国分こくぶ上今泉かみいまいずみ柏ケ谷かしわがや望地もうち

弥生神社

 「弥生(やよい)神社」の鎮座地は国分字大松原で、明治42年(1909年)に尋常高等海老名小学校を創設する際に創建された。海老名村では旧四村合同の事業として、国分村の「八幡社(国分八幡宮)」(祭神:誉田別命)、上今泉村の「比良(ひら)神社」(祭神:猿田彦命)、柏ケ谷村の「第六天社(第六天之宮)」(祭神:高産霊命/たかみむすびのみこと)、望地の「大綱神社(大綱社)」(祭神:日本武尊/やまとたけるのみこと)の4社を合併し、3月弥生の季節でもあったことからこれに因み、4地区合意のもと「弥生神社」と称した。現在は境内社として「蚕影神社」が祀られている。
 上記の様に弥生神社は4社が合祀された神社であるが、望地の大綱神社以外の3社はさらに遡ると、明治6年に3地区それぞれで複数の神社を合祀されたものである。国分村の八幡社は同村内の「日月神社」・「第六天社」・「熊野社」・「伊勢山大神宮」の4社を合祀、上今泉村の比良神社は同村内の「日月明神社」と「天王社」の2社を合祀、柏ケ谷村の第六天社は同村内で井出頭の「山王社」と下柏ケ谷の「山王社」の2社を合祀したものである。
 国分村で合祀された神社は国分八幡宮と云われ、一度「国分神社」と改名したが、再び旧の八幡宮というようになった。明治42年(1909年)の合祀後、八幡社跡は直ちに尋常高等海老名小学校の敷地となり、海老名村への548坪の貸地代は弥生神社最大の収入源となったという。なお、旧八幡宮跡の一隅には層塔1基の残礎(6m四方)があったが、翌明治43年(1910年)になって海老名小学校新築記念として、この残礎をそのまま58mほど南方に移動し、その場所は即ち玄関前で、そこに配列して池を造り、その礎石が飛び石の役目になってすばらしかったという。

弥生神社鳥居
狛犬(吽)狛犬(阿)
御即位記念石階敷石新設石碑
石像石碑
天皇陛下御在位六十年記念碑燈籠
石階段燈籠
神楽殿社務所
手水舎石階段
拝殿幣殿・本殿
蚕影神社
石碑・社殿水鉢
絵馬掛けおみくじ掛け
石碑駐車場

 弥生神社は眺望のよい場所に祀られているが、大正初期には殆ど付近に人家はなく、裏は山、前は広い原で、普段は昼間でも寂しい場所であったため、お参りする人は殆どいなかったという。正月の三が日と4月10日の祭り日は賑やかで人の出も多かったが、これ以外は七五三の祝いをする時にちらほらお参りをする人があるくらいであった。
 下の方の石段を登ると広場があり、左手に神楽殿があって、祭りの日にの余興はここで行われたが、氏子の範囲が広くなり、年に一度の祭りとあって広場は見物客で人だかりになった。上の方の石段は急で段数も多く、上り詰めた直ぐ正面に拝殿がある。石段なしに右廻りの坂道もあったが、急なために滑ってかえって危険であった。この社殿の直ぐ裏は清水寺の境内になっている。


相模国分寺

 「国分寺」は天平13年(741年)に聖武天皇の詔によって各国に造られ、正式名称は「金光明四天王護国之寺(こんこうみょうしてんのうごこくのてら)」で、奈良の東大寺が総国分寺とされた。国分寺は適地を選んで建てることとされ、相模国では現在の海老名市が選ばれた。国分寺は相模川の東岸の台地上に位置し、西側に沖積低地、東側に丘陵がひかえている。国分寺は国府のそばに置かれることが多いが、相模国府は8世紀後半には現在の平塚市に置かれ、相模国分寺は当初から国府とは離れた地に建てられた可能性もある。これは関東地方の寺院建築に関わったとされる有力氏族の壬生(みぶ)氏が、高座(たかくら)郡(げんざいの海老名市の辺り)周辺を拠点としていたためとの見方がある。
 国分寺は発掘調査によって発見された瓦などから、竪穴式住居が廃虚となり埋没した後に建てられたと考えられ、建設時期は8世紀中頃から後半とみられる。伽藍(がらん)配置は中央から講堂に向かって西に塔、東に金堂を配置し、周囲を回廊・築地(ついじ)で囲う法隆寺式をとる。主要伽藍の範囲は東西220〜240m、南北300m以上とみられ、規模は東大寺に匹敵する国内最大級だったと思われる。また、塔は七重で、高さは65mもあったと推定されている。「相模国分寺跡(さがみこくぶんじあと)」は大正10年(1921年)3月3日に国指定史跡に登録されている。


