祭礼さいれい

マツリの起こり

  日本列島に住むわれわれの先祖達は、神々はいつも同じ場所に留まっているとは考えていなかったようで、神々は何処からか時を定めて寄り来るものと思い、神々の訪れを「待つ」のが「祭り」の起こりだったようである。
  神々の「訪れ」の語源は「音摺れ(おとずれ)」に発しており、古代人は神・物・人がやって来るときに着物が摺れるような音を感じたようで、神々の音摺れの気配を感じるまで人々はじっと待ったのである。その待つ場所がマツリのニハ(庭)であり、神々の斎庭(ゆには)には周辺の木々(神社の森・杜)とは違った目立つ存在の木(神籬)が立っていたり、人工あるいは天然の岩や石に手を加えた磐座(いはくら)が置かれ、そうした斎庭で人々は神々の来臨を待つわけである。
  神々の音摺れが確認されれば、人々はなるべく長い間留まって頂きたいと考え、歌を歌ったり踊ったり、あるいは神々にお神酒や食事を奉ったりして神々の滞在を少しでも長引かせようとした。もちろん、人々も神々と一緒に食事(いわゆる神々との共食)をし、神々から見れば帰りを待たされるわけで、まさに神々と人々との間の「待つり合わせ」である。現在では、常設の神殿に神が常にいるという考えが一般的だが、かつて神は祭りにおいて出現し、人々は聖地に神を迎えて祭り、終って神を送るというのが古い祭りの様式だった。   



神を迎え送る祭り

  神を迎えそして送る祭りの様式は、私達の身の回りにもいろいろある。たとえば、正月には家ごとに門松を立て注連縄を張って聖域とし、常の神棚とは別に臨時の祭壇を設けて祀る習わしが近くまで広く行われていた。その祭壇は歳徳棚などの棚とするところもあれば、床の間や大黒柱の根方などに米俵や米を満たした一斗桝を据えてそれに松を立てるところもみられた。歳末にその松を山から伐り出してくるのを洛北や丹波では松を囃すといい、松囃しとよぶところが多かった。正月神を松に依らせてお迎えしたのである。また、正月飾りを集めて燃やす小正月の左義長はこの神を送る行事にほかならない。正月とならぶ大きな折り目である盆の行事にも、精霊棚などの祭壇を臨時に設け、仏を迎えそして送る作法が残る。去来する神を祭る方式は民俗にいまも生きているといえよう。



人と神の出会い

  神は神に奉仕する人(巫女やよりまし)に憑依すなわち「神懸り(かみがかり)」して神の言葉を伝えた(これを託宣(たくせん)と言う)。しかし、神懸りされた神人が発する「ことだま(神の言葉)」は人間の言葉と違うことがあり、ことだまを翻訳する「審神社(さには)」によって神命を解釈した。古代は祭政一致の社会であり、祭りの時の神の言葉(神人のことだま)が人々に伝えられ、それが一年の農事や国または共同体の将来を決める「政事(まつりごと)」になった。
  本来の祭りは神事にたずさわる資格のある者のみが参加し、深夜にひっそり行われるものであったが、仏教の法会などの影響を受けて祭りの規模が大きくなり式次第が複雑になってくると、一般氏子や村人にも公開する儀礼が増えていった。そのため、もとは神だけのために演じていた舞踊や神楽が人々の見える場所で演じられ、祭具や設備なども豪華になっていった。
  現代では祭りというと賑やかな人出が想起され、町興しなどのフェスティバルにもなっているが、本来は神事であり神道の根幹である。祭りは時代と共に様々な変化を辿っているが、もっとも重要な儀礼は「神人共食」であり、祭祀者達は神を饗応することで神のエネルギーを頂き、豊作や豊漁を得る力や悪疫を祓う力を得ようとするものである。



