横内よこうち

御霊神社

  「御霊(ごりょう)神社」は横内の鎮守社で、祭神は主神に「崇道天皇(すどうてんのう)」、相殿に「国常立尊(くにとこたちのみこと)」を祀る。当社の由緒によると中世までは近郷の田村大神吉際・戸田(厚木市)の総鎮守とも伝えられ、桓武天皇の時代(781〜806年)に征夷大将軍となった坂上田村麻呂が、奥州の蝦夷征討の帰路に京都の「御霊社」から勧請したという。鎌倉時代には三浦義村によって当地に京都の都市計画を模した土地計画がなされ、それによって御霊社の参道を真直ぐに南方の真土境まで延ばし、その村境に「一の鳥居」を設置し、その両側には神社の袖山(そでやま)が設けられていたという。現在は一の鳥居も袖山も消滅して存在していないが、太平洋戦争の終戦直後までは真土との境に蕨山(わらびやま)と呼ばれた松山があったという。当社は鎌倉将軍以降、歴代武将の信仰を集めたといわれている。
  天保12年(1841年)完成の『新編相模国風土記稿』によると「御霊社」を田村の小名であった横内の鎮守とし、祭神は「國常立尊」であった。「智正院」持ちで、幣殿・拝殿・神楽殿などがあり、鐘楼には安永6年(1777年)の鋳鐘を掛けていた。末社には「牛頭天王」・「疱瘡神」・「山王(弁天を相殿に置く)」・「弁天」・「金毘羅」・「天神」・「稲荷」があった。明治以降は現在の御霊神社を正式名称としており、明治6年(1873年)8月に村社に列し、大正6年(1917年)3月24日には神饌幣帛料供進神社に指定された。
  明治初期に未完に終わった『皇国地誌』には往古御霊神社は田村・大神・戸田の三村の鎮守であったと記されている。御霊神社は現在よりもはるかに広い境内を所領しており、一の鳥居は八幡塚の辺りに、二の鳥居は八的辺りにあって、現在の県道が御霊神社の参道に当たっていたと言い伝えられている。なお、藤沢市宮前に鎮座する御霊神社の由緒によると、平塚市の横内にも宮前から御霊を勧請したとあり、当社は天慶3年(940年)に村岡五郎良分が平将門の討伐祈願の為に、京都の御霊神社より勧請したという伝承がある。横内への勧請についてはいずれの伝承も確たる証拠は残されていない。
  祭神は『風土記稿』では「國常立尊」であるが、八幡塚・市川武彦氏蔵の明治35年(1902年)5月の『相模国中郡神田村大字田村 村社御霊神社由緒調査書』では主神が「崇道盡敬皇帝」に変わり國常立尊は相殿として祀られるようになっている。この『御霊神社由緒調査書』に記された社伝によると國常立尊は地主神として横内の芝原地区に古くから祀られていた神であり、のちに京都から御霊神社を勧請して崇道盡敬皇帝を祭神として祀り、相殿に國常立尊を祀ったとしている。御霊神社を勧請した理由は田村が京都の街並みに倣って社寺を配置したためと語られている。

御霊神社社号柱
鳥居狛犬
石碑石碑
参道燈籠
神楽殿鐘楼
拝殿幣殿・覆殿
社務所境内

  社殿の建立年代については、明治26年(1893年)の『御霊神社古巻物目録』に「棟札 享保九甲辰年七月吉良辰」とあり、享保9年(1724年)と思われる。本殿と拝殿は震災で倒壊して昭和3年(1928年)に再建したが、平成3年(1991年)に本殿が火災で焼失した。地元の大工が欅を使って2年がかりで平成7年(1995年)に本殿を再建したが、再建にあたり1億強の寄付が集まったため、残った経費で社務所を建てた。境内には「御霊神社社殿造営 平成7年3月吉日」の記念碑が立っている。また、例祭に立てる幟竿は昔、荷車で七沢まで行って運んできたものという。
  かつて御霊社の別当寺は御霊社の直ぐ北東200mほどにあった「智正院(ちしょういん)」で、智正院の本尊は十一面観音で村内の本地仏とされていた。明治の神仏分離令により智正院は御霊社の別当の立場を失い、智正院は大神村の「観音寺(かんのんじ)」と田村の「円光寺(えんこうじ)」と同じ古義真言宗であったため、明治42年(1909年)にこの三ヶ寺が合併し、智正院のあった場所に現在の東寺真言宗の「明治山神田寺(かんだじ)」が創建された。

明治山神田寺寺号標


境内末社 (八坂社・神明社・水神)

  境内の入り口に社殿に向かって左側に「八坂社」、右側に「神明社」があり、両社とも昭和初期には既に現在地に祀られていたという。八坂社の中宮は相殿になっており、それぞれに木札が納められている。菅原大神を再勧請した明治42年(1909年)の棟札、大山不動の護摩札、明治33年(1900年)の八坂神社の棟札などが収められている。また、神明社の中宮には神明大神御璽の棟札と明治百年記念新築の木札が納められている。八坂社と神明社の祭礼は中庭の八坂神社と同じ7月6日に一緒に行い、宮総代が出席して沖津宮司に祝詞をあげてもらう。この後に宮司は中庭の天王さんの祭りへ行く。
  御霊神社の社殿裏手には「水神」があり、木造の社の内部に石祠が納められている。石祠には「〈右〉大正二年二月吉日 〈左〉施主 清水浪三郎 今井順」の銘が刻まれ、石祠手前に五輪塔の水輪が1個置いてある。水神の社の右脇には「〈正〉水神 〈裏〉昭和六拾年参月吉日 氏子中 贈八幡(有)佐野石材店」と刻まれた石碑があり、社の裏手には池がある。
  昔は御霊神社の北側に池があり、日照りが続くと木が枯れた池を掘ってお酒を注ぎ、大山を拝んで降雨を祈願したという。そこに水神が祀られていたというが、別の話者の話では御霊神社で雨乞いをした覚えはなく、明治の頃に日照りの時は八幡塚にあった池で雨乞いをしたという。御霊神社の池は芝生になって形だけ残っていたが、ある人が夢に池が出たというので、元々池だった場所へ平成12年(2000年)12月2月に新たに池を作り直した。かつては八幡塚の池にも水神があり、戦後に御霊神社の水神へ合祀されたという。あるいは、御霊神社にはもともと水神は無く、現在の水神は八幡塚から遷したともいわれ、御霊神社の水神の由来についてははっきりしたことは分かっていない。

