東神奈川
熊野神社
「熊野神社」の敷地は500坪(1,650㎡)で、主祭神として「国常立尊」「伊邪那岐尊」「伊邪那美尊」の三神を、配祀神として「天照皇大神」「素戔嗚尊」「大己貴命」「少名彦名命」を、合祀神として「建御名方命」「五十猛命」「大物主命」「倉稲魂命」「速玉之男命」「船玉神」を祀る。創建は寛治元年(1087年)6月1日に醍醐三宝院宮勝覚僧正が、紀伊国(和歌山県)牟婁(むろ)郡熊野権現の神霊を分祀し、神奈川権現山(現幸ケ谷山上)に社祠を創建、神奈川郷の総鎮守として「熊野三社大権現」と号した。応永5年(1398年)正月に山賊に社祠を焼かれ、僅かな一小草祠の中に奉祠していたが、明応3年(1494年)6月に上杉入道芳建の被官、上田蔵人入道が再建して旧観に服した。永正7年(1510年)6月11日の権現山戦火に罹って焼失したが、天正5年(1577年)6月に金蔵院の別当恵賢僧都が郷民と謀って再興した。
慶長4年(1599年)2月10日に徳川家康は別当の金蔵院にあてて、小机領神奈川郷の内に於いて、朱印地十石を寄進した。正徳2年(1712年)6月に山上が逐次崩壊したことから金蔵院の境内に遷宮し、旧地には小祠を安置してこれを本宮としたと伝えられるが、明治元年(1868年)1月1日にこの本宮も山上から金蔵院に遷した。江戸時代後期の文政11年(1828年)完成の『新編武蔵風土記稿』の、「巻之七十」、「橘樹郡之十三」、「十番町」には「熊野三社」とあり、本殿は一間×九尺、拝殿は二間半×四間で、いずれも南東を向いていた。古くは青木町の中ほど、北東の丘の方にあったが、いつの頃か金蔵院に移されたとある。
明治元年(1868年)1月7日に神奈川宿の大火で類焼し、社殿・宝物、文書類の悉くが焼失した。その後は仮殿に奉祀し、神仏混淆の禁止により別当金蔵院と分離した。明治6年(1873年)10月30日に村社に、明治17年(1884年)4月4日に郷社に列せられた。明治24年(1891年)に社殿を再興し、明治32年(1899年)8月に玉垣および敷石を新設、明治34年(1901年)に神輿と神輿庫を造立、明治39年(1906年)に神楽殿・注連柱・石燈籠を建設し、ここに諸般の設備を完了した。明治40年(1907年)4月30日に神饌幣帛料供進社に指定され、同年12月24日に猟師町の産土神であった村社諏訪神社と同末社の船宝社、慶運寺境内にあった飯田町の無格社熊野神社(熊野三社大権現)、斉藤分にあった無格社の杉山神社、飯田町にあった無格社の熊野大神、小傅馬町(元吉祥寺境内)にあった無格社の稲荷神社と同末社の琴平社を合祀した。
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| 熊野社と金蔵院(金川砂子) | 熊野社と金蔵院(写し) |
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| 熊野社(金川砂子) | S39社殿再建竣工奉告祭 |
明治の初めに神仏混淆禁止の令により別当金蔵院から独立して依頼、隆昌を極めたが、昭和20年(1945年)5月29日の戦災により焼失した。終戦後は駐留軍に境内地を接収され、やむをえず西神奈川一丁目(二ツ谷共有地)の稲荷神社の境内に遷座し、仮殿にて奉祀した。昭和35年(1960年)に接収が解除されると元の社地に戻ることとなり、昭和38年(1963年)8月に現在の社殿が完成し、玉垣と社務所を整備、翌昭和39年(1964年)8月に竣工奉祝祭を執行、昭和49年(1974年)8月に舞殿と氏子会館の増改築工事を竣工した。
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| 熊野神社 | 鳥居 |
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| 社号柱(熊野神社) | 灯籠 |
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| おみくじ掛け | 神奈川一番組之碑 |
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| 手水舎 | 石碑 |
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| 拝殿 | 門燈台 |
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| 燈籠 | 燈籠 |
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| 弊殿・覆殿(本殿) | 神奈川 熊野神社由緒 |
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| 境内社殿 | 合祀社は5社 |