祭りの原型

  日本の祭りの原型は古代の農村で行われた農耕儀礼で、村落共同体の農耕儀礼としての祭りである。その内容がわかる文学的な時代は8世紀まで遡り、日本の古代国家の法律「大宝令」の中に当時の民間の祭りのことが書かれている。大宝令の「春時の祭田の日」の注釈によると、日本全国の村ごとに社神があり、村人が集まってその社神を祭り、その祭りは祈年(としごい)祭りのようなものであった。それは、食料の増産と村人の幸福を祈るために春に田を祭る、すなわち田の神(村ごとに祭られている社神)を祭ることである。
  大宝令の「郷の飲酒の礼」という言葉に対する注釈書によると、この社神の祭りは村の人達が飲酒の用意をすると説明しており、村の祭りでもっとも大事なことは神の前での飲食行事であった。また、春だけではなく秋にも神と共に村人が飲食をする農耕儀礼もあり、大宝令の注釈書には「春秋二時の祭りなり」と記している。その秋の祭りは農産物の収穫に対する感謝の祭りであると思われ、凶作の年には凶作は神の怒りによるものと考えられ、神の怒りを和らげ神をなだめる祭りであったと推測される。
  こうした春秋二度の村落共同体の祭りは、8世紀大宝令記載以前から行われてきたに違いなく、農耕儀礼であることから農耕と共にあったと思われる。日本の農業は水稲耕作が中心で、水稲耕作は紀元前2世紀にアジア大陸から伝わり、その時に神を祭る農耕儀礼も伝わったと推測される。



都市と祭礼

  都市における祭りは「見られ」そして「見せる」ところに大きな特色をもっており、それは部外者の参入を許さなかった古来の氏神祭りや共同体の祭りにはなかった特色であり、都市的な場において成立したものであった。柳田国男はそのような祭りを「祭礼」とし、その登場を祭りの重要な転機ととらえ、「祭」と「祭礼」の区別を強調した。そこで重視されたのは「祭」であったが、「祭礼」についてもその一般的な特色が「神輿の渡御、之に伴ふ色々の美しい行列」にあり、それが見られる祭りとして都市で成立発展したことを指摘した。「祭礼」はまさしく平安京の祭りに姿を現し、都市的発展とともに展開した都市文化にほかならないのである。

●賀茂祭り
  平安京にくりひろげられた祭礼のなかでまず人目を集めたのは「賀茂祭り」で、「賀茂社」すなわち「下賀茂・御祖神社」と「上鴨・別雷神社」の祭礼で、陰暦4月第2の酉の日に行われた。それは王朝を代表する祭礼であり、単に「まつり」といえば賀茂祭りを意味したほどであった。賀茂社はもともと賀茂県主家を中心とする賀茂氏の氏神であった。8世紀にすでに山城国司が検察するほどの祭りとなったが、都が平安京に遷されるにおよんで王城鎮護の神として崇敬を集め、弘仁元年(810年)には斎王の制が設けられ、弘仁10年(819年)には朝廷の恒例祭祀(中祀)に準じて行われるに至った。賀茂祭りは勅使がたつ朝廷の行事として行われる祭礼となったのである。
  賀茂祭りの盛儀は『貞観儀式』や『延喜式』に詳細であり、日記や物語にも多くの記述が残されている。平安時代の女流作家・歌人であった清少納言も「見もの」として、臨時の祭・行幸とともに「祭のかへさ」と「御賀茂詣」をあげている(『枕草子』二一九)。「祭のかへさ」とは斎王が祭りの翌日上社から斎院へ帰る行列であるが、賀茂祭りは「御禊・祭・還三ヶ日、風雨の難なし」といわれもしたように、斎王の御禊にはじまって、賀茂祭、還立ちとつづく一連の行事で構成されていた。賀茂祭りは上下の見物で賑わい、早々から「見られる」祭りとなったが、人目を集めたのはその行粧であり、行粧は人目を意識して時とともに華麗さをましていった。それはまた勢威を現すものとして、競合を内に含んで「見せる」ものともなった。「尽善尽美」から「過差」へ、禁制をくぐて続くその流れは「祭礼」成立の道程でもあったのである。
  平安京の祭礼は過差によって彩られ、それが見物を引き寄せ祭りの祭礼化を大きく促した。賀茂祭りはその典型といってよいが、あくまでそれは王朝貴族による朝廷の祭であった。人々が群れて見物したのは路頭に繰り広げられる斎王や祭使の行列であり、「祭礼」としての賀茂祭りは神事外のいわば付帯行事に止まったのである。

  賀茂祭りに対し、それらにおいて使役された「従類」たちの成長を背景に登場したのが、「稲荷祭り」や「祇園御霊会」である。それらの祭りは神事そのものが路頭に出て見物をも巻き込んでいく新しい「祭礼」であり、都市祭礼の典型となったものである。

