率した氏族で、相模国の壬生部は推古朝に諸国へ壬生部が設定されたのに遡っているようである。同じ頃、ヤマト王権の経済的・軍事的拠点である「ミヤケ(官家・屯倉・三宅)」が諸国に置かれ、大住郡では三宅郷がその後身と考えられている。その位置は不明で、平塚市の豊田本郷あたりともされているが、いずれにしろ国府周辺と思われる。相武国造は壬生部を率いて、また委ねられたミヤケの経営を通じてヤマト王権に奉仕した。

●師長国(磯長国)
  『国造本紀』によれば師長国の国造として、第十三代成務天皇の時代(131〜190年)に「大鷲臣命(おおわしおみのみこと)」が任命されたことが記されている。師長国は「磯長国」とも記し、『和名抄』の余綾郡の郷の一つである「磯長郷」が師長国の遺称であると思われる。磯長郷の所在地について『日本地理志科』は、「国府津、前川、羽根尾、中村原、上町、小船、小竹、沼代の数邑を成田荘と称す。いま足下郡に隷す。あるいはその域か。」と述べている。そうだとするならば東は押切川を境とし、西は国府津と沼代とを結ぶ線で囲まれた地域で、現在の神奈川県足柄下郡の橘町に小田原市の国府津町を合わせた地域とだいたい同じであるといえる。
  川勾から西方5kmほどのところの千代に小規模の前方後円墳が数基あり、また、『風土記稿』によるともと下足柄郡の千代村には小さいながら少なくとも権現塚・神明塚・経塚の三基の前方後円墳のあったことが推定され、後代の師長の国造たちは千代に治所を置いて居住していたものと思われる。ただし、師長国の跡と思われるところには大きな前方後円墳はなく、小規模のものはあるがその数はごく少ない。このことから師長国はもともと境域も狭く土地もとくに豊かということもなかったため、その国造の勢力も強大ではなく国の存続期間もあまり長くなかったと考えられ、おそらく大化の国郡制制定よりも早い時期に相武国に合併されていたと思われる。

  7世紀中頃に相模の人々は大きな変動の渦に巻き込まれていた。これまで「国造(こくぞう)」である相武(さがむ)と師長(しなが)の下に暮らしていたが、孝徳天皇(645〜654年)の時には「評(こおり)」という行政組織が編成され、国造はその役人である「評司」となった。さらに相模国が評の上に作られるとヤマトから国司(国宰)という役人が派遣されるされるようになり、評司はその配下に組み込まれた。人々もこれまで多く「部民」に編成されいたのが「公民」と呼ばれ、姓(せい)を与えられ戸籍に登録されるとさまざまな税を負担させられるようになった。そうした結果、8世紀になると「律令制」という政治体制ができあがることとなる。



律令制下の地方行政組織

  奈良時代は「律令制度」と呼ばれている時代で、中国から輸入された法体系である「律」と「令」に基づく政治が行われていた。その中で中央では天皇を中心にして「神祇官(じんぎかん)」と「太政官(だいじょうかん)」という役所が作られ、太政官のもとに8つの「省」が置かれ、極めて中央集権的な政治が行われていた時代である。このような時代に地方に関してはまず「国(くに)」という単位があり、その下が「郡(ぐん)」、その下に「里(り)」という組織が作られていた。この国・郡・里という地方行政組織が、大宝元年(701年)に完成した「大宝律令(たいほうりつりょう)」という法律によって定められた。
  その後、この制度は若干の変更がなされ、養老元年(717年)にはそれまで里といっていた組織が「郷(ごう)」と改称され、かつての里である郷の下が2つか3つに細分化され、その細分化された小さい組織を今度は里と呼ぶようになった。この「郷長」の下に「里正」を置くといった「郷里制(ごうりせい)」は実際にはあまりうまく機能しなかったようで、天平12年(740年)以後は一番下の小さくなった里が廃止され、地方の組織は国・郡・郷というようになった。
  また、律令制下では延暦11年(792年)に辺境地を除いて廃止されるまで、諸国に「軍団」と呼ばれる兵団が置かれていた。相模国では大住と余綾の軍団が史料に見られ、大住軍団は国府近辺で編成されていたと考えられ、蝦夷(えみし)対策として陸奥国まで派遣されていたことが知られている。曹司にも比定される厚木道遺跡では10体分の馬を埋納した土坑や「井」の焼印が出土しており、馬に関係する遺跡としても捉えることができ、大住軍団駐屯の候補地とすることも可能である。



国・郡・里(郷)