八坂社神明社
水神池跡


宵宮準備 (集合8:00)

  ここからは令和元年(2019年)9月14日(土)に行われた宵宮の様子を紹介する。本祭の前日は朝8時に集合し、午前中は神輿の捩り掛けや境内の飾り付け、模擬店用のテント張りや前夜祭に向けたステージの準備などが行われる。昼過ぎからは社務所にて粽作りが行われる。

朝7時40分にやって来ました参拝を済ませ
取材開始ですトラックがやって来ました
照明を積んでいます神輿殿のシャッターが開けられる
集合時間の8時前になると総代の挨拶で朝礼が始まり
準備開始町代は別途集まって朝礼
神楽殿の扉を開ける8時丁度に会長の挨拶で
神輿保存会が朝礼準備が始まります
18時から演芸会が行われます神輿殿から荷物を出す
神楽殿から柱などを出し鐘楼前に置いていく
神輿殿からは神社神輿を出し蓋を外して
神輿殿の間へ運ぶ神楽殿の裏から台車を運ぶ
初めてこの形の箱を見ましたが非常に合理的だと思います
明日は台車が活躍します神楽殿から轅を出す
神楽殿からは色々な物が出てきます
外した外枠を順番に積んでいく
子供神輿は一回り小さく内側に収められます
何が作られるのでしょうか?照明の点灯確認
大神輿は最後の枠が外され台だけになりました
かなりの高さですこちらは神楽殿の花道
社務所から子供神輿と大神輿の鳳凰
小鳥を運び出す枠を組んでいます
子供神輿の鳳凰を露盤へ神輿のケースにシートを掛ける
社殿内を掃除します取り外し可能な花道
参道では電気の配線作業
鳥居前には幟旗が立ちます枠には屋根が付きました
神楽殿から出された輿棒社殿裏には倉庫があります
組み立てた提灯枠をロープで起こしていく
晒を鳳凰に紐で固定し大神輿へ移動
かなり重そうです露盤へ差し込む
立ち上がった提灯枠の両脇に柱と梁を追加
こちらは神輿の鈴を磨く社殿前を拭き掃除
かなりしっかりした門飾りです花道の奥にベニアを張る
子供神輿を神輿殿から出し大神輿と並べます
社殿前ではテント作り神楽殿前では掲示板を設置
子供神輿を念入りに掃除轅を挿し込みます
社殿裏でもテント作り提灯枠は両サイドにも屋根が
参道両脇には提灯を並べる幟旗が2本立ちました
多くのテントが必要な様です参道途中にも提灯枠
花道には屋根も付きますかなり念入りに磨いています
組んだテントを社殿横へ移動子供神輿では捩り掛け
骨組みを組み屋根を設置テント作りが続きます
練習神輿は飾り付けだけ行います
立派過ぎる子供神輿です社務所が神社の受付です
もう一つの提灯枠もロープで立てていく
こちらは神輿の手綱作り掲示板の下地作り
社殿前に提灯枠を設置大神輿に紙垂を取り付ける
提灯枠に提灯を掛けロープで上げて行く
椅子を取りに軽トラで出発掲示板に新しいベニアです
向拝下に提灯を設置前夜祭で境内で担がれます
拝殿入口に紫色の幕総代や自治会長等の提灯です
神輿殿前では榊の剪定大神輿の電気配線作業
荷物を積んだ軽トラが到着椅子とテーブルです
露店関係は境内中央へテーブルと椅子は社殿横へ下す
子供神輿に鈴を付ける社殿横が神輿保存会の受付
テント下にテーブルを並べるこちらは模擬店のテント作り
御霊神社の高張提灯を4本運んで境内を出発
東へ進みバス通りを左折
宮入り前の御旅所に来ました忌竹を準備しています
左手にある民家の倉庫へ明日の宮入りで活躍します
鐘楼前に2台のテント鐘楼に注連縄を張る
子供神輿の次は大神輿の捩り掛け
中央には2台の折り畳み式テントネジネジしています
榊は沢山使うようです玩具関係の露店になります
参道の両脇には白線が鐘楼前は飲食関係の露店
宵宮は簡易的な捩り掛け10時半に宮司が到着
神輿保存会と挨拶を交わし飾り付けのアドバイス
榊は数本を束にして纏める捩り掛けを終えた大神輿と
子供神輿を神輿殿へ納める拝殿に胡床が並べられる
神楽殿の軒下に花飾りこちらは大量の生姜
神輿殿に柵と紫の幕を設置練習神輿の神輿殿にも紫の幕
前夜祭では大神輿を担が無いので社殿の軒下へ収納
子供神輿に榊を飾り付け会長が何か書いています
神楽殿に紫の幕を設置神輿殿前を掃き掃除
境内には打ち水です神輿保存会は駐車場へ移動
友好団体の駐車場になります準備が終わりお茶タイム
11時40分に会長の挨拶夕方の準備まで一時解散です
私は社務所でお昼を頂きました
12時5分頃になるとシートを敷き粽作りが始まります
餅を切って片栗粉をまぶし
袋に入れてイ草で包み
完成です1600個以上作るそうです


太鼓演奏 (開始15:10)