国分尼寺

 「国分尼寺(にじ)」は国分寺の北約500mに位置し、正式名称は「法華滅罪之寺(ほっけめつざいのてら)」で、奈良の法華寺がそれぞれ総国分尼寺とされた。国分尼寺の建設時期は出土した瓦などの遺物から、8世紀後半とみられる。伽藍配置は国分寺と異なり南から中門、金堂、講堂が直線上にあり、講堂に回廊が取り付く。金堂と講堂の間には石敷きの通路があり、回廊内の北東隅と北西隅には鐘楼・経藏と推定される建物跡が見つかっている。「相模国分尼寺(さがみこくぶんにじあと)」は平成9年(1997年)4月3日に国指定史跡に登録されている。


相模国分寺と国分尼寺の荒廃

 相模国分寺、尼寺ともに火災により被害を受けた記録がある。弘仁10年(819年)に相模国分寺で火災が発生し、元慶2年(879年)の地震とその後に起きた火災では国分寺の3体の仏像が焼けたとされている。これらの火災でどの建物が焼失したのかは定かではないが、発掘調査の結果から塔・築地・僧坊・回廊跡で火災の痕跡が認められている。特に塔跡の基壇上やその周辺からは、高温で変形し、原形をとどめないほど燃え尽きた瓦が多数出土しており、火災の激しさを物語っている。
 相模国分尼寺は873年に漢河寺に移された記録があり、これは何らかの理由で壊れるなどして建物が使えなくなったためと推測される。そして879年に起きた地震で漢河寺も倒壊し、元の場所に戻されている。
 焼失・倒壊により国分寺・尼寺双方ともに10世紀代には荘厳な建物は姿を消した。両遺跡周辺では10世紀代の竪穴住居跡が見つかっており、そのカマドには寺の瓦が使われている。荒廃した国分寺と尼寺から持ち出されていたことを伺わせるものである。現在の国分寺の跡地は歴史公園広場として整備が進められている。

囃子

●国分
 太鼓の胴内に文化2年(1805年)新調との墨書がある。慶應年間に中断したが、明治22年(1889年)に草柳(大和市)の師匠より伝承された。「下町囃子系」である。太平洋戦争により中断されたが、終戦後に再び行われ、昭和50年(1975年)代に「国分囃子保存会」として復活した。国分の囃子は市教育委員会の無形民俗文化財に指定されている。
 戦前はどこにも腕自慢の青年がいて、地区外の祭礼に自慢の腕を競ったというが、太平洋戦争によって中断した。戦後昭和22〜23年頃に復活したという地区もあるが、公的な場では昭和51年(1976年)の市制施行5周年を記念した大会で、国分の人たちが叩いたのが最も早いとされている。


●柏ケ谷
 柏ケ谷の囃子は大正時代から戦前に行なわれていたという言い伝えがある。昭和2年に綾瀬村寺尾から師匠を招き団員25名によって囃子連が結成されている。「下町囃子系」で楽曲の構成は岡崎(馬鹿面踊)、屋台、鎌倉、ねんねこ、四丁目(しちょうめ)、数え唄(お亀踊)。「柏ケ谷はやし保存会」、柏ケ谷の囃子は市教育委員会の無形民俗文化財に指定され、市内では国分と合わせて2つだけである。


●上今泉
 「下町囃子系」「上今泉はやし保存会」


神輿

 