  国と郡は現在の県と市などに相当するもので明確な領域がきまっていて(境界線があった)、国・郡の役所はそれぞれ「国府(こくふ)」・「郡家(ぐうけ)/郡衙(ぐんが)」といった。これを示す例として延暦16年(797年)には相模国と甲斐国との間で境界線の争いも起こっており、国の境は天武天皇元年(672年)に起こった「壬申(じんしん)の乱」で勝ち抜いて即位した天武天皇の時代に定められた。天武天皇12年(683年)から14年(685年)にかけて各地に使者(伊勢王ら)を派遣して国の境界線を決めており、最後の年の685年10月にはその使者が東国にも派遣されているので、相模国の境界もおそらくその時に定められたと考えられる。郡は評を前身とし、かつて国造を出したような地域の伝統的有力氏族の者が郡司に任じられた。
  国と郡が明確に境界を持つのに対して、その下の里(後の郷)は少し違った性格を持っていた。1里は50の家族すなわち50の「戸(こ)」から成っており、この戸は現在のものとはやや異なるものであるが家族を表す単位である。里には「里長」が置かれ、基本的に人間の集団を表している。律令制下では6年に一度戸籍が作られ、その際に戸というものが決められた。戸は現在の家族に比べると大変大きいもので、その中心が「戸主(こしゅ)」でその下に「戸口(ここう)」という家族員がいた。古代の戸は夫婦と子以外の親族も含めた構成になっており、1つの戸は20人程から成るような大変大きなものであった。
  上述のように50戸が集まって一つの里とする場合、これを厳密に実施すると当然人の出入りというものがあるため、6年ごとに戸籍を作るたびにその戸が少しずつ変化をしていくことになる。そうなるとそれまでの里が必ずしも50戸ではなくなってしまい、多くの場合には若干の端数は許すとか、さらに変動が大きい場合は里自体を編成し直すこともあったと考えられる。このように里は基本的には領域を持たず、国と郡とは大きく性格が異なるものである。



国司と郡司

  国と郡には役人が置かれ役所もあったが、国の役人と郡の役人の性格は異なるものであった。国の役人である「国司(こくし)」は中央政府によって派遣されてきた者で、それに対し「郡司(ぐんじ)」は地元の有力者がなるものであった。律令体制下においては「四等官制(しとうかんせい)」といい、どこの役所にも4つのランクの役人がいた。このランクは「長官」・「次官」・「判官」・「主典」の4つで、日本語でいうと「カミ」・「スケ」・「ジョウ」・「サカン」であるが、役所によって異なった字を使っていた。国司の役人に関してはカミは守るという「守」という字を書き、スケは紹介するするという「介」、ジョウは「掾」、サカンは「目」と書く。江戸時代における大岡越前守であるとか、吉良上野介などの守や介はこの例である。一方、郡司の四等官は「大領(たいりょう)」・「少領(しょうりょう)」・「主政(しゅせい)」・「主張(しゅちょう)」から構成されていた。
  相模国は上国というランクであり、上国の国司の定員は守・介・掾・目それぞれ1人ずつであった。しかし、天平7年(735年)の『相模国封戸租交易帳(さがみのくにふこそこうえきちょう)』によると、実際には1人であるはずの目が「大目(だいさかん)」・「少目(しょうさかん)」というように大と少に分かれて2人いたことがわかっており、本来の法律に定められた数よりも増員されていたようである。また、国司の任期は当初6年であったものが後に4年となり、これに対して郡司には任期の規定がなかった(終身宮)。律令制的な官僚制の中では任期がないことは極めて異例なことであり、郡司は代々国造や評の役人を勤めていた地元の有力者が任じられていたことから、譜第という血筋が重視されていたと考えられる。
  国司が地方出身の郡司を支配しているというのが律令制的地方支配制度であったが、国司の地方支配は郡司なくしては実現できないものであった。そのことをよく示すものとして『類聚三代格』の弘仁10年(819年)5月21日太政官符によると、「郡司はこれ自ら勘(かんが)え自ら申す職也。国司は則ち申すに随いて覆検する吏也」という言葉がある。郡司は戸籍・計帳の作成や徴税などの実務をこなし、地方支配の根幹を担ってきたのに対し、国司は郡司から上がってきた案件を点検して最終的裁定権を掌握していた。すなわち、律令国家は伝統的権威を有し、郡内のことに精通している有力氏族を郡司に任命して、地方支配を潤滑に行うことを期待していた。



国府と郡家

  国司の執務した「国府(こくふ)」は国の役所であり、一番中心的な区画を国の庁すなわち「国庁(こくちょう)」と呼んでいる。中心的な建物である「正殿(せいでん)」は「庁(ちょう)」ともいい、日本語でこれを読むと「マツリゴトドノ」という。その南の両側には長細い建物である「脇殿(わきでん)」があり、それらの真ん中が儀式を行う広場になっていた。国司は毎年元日に僚属(同僚の属官)や郡司を率いて庁に向かって朝拝を行ったが(儀制令元日国司条)、これは都で大極殿の天皇に対し臣下が新年の祝賀の意をこめて朝拝を行ったのになぞらえて、天皇権力の象徴である無人の庁を拝したものである。国司を「国宰(くにのみこともち)」というのは天皇の代理として中央から来た使者という性格を表したものであり、国府が「遠(とお)の朝廷(みかど)」とも呼ばれたのも同じ理由からである。
  こうした国庁の他に実際に現業部門の仕事を行うような役所である「曹司(ぞうし)」や、「国司館」、「倉」、食事を作ったりする「厨(くりや)」という一角など、さまざまな施設が一体となって国府を形成していた。国府に対して「郡家(ぐうけ)」は「郡庁」と「正倉」・「館(たち)」・「厨」などから構成されていた。
  昔は国府が方八町などといわれており、約800m四方の1つの区画があって、その中が都の平城京のように道路によって碁盤の目のようにきっちりと区画されていたと考えられていた。しかし、全国各地の発掘調査の結果でこのような事例はないということがわかってきており、幾つかの機能を持った施設が点在、あるいはブロック状に固まっている場合もあるが、これらが主要な道路(駅路)によって結ばれていたというのが国府の姿であると考えられるようになってきている。全国各地の発掘事例によると、国庁は一辺が70〜90m(場合によっては100mを超える)、郡庁のそれは50m四方ほどと規模は異なるが、ともに板塀か築地塀で囲まれた中に掘立柱ないしは礎石建ちの正殿と脇殿を主要要素とする大規模な建物群があり、中央は庭(広場)になっていた。ただし、郡庁は国庁ほどの画一性はなく、これは国司と郡司の性格とも関わるものである。しかし、いずれも竪穴住居も多い周辺の集落とは全く異なった景観で、律令国家の権力を人々に実感させるものであった。
  里(郷)については、その官衙があったかどうかについては見解が分かれる。しかし、平城宮跡からは「五十戸家」・「五十家」と書かれた8世紀初頭の墨書土器が出土しており、「五十戸」は里のことであり、里長が執務する「里家」のある里もあったとみられる。しかしそれは国府・郡家のような官衙というよりも、里長の家に付随するようなものであったかもしれない。