  午後は15時過ぎから境内で太鼓連による太鼓演奏が行われ、前夜祭に向けて模擬店の準備が進められる。

14時40分頃にお宮へ戻ると太鼓の準備が始まっています
門飾りには提灯が飾られ電気が点いています
粽作りは終了しておりイ草で包まれたものと
袋だけのものに分けられる締太鼓の音色を確認
太鼓の山車に提灯を設置カーネーションが届きました
山車に紅白幕と太鼓連の紫色の幕を掛ける
15時10分になるとお囃子の演奏が始まる
テントでは前夜祭に向けて模擬店の準備
出演者に配布されるカーネーション前夜祭で担がれる子供神輿
良いアイディアの固定方法です太鼓連の旗を固定
玩具が並べられます粽を社殿へ運び込む
そ〜れ♪子供達が喜びそうです
前夜祭の観賞用に神楽殿前に茣蓙が敷かれる
時刻は16時大太鼓は山車の上で叩く
かき氷の準備ができ太鼓連の子供達に配布
小休止を終え太鼓演奏を再開
こちらの鉄板ではフランクフルトとハッシュポテトを販売します
熨斗紙が貼られていく飲み物も販売されます
社務所では自治会や町代が夕食と打ち合わせ
太鼓連の子供達は太鼓を止め模擬店廻り
時刻は17時30分出演者の姿が増えて来ました
宵宮に神輿渡御はありません子供達は再び太鼓を叩く
私もポテトとフランクフルトを購入出来立てで美味しいです
前夜祭の開始15分前になり太鼓連は太鼓を運んで
神楽殿へ移動舞台に太鼓と台を上げる
前夜祭のトップバッターは御霊神社太鼓連です


前夜祭 (開始18:00、終了21:50)

  18時からは神楽殿にて前夜祭が始まり、約40の演目が4時間に渡って披露される。最初の演目は御霊神社太鼓連の演奏から始まり、楽器演奏やフラダンス、舞踊やカラオケなどが行われる。前夜祭の途中では子供神輿が境内だけで担がれ、最後の御霊神社神輿保存会の甚句の時にも同様に子供神輿が担ぎ出される。全ての演目が終了すると、神輿保存会の三本締めで前夜祭は幕を閉じる。

18時丁度になると司会者の挨拶から
いよいよ・・・前夜祭が始まります
横内に鳴り響く太鼓の音空が暗くなってきました
約10分の演奏を終え舞台から太鼓を降ろします
続いて横内ジュニアバンドの合奏観客が増えて来ました
模擬店も忙しくなってきましたバンドにダンスも入ります
神輿殿では3基の神輿がライトアップされます
最多の種目はカラオケです種目は約40もあります
私は私用で一旦抜け9時半頃に戻ってきました
模擬店は既に店仕舞いです観客は若干減りましたが
ステージは盛り上がり観客も突如乱入します
地元のYOKOUCHIの曲で観客が合いの手を入れる
9時40分になり最後の演目です神輿殿から子供神輿を出し
大人と子供が一緒に担ぎ神輿保存会による甚句が入る
神輿殿から直進し神楽殿へ移動
以前は大祭に担がれましたが近年は境内のみで担がれます
前夜祭では2回目の登場子供神輿が見れて良かったです
甚句の歌い手は2人目に神楽殿前で揉む神輿
歌い手は最後の3人目どっこい♪どっこい♪
出演者には花が配られます神輿を馬の上におろし
前夜祭の締め括りは神輿保存会会長の三本締め
21時50分に閉幕です子供神輿は神楽殿から移動し
神輿殿前でおろします熨斗の掲示板が埋まります
子供神輿の捩りを解く茣蓙はしまわれました
残った肉を焼く神輿保存会私も頂きました
子供神輿の轅をしまい神輿殿へ納め
シャッターを閉める練習神輿もシャッターを閉めます
照明を消し神輿保存会会長の挨拶で
22時25分頃に解散明日はいよいよ例大祭です


本祭準備 (集合6:00)

  ここからは令和元年(2019年)9月15日(日)に行われた本祭の様子を紹介する。本祭当日は朝6時に集合し、神輿の捩り掛けや式典の準備が行われる。

5時40分頃にやって来ましたお宮の扉は空いています
2箇所とも神輿殿のシャッターが開けられる
参拝する氏子の姿も神輿保存会が集まり
集合時間の6時になると会長の挨拶で準備開始
轅を床下から取り出し馬の上へ置く
神社神輿を神輿殿から出し簡易捩りを解く
轅を雑巾で拭き掃除受付のテントを奥へずらす
輿棒を棒穴へ差し込み
馬に載せ替え楔で固定
前夜祭に模擬店で使った鐘楼前のテントは
社殿横へ移動もう一つも
移動しテーブルを並べる
神輿殿前から神社神輿を移動し
境内の中央で降ろして捩り掛けが
始まります社殿横が神輿保存会の受付
四羽の小鳥飲み物に氷を投入
提灯にLEDの蝋燭をセット捩り掛けは去年も紹介したので
今回は手短に紹介します手綱を轅に通す
神輿殿に柵をセット昨日作った粽です
祭壇に供える供物子供神輿には飾りの轅を挿入
捩り掛けに力が入ります給水車に幟旗をセット
宮司用の傘です子供神輿も捩り掛け
受付でご祝儀を渡すとタオルが貰えます
神輿に榊を付け蕨手に小鳥を挿す
行列で使用する太鼓や笊等を準備
奉祝 御大典 天皇陛下御即位の綬を前後2本垂らします
社殿前の提灯を取り外す神輿では鈴の取り付け
山車でも太鼓の準備を開始社務所も人の出入りが増え
7時50分に宮司が来社社殿へ向かい神事の確認
山車の前は駐車禁止です大鳥に稲穂飾りを付ける
神輿殿から神輿の台車を移動し
トラックの荷台へ神輿では捩り掛けが終わり
試し担ぎをします鈴が良く鳴っています
神輿保存会は8時頃に会長代行の挨拶で一旦解散
着替え等に向かいます式典の出席者が増えて来ました
給水車にドリンクを積む太鼓の音色はどうでしょうか