●稲荷祭り
  「稲荷祭り」は「伏見稲荷大社」の祭礼で、祭りが盛行に赴いたのは天暦年間(947〜957年)のこととされる。古来、陰暦3月第2の午の日に神輿が御旅所に渡り、4月はじめの卯の日に本社に還幸する例で、その還幸祭を稲荷祭りといった。
  稲荷祭りの史料上の所見は寛弘3年(1006年)の『小記目録』の記事で、「稲荷祭の間、闘乱出来の事」とあり、祭りの賑わいは窺われるが詳細は知られない。12世紀後半の京都の年中行事を描いた『年中行事絵巻』巻十一には、風流(異装)の出立ちの雑色・随兵をそれぞれ従えた馬長三騎の行列、巻十二には先頭に治道(貴徳面を胸に掛け騎乗)と陪従、ついで三騎の巫女、騎馬の田楽、獅子舞五組、王の舞の芸能集団、それらに先導される多くの大御幣と五基の「神輿」という次第の行列が描かれている。絵柄が十一・十二と順につながるかどうか、また欠失の疑も皆無ではないが、稲荷祭りが神輿の巡行を見所とする賑々しい祭りであったことは確認できる。
  稲荷祭りの神事には「王の舞」・「獅子」・「田楽」の芸能集団が伴い、それらを基本セットとする神事芸能は当代流行の田楽をメインにし、この頃から中央大社寺の祭礼を賑わしたものである。祇園御霊会の神事芸能も同様であり、『年中行事絵巻』も神幸に従うその集団と御旅所で舞う王の舞を描きとめており、稲荷祭りにあっても御旅所が主たる奉納場所だったと考えられる。しかし、『雲州消息』が注目するのは「猿楽(散楽)」や雑芸であり、神事として組織された芸能ではなく、いわば巷の芸能が取り上げられたのは何故であろうか?結論的にいえばその方が人気の的であったからであろう。それらの芸能こそ『新猿楽記』で明衡が新しい猿楽ととらえたもので、「仮二夫婦ノ体ヲ」演じるものなどがその代表演目であり、そうした芸能が馬長とともに人気を分けていたのである。その猥雑な演目自体は豊穣を願う稲作儀礼に根差すものだが、都市的な環境において呪?から哄笑の観賞芸能へとそれは大きく飛躍したのである。
  稲荷祭りは巷の芸能が集まる演芸場でもあった。もちろん神社が組織したわけではない。七条町を中心とする都市的繁栄が導いたものであり、自然発生的な、祭りに集う人たちに支えられる存在であった。

祗園祭

  貞観5年(863年)5月20日、朝廷による御霊会(ごりょうえ)が神泉苑で盛大に営まれた。死者が相次ぐ春以来の疫病流行を鎮めるためであり、経典を講じ歌舞音曲を尽くすなどまことに賑やかな祭りであった。そこに祀られたのは早良親王(さわらしんのう)(崇道天王)以下6人の御霊である。いずれも政争に敗れ非業の死を遂げた人達であり、頻発する疫病はその怨霊(おんりょう)の祟り(たたり)と考えられた。
  御霊とは広くこの世に怨(うらみ)を残したものの霊魂であり、その怨霊をいう。われわれの祖先は突如として降りかかる天災や疫病、かなでも疫病をそうした怨霊の祟りと考え、畏怖(いふ)と畏敬(いけい)の念をもって御霊と呼び、慰撫(いぶ)に勤めたのである。人口の密集する都市は疫病の流行に弱く、ひとたび起これば死者が続出した。平安京の住民達は続発する疫病の流行を御霊のせいであるとし、御霊会という特別な祭りを行って御霊をなぐさめ、わが身を守ろうとしたのである。
  平安時代を通じて御霊会は出雲路・紫野・衣笠・花園・東寺・西寺などで盛んに行われているが、その地のほとんどは平安京の領域をわずかに外れた所に当たっている。祗園・八坂の地もその主要な祭場の一つであり、そこで営まれた祗園御霊会から展開した展開したのが祗園祭にほかならない。
  社伝によれば祗園祭(正しくは祗園御霊会)の創始は貞観11年(869年)のこととされる。すなわち、この年の悪疫流行に際し、日本六十六カ国の国数に準じ六十六本の鉾をつくって牛頭天王(ごずてんのう)を祀り、これを神泉苑に送ったことに始ったという。この伝承はそのまま信じる訳にいかないが、御霊を鉾に依らせて神泉苑に送るという方式は、祗園社の創始を貞観18年(876年)とする伝承と共に注目される。
  祗園祭の創始については未だ定説をみない。史料にそれが登場するのはそれから一世紀も後のことであり、「二十二社註式」は天禄元年(970年)といい、鎌倉末期に編まれた「社家条々記録」は天延2年(974年)に始まるとする。ここでも二説ありいずれとも決め難いが、疫病流行に応じて推移した祗園御霊会が、この時期に恒例の祗園祭として成立したことを意味するものと考えられる。祗園社は天延2年天台別院となり、翌年には祗園臨時祭が始めて行われていることから、その時期に大きな画期を迎えていたのであろう。祗園祭の成立もそうした動きの一環であると推測される。