五畿七道

  日本の律令制における広域地方行政区画に「五畿七道(ごきしちどう)」というものがあり、元々は中国で用いられていた行政区分である「道」に倣ったものである。五畿七道の原型は天武天皇の時代に成立したといわれ、当初は全国を都周辺の畿内五国とそれ以外の地域を七道に区分し、そのうち6本の道が奈良の平城京(平安時代は京都の平安京)から放射状に発していた。
  「五畿」は「大和(やまと)」・「山背(やましろ)」・「摂津(せっつ)」・「河内(かわち)」・「和泉(いずみ)」の5つの国から成り、この地域を「畿内」ともいう。これに対して「七道」は「東海道」・「東山道」・「北陸道」・「山陰道」・「山陽道」・「南海道」・「西海道」から成っており、基本的には都と各国府とを結ぶ「官道」であると共に、その道が通過する諸国をまとめた呼び名でもある。相模国に関しては東海道という道が通過する国なので、同じく東海道が通過する伊豆や駿河などとともに、これらをまとめて東海道の諸国という呼び方をした。東海道は都から東に太平洋沿いの国々を連ねた道で、相模国を通り終点は常陸(ひたち)国(茨城県)となっている。



駅伝制(駅馬と伝馬)

  上記の七道は都と各国の役所である「国府」とを結ぶ道であり、中央と地方とを直結する道であった。大化改新以来、大和朝廷は地方の駅伝制度の整備に力を入れ、中央集権の体制強化に役立たせてきた。駅伝制の大要をいうと、全国の官道を大・中・小の三等に区分し、京師より太宰府に至る道路を大路とし、東海道と東山道の二道を中路とし、その他の道路を小路とした。これらの道には30里(約16km)毎に「駅家(うまや)」というものが置かれ、駅家にはかならず「駅馬(えきま)」と「駅子(えきご)」を常備し、緊急を要する官使の公用に供する立前をとった。都から地方へ(あるいは地方から都へ)と公の使命を持って、使者達(官人)が馬を乗り継いでいく施設であり、七道は「駅路(駅家)の道」とも呼ばれていた。
  また、駅馬とは別に「伝馬の制」があり、『延喜式』によると相模区にの伝馬は足上・余綾・高座の三郡にそれぞれ五匹が置かれた。郡のいずれのところに置かれたかについては式では明記していないが、坂本太郎氏はその名著『上代駅制の研究』において各国の特定の郡の郡衙に置かれたものとされている。伝馬を使用した者は緊急度の比較的薄い官使で、国司が任国へ赴く場合などがその例にあげられている。なお、国司が管下の国内を公用で旅行する場合の最も重要な使命は、官社の祈年祭に際し、また大社にあたってはその他の祭祀に際して神祇官の名代として参拝し、国幣を奉呈することであったと思われることから、国司が正式に官社に参拝するときには原則として伝馬を使用したものと考えられる。
  平安中期の駅伝制については『延喜式』の兵部式において全国的に記載されており、そのうち相模国に関しては「相模国 駅馬 坂本二十二疋。小総、箕輪、浜田各十二疋。 伝馬 足上、余綾、高座各五疋。」と記されている。これにより相模国の中に置かれた駅家は、西から「坂本」・「小総」・「箕輪」・「浜田」の4駅があったことが知られている。

●坂本(さかもと)駅
  具体的な駅路のルートと駅家の位置をたどってみると、駅路はまず足柄峠から相模国に入り坂本駅に到着する。坂本駅は現在の南足柄市関本に比定され、諸家のあいだにあまり異論はないようである。ただし『風土記稿』には関本村について「旧飯沢、猿山、両壺坪、福泉、弘西寺、苅野岩、苅野一色等の村々を概して関本と唱ふ云々」と記しており、現在の関本のみならずその西方一帯の村落をもあわせて関本村であったとすると、坂本という地名は相当広い範囲の地名であったとことにある。
  他の3駅の駅馬の数が12匹であるのに対し坂本駅が22匹と著しく多いのは、坂本駅が足柄峠の下にあったことによるもで、足柄峠という難所に備えて馬の数も補強する必要があったと考えられる。しかしながら、かつて東海道が南北に二分していたと仮定したならば、東方から坂本駅に到着した菅使は北の箕輪駅方面から来るものと、小総駅方面から来るものとがここで合流したために、特に数多くの駅馬を必要としたとも推測できる。