  このあとは式典へ。

囃子

  横内では御霊神社太鼓連が組織されており、囃子太鼓を伝承している。演奏する曲目はおはやし(屋台ばやし)・宮昇殿・きざみ・にんばの4曲で、楽器の構成は締太鼓4・大太鼓1で、笛は無いが鉦は時々入る。横内の囃子は昭和54年(1979年)頃から始まったと言われるが、それ以前は祭りで太鼓を叩くことはなかったようで、御霊神社の神様は太鼓のうるさいのが嫌いだとも言われていた。

山車(正面)山車(側面)
締太鼓は4個並ぶステージでの演奏
おはやし


太鼓練習

  横内では例大祭に向けて平塚市立横内中学校の体育館で太鼓の練習が行われる。令和元年(2019年)の練習は7月21日から9月8日の各日曜日(8月4日・11日は休み)で、基本的な練習時間は18時30分から20時までとなっている。練習初日と最終日は太鼓の革締め作業が行われ、最終日は朝から山車の飾り付けも行われる。

太鼓の練習場所は平塚市立横内中学校
敷地へ入り右手の体育館へ
太鼓の準備を終え早めに練習を始めます
前には楽譜が置いてあります子供達が集まると挨拶をし
本格的に練習を開始先生の指導を受けながら
おはやしと宮昇殿を練習一部はタイヤで練習
1時間半ほど叩くと練習を止め
子供達はアイスを貰います私も頂きました
15分程休憩を取り練習を再開
保護者の方は花作りです練習はまだまだ続きます


神輿

  御霊神社の神輿は明治26年(1893年)8月15日に大山の大工「手中明王太郎景元」によって造られ、当初は素木(しらき)の神輿であった。5年後の明治31年(1898年)8月28日に漆塗りが施され、彫刻の追加工事が行われて塗り神輿に変わり、その後は長い歳月に渡って祭りになると横内の人々に担がれ続けてきた。昭和63年(1988年)9月3日に東京浅草の宮元卯之助商店にて修理が行われ、再び新しくなり現在に至っている。景元は自分の造った神輿の出来栄えを一つ一つ評価してそれを書き残し、その中でこの神輿を「上作なり、最上と知るべし」と評価した。

御霊神社神輿御霊神社神輿(捩り掛け後)
飛龍屋根大紋
組物頭貫木鼻
唐戸丸柱・戸脇
鳥居・井垣亀の甲羅のような編み込み
轅の先端部神輿殿
掛け声

●飛龍の彫刻
  御霊神社の神輿は見所が多いが、とりわけ屋根の上の翼を持った飛龍の箔置き彫刻が目を引く。龍は4頭いていずれも翼をひろげ、天をかけているような姿である。屋根の上の飛龍は明王太郎神輿の中で御霊神社の神輿一棟のみであり、他に類がない。この飛龍の彫刻は契約時(明治26年)の彫物仕様書に記載が無く、実際は5年後(明治31年)の漆塗り追加工事の時に注文が入っている。
  欄間には二十四孝の彫刻があり、孝行物語を彫りの深い籠彫(かごぼり)に作っていて、見応えがある。頭貫木鼻は唐獅子牡丹に蝶をあしらった彫物になっている。腰羽目には波に犀の彫り、露盤には麒麟の彫り、戸脇には玉眼入りの雲水上下龍の彫りなど、変化に富んだ彫刻がたくさんあり、こられも表現豊かな籠彫となっている。
  塗りは丸柱が白檀塗という典雅な塗りで、屋根と箱台輪は堅牢な麻布着蝋色塗(あさぬのきせろいろぬり)となっている。胴の主要な部分は金箔が押されて輝いている。

●神輿新造の契約書
  御霊神社の神輿を新造する時に取り交わされた契約証文が伝わっており、契約書末尾を見ると、発信人の神田村神輿世話人総代田中泰次郎から大山町の明王太郎に宛てた証文であることが分かる。神田村と記載されているのは、明治22年(1889年)に田村・大神村・吉際村が合併してできた村名だからである。契約書の内容を見ると、冒頭部には次のように書かれている。

  『一 金弐百拾円也
  但し、用材木工仕組方木彫一色。
  附、金物類の儀は旧真田村神輿の通り、相違無之出来可仕候。』

  神輿の代金は210円でまとまり、その内訳は木工木地方・彫刻方・錺金物方が含まれている。しかし、塗師方が含まれていないのは、当初は素木の神輿として作られたためである。錺金物は真田村の神輿金物の通りに作るように指定している。
  契約は明治26年4月17日に取り交わされ、棟札によれば神輿は同年8月15日に完成・遷座となっており、請け負ってから四ヶ月弱という短い工期で完成した。

●二つの棟札
  昭和63年の神輿修理の折りに、二つの棟札が見つかっている。一つは「奉新造建御霊神社神輿、明治廿六歳八月十五日遷座」と墨書きされていて、神輿新造のときの棟札である。もう一つは「奉彩色五霊神社神輿 明治三十一年八月廿八日遷座」と明記され、漆塗り追加工事のときの棟札である。両棟札とも神輿の作者として「棟梁手中明王太郎忌部景元」の銘が記されている。
  棟札の裏面には神輿普請の世話人十三人の名前が列記されており、その中には前述の契約主の田中泰次郎が世話人として名が載っているほか伍長市川幸右衛門、宮世話人渡辺末吉たちの名前も見える。

