今里
正八幡宮
「正八幡宮(しょうはちまんぐう)」の鎮座地は今里字萩里で、祭神は八幡神(はちまんしん)である。『鷹倉社寺考』によれば俚人の言い伝えで天正9年9月に小田原北条氏の家臣だった地頭の高田佐衛門尉氏秀が当社を勧進したとある。また、寛文の頃(1661〜1673年)に地頭(旗本)の町野壱岐守幸宣が当社殿を造建したとある。
当社には延宝9年(1681年)7月に山本六之丞吉家が相州高座郡澁谷庄今里村正八幡宮に奉納した御幣(金色の紙を幣串(へいぐし)に挟んだもの)が宝物として遺されている。この御幣の表面には「奉献上御幣相州高座郡渋谷庄今里村正八幡宮宝前 山本六之丞吉家敬白」、裏面には「千時 延宝九年辛酉年七月」との書き込みがある。由緒によれば渋谷庄の長であった山本六之丞吉家氏の守護神であったが、延宝9年に相州高座郡の今里村の総鎮守になったとしている。緻密な彫刻で装飾された本殿内には、祭神である八幡神の本地仏とされる阿弥陀如来像が鎮座している。神木は周囲約3mの松で、かつては遠く座間方面からも望見でき、方角を知る目印とされたといわれていたが、枯失により現存していない。また、境内には阿弥陀堂があり、八幡神の本地阿弥陀仏が安置されていた。
村内に鎮守八幡社があり、寺院は臨済宗円覚寺派の東林寺がある。同寺は慶安2年(1649年)に朱印地七石二斗余を賜っている。
境内に「稲荷社」を祀る。
| 正八幡宮 | |
| 鐘楼 | 物置 |
| 拝殿 | 幣殿・覆殿(本殿) |
| 神楽殿 | |
| 石造物 | 石造物 |
| 倉庫 | 倉庫 |
| 遊具 | 境内 |
囃子
太鼓を修理する際に、胴内に明治42年(1909年)の墨書がある。囃子の系等は「新囃子系」で、昭和50年(1975年)代に3名程度の指導者が夜間に練習を行って習得して子供たちに伝えた。伝承している団体は「今里はやし保存会」で、毎週土曜日に練習している。曲目は屋台ばやし(かわちがえ・玉(1・2・3))、昇殿、鎌倉がある。
平成初年頃の活動の場としては、@氏神様での初タタキ、A市の囃子協議会でのタタキ初め、B氏神の祭礼、Cえびなふるさとまつり、D盆踊り、E愛郷祭(南部地区商工会による)、F市の文化祭(大体隔年)、G社家・今里地区市民レクレーションのアトラクションに参加した。
現在は正八幡宮の新春叩き初めや4月の例大祭、8月の今里盆踊りふれあいまつり、社家小学校のふれあい教室、市民まつりに参加している。
神輿
祭礼の歴史
例祭日は4月20日。
今里の歴史
今里は海老名市の中部に位置し、東は杉久保、南は上河内、西は社家・中新田、北は中新田と大谷に接する。全域が相模川の沖積地にあり、平坦な水田地帯である。『風土記稿』によれば村域は「東西四町余・南北八町」とある。今里の「今」は「新」と同じ意で、今里は開拓によって新しくできた集落を意味する。「今」の用例としては四国の今治市(愛媛県)を挙げることができ、「治」は開墾地を意味するので、今里と同様に新しく開発された土地ということである。永禄2年(1559年)の『所領役帳』に「東郡今里」とあらわれるので、戦国時代には既に使われている地名だとわかる。
周辺の村々のように古い郷名の中に今里の地名は見いだせず、有鹿郷にも海老名郷内にもその名は見えないことから、ある時は大谷に、またある時期には杉久保に所属していたものと思われる。戦国時代になると『所領役帳』に「高田左衛門 十貫文 東郡今里」と出てくる。江戸時代に入って最初は天領であったが、寛文6年(1666年)に旗本町野氏に与えられてその知行所となり、宝永2年(1705年)以降は旗本鈴木氏知行所となって幕末に至る。『風土記稿』によれば家数四一軒、『天保郷帳』によれば村高は二六〇石二斗余と記される。
義民鈴木三太夫
それは貞享元年(1684年)のことであった。大谷村の名主鈴木三太夫は農民の苦境を救おうと幕府に強訴の企を起こした罪に問われ、親子ともども今里の代官の手によってここで処刑された。その時、菩提寺の僧が三人の助命歎願のため馬を飛ばして駆けつけたが、間一髪間に合わず、既に刑場の露と消えた後であったという。昭和39年(1964年)4月1日に海老名市はここに「義民鈴木三太夫所(ママ)処刑阯」という標柱を立てた。
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