●小総(おぶさ)駅
  『延喜式』の撰進された年から30年ほど経たころに『大和物語』という書物が著わされ、この書物は在原業平(ありはらのなりひら)の子の滋春(しげはる)が東国下向のときのことを和歌を中心として記した物語である。そのなかには「少総の駅というところは、海辺になむありける」とあって、次にオブサの地名を折り込んだ海の歌が記載されており、小総が海辺にあったことは明らかであると思われる。
  小総駅を海辺のどの地に当てるべきかについて『風土記稿』では酒勾村をあげており、この酒勾村は足柄下郡に属している。しかしながら、『延喜式』によると伝馬を置く郡を余綾郡としていることから、官道の駅馬を置いた駅もまた余綾郡であったと解せられ、酒勾村は西に寄りすぎているきらいがあるから、故石野瑛氏らの主張していた小田原市国府津(こうず)付近に小総駅があったという説が正しいものと思われる。
  この小総が国府津と呼ばれるようになったのは、相模国府が大住郡から余綾郡に移った十二世紀前半(天養の少し前)以降であると考えられ、余綾郡の国府本郷に国府が移されるとともに、その関門の港としての機能を果たすだけの素地を小総がすでに持っていたものと思われる。

●箕輪(みのわ)駅
  次の箕輪駅に関しては明確な比定地はないが、二宮の海岸を通って平塚の大住国府想定地付近にあったという説と、伊勢原市笠窪の「三ノ輪」という小名がその遺称であるという説がある。
  『風土記稿』によると笠窪村は古くは串橋村(『和名抄』の櫛椅郷)とともに一村をなしていたとがるが、その串橋村の状に「土人の話に、往古の街道は、足柄関より足柄上郡を経て当所に係り、伊参駅(高座郡)に通ぜしと云。其拠は知らざれど、足柄関より伊参駅に至らんには順路なり。若左もあらば和名抄に載する当郡の駅家は、此辺にありしなるべし」と記している。

●浜田(はまだ)駅
  浜田駅がどこにあったかについては定説はないが、国分寺の南の海老名市浜田町付近とする説がある。それ以東は「矢倉沢(やぐらさわ)街道」と呼ばれる江戸時代の道が、ほぼ古代の東海道を踏襲していると見なされ、大和市下鶴間付近で武蔵国の領域に入ることになる。

  従来は、これらの駅を結ぶ「駅路」は自然発生的な踏み分け道を、若干整備した程度の狭くて曲がりくねった小道と考えられていたが、最近の歴史地理学や考古学の研究によってそのイメージは完全に覆されている。すなわち、奈良時代における平野部では9〜12m程の道幅を持ち(両側に側溝を持つ)、しかも目的地と目的地を最短距離で一直線に結ぶ大道であったことが判明した。しかも、駅路は律令国家の形成期の早い段階に敷設され、その後に国府や郡家、寺院・条里(じょうり)・境界などが駅路を基準線のようにして作られてきたと考えられるようになってきた。
  なお、平成17年(2005年)に矢倉沢街道にほぼ沿った海老名市の「望地(もうち)遺跡」で平安時代の道路が発掘され、側溝はなく道幅は4〜5mとやや狭いが、全国的に平安時代に入ると道幅が6m程度に狭まることが多かったようである。したがって、この遺跡は『延喜式』時代の東海道であった可能性は高いと思われる。



