はやし

神社の紹介

  「林神社」の創建年代は不詳だが、景行天皇25年(95年)7月に武内宿弥(たけのうちのすくね)は関東奥羽の平定に向かい、その途中の相模の東林山の地に大山祇命を祀り、東国鎮護を祈願したのが林神社のはじめと伝えられる。鎌倉時代には北条時頼が分霊して、現在の福伝寺のある台地に別当「善福寺」を開いた。なお、現在の福伝寺は江戸時代初期の創建である。
  当社の旧称は「三社明神」といい、天保12年(1841年)完成の『新編相模国風土記稿』によると「三所大明神社」を「鹿島(建御雷神)」・「三島(伊豆系三島で事代主神)」・「住吉(底筒男・中筒男・表筒男命)」を合祀した村の鎮守とし、末社に「稲荷」・「疱瘡神」があると記載している。また、社地を東林山と号し、松杉繁茂し老楠樹一株(囲一丈八尺)を神木とした。この大楠は明治20年(1887年)に伐採されたので、その記念として幼木2本が植えられた。林村の神社と小祠には境内に天神社がある福伝寺持ちの「稲荷社(王子稲荷)」、末社に熊野社がある「王子権現社」、「天神社(村持)」、「庚申社(村持)」、「石神社(村持)」の名が記載祭れている。
  棟札を写したものに、相州森庄林之郷井上の苗裔長野市之蒸在原業秀敬白天正3年(1575年)乙亥二月吉日とあることから、この年を以って再建したようであると伝えられている。三柱大明神と共に伊雑宮大神、玉柱姫命も合祀しており、御神体は石と鏡である。天正19年(1591年)11月には社領1石5斗の御朱印を賜り、以後は元和・寛永・寛文・貞享・延享・宝暦・天明・天保・安政・万延年間に賜っている。『愛甲郡制誌』によると明治6年(1873年)7月に村社に列せられた。
  境内には「蚕影社」・「疱瘡社」・「御嶽社」・「稲荷社」の石祠があり、天保5年(1834年)建立の道了大権現の石碑もある。。

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林神社社号柱
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鳥居参道
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狛犬狛犬
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神楽殿石段
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手水舎
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燈籠燈籠
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拝殿覆殿
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神社由緒石祠
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境内

林太鼓

  「林太鼓」は林地区の「林太鼓保存会」により伝承されており、明治中期に相模原方面から伝えられて盛んになったといわれる。昭和30年(1955年)前後の青年団の解散とともに約30年間ほど途絶えてしまったが、後年に復活した。
  囃子は「大太鼓1」・「締太鼓3」で構成され、「鎌倉」・「ばかばやし」・「一六ばやし」がある。現在は子供会を中心とした小学生により組織されているが、昔は大人が叩き夜笛も吹いた。林神社祭礼や王子神社祭礼で演奏され、林神社祭礼では地区内を巡行して演奏される。



神輿

  午後に子供会を中心とした小学生や中学生の神輿が地域内を練り歩く。昔は青年団が担ぎ子鮎川に神輿を入れた。



例大祭

  『風土記稿』によると例祭日は9月29日であった。その後は10月5日であったが、現在は10月の第1土曜日に実施する。戦前には小学生が半日で帰宅し、社殿前でお祭りの歌を歌った。
  現在では前日舞台かけと幟立て、社殿清掃の三班に別れて活動する。幟は明治21年に作成したもので、現在のものは平成2年(1990年)に新調したものである。また神門を神社下段と上段に建てる。神輿の準備も行う。昔はカサボコを作り、提灯を取り付けて参道の両側に立てた。
  当日の午前に神殿で神主による祝詞奏上、氏子総代と役員により玉串奉奠が行われる。舞台では林座による相模人業芝居(国指定重要無形民俗文化財)や大衆芸能が行われる。昔はゲンゴロウ一座、市川柿之助による歌舞伎や神楽が行われた。
  露店は参道の両側に並び、昔は綿菓子やお面などを売っていたが、現在は綿菓子・焼き鳥などの飲食、おもちゃ・金魚すくい・ヨーヨー釣りなどが出る。



林の歴史

  旧林村は厚木市域の中央部に位置し、村域は尼寺原台地東縁部とその東の沖積平野にある。概して平坦な土地で占められているが、台地は高位と低位の2面の段丘面がある。ほぼ中央に段丘崖が縦断し、沖積地より僅かに高い低位の段丘面がある。村域の北境・東境を小鮎川が流れ、ほぼ中央に荻野道が通っている。集落東側の沖積平野は水田で、台地上は広く畑であった。また、福伝寺周辺など一部に山(林)があった。周辺は、東側は小鮎川を隔てて「妻田村」、南側は「戸室村」、西側は「飯山村」、北側は小鮎川を隔てて「及川村」に接している。
  永禄2年(1559年)の『所領役帳』には「中郡林之郷」と記載され、『風土記稿』では村名の由来について「古松林多かりし土地なれば村名とす」と記している。旧集落は低位の段丘面にあり、荻野道沿いに「カミ」・「ナカ」・「シモ」集落が、やや離れた上の段丘面には「サンヤ」という小集落があった。『風土記稿』では小名として「北村」・「三谷村」・「下横町」・「台村」・「細合」を載せており、北村・台村はカミ、細合はナカ、下横町はシモにあたる。三谷は住宅地の造成に伴って移転した。なお、「王子村」と集落を思わせる記載のある石造物があり、王子は西側台地上にあった小字名である。近世の支配は幕府・旗本領等の4給で、幕末の戸数は83戸(『風土記稿』)、明治初期の戸数は70戸(『皇国地誌』)であった。
  明治22年(1889年)の町村制施行に伴い、「下川入村」・「棚沢村」・「妻田村」・「三田村」・「及川村」と「三田村外五ヵ村組合」を組織した。昭和21年(1946年)にこれら5村と合併して睦合村大字林となり、昭和30年(1955年)の合併後には厚木市大字林となる。昭和37年(1962年)に尼寺原台地東南部で尼寺原工業団地の造成が行われ、林村分南西の台地上にはこれに隣接した緑ヶ丘住宅団地が造成されて「緑ヶ丘」の住居表示が実施された。北西の台地上でも大規模住宅地の造成が行われ「王子」の住居表示が実施、また、沖積平野の水田地帯では土地区画整理事業が実施されている。近年、台地上は住宅地、県立高校が建設されて耕地はほとんどなくなってきており、水田地帯も区画整理事業が実施されている。


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