祭りの種類

  伊勢神宮や出雲大社、鹿島神宮や宇佐神宮などに参拝してみるとわかるが、こうした神社では毎日何らかの祭りが行われており、その中心になっているのが日々の祭り「日供祭(にっくさい)」である。しかし、神職が常駐していない神社ではそういう光景が見られないため、人々は1年に1回とか数回行われる祭祀を「祭り」と思っている。
  神社の祭祀には大きく分けると3つの「祭式」があり、この祭式という言葉自体は「延喜式」の「四時祭式」にも見られるが、明治時代に入ってからの用語である。明治8年(1875年)に式部寮(しきぶりょう)が編纂した「神社祭式」が定められ、その後、内務省が祭祀・祭式に関する規定の整備を進め、明治末期から大正にかけて祭りの施行細則としての祭式が成立した。しかし、昭和20年(1945年)8月15日の終戦にともない、いわゆる「国家神道」体制が崩壊しそれまでの祭式も無効になった。そこで、神社の包括団体として神社本庁が設立され、それ以前の伝統を継承しながら昭和23年に「神社祭式」・「同行事作法」、昭和27年に「祭祀規定」が策定され、昭和46年に現在の「神社祭祀規定」が作られた。

神社の祭祀(神社祭祀規定)
祭式名称解説
大祭たいさい例祭れいさい笛や太鼓が響き、境内には露店も立ついわゆる神社の「お祭り」と呼ばれているもので、神社の大祭の中でもっとも重要な祭祀で「例大祭」・「大祭り」・「御祭り」とも言う。祭神ゆかりの日や鎮座に関係する日を定めて年に1回行うのが通例である。
祈年祭きねんさい正しくは「トシゴヒノマツリ」と言い、「トシ」は穀物を意味する古語で、穀物の豊穣を祈る祭りであった。「延喜式」によれば旧暦の2月4日であったが、現在は2月27日に執り行うことが多く「春祭り」と称している神社もあり、五穀豊穣の他、人々の生業の発展・安全を祈念する祭りにもなっている。
新嘗祭にいなめさい音読みで「シンジョウサイ」、訓読みで正しくは「ニヒナノマツリ」と言い、収穫感謝祭にあたることから「秋祭り」とも呼ばれる。古くは11月の下卯日だったが、現在は11月23日に行われ勤労感謝の日となっている。
遷座祭せんざさい伊勢神宮の「遷宮祭」に該当する祭りで、一般の神社が新しく社殿を造営した際に神殿に御神体(御霊代)を還す祭り。
中祭ちゅうさい歳旦祭さいたんさい「元旦祭」とも言い、元日の朝に行われ、新年を寿ことほぎ、皇室の弥栄いやさかとあわせて氏子・崇敬者の安全と繁栄を祈る祭り。
元始祭皇位の原始を寿ぐ祭りとして明治3年1月3日(旧暦)に神祇官八神殿に八神・天神地祇・歴代の皇霊を鎮座したのが始まりである。明治6年に宮中三殿きゅうちゅうさんでん(賢所かしこどころ皇霊殿こうれいでんでん神殿しんでん)における天皇の親祭となり、昭和2年には祝祭日となった。現在は1月3日に物事の始めの祭典として行われている。
紀元祭戦前までは紀元節(2月11日)としてしられていた現在の「建国記念の日」の祭り
小祭?しょうさい大祓大祓おおはらい式」・「大祓神事」とも言い、6月(水無月みなづき)と12月(師走しわす)の晦日に、半年間に蓄積した人々の罪・けがれを祓う、本来は古代の国家的行事だった。
月次祭つきなみのまつり「月並祭」と書くこともあり、本来は毎月行われる祭りだったと考えられる。現に神職が常駐している神社は毎月朔日ついたちや15日に執り行われている。古くは天皇が夜に神饌を備え、神々と共食したらしい。
日供祭にっくさい日ごとに神饌(神に供える飲食物)を供する祭りで、「お日供」・「日拝」とも言う。本来は朝夕の2度、すなわち「朝御饌あさみけ」と「夕御饌」を供え奉り、小規模の祭りを行った。神社によっては朝拝のとき献饌し、夕拝のとき鉄饌する方式をとっているところもある。