東海道

  東海道に所属する国は「伊賀国」・「伊勢国」・「志摩国」・「尾張国」・「三河国」・「遠江国」・「駿河国」・「伊豆国」・「甲斐国」・「相模国」・「上総国」・「下総(しもふさ)国」・「常陸(ひたち)国」の13国であったが、和銅6年(713年)に上総から「安房(あわ)国」を分置し、宝亀2年(771年)に東山道から「武蔵国」を編入して15国となった。これらの国の中で東海道駅路跡は平成6年(1994年)に静岡県静岡市曲金北(まがりがねきた)遺跡で最初に発見され、半年後に平塚市の構之内(かまえのうち)遺跡、平成16年(2004年)に東中原E遺跡発見されている。現時点では相模国で東海道駅路が発見されているのは平塚市のみである。なお、行政区域としてではなくこれら諸国の国府を結ぶ、道としての東海道もあった。
  古代における相模国の古道がどのように通っていたかについては、『古事記』および『日本書紀』の日本武尊の東征の記事(ヤマトタケルとオトタチバナヒメの伝説)の記事のなかにある程度現れてくる。まず『古事記』を見ると、日本武尊は父景行天皇の「まつろわぬ人等を言向(ことむ)けやわせよ」との勅を奉じて、伊勢・尾張を経て東に進んだ。そして相模国に入ったときにその国造がいつわって野中の大沼にチハヤブル神という乱暴な神がいるといって、尊を誘い出し野火の難に遭わせた説話を記している。それから三浦半島の走水「(はしりみず)」から東京湾を超えて上総国に渡るときに、弟橘姫の貞列な入水の故事がのせられている。
  このように最も初期の東海道は横須賀市の走水から東京湾を渡って房総半島に達していたと考えられ、従って当初は走水にも渡海駅があり、箕輪駅と走水の間の葉山(はやま)付近にも駅家が置かれていた可能性がある。これは駅家を当時は「ハユマ」と呼んでいたので、それが訛って「ハヤマ」に成った可能性があるからである。あえて東京湾を渡ったのは、当時は利根川も東京湾に注いでおり、東京湾沿いの低湿地を避けたからと考えられる。日本武尊は東国のまつろわぬ者どもを平らげて帰途に着いたが、その道程は常陸から再び相模に入って足柄の坂を上り、ここで「吾妻はや」の嘆きがあり、そこから甲斐・信濃を経て尾張に入られたと記されている。
  これに対して、『日本書紀』のほうの道程には若干の相違がある。これによると日本武尊は伊勢より駿河に来て、ここでまず野火の難に遭ったのであり、焼津についての地名説話が記されている。それから尊は相模に進み、さらに上総におもむこうとして海上の暴風に遭い、弟橘姫を失った記事はだいたい同じであるが、陸奥国に入って暇夷を服属させたあとの帰途については『古事記』とはだいぶ相違している。すなわち『日本書紀』では常陸・甲斐・武蔵・上野・信濃を経て帰られたと記されており、その弟橘姫を偲のんでの嘆きは上野・信濃両国の境の碓日峠においてなされたとされ、帰途は相模国内を通過していない。
  奈良朝末の光仁天皇の宝亀2年(771年)10月になると、それまで東山道に属していた武蔵国の所属が東海道に変わり、東海道の経路が相模―上総―下総というものから、相模―武蔵―下総と変更された。それは、東山道は官使の往来が多い上に武蔵国府へ行くには上野国府から長い道を南下しなければならず、さらに下野国府へ行くには同じ道を再び取って返す必要があり、無駄な時間を費やさねばならなかった。ところが東海道のほうは相模国の夷参駅から下総国へ行くのに、そのあいだ武蔵国内の4駅を経由するのみで、さらに武蔵国府へはその4駅の1駅からすぐに達せられるからであった。夷参駅の次の駅は奈良時代においてもおそらく武蔵国の「店屋(まちや)駅」であったと思われ、店屋駅は『延喜式』における武蔵国四駅の一つである。現在、東京都町田市のうち鶴間の北の部落に「町谷(まちや)」があるのが、その遺称であると思われる。
  『続日本紀(しょくにほんぎ)』の宝亀2年条には『延喜式』に見えない駅として「夷参(いさま/いざま)駅」が登場し、その地名は『和名抄』の相模国高座郡に記載されている「伊参(いざま)郷」と同じであると思われる。伊参郷は現在の座間がその遺称と考えられており、夷参駅の位置は座間のなかの座間入谷(いりや)のあたりであると思われる。それまで下総に向かう相模最後の駅であった夷参駅は、東海道とは別に相模から武蔵へ向かう道に置かれていたようである。当時の相模国府は高座郡の国分(こくぶ)付近にあったという説もあり、夷参駅はその北方1kmほどのところにあって、いわば国府の関門に当たっていたことも考えられる。
  夷参駅と浜田駅が近いことから当時は浜田駅は存在せず、箕輪駅から北上して夷参駅に達し、さらに武蔵国府を経由して下総国府に達する経路があったことがわかる。この頃になると東京湾沿いの低湿地も安定し、走水を渡らない駅路も存在していたわけである。この武蔵国の所属替えに伴い、武蔵国府を経由する駅路が正式な東海道の本道になったと考えられ、おそらく平安時代の初めごろに夷参駅が廃止され、浜田駅が設置されたことにより『延喜式』のルートへ変更されたと推測される。

相模国

  「相模国」は東海道十五ヵ国の一つで、西は駿河国(するがのくに)、東は武蔵国(むさしのくに)と境し、北は武蔵・甲斐両国に接し、南は海(相模湾)に面している。『延喜式民部式』によると相模国は大・上・中・下国のかなで上国にランクされ(武蔵国は大国)、足上・足下・余綾・大住・愛甲・高座・鎌倉・御浦の八郡に分かれている。都からの遠近制では東国(坂東八国)でも唯一、相模国は遠国(おんごく)ではなく中国で、延暦期前後に遠国となった。足柄坂を越える相模国は中国とされたのは、早くからヤマト王権の影響が強かったからと思われ、天平期には全郷の約4割が都の皇族・貴族・寺院の封戸とされていた。また、後には陸奥国鎮守府(ちんじゅふ)の公廨(くがい)(官人俸禄)を負担するなど、律令国家の東国経営の拠点であった。宮城県古川市三輪田遺跡出土の「大住団」と兵士名を記した木簡は、相模国府近くにあった大住軍団が派遣された証拠で、そのほか、大住郡高来(たかく)郷(高麗山周辺)を中心に渡来人の入植が多いのも、その東国経営の一環であった。
  10世紀に作られた辞書である『倭名類聚抄(わみょうるいじゅううしょう)』によると、各郡の所属郷は次の通りである。ただし、鎌倉郡片瀬郷・御浦郡走水郷のように奈良時代の史料に見えながら、『倭名類聚抄』にはないものもあり、その間に変遷のあったことがわかる。