●神輿細工仕様書
  神輿建造の契約書の文面に「別紙巨細請負仕様書の通り」とあるように、大工が仕様書の「神輿細工仕様書」を作成し、神輿世話人に提出した。その控えの内容は彫物味細・木地方細工仕様・金物仕様の三部構成となっている。
  仕様を順に見て行くと、まず彫物味細の部は、冒頭に「彫物用材一色白檀材」と記されている。白檀は黒檀や紫檀と共に古くから銘木として知られ、香木であると共に仏像などの彫刻材として使われている。明王太郎はこの彫刻材を御霊神社の神輿に用いた。彫物は戸脇に雲水上下龍の彫り八枚を始め、頭貫鼻に獅子頭牡丹花添えの彫り八ツ、露盤雲に麒麟の彫り四枚など、大小合計136個の多量の彫刻が彫られ、いずれも白檀材である。
  欄間彫刻にいて仕様書には「内法長押上欄間、人物の彫り、二寸三分、但し四枚」と記されている。実際に彫られたものは二十四孝の中から大舜(だいじゅん)・楊香(ようきょう)・郭巨(かっきょ)・閔子ゲン(びんしげん)の四つの説話で、厚さ二寸三分の白檀材を用いて籠彫に仕上げた。
  次に、木地方細工仕様について見て行くと、主要な寸法および仕口が記されている。例えば冒頭部に「箱台輪寸法四尺一寸、幅八寸三分、厚三寸、附、四隅車知をもって打ち堅め」と寸法が指定され、仕口については例えば「大真柱八角一本、四方より隅木差し通し、曲折襟輪付き、車知二本づつ打ち堅める」とあり、曲折襟輪付き車知二本打ちにより、しっかりと組みかためられた。
  組物については「桝枠肘木一組四本づず差し堅め、鼻栓差し通し、尾垂木通肘木銘々組み合せ、六支八支十支十二支核(さね)肘木何れも念入り組み堅め申す可く候」と記述されている。これは三手先の組物について大斗から一手先・二手先・三手先・実肘木(さねひじき)まで、念入りに組みかためると語っている。

●金物明細帳
  神輿の錺金物の絵図と寸法を記した明細帳が伝わっており、これは御霊神社神輿の錺金物の製作を錺師に依頼する時に使ったもので、錺師はこの明細帳を見ながら神輿の金物を作った。明細帳には金物の一つ一つについて図を描いて寸法を書き入れ、金物の外形と彫り付ける模様が描かれている。一例として、大鳥について次のように記述している。

  『大鳥寸法、但し真田八坂神輿正寸を写す。石打総幅三尺六寸三分に定める。頭より露盤上バ迄二尺一寸に定める。附、トサカ十一枚、尻尾十二枚。目方総計三貫七百目』

  真田神社の神輿の金物が気に入ったためか、その正寸を写すとなっている。翼両端の石打幅三尺六寸三分(110cm)の寸法は大きく、重量を換算すると13.9kgある。
  錺金物は木地方と寸法を正確に合わせないと具合が悪く、金物の製作の際に明王太郎が木型を用意し、錺師に渡したようである。明細帳には木型を提供したと思われる記述が見つかり、例えば「笠木鼻箱仕立八ツ、長さ二寸七分、木形」と記述されている。鳥居の最上部の笠木の端の木鼻については木型を提供し、それに合う金物を作ってもらった。木型は笠木鼻・隅木鼻・蕨手・井垣頭など九種類が作られた。明細帳の結尾には以下のメモがある。

  『右金物目方総計十二貫目これ有り候由、世話人手控え写す。附、地金何れも真鍮をもって皆出来候也。然るを右申す条とは相違し十七貫二百目。(明治)二十六年五月十日』

  金物の総重量は十七貫二百匁、64.5kgあり、大人一人分の重さを占める。

●塗りと彫刻の追加
  素木神輿の完成から5年が過ぎた明治31年8月に漆塗りが施された。神輿新造の時に彫刻には木肌がきれいで芳香のある白檀材を使い、木地のままでも十分に良さが味わえるが、その上に漆を塗ったのである。塗りは箔置きの華麗なものとなったが、実はその下に素晴らしい木地が隠されているのである。塗り普請の請負証文が残っており、その内容は塗りと彫刻・金物の追加注文である。冒頭には一金二六五円也とあり、最初の素木神輿の代金二一〇円よりも高く、追加注文が大掛かりであったことを示している。両方の合計金額は四七五円で、それまでの明王太郎神輿の請負金額の最高となった。

●彩色仕様書
  追加の普請の取為替証文には別紙の仕様書が用意された。前半は塗り仕様で、最初に「箱台輪本蝋色塗り」と記され、その塗り仕法の全工程が克明に書かれている。「胴柄丸柱白檀塗り」の仕様についても書かれており、白檀塗は金箔の輝きが漆の薄い膜を通して見られる塗りである。この白檀塗を欄間裏板・合子羽目・腰羽目・戸脇裏板に至るまで使い、豪華な塗り仕様となっている。
  化粧垂木は総箔置きとし、そのために軒下が明るくなり、組物や欄間も箔置きであることから、陰の部分がないかのように明るくなっている。軒の垂木を箔置きとするのは明王太郎神輿の中でも、この神輿と前鳥神社神輿乳牛鎮守神輿の三棟のみである。

  『彫刻新規、屋根野筋飛龍籠彫四疋、但し長さ一尺四寸、幅一尺一寸、厚さ七寸、玉眼入り。』

  上記の記述は彫刻に関するもので、御霊神社の飛龍はこのとき新しく作られた。この飛龍彫刻は(埼玉県)上尾市大谷本郷の名彫師として知られた山田弥三郎の作品である。明治30年(1897年)に明王太郎は朝日神社神輿の彫刻と一緒に、この飛龍彫刻を山田弥三郎に依頼した。彫師の発信した「神輿彫細工仕様請負之証」には「家根野筋飛龍籠彫附玉眼入、四ヶ所」と書かれていて、仕様書と同じ彫刻が記述してある。
  錺金物を見てみると、化粧垂木穴の金物はそれまで簡単なものであったが、新たに材料に洋銀を使ってロウヅケ箱仕立てのしっかりした金物を428個作った。他には井垣柱頭の金物76個なども含まれている。
  以上の塗り・彫刻・金物の追加工事は、神輿新造の時よりも手間と時間と費用をかけて、注文から1年後の明治31年(1898年)8月に完成した。