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| 社務所・氏子会館 | 舞殿 |
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| 戦没者慰霊碑 | 石造物 |
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| 掲示板 | 絵馬掛け |
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| 祠 | 境内 |
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| 北門 | 西門 |
狛犬
熊野神社の狛犬は身の丈が1.6mと巨大で、境内では際立った存在感を出している。この狛犬は鶴見村の石工であった飯島吉六の作で、境内で大きな石を刻んで嘉永6年(1853年)6月に造り上げた。完成当時は石組みの上の台座正面、左(吽)側に「威凛」、右(阿)側に「英気」の文字が彫られていた。
狛犬はこれまで3度も台座から落ちていて、最初は安政2年(1855年)10月2日の安政大地震で、このときは片方の狛犬が台座から落下した。機械も動力もない時代に、多くの人の手により元に戻した。2回目は大正12年(年)9月の関東大震災で、この時は地面が崩れてもう片方の狛犬が落下した。昭和20年(1945年)5月29日の横浜大空襲により、熊野神社一帯は火の海と化し、焼け残ったのはこの狛犬だけであった。8月15日に日本が敗戦するとアメリカの進駐軍の接収が始まり、9月の暑い日に米兵が突然、熊野神社の鳥居前へブルドーザーで乗り着け、狛犬を京浜急行の路線まで運び、土手に埋めてしまった。これが3回目である。
狛犬の耳だけが僅かに土の中から出ていたことから、氏子の人たちがここを通るたびに手を合わせて拝んでいた。この姿を見た建材店経営の岸野清太郎氏や、鳶職の笹部林蔵氏と鳶の頭たちが土に埋められた狛犬を掘り起こし、二ツ谷町の稲荷神社の境内に建てられた熊野神社の仮社殿前据えた。接収解除後の昭和38年(1963年)にこの狛犬は元の社地へ戻ったが、損傷が激しかったため、左官の根門己之助氏により修復された。
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| 狛犬(吽) | 狛犬(阿) |
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| 嘉永6年鶴見村飯島吉六作 | H21年に飯田町町会で修復 |
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| S11年以前の境内(焼失前) | S28年の境内・仮宮(二ツ谷町) |
囃子
二ツ谷町会は明治44年(1911年)に作られた山車を所有しており、戦時中は山車を郊外へ疎開させて戦災を逃れた。山車の高さは5mほどで、昔は牛に曳かせていた。その後、地元の鉄工所が車輪にベアリングを入れ、車輪の回転を改良したという。山車は2日間に分けて二ツ谷町内を巡行し、普段、山車が保管されている二ツ谷稲荷神社の前では、地元の囃子団体の「二ツ谷囃子松建睦」による舞が披露される。
『金川砂子』の「熊野社 夜宮祭礼」図には江戸時代後期の熊野社の賑わいが描かれていて、社殿の左脇の舞台では神楽が演じられ、参道の東側に並べられた4基の山車のうち、奥側の2基で祭り囃子が演奏されている様子が描かれている。昭和11年(1934年)8月には鎮座850年祭を斎行し、二十数台の山車が町内を巡行した。
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| 「熊野神社 夜宮祭礼」図 | 4基の山車が並ぶ |
神輿
明治33年(1900年)6月23日にそれまであたった熊野神社の黒塗りの神輿は、横須賀若松に鎮座する諏訪神社へ、吹き返し4牧と風輪4個、そして舁棒(輿棒)4本などを除いた状態で寄付された。翌年の明治34年(1901年)に新しく神輿と神輿庫が造立されたが、昭和20年(1945年)5月29日の戦火により焼失し、昭和27年(1952年)8月に宮神輿を新しく奉製した。
横浜担ぎ
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| M23神輿目録(横須賀若松) | 神輿庫 |
例大祭
『新編武蔵風土記稿』に記載されている例祭日は6月15~18日までの4日間であったが、昭和7年(1932年)の時点では8月17日になっており、現在は8月17日前後の日曜日となっている。
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