相模国の八郡と所属郷 『倭名類聚抄』
足上
(あしのかみ)
高家(たかべ)・桜井・岡本・伴群(ともむれ)・余戸(あまべ)・駅家
足下
(あしのしも)
高田・和戸(わど)・飯田・垂水(たるみ)・足柄・駅家
余綾
(よろぎ)
伊蘇(いそ)・余綾・霜見(しもみ)・磯長(しなが)・中村・幡多(はた)・金目(かなめ)
大住
(おおすみ)
中島・高来(こうらい)・川相(かわあい)・片岡・方見(かたみ)・和太(わだ)・日田(ひた)・大服(おおはとり)・櫛崎(くしざき)・駅家・渭辺(ぬまべ)・石田・大上(おおかみ)・前取(さきとり)・三宅・余戸
愛甲
(あいこう/あゆかわ)
玉川・英那(あきな)・印山(いやま)・船田・六座(むつくら)・余戸
高座
(たかくら)
美濃・伊参(いざま)・有鹿(あるか)・深見・高座・渭堤(いで)・寒川・塩田(しおだ)・ニ宝(にのほ)・岡本・土甘(とかみ)・河会(かわい)・大庭(おおば)
鎌倉
(かまくら)
沼浜・鎌倉・崎立(さきだて)・荏草(えかや)・梶原・尺度(さかど)・大島
御浦
(みうら)
田津(たず)・御浦(みうら)・氷蛭(ひひる)・御崎・安慰(あい)

  相模国の西境には大山・丹沢・箱根の山塊が屏風状に南北へ走り、西北方面は奥多摩・甲斐の山々がわだかまる。東と東北の二方面はだいたい平坦な地が続き、武蔵国と接している。現在の神奈川県は相模国全域と、武蔵国の東南部である旧久良(くらき)・都筑(つづき)・橘樹(たちばな)の三郡を占めている。
  地勢上、河川は北から南に流れて相模湾に注ぎ込んでいる。主なものを数えると西から早川(これは大体東西流)・酒匂川(さかわがわ)・押切川(おしきりがわ)・葛?川(かつらがわ?)・花水川・相模川(馬入川)・片瀬川などがあり、中でも相模川は当国第一の大川である。これらの河川の流域に平野が展開し、いわゆる相模野の沃地を形成している。

●足上郡・足下郡
  足上・足下は足柄の上・下という意味で、和銅6年(713年)5月に諸国郡郷(行政地名)が漢字に改められ、かつ二字に書くように定められたため、真ん中の「柄」を省いたものである。足上郡の場合『和名抄』によると訓み方は「アシノカミグン」であるが、はじめのあいだは足上郡を「アシガラノカミグン」とよんでいたものと思われる。なお、上代も古い頃には単に足柄一郡であったのを、おそらく大化以後になって二郡に分けたようである。当時の足上郡の区域は今日の足柄上郡の郡域に近く、足上郡の南には足下郡が隣接していたが、その足下郡はのちに足柄下郡と改称し、さらにその大部分の地域は現在の小田原市に編入されている。

●余綾郡
  余綾という郡名はおそらく大化改新(645年)当時の国郡制々定のときには既にあったと思われ、『万葉集』巻十四の東歌のなかに「相模路の 余呂伎の浜の まなごなす 児らくかなしく 思はるるかも」という歌があり、奈良朝以前からすでに「ヨロギ」の浜の呼称があり、そのころヨロギ郡という郡も存在したと推定される。ヨロギは「ユルギ」と同義で、ともに「ゆらぐ」の意である。ヨロギ郡はユルギ郡ともいわれ、江戸時代から明治にかけては「淘綾郡」と書かれた。余呂伎郡を余綾郡と書いたのは持統天皇の時代に出された、「諸国郡郷の名称は嘉字を用い、且つ二字に書け」との意の詔に基づいたものであると思われる。
  余綾という郡名は鎌倉・南北朝・室町時代を通じて通用していたようだが、小田原北条氏が相模国を支配するようになって相模国を三分画し、「東郡」・「中郡」・「西郡」と私称し、中郡には余綾郡のほか大住郡と愛甲郡を併せた地域を当てていた。しかし、徳川氏の代になってこれらの郡の称呼を旧に復した。ただし、江戸時代の淘綾郡は『和名抄』のころの余綾郡と比べると、その地域が狭小となっている。『和名抄』によると余綾郡の郷としては前述の七郷であったが、江戸時代の淘綾郡では中村郷の地域は足柄下郡に、また幡多郷と金目郷の地域は大住郡に編入されている。淘綾郡という郡は明治29年(1896年)まで続いたが、その年に当郡と大住郡を併せて中郡という郡が再びできることとなった。

●愛甲郡
  愛甲という郡名は『和名抄』に現れているほか、それ以前にも大同2年(807年)に愛甲郡の婦女が一時に三子を生んだこと、承和11年(844年)には相模介橘永範が自分の官俸を費用にあてて救急院を建て、愛甲郡および高座郡のうちで空閑の地を開墾して、その租税で多くの窮民を救ったことが国史に記載されている。愛甲の訓は「あゆかわ」または「あいこう」である。