子供神輿と中庭の八坂神社

  手中明王太郎家史料によると横内の子供神輿は、明治30年(1897年)8月21日に神田村横内の子供神輿として製造された。この史料は神輿各部の仕様と見積が記された書類で、大工の工賃97人半分の工賃で48円75銭、彫物代16円、金物代14円+7円50銭、塗方代30円、木代10円、〆て総額126円25銭になるとみられ、これは大工のおよそ250日分の収入に相当する代金とみられる。横内の子供神輿はもともと中庭の八坂神社の神輿であったと言われている。
  中庭の八坂神社は天王さんと呼ばれ、その起源については諸説存在する。昔、横内に疫病が流行ったときに小宮克己家の五代前の祖先が、京都の八坂神社から御霊を勧請したといい、八坂神社で疫病を祓ってもらい、御霊を請けてきたという。また、伊勢参りに行った人が京都から天王さんを勧請してきたともいい、昔は八的の天神様の所に祀ってあったという。別の話者によると町内で悪い疫病が流行ったために、御霊さんの天王さんを遷して祀ったところ悪い病気が無くなったことから、中庭の八坂神社の本社は御霊神社の天王さんであるという。
  中庭の八坂神社は中庭と大西の25軒ほどが氏子で、かつては6月6日がアタリビ(祭礼日)であったが、戦前から7月6日になった。祭に立てる幟は昭和32〜33年頃に書かれたもので「津島神社」と書いてあり、明治35年(1902年)の『御霊神社由緒調査書』にも御霊神社の摂社の中に「津島社(牛頭天王トモ称来ル)」があることから、津島社が現在の八坂神社に当たると推測される。

子供神輿子供神輿(捩り掛け後)
小壁の彫刻胴回り
手中明王太郎家史料神田村横内子供持神輿
中庭の八坂神社社殿

  平成10年(1998年)頃までは子供神輿は担がれていなかったが、平成11年(1999年)から大神輿の宮立ちと宮入り時に担がれるようになり、宮立ちでは神輿保存会に、宮入りでは子供会等によって担がれていた。宮立ちした子供神輿は横内交差点で左折し、現在の最後の休憩場所(神酒所)に安置され、夕刻になると大神輿と一緒に子供神輿もお立ちし、宮入り直前で新幹線のガード下で一旦おろして、その後宮入りをした。子供神輿が例大祭で担がれたのは平成20年(2008年)頃までで、暫くは神輿殿に収められたままであったが、数年前から宵宮の余興に合わせて境内で担がれるようになっている。



保存会神輿

  御霊神社には神輿保存会の練習用の神輿があり、例大祭前に境内で担いで練習が行われる。

保存会神輿神輿殿(保存会神輿)


神輿担ぎ練習

  横内では例大祭前の2ヶ月間に渡って毎週土曜日に神輿担ぎ練習が行われる。時間は18時30分から21時頃迄で、休憩を挟みながら参道を往復する。練習には近隣の平塚市四之宮や田村などの他に茅ヶ崎市からも担ぎ手が参加し、友好団体の交流の場ともなっている。

神輿担ぎ練習は18時30分頃から準備開始
使用する神輿は保存会神輿です
轅を差し込み簡易的ではありますが
捩りもちゃんと掛けます四隅の蕨手と轅を結び
鈴を取り付け手綱を結ぶ
19時頃に準備が終わり神輿を担いで移動し
神楽殿前で輿をおろし鐘楼周辺で一服します
10分程休憩すると一本締め練習開始
鳥居へ向かって進んで行く練習には周辺の四之宮や
田村、茅ヶ崎からも参加参道の中程で引き返し
社殿前で甚句を入れ10分程で輿をおろします
20分程休憩を取り再び一本締めて
練習再開近隣の神輿会との交流も
兼ねているようです私は用事があり20時前に退社
練習は休憩を挟みながら21時まで続きます


式典 (開始8:30)

  本祭の準備が終わると境内では身内に不幸のあった氏子を御祓いし、8時30分からは社殿にて大神の寄木神社の宮司により神事が執り行われる。神事が9時に終了すると社務所で直会が行われ、9時30分からは神輿前で式典の準備が行われ、御霊入れと神事が執り行われる。

8時15分になると宮司が社殿から大麻を持ち出し
身内に不幸のあった氏子をお祓い
もう直ぐ式典です宮司を始め
出席者が続々と社殿へ上がり
太鼓の合図で神事が始まります
私は社務所前で待機お茶菓子を頂きました
社務所が神社の受付です神輿の友好団体が到着(今泉)
式典中も氏子が参拝神輿保存会はお神酒の準備
長野から信州睦天龍太鼓連は9時集合です
神事は9時丁度に終わり出席者は社殿を出て
社務所へ向かう総代の挨拶があり
乾杯で直会が行われる
太鼓連は宮立ちまで待機三社会の一つお隣の大神
直会を終えた宮司が社殿へこちらは茅ヶ崎市の南湖仲町
時刻は9時30分神事の準備が始まり
紅白幕で神輿を覆い
宮司が御霊を抱え神輿に御霊を遷す
紅白幕を外し鍵を掛けます
神輿渡御に向けて幟や太鼓を持ち出します
神輿に祭壇を設け神事が始まります
献饌祝詞奏上
祭主は寄木神社の宮司です続いて玉串拝礼
宮司に続いて総代と神輿保存会会長
最後に撤饌で神事が終了
祭壇を下げ神輿を担ぎ上げると
その場で180度旋回し正面を鳥居側へ向ける


宮出し (出発10:10)

  神輿での神事が終わると御霊神社神輿保存会の司会進行で宮出しに向けて式典が行われ、各団体の代表者の挨拶に続き神輿の友好団体の紹介があり、一本締めで神輿が御霊神社をお立ちする。

