勝瀬
八坂神社
「八坂神社」は相模川ダム建設に伴って産土(うぶすな)の地である日連村勝瀬から移築された。本殿は平成10年(年)8月28日に海老名市の重要文化財に指定され、切石積基壇上に建つ間口三尺、奥行き四尺九寸の小規模な一間社流造り柿葺きの屋根で、屋根の正面に千鳥破風、向拝に軒唐破風をつけて正面を飾る、総ヒノキの木地仕上げの建物である。寺も故地から遷し曹洞宗鳳勝寺がある。
建築年代については細部意匠から江戸時代末期、19世紀中期の建物と推定される。当神社は幕末期の特色をよく示し、本格的な建築手法を用いた建物であるだけでなく、住民の精神文化を伝える遺構としても貴重である。
| 八坂神社 | 鳥居 |
祭礼の歴史
例祭日は8月22日に近い日曜日。
囃子
年代は未詳だが江戸時代の目黒囃子の系統と言われ、藤野町のものと同じだという。ゆったりとしたテンポで各種の踊りが独特のものである。笛の担当者の不在のためしばらく中断していたが、平成4年に活動を再開した。
神輿
勝瀬の歴史
勝瀬(かつせ)は海老名市の中北部に位置し、国分の南、大谷の北に当たり、両社の境の位置である。飛地の勝瀬小宝は国分・大谷・中新田・河原口の境に位置し、この飛地の子宝地区は平坦な水田地帯であるが、本村勝瀬の方は東側が台地にかかり、西側は段丘崖下の平坦地である。
勝瀬の元地は津久井郡日連(ヒヅレ)村勝瀬(現藤野町)で、相模川南岸の溪谷に臨む地であった。昭和13年(1938年)に神奈川県の相模川河水統制事業がはじまると、相模湖(相模ダム)建設により流域内低地の諸集落が湖底に水沈することになった。勝瀬集落64戸のうち20余戸は八王子その他へ移住したが、残りの約30戸が県のあっせんにより当地へ集団移住することになった。当時、この地は桑畑が一面にひろがる所で人家はない地であったが、移住のための造成が進められて昭和17年(1942年)に移住が始まり、昭和19年(1944年)の春に完了した。国分の字南原の一部の地と大谷の字市場の一部を併せた土地であったが、旧知の名を忘れ難い人々が母郷の名をそのまま取って集落名を勝瀬と命名したものである。
昭和19年に稲作のための水田地帯を県があっせんし、国分の「外堀」地区を飛び地として持つこととなり、旧村勝瀬集落の背後にあった山名宝ヶ峰とを合成して「外宝(トダカラ)」と命名した。昭和30年(1955年)の町村合併促進法施行により、海老名町と有馬村が合併して海老名町が成立したが、勝瀬は国分・大谷から離れて一つの行政自治区として独立し、飛地の外宝もその中に編入されて「小宝」と改められて現在に至っている。飛地の小宝では左岸幹線用水路に沿って市道が開通し、市役所の庁舎も建設された。
勝瀬の名の由来についてはいりいろ説があり、一つは相模川の瀬が勇ましく流れる瀬であるので「カツ瀬」。二つはその川瀬がひときわ美しい景勝をつくり出したので、景勝の地ということでの「勝瀬」。三つは隣村との境界争いで勝ち取った瀬ということでの「勝瀬」で、これは北岸の相模湖与瀬との相論で、この結果により日蓮が勝をおさめて川瀬の大部分を取り込むことが出来たという。相手側には残りの僅かな瀬を与えたので、そこを与瀬と呼ぶようになったという話がおまけにつく。
「カツセ」は自然地名ではないかという説もある。ヌルデの木のことを俗にカツノキとかカツキと呼び、溪谷の川瀬に面する斜面にカツノキの多い所ということでの「カツセ」という解釈が単純明解でわかりやすい。一方、低湿地を呼ぶ地名語に「カツ」とか「カツミ」という語があるので、「谷間の低湿な川瀬」ということかもしれない。
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