相模国府

  相模国府に関しては、9世紀から10世紀前半の様子を伝える二十巻本『和名類聚抄(930年頃成立)』に「府大住(ふおおすみ)」の記載があり、この時期に大住郡に国府があったと解釈されているが、どこまで遡るかは分かっていない。平安末期を示す二巻本・三巻本『色葉字類抄(いろはじるいしょう)』にも大住郡とあるが、鎌倉初期を伝える十巻本『伊呂波字類抄(1163〜65年頃成立)』には「余綾府立」が記載されており、この時期には余綾郡に国府があった。また、石清水文書の保元3年(1158年)の官宣旨(かんせんじ)に「相模国 旧国府別宮」とある国府は大住郡、『吾妻鏡』が治承4年(1180年)に源頼朝が富士川合戦の論功行賞を行ったとする国府は余綾郡で、大住郡から余綾郡への国府移遷は1158年以前と考えられている。この余綾郡の国府は、現在において国府祭が行われている大磯町国府本郷近辺である。
  国府所在地や国分寺関係に関する文献、発掘調査による考古学の成果により、考古学者・歴史地理学者・地名学者や郷土学者の諸分野の研究から、相模国府の所在地については多くの見解が出されているが、いずれの説を取り上げても決定的な証拠が上がっていないのが現状である。



初期国府所在地と三遷説

  相模国府所在地論は「三遷説」が一般的に理解され、以下の三説が最近まで有望視されてきた。

一・・・海老名(高座郡)→伊勢原比々多(大住郡)→大磯国府本郷(余綾郡)
二・・・海老名(高座郡)→平塚四之宮(大住郡)→大磯国府本郷(余綾郡)
三・・・小田原高田(足下郡)→平塚四之宮(大住郡)→大磯国府本郷(余綾郡)

  この三遷説の一番の問題点は初期国府所在地を海老名(高座郡)や小田原高田(足下郡)にあるとしている点で、前者は海老名に国分寺が存在するという理由であり、その補論として一般的に国府と国分寺は近距離に存在する例が多いことがあげられる。しかしながら、両説とも国府を裏付ける遺跡の詳細な分析に基づいた見解でないところに問題が所在する。

●一A・・・海老名説(高座郡)
  普通は国府と同じ郡にある、もしくは郡が違っても直ぐそばにあるはずの「国分寺」が相模国の場合は高座郡(海老名市)にあることから、天保12年(1841年)の『新編相模国風土記稿』以来、初期国府を高座郡とする「高座国府説」がある(三遷説A:高座→大住→余綾)。これは892年成立の『類聚国史(るいじょうこくし)』の弘仁9年(818年)7月の地震の条や、翌弘仁10年(819年)2月の相模国分寺の火災の条と同8月の火災の条、または901年成立の『日本三代実録(にほんさんだいじつろく)』の元慶2年(878年)の地震の条より、国府が被災して大住郡に再建されたとする説である。最近の調査成果では国分寺は私寺から昇格したものではなく、741年の国分寺建立の詔に沿って造られ780年代に完成したと発表されている。
  昭和58年(1983年)に綾瀬市宮久保遺跡から「鎌倉郷鎌倉里」の地名が書かれている天平5年(733年)の木簡や「高坐」・「官」の墨書土器、昭和63(1988年)からの海老名市大谷向原遺跡の発掘調査で「高坐官」の墨書土器が出土したことが注目され、木簡を鎌倉郡から国府正倉がある海老名に運ぶ稻に付けられていた荷札が途中で廃棄されたものとする説もある。

●一B・・・小田原高田説(足下郡)
  三遷説にはもう一つあり、海老名の国分寺を弘仁10年(819年)の相模国分寺火災後の国分寺とし、7世紀末から始まる小田原の「千代(ちよ)廃寺」を初期国分寺とする説である。これは足柄の平野(小田原平野)から大住郡→余綾郡と移動したとするもので、下曽我(しもそが)遺跡を国府関連遺跡と想定する「足柄国府説」である(三遷説B:足柄→大住→余綾)。これは海老名国分寺より古い瓦が出土し、下曽我遺跡の成果から周辺を国府域とするものであるが、最近の研究では足下郡の郡衙に伴う官寺と千代廃寺を位置づける傾向にある。
  海老名の国分寺跡が法隆寺式伽藍を持つことから、千代廃寺こそが初期国分寺とする足柄国府説は、諸国国分寺の伽藍が必ずしも東大寺式でないことが判明した結果、根拠の一つを失った。しかし、千代廃寺を白鳳時代の寺院を転用した初期国分寺とする理解は有効で、千代廃寺の鬼瓦が武蔵国分寺のそれと同笵(どうはん)であることや、平成9年(1997年)に小田原市千代仲ノ町遺跡で9世紀第U四半期の「厨」の墨書土器が出土したことなどが留意されている。



大住国府と二遷説

  国分寺との関係で考えるならば高座国府説や足柄国府説が出てくるが、これらに関しては文献史料に全く見えないことから、国府ははじめから大住郡で移遷は余綾郡(大磯)への一度だけとする「二遷説」がある。これは平塚で8世紀第V四半期の「国厨(くにくりや)」や「旧?(くき)一」の墨書土器が確認されたことなどを根拠に、大住国府の始まりを遡らせる説である。
  二遷説の問題点は、大住郡の国府と高座郡の国分寺が直線にして13km以上も離れることや、8世紀前半の国庁の存在を示す遺構・遺物が未確認であること、「厨」の墨書土器は食事や宴会の場に伴って移動するものであることから出土遺構を性格付けづらいことがある。