神輿保存会の司会進行で最初に氏子総代長の挨拶
続いて交通指導員神輿保存会の会長
代表者の挨拶が終わると続いて友好団体の紹介
1団体づず順番に紹介し代表者に襷が渡されます
5月にお世話になった川前紹介が終わると
渡御の注意点を説明神輿保存会は
お神酒を配り水利土木部の部長の挨拶で
乾杯神輿の周囲に集まり
一本締めて肩を入れ
神輿を担ぎ上げる太鼓連の山車では
宮昇殿を演奏鐘楼では鐘が突かれる
神輿を肩からおろし最初の門飾りを潜り
さらに参道を進み次の門飾りを通過
宮司は日傘をさして先導神輿は参道を練り歩き
鳥居を潜り長い神輿渡御が始まります

  
  ※神輿渡御の様子は下記の神輿渡御の前半と後半を参照。

  神輿渡御(前半)
  神輿渡御(後半)



演芸フェスティバル (開会15:00、閉会18:30)

  神輿渡御の際中は15時から宮入り前の18時30分まで、神楽殿にて演芸フェスティバルが開催され、楽器演奏や歌、ダンスやじゃんけん大会などが催される。

神輿の渡御中は境内で演芸フェスティバルが開催
演目は楽器演奏やダンスなど山車は17時45分頃に宮入りし
神輿の宮入りまで待機しますフェスティバルは神輿の渡御中の為
前夜祭より観客が少ないですが地元の団体が盛り上げます
演目は終盤へ横内スペシャルバンドです
太鼓連も応援に駆け付け演奏開始
この後はYOKOUCHIを歌って閉会します

  この演芸フェスティバルは平成30年(2018年)から始められたもので、平成27年(2015年)までは一座を呼んで芝居が行われていた。

湘風園・小宮氏提供
大川劇団2019年9月27日


2019年9月15日 例大祭演芸フェスティバル プログラム
開始時間演目
15:00開会
115:10横内中学校吹奏楽部
215:30ピアノ演奏(田中ピアノ教室)
316:10フルートアンサンブル
16:25じゃんけん大会@
416:40ダンス(NKダンスラボラトリー)
517:00フラメンコ
17:20じゃんけん大会A
617:35ギター弾き語り
717:50バンド演奏(横内スペシャルバンド)
818:20YOKOUCHI!
18:30閉会

※プログラムは予定されているものであり、実際と異なる場合があります。



宮入り (宮入り18:55、宮付け19:35)

  神輿は一旦鳥居前を通過し、東海道新幹線の手前で引き返してから宮入りする。鳥居を潜ると鳳凰の足元から奠の綱が伸ばされ、宮司の手で曳かれながら神輿は参道を社殿へ向かって進んで行く。神輿は甚句を交えて境内で30分程揉んで輿をおろすと、最後は神輿保存会会長の三本締めで神輿渡御に幕が下りる。

鳥居前で甚句を入れて揉むと神輿は左折
神社の幟旗高張提灯と宮司に続き
18時53分に神輿が鳥居を通過奠の綱が伸ばされる
宮入りの担ぎ手は地元御霊神社神輿保存会
宮司に引かれる奠の綱神輿は参道を進んで行く
神輿は一つ目の提灯枠を通過
鐘楼では合図の鐘が突かれ山車では宮昇殿を演奏
さらに参道を進み2つ目の提灯枠
境内は担ぎ手で溢れます神輿は提灯枠を通過し
奠の綱に引かれゆっくりと
社殿へ向かいます境内は熱気に包まれます
宮司は社殿前に立ち奠の綱を持ち続ける
神輿は一旦後退し非常に珍しい
宮入り後のレディースタイム再び社殿へ向かい
神輿を揉むと再び後退
レディースタイムはまだ続きます甚句を入れて
社殿前で揉み引き返していく
レディースタイムが終わり担ぎ手は男性に交代
しかしながら横内は宮入り後の神輿担ぎが長いです
沢山の担ぎ手が肩を入れられそうです
甚句を交え神輿は前進と交代を繰り返す
甚句は横内神輿保存会の会員のみが歌います
宮入りから30分以上経過すると担ぎ手は地元横内の
神輿保存会に代わり神楽殿から最後の甚句を入れ
ボルテージは最高潮に宮入りの40分後に
拍子木が打たれようやく輿をおろします
神輿保存会会長の挨拶があり境内は盛り上がります
最後に会長の三本締めで神輿渡御に幕が下りる


粽配り・直会・片付け

  神輿が宮付けされると神輿から御霊が本殿へ遷され、神楽殿からは町代によって粽が撒かれる。各団体はそれぞれ直会を行い、最後に片付けが行われる。

友好団体は社殿横のテントに移動し食事を取ります
神輿を紅白幕で囲み宮司により御霊が抜かれると
神輿を担ぎ上げそのまま神輿殿前まで移動し
馬の上におろして捩りを外していく
御霊遷しが終わると町代が拝殿から粽を運び出し
花道と神楽殿に並ぶ
境内には氏子が集まり19時50分になると
一斉に粽を投げて行く
一方、神輿保存会は直会を終えた友好団体を
順番にお見送りお互いに言葉を掛け合います
神輿保存会は後片付け社務所では直会中
太鼓連も太鼓を外し後片付け
的屋も店仕舞いです大神輿では馬を抜いて
台車を入れ箱台輪から轅を抜き
神輿殿へ納める仕上げの片付けはまた明日
轅は社殿の床下へ収納馬も神輿殿へ入れ
シャッターを下ろす20時20分頃にようやく
神輿保存会がテント下へ集まり直会が始まります
直会は30分ほど続き8時50分頃に
会長の三本締めで直会が終了
明日は鉢洗いが行われます横内の皆様お疲れ様でした