祭礼の歴史

 例大祭は4月10日に近い日曜日


国分の歴史

 国分は海老名市の東北部に位置し、東は柏ケ谷・望地、小園・早川(綾瀬市)、西は上今泉・上郷・河原口に、南は大谷に、北は上今泉に隣接している。市の南北を走る標高が比較的高い座間丘陵上にあり、この丘陵をうがって目久尻川が南流し、柏ケ谷・望地との境をなしている。この丘陵の西側はいわゆる「九里の土手」の急崖を境に旧相模川の沖積低地である海老名耕地へとつながっている。
 国分は相模川左岸用水と目久尻川に挟まれた標高40mの台地上にあり、村名は天平13年(741年)の聖武天皇の詔によりつくられた「相模国分寺」に由来する。国分寺の創建に由来する国分地名は各地(茨城県・千葉県ほか)に多く、海老名季定(貞)の三男有季が平安末期にこの地に居館を設けて国分氏を名乗った。
 相模野台地の西縁にあたるこの丘陵上には、数世代にわたるという秋葉山古墳が営まれ、人々の定住の跡も見出されている。目前に広大な低地を控え、平坦な丘陵部の生産性をも所有した豪族の出現も考えられ、その流れのなかで、天平13年(741年)の詔により国分寺が創建されたと推測される。昭和40〜41年(1965〜66年)の発掘調査によって、雄大な規模の寺が建立されたことと、その出土品から奈良末から平安初期に建てられたこと、一回の修造後に火災により焼失、再建されなかったことが判明している。また、他国の国分寺と異なり、白鳳期様式の瓦や郡郷名が刻印された瓦の出土が皆無であり、法隆寺式伽藍様式であることなどから、既に創建されていた土豪の氏寺に塔と丈六の釈迦を追加し、国分寺の寺格を満たしたと推定される。
 この寺のある台地上、北方700mには同時期に発願された国分尼寺跡、台地の南方には古代の官道の駅名の存在など、古代相模の重要な拠点であったことが伺える。中世にはこの地の名を冠した武士が戦い、防御の陣を敷くなど戦の場となり、小田原北条氏の時代には間宮豊前守の知行となり、『所領役帳』に東郡国分と載る。
 近世は幕府直轄領〜春日局領等を経て、幕末に佐倉藩領となる一給所領。検地は延宝4年(1676年)。水田の約2倍の畑地を有する村であった。用水は目久尻川の水を当村杉本地内で堰入れたものを主に利用し、古代、この台地を切り開き約6kmの運河「逆川」を開削、国府・国分への輸送用としたといわれる。国府跡については未詳だが、渡辺崋山は『游相日記』のなかで「国府という所に出る・・・」と記している。
 街道は望地から目久尻川を渡って村を東西によぎる大山街道、台地上を北に抜ける八王子街道が交差している。寺社は『風土記稿』に「八幡社」・「国分寺」・「龍峯寺」・「清水寺」などが載る。


上今泉の歴史

 上今泉(かみいまいずみ/かみいめえずみ)は海老名市の北部にあり、相模野台地の西南部、座間丘陵の低台地と相模川左岸の低地にかかる地域が含まれる。台地上には秋葉山古墳群が営まれ、この台地の古さを物語る。東は柏ケ谷、西は下今泉、南は国分・上郷、北は入谷・栗原(座間市)に隣接する。この地を地形上三地域に分けてみると、次のようになる。

@西側、相模川河川道と思われる低地で、磯部村より入樋用水にて字榎戸にある水門より南下する用水で潤う地域である。川久保・八反町・沓形蛭沼の字名に代表される水田地帯である。
A中央部は字涯・山野・神後谷戸・萩原谷・谷・宿の丘陵地で、字涯の西斜面には古墳及び南北に連なる多数の横穴墓が見られる。また、谷上の台地には数世代にわたるといわれる秋葉山古墳が営まれている。
B東側、字中原・産川・亀島は丘陵地であり、小名産川は「河辺の地名なり」とあり、「亀島より湧出し、国分村に至て目穿川(めくじりがわ)」と記す(『風土記稿』)。

 今泉の名の由来について、『社寺考』の常泉院の項に見える「また境内の深泉より常に霊水湧きて田野を潤す」の泉からである。今日その形から「三日月井(みかづきいど)」といっている。また、『日本地名語源辞典』によれば「全国的に多くみられる地名、新しく井戸を掘って集落が成立した所。または古い泉池に対して新たに井戸を掘った所」とある。
 永禄2年(1559年)の『所領役帳』に「百五貫九百六十七文 東郡今泉」とあり、今泉郷の一部であったことを示している。『社寺考』では今泉村「伊摩以津美牟良(中略)上分、上今泉村元禄年中上下二ヶ村に分かれる」とし、『風土記稿』では「政保の改には上下の別なし、元禄に至て上下両村に分れ、別に今泉村を添う、後又今泉村の地、上下二村の内に併入して、今の如く両村となれり」としている。この中で「別に今泉を添う」とあるのは、字宿の井戸板上の道祖神塔の銘に「嘉永五年子年正月吉日 仲今泉村」とあるのがその証である。その範囲は字宿、涯と九里の土手下の水田地域であろう。また、この仲今泉の地名が幕末まで続いていたことをも示している。社寺は『風土記稿』に白髭社、常泉院などが載る。