●二A・・・伊勢原比々多説(三ノ宮説)
  『和名抄』の相模国の項に「国府大住郡に在り」と明記してあり、大住郡の中の三ノ宮を国府とする説がある。石野瑛・永井健之輔の両氏などは、三ノ宮・神戸を中心として串橋・笠窪・白根に渡る方八町の地域を当時の国府の境域に当てており、その理由としてつぎのような事項をあげている。
  @比比多神社は冠(かんむり)大明神といわれ、大住郡に国府のあったころの総社であったことが同社の社伝に残っていることから、国府もその付近にあったはずである。
  A現在の比比多神社の東方600mほどのところに国衙の跡があり、さらにその西に当たって国府の守護神であった御霊社の跡がある。
  B三ノ輪の駅址に近い田んぼに「一の坪」という地名があり、それから東北方に当たる白根にも「市の坪」という地名がある。この二つの一の坪を結ぶ線を対角線の一つと考えた正方形、およそ方八町(870平方メートル)の地域を国府址と考定する。

●二B・・・平塚八幡説
●二C・・・伊勢原八幡神社説
●二D・・・伊勢原粕屋説
●二E・・・秦野御門説(大住郡?)

●二F・・・平塚四之宮説
  昭和54年(1979年)以降の発掘調査によって「曹司(ぞうし)」・「政所(まんどころ)」・「倉所」の墨書土器や、鍵・帯金具などが出土した平塚市四之宮周辺であることが確実となっている。さらに、最近になり相模国府の中枢である国庁脇殿と思われるものが発掘され、この脇殿は柱穴覆土から出土した土器や重複する竪穴住居の年代などから、8世紀中葉頃には2棟並立する空間が形成され、建て替えを経て8世紀後葉までは存続していたことが判明している。9世紀以降には国庁建物の敷地内に竪穴住居が作られるため、国庁機能は他所へ移転したことが考えられる。
  現在では国府が平塚にあったとする二遷説が有力で、8世紀中葉以降に他へ移ったことになるが、直接余綾郡に移ったのか、あるいは一時は他の郡へ移っているのか、またその移遷の理由などはわかっていない。



余綾国府

●三・・・大磯国府本郷説
  余綾郡衙の所在地については確定されていないが、それを裏付ける資料が出土している。大磯町国府本郷の吹切(ふえきり)遺跡からは千代廃寺系や下寺尾(しもてらお)廃寺系の八世紀前後の瓦が出土し、郡衙に伴う郡寺と推定されている。同国府本郷の馬場台遺跡では「真」の銅印や緑釉陶器等が出土しており、この国府本郷周辺を平安時代末の余綾国府と余綾郡衙の推定値とする見解が発表されている。



相模国のその後

  明治になってから大住郡と余綾郡とを合併して、中郡が設けられた。



国府祭

  今日、国府祭といえば神奈川県中郡大磯町大字国府本郷において、年1回開催される特殊の神事をいうようになっている。しかし、国府祭とはもともと国府の祭礼の意であり、国府の総社において国司が所管内の主要な神社を奉祭した神事であるから、かつては国ごとに国府祭があったものと考えてよいであろう。
  武蔵国の国府であった東京都府中市の大国魂(おおくにたま)神社は、六所宮(ろくしょのみや)ともいわれ武蔵国の総社であった。毎年5月5日に行われる端午祭は民間では「くらやみ祭」とも呼ばれ昔から著名であるが、一名を国府祭ともいわれてきた。しかし、相模国の国府祭が特に珍重されており、国府祭といえば今では相模国のそれを意味するようになっている。相模国では国府祭と書いて「コウノマチ」と読んでおり、国府本郷もかつては「コウノホンゴウ」といっていたようである。奈良時代以来、「国府」は音便で「コウ」といい、「祭」とは神と人とが待ちあうことで神人融合の妙境をつくり出すことであって、下部を約略して一般的に「マチ」とせられたという。
  平安朝の始め頃までは中央の神祇官において、毎年全国の官社に対し幣帛を班(わか)っていたが、地方の神職たちがそのためにわざわざ遠路都まで上らねばならなかった。また、神祇官のほうでも全国の官社に対し、毎年幣帛をわかつことは大変な手数であった。その後、神祇官みずからが幣帛をわかつのは畿内の官社および伊勢国などの官幣の大社に限り、その他の地方の官社にはそれぞれ国の国司が神祇官に代わって幣帛をわかつことに改めた。また、各国の国司が一ノ宮以下に対する奉幣・巡拝の労を省くため国府あるいはその近くに総社を設け、ここに総合的祭典を行ったのが国府祭の起源であるといわれている。
  国府祭の行われる日は5月5日(端午の日)であるが、古代において諸国の国府祭は2月4日に行われ、これは祈年祭の日である。国府祭の日が2月4日から5月5日に改められたのは、鎌倉時代になってからであるとされている。弘安の役(13世紀)の際、元の大軍が九州に来襲したときに、鎌倉幕府はそれぞれの諸国において神集めの式典を行わせ、敵国の降伏と国土安泰を祈願させた。その効験あって元軍を撃退することが出来たので、その感謝のための祭典を5月5日に行い、それ以降毎年同じ日に各国に国府祭が行われてきたという。


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参考文献
タイトル著者/編集出版/発行出版年
復元!古代都市平塚 〜相模国府を探る〜ふるさと歴史シンポジウム実行委員会同左2006(平18)
海岸線の歴史松本健一(株)ミシマ社2009(平21)
相模国府の発掘調査財団法人かながわ考古学財団同左2009(平21)

  ※上記の文献は他のページでも引用していることがあります。