語句解説
あ行
●吾妻鏡(あずまかがみ)
『吾妻鏡』は『東鑑』ともいい、編者は未詳だが幕府の官吏であろうとされている。源頼朝が兵を挙げた治承4年(1180年)から文永3年(1266年)までの86年間の鎌倉幕府関係の事跡を編年体に記録した歴史書で、全52巻からなる。なお、「あずま」とは関東地方のことを意味し、京都から見た鎌倉・江戸をさしていう。
●伊呂波字類抄(いろはじるいしょう)
1163〜65年頃に成立
●延喜式(えんぎしき)
『延喜式』は醍醐天皇(885-930年)の延喜5年(905年)8月の勅令により藤原時平・忠平らが編纂に着手し、延長5年(927年)に完成、康保4年(967年)に施行された律(りつ)・令(りょう)・格(きゃく)の施行細則である。この巻9・巻10が『神名式(延喜式神名帳ともいう)』である。
か行
●神奈川県神社誌
昭和56年(1981年)
●皇国地誌残稿
明治8年(1875年)
さ行
●新編相模国風土記稿(しんぺんさがみのくにふうどきこう)
『新編相模国風土記稿』は徳川幕府が天保12年(1841年)に完成させた全126巻からなる相模国の地誌で、江戸時代における相模国の村々の様子を知る上で貴重な文献で、地域史研究の基礎的資料といえる。
享和3年(1803年)頃に幕府による地誌編纂事業が開始され、幕府は各藩・各役所に対し地誌編纂の内命を出すと共に、各地の既存の地誌を集めさせた。文化7年(1810年)に林大学頭述斎により『新編諸国風土記』の編纂に関する建議がなされ、地誌調所が設置される。はじめに地誌調所が着手したのは『新編武蔵風土記稿』で、文政11年(1828年)に完成している。
新編相模国風土記稿の編纂が開始されたのは文政7年(1824年)で、編纂に携わった者は間宮庄五郎・松崎善右衛門純庸・三島六郎正行ら27名である。編纂の方法は文献や資料の探索・収集と現地の村々を廻る実地調査により、廻村する者を「出役」といった。出役はあらかじめ調査項目を村方に伝えた後に村へ出向き、村方との一問一答形式で「地誌御調書上帳」を作成し、地誌長所に持ち帰って編纂作業にあたった。このときの地誌御調書上帳の控えや写しが残っている村もあり、平塚・大磯・二宮の地域では新土村・平塚宿・万田村・中里村・山西村・下吉沢村・松延村・広川村・真田村・飯嶋村・西海地村・城所村のものが現存している。
相模国の調査は文政9年(1826年)に一時中断され、出役たちはいっせいに御府内の調査にあたり、天保2年(1831年)に『御府内備考』が献上されると相模国の調査は再開され、全ての調査が終了するのは天保6年(1835年)になってからである。
編纂は郡単位で進められた。高座郡は天保3年(1832年)、三浦郡は天保5年(1834年)に稿が成ったが、編纂を開始したばかりで体裁を定めていなかったので、天保11年(1840年)に文章を整理する作業を加えた。足柄下郡は天保7年(1836年)、足柄上郡と愛甲郡は天保10年(1939年)、大住・淘綾郡は天保11年(1840年)に稿が成っている。鎌倉郡は『新編武蔵風土記稿』の編纂のときに調査されていたので、あらためて調査はされなかった。津久井県は地誌調所とは別に八王子千人同心頭の原半左衛門胤広が命じられて、天保7年(1836年)に稿を提出している。天保12年(1841年)にこれらをまとめて、新編相模国風土記稿は完成した。
新編相模国風土記稿の内容については、まずはじめに総国図説・建置沿革として相模国全体の総説と歴史が述べられている。以降は郡別の内容に移るが、各郡それぞれの巻頭にはやはり図説として各郡の正保・元禄と調査時点の絵図が載せられ、各郡の歴史が語られている。その次に、郷・庄の記載があり、各村がかつてどの郷あるいは庄に属していたかを記しており、その村のルーツを示したものといえる。さらに山・川・産物などの記載があって各村の内容になる。村の記載内容は村の沿革・江戸からの距離・面積・戸数・高札場・道・川・領主の変遷・検地の年代・寺社の縁起や来歴などである。神社は鎮守から小祠にいたるまで列記され、寺院は山名・宗派・開山開基・本尊などが細かく記載されている。寺社にある古器物などは模写されているものもある。村名には読み方が付され、当時の村の呼び方もわかる。また、景勝地や名刹などは挿絵がなされており、当時の様子を視覚的にうかがうことができる。
た行
な行
●日本三代実録(にほんさんだいじつろく)
901年成立