本郷
本郷神社
鎮守の「本郷(ほんごう)神社」は本宿の「八幡社(八幡宮)」、根・新宿の「神明社」、下河内の「天神社」、上町の「山王社」、居合の「聖宮(ひじりのみや)」(諏訪社の可能性もある)の五社が、明治初年に合祀されて「五社宮」を名乗った。江戸時代初期の寛永20年(1643年)頃に描かれたと思われる恩馬本郷村絵図は、春日局領から堀田正俊(久太郎)への遺領相続のために幕府によって作成された。この絵図には八幡宮(本宿)、浅間宮(中谷津)、山王(上谷津)、宮(五反田?)の4社が描かれており、これらはこの時代には既に存在していたと思われる。
残存する棟札の記載から既に明治7年(1874年)には地元の人々は本郷神社と呼んでいた様で、明治25年(1892年)に拝殿と鳥居が再建された。大正5年(1916年)9月に神奈川県から「本郷神社」の名称が正式に認可され、村社となった。境内社には「菅原大神(すがわらおおかみ)」を祀る。
寺院は真言宗の本覚寺・金剛寺・延命寺と浄土宗の真光寺、日蓮宗の寿閑寺がある。現在、境内には「天満宮」が祀られている。
| 本郷神社 | 社号柱(村社本郷神社) |
| 狛犬(吽) | 狛犬(阿) |
| 鳥居 | 手水舎 |
| 神楽殿 | 燈籠 |
| 拝殿 | 幣殿・覆殿(本殿) |
| 天満宮 | 社号柱(本郷天満宮) |
| 燈籠 | 社殿 |
| 由緒 | 絵馬掛け |
| 石物 | 倉庫 |
| カゴノキ(保存樹木) | 社務所/ふれいあの家 |
| 境内 | 石階段 |
| 参道 | 祠 |
| 旧表参道(南) | 本郷自治会館 |
囃子
●本郷新宿(ほんごうしんしゅく)
本郷新宿の囃子は「新囃子系」で、明治6年(1873年)に若衆6人が茅ヶ崎柳島へ通って7日間で習得したのが起源と言われる。総欅造りの山車があり、太鼓を載せて叩きながら大綱を使って引っ張り歩いていた。昭和10年(1935年)頃までは盛んであったが戦争中に途絶え、昭和45年(1970年)頃に復活した。
楽曲の構成は@屋台ばやし(地(ぢ)・玉(たま)・乱拍子(らんびょうし)・刻み(きざみ)・切り(きり))、A鎌倉(四調面)、B掌典(しょうでん)、C神田毬(かんだまり)、D宮掌典(みやしょうでん)、E馬鹿囃子(ばかっぱやし)。伝承する団体は「本郷新宿はやし連」で、市民まつりのほか、本郷神社の例大祭や地域行事などで演奏を披露している。練習は年間20日行っている。
●本郷下河内(ほんごうしもごうち)
下河内の囃子は「新囃子系」で、戦前の昭和時代に始まったとされ、茅ヶ崎から新宿へ、さらに下河内に伝わったと言われている。戦前は青年団を中心に活動していたが、戦時中の中断を経て昭和51年(1976年)に町内盆踊りで復活して現在に至る。楽曲の構成は屋台囃子(玉が適宜入り、キザミあり)、宮昇殿、昇殿、神田丸(カンダマリ)、(唐楽)鎌倉(切る)、仕丁目/四丁目(玉が入る)、印場(いんば)/馬鹿踊。伝承する団体は「本郷下河内はやし連」で、本郷神社の例大祭のほか町内の盆踊り、自治会夏祭り、地元企業の夏祭り、市民まつりなどで活動敷いている。練習は週1回行っている。
●本郷上町(ほんごうかみちょう)
上町の囃子は「新囃子系」で、大正時代末から戦前にかけて行われ、茅ケ崎から伝わったという言い伝えがある。当時、青年団6名により町内会で始まったと伝えられ、戦争中の中断を経て、昭和57年(1982年)に復活し、保存会設立とともに現在に至る。伝承する団体は「本郷上町はやし保存会」で、設立当初は村内の新宿より指導を受けて現在に至ったと言われる。本郷神社の例大祭のほか、自治会の夏まつり、不動講祭、地域の企業の祭り、市民まつりなどで演奏する。練習は週1回行っている。
演奏する曲目は祭りばやしとして「鎌倉」「仕丁目(しちょうめ)」「宮昇殿」「神田丸」で、この他に「ばかばやし」がある。
神輿
| 神輿殿 |
祭礼の歴史
例祭日は4月4日に近い日曜日である。
本郷の歴史
本郷は海老名市の南東部に位置し、東は吉岡(綾瀬市)、用田(藤沢市)に接し、南は宮原(藤沢市)、倉見(寒川町)である。西は門沢橋・中野・中河内につらなり、北は上河内・杉久保に接する。『風土記稿』によれば「江戸より十三里」、南西も南北も「共に十五町程」と記される。地域の東側は台地であり、その間を釜坂川の小谷が南北に刻まれている。西側段丘崖の下に沖積低地が広がって水田地帯となっている。やや南寄りを柏尾通り大山道が東西に通り、東北寄りを厚木道が斜めに通る。
本郷は恩馬郷四村の本村の意であり、『風土記稿』に「政保国図に恩間本郷と記し、元禄の改に本郷村と載せ、古は恩間村と傍記す。杉窪、上・中河内の三村は皆当村より分折せし地なり」と記されている。村内の小名下河内は上河内・中河内が独立後も村内に残ったとある。表記の上では単に本郷村と称することが多かったが、恩馬本郷村や恩馬村の名称も江戸時代を通じて用いられた。
中世恩馬郷と呼ばれ、ここを領有して恩馬氏を称する武士がいたが詳細は不明である。戦国時代の『所領役帳』には「松田左馬助 廿五貫三百文 東郡恩馬」と載る。天正18年(1590年)の豊臣秀吉禁制に「東郡おんま郷四ヶ村」と記されている。江戸時代に入ってはじめは幕府直轄領、後に分割されて旗本半井氏領となって幕末に至る。17世紀半ばの『政保国図』には「恩間本郷」と記され、18世紀はじめの『元禄郷帳』には「古は恩間村 本郷村」、『高座郡役高帳』に「神尾庄左衛門知行一八九石五斗余・半井驢庵知行 九九〇石八斗余」と載る。『風土記稿』には民戸百九〇で、『天保郷帳』には「本郷村 一二六五石六斗余」と記載されている。明治元年の『旧高旧領取調帳』には「本郷村 神尾稲三郎知行所 一八九石五斗余 半井大膳知行所 一〇七六石一斗余」と載せられる。
『風土記稿』には字上星谷に寛永期の幕府典薬頭半井驢庵の屋敷跡があったと記されているが、この地は慶安年中には新墾されて畑地になったという。その邸内にあったとされるハルニレの大木は俗に「ナンジャモンジャ」と呼ばれて、県の天然記念物に指定されている。
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