神事

●斎戒と禊祓い

●祝詞奏上
  神を称え、感謝し、祈願するために、神職によって奏上される言葉を「祝詞(のりと)」という。『古事記』には天石屋の天照大御神に対する祭りにおいて、天児屋命(あめのこやねのみこと)が「布刀詔戸言(ふとのりとごと)」を述べたことが記されている。
  祝詞の「ノリ」は上から下へ宣(の)り聞かせるという意味で、本来は神の言葉を祭りの場にいる人々に聞かせるためのものだともいわれる。しかしながら、『延喜式』に収められた二十七の祝詞のうち、このような宣下体(せんげたい)の文体による祝詞が9篇、神に申し上げる奏上体が17篇で(残りの1篇は漢文体の祓詞)、すでに両者は共に祝詞とよばれ区別されていない。現在の祝詞はすべてほぼ奏上体で書かれており、神の名およびその徳を称え、また感謝し、祭りの由来を述べ、神饌や神酒の献上を報告し、諸々の願いを祈り、それらみなを神に受け入れてもらえるように願うのである。
  一般の神社で毎年同じように行われる祈年祭・新嘗祭・大祓などの恒例祭では『延喜式』の祝詞をもとにした祝詞が用いられ、その他の地鎮祭や諸祈願祭などの臨時祭では各神職が作成した祝詞が用いられる。近世までは漢語や仏教語の交じったものもあったが、明治以降は『延喜式』祝詞を手本にした大和(やまと)言葉による祝詞を一般的とする。
  祝詞を奏上することの背景には「言霊(ことだま)思想」があり、言葉は霊力を持ち、声に出した「言」は現実の「事」になると考えられてきた。神の名を唱えれば神は現れ、祝詞の文中で神を称える箇所にその神にまつわる神話を語れば、言霊の力によって神代の聖なる時空が現出するのである。したがって、祝詞は単に神へと語りかける言葉ではなく、神の威力を発揮させるための呪言(じゅごん)だといえる。

●献饌
  祭りの語源とされるもののひとつが供物を「奉る」ことだといわれるように、祭りにおける神饌の供進(きょうしん)すなわち神に食物を捧げるのは重要な儀礼である。捧げられる神饌は基本的に、和稲(にぎしね)・荒稲(あらしね)・酒・餅・海魚・川魚・野鳥・水鳥・海菜・野菜・菓子・果物・塩・水であり、神社によっては特有の神饌が用意される。なお、神饌には調理していない「生饌(せいせん)」と調理した「熟饌(じゅくせん)」の別があり、現在の一般的な神社祭式では生饌、伝統的な特殊神饌には熟饌が多い。

●直会
  神事が終わった後に神饌を下げ、参加者たちがいただくことを「直会(なおらい)」という。これは単なる宴会の席ではなく、神事の一環と考えるべきである。なぜならば直会は神人共食の儀式であり、神前にて神の力が満ちた食物を人が食すという神人交流の儀式だからである。ほかにも、神事の過ちを正すための儀式が本来だったという説もある。


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参考文献
タイトル著者/編集出版/発行出版年
神奈川の民俗相模民俗学会(株)有隣堂1969(昭和44)
祭礼行事・神奈川高橋秀雄・須藤功(株)桜楓社1991(平3)
祇園祭植木行宣・中田昭(株)保育社1996(平8)
日本の祭り 知れば知るほど菅田正昭(株)実業之日本社2007(平19)

  ※上記の文献は他のページでも引用していることがあります。