  本祭は21時過ぎに解散となり、翌16日(月)には片付けと鉢洗いが行われる。



横内の歴史

  横内は昭和41年(1966年)に田村から分離独立して大字横内となるまでは、行政上は田村の一部であり、西田村と称することもあった。しかしながら、『風土記稿』の田村の小名として「△横内 本村の西にありて、二区をなし、宛も別村の如し」と記されているように、当時から村としての独自性を持っていたことが伺える。
  横内の地名について元横内公民館長の浜田重雄氏の研究によれば、大化の改新(645年)の際に田村の余った戸数を分村し、「余戸(アマベ)」と称したものを音読して「ヨコ」と呼び、「余戸地(ヨコチ)」が転訛して「横内(ヨコウチ)」になったという。横内地区の南西端部に新しく造成された団地の名称を付ける際には、住民の強い要請によって「横内団地」と命名されている。
  横内の戦前の戸数は150〜160軒で、平成16年(2004年)は3,475世帯の人口は9,083人である。横内は南北で上(カミ)と下(シモ)に大きく2分され、さらに町内(チョウナイ)と呼ばれる家々のまとまり(区分)が10ある。町内にはそれぞれ名前が付いていて、北から「キタニハ(北庭)」・「ヒガシニワ(東庭)」・「ニシニワ(西庭)」・「ヨツヤ」・「トオリチョウ(通り町)」・「ヤツマト(八的)」・「ヒガシニワ(東庭または下の東庭)」・「ナカニワ(中庭)」・「ハチマンヅカ(八幡塚)」・「シンデン(新田)」である。八的以北の6町が上で、東庭・中庭以南の4町が下であるが、北庭・東庭・西庭・ヨツヤ・通り町の5町をまとめてカミと呼ぶこともあり、新田は横内のカミから分家した家が多いという。この町内組織は道祖神を祀る家のまとまりと重なっている。
  平成16年(2004年)の横内連合自治会は第一から第五までの自治会で組織され、第一は通り町以北のいわゆるカミ、第二は八的、第三は東庭と中庭、第四は八幡塚、第五は新田である。以前は第四自治会までであったが、戸数が増えた為に八幡塚と新田を分けたという。また、自治会のことを町内と呼ぶ人もあり、この5つの区分が宮総代の選出単位にもなっている。自治会の組織は生産組合が基になって作られており、生産組合は第四生産組合まであり、自治会が4つであった頃と同じ区分である。なお、横内団地は別に8つの自治会を組織している。



祭礼の歴史

  御霊神社の祭礼日は『風土記稿』と『御霊神社由緒調査書』では共に8月20日としており、明治中頃まで祭日は変わらなかったことになる。その後は9月20日に固定したが、昭和初期のある年に養蚕の関係で忙しいという理由で祭日を20日の前後で移動させるという案が持ち上がった。この案に対しては意見が二つに割れ、最終的には祭礼を2回実施した年があったが、村に災難が起こったために翌年から元通りの20日に戻したという。平成7年(1995年)からは祭礼日が9月20日近く(20日以前)の日曜日に変わったが、ハッピーマンデー法により敬老の日が9月第3月曜日になると、三連休に合わせた日曜日に行われるようにった。
  かつての祭礼では8つの的を射る流鏑馬が行われ、その8つの的が設けられて実施された場所に「八的(やつまと)」という地名が付けられた。この八的については『皇国地誌残稿』の中に、「相伝フ往古御霊神社ノ三ケ村(田村・大神村・戸田村のこと)ノ鎮守タルトキ毎年例祭ノ祭神事鏑馬ヲ執行セシシテ 今開墾シテ田畑ト成ルト云ウ 該地古跡ニ因テ字スト云フ」と記されている。
  昔は神輿を白丁と町代が白丁着で担いだが、担ぎ手が多くけんかになることもあったという。かつて横内と田村は一つの村であり、お互いの村祭りには神輿を出して相手村まで出掛けていた。戦後しばらくは田村の渡し手前の河原まで渡御していた。田村では八坂神社の前にお宮の世話人が2人くらい出ており、、御神酒をごちそうになったりした。田村へ行くと田村の人も担いだので担ぎ手が多くなったが、田村から離れて再び横内の者だけになると人数が減り、前棒を4人くらいで担がなければならいこともあった。反対に田村の八坂神社の祭礼時には八坂神輿が御霊神社まで渡御し、横内村でも御神酒を出してもてなしたという。



祭祀組織

  宮総代はかつては上と下から2名ずつ、計4名選ばれていた。生産組合が基準になっていて、カミから1名、八的から1名、東庭と中庭から1名、八幡塚と新田から1名出ていた。現在は戸数が増えたため八幡塚と新田から1名ずつ宮総代を出すようにし、計5名で任期は3年である。祭りにはこの他に各町内の代表である町代が14名出て、町代は順番制で2年交代である。更に自治会長6名、生産組合が取り仕切る水利土木役員4名、神輿保存会と太鼓連が協力して運営している。



青年会・青年団

  「青年会」は15歳で加入し45歳までで、横内生まれの者でイセキ(跡取り)は必ず入会していた。次男以下は希望者が入り、奉公人は入らない決まりであった。会に入ると親の代わりに村仕事に出て一人前に見られた。会では縄の品評会などをしてその縄を村人に売ったり、女竹を刈って売り会の費用とした。また、大正12年(1923年)頃には青年会所を作るために1日1厘貯金をしたりした。青年会の仕事は神社の祭礼の準備や余興の準備、道普請、消防などをうけもった。16・17歳になって16貫の俵が担げないと皆にバカにされ、休みの日には集まって力比べをした。土俵や墓地の石塔を担いだりして力をつけた。
  「青年団」というようになってからは25歳までとなり、昭和初期からその加入式は正月15日であった。大正12年以前は西福寺の本堂で、それから後は青年会所で行うようになり、酒を出して挨拶をした。御霊神社の祭礼では演芸的なものは青年団が段取りをし、戦後まで歌舞伎を上演していた。横内は歌舞伎が盛んだったという。



関連行事

●平成30年(2018年)11月4日・・・記念渡御(神輿新造百三十周年・神輿保存会結成四十周年)



             



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