産川

 上今泉の井戸板上に海老名氏と流れを同じくする今泉氏の館があった。永享10年(1438年)2月、いわゆる永享の乱に海老名氏は鎌倉公方足利持氏方に味方したが、戦い利あらず滅ばされてしまった。余党の一色伊予守六郎は翌年の正月に海老名氏の残党とともに、この井戸板上の今泉館に立て籠って再挙を図った。幕府方では大事に至らぬ先にと長尾出雲守憲景を大将として大挙押し寄せてきた。いち早くこれを知った伊予守は何を思ったか戦わずして下野の結城氏朝を頼り、結城の城を目指して遁走してしまった。
 その室護王姫は妊娠中のこととて逃げたが遅れ、僅かの兵に付き添われ相模横山を越え、目久尻川添いの深い谷戸に身を隠そうとした。ところが、天台山への坂まで辿り着いた時、敵の追撃を受けて家来たちは不甲斐なくも全員討ち死にした。姫のみは辛うじて逃げ延びることができたが、あまりのショックに急に産気づき、難産ではあったが一子を無事に産み落とすことができた。だが、そのみどり子は敵の手に渡り、後顧の憂いなきようにと付近の小川に投げ込まれてしまった。
 この川を「産川」といい、後にこの地域を産川と呼ぶようになったというのである。姫はそれから鎌倉街道とは名のみの山路を座間入谷まで辿り着いたが、そこであいない最後を遂げたという。後の世に、姫は安産の神と崇められ、護王姫社として祀られている。


柏ケ谷の歴史

 柏ケ谷(かしわがや/かしゃあげ)は海老名市の東北部に位置し、相模野台地から続く座間丘陵の南にあたる。当地は座間北部に発する目久尻川と綾瀬市との境をなす大山道に挟まれた地域と、中央部峡部から東に突出した台地の部分から成る。東は上草柳(大和市)、深谷・寺尾(綾瀬市)、西は国分、南は小園(綾瀬市)、望地、北は栗原(座間市)、上今泉に隣接する。柏ケ谷の名称の由来については、「カシ」は傾斜地を表し、めくじり川の「クジ」は崩れを表すことから、断崖のある谷戸と言えようか。地域の大部分は寺尾峰から目久尻川の浸食谷へとまさに大傾斜の様相を示している。「目久尻川の谷に大きく傾いている村」といえよう。江戸時代には座間の村々との結び付きが強い村であった。
 『風土記稿』には「役帳曰、川尻十七貫八百八十三文、海老名下郷内粕谷分大普請の時半役・・・」とあり(粕と柏の誤写か)、鎌倉期からこの地は海老名下郷に属し、現上郷地区の真東にあたる地である。また、平安末期に武蔵国の横山党の分れがこの地に移住し、その地名をとったというも定かではない。村の東を通る矢倉沢往還(巾三間)は近世中期以降には大山詣の通行が多く、商いの店や宿屋などの町場的な要素があった。目久尻川沿いの低地は寛永2年(1625年)に栗原村との境に設けられた堰により引水(新堰は、田一反畑六畝を用水敷の代替えとした)、村境の田はさかい田、区画を示す長ヲサの地名が残る。
 天保初期(1830年代)の家数は29軒、天保11年には50軒と増え、字滝ノ本北部に本村、年貢米の収蔵庫をしめす蔵屋敷の地名が残る。寺社は『風土記稿』に山王社、重宝院などが載る。昭和50年(1975年)に相模鉄道のかしわ台・さがみ野の両駅が開設され、住宅地として急速に発展した地域である。


望地の歴史

 望地(もうち)は海老名市の北東部に位置し、南下する目久尻川と大山道に続く綾瀬市境に挟まれた小地区である。大山道が村の中央部を西に折れ、目久尻川の低地へ下る道を境に字が上・下の二字に分かれる。東は小園(綾瀬市)、西は国分、南は早川(綾瀬市)、北は柏ケ谷に隣接する。座間丘陵を浸食しつつ北から南へ流れる目久尻川東岸沿いの低地と、東側の丘陵地から成り「広二町程・・・」(『風土記稿』)の地である。小盆地の傾斜面をあらわす「モチ」地名に由来し、モチは河川沿いの傾斜地に多い地名で(用石・持井など)、当地は東よりの丘陵地から西界を流れる目久尻川低地への傾斜地となっている。
 江戸時代には座間郷に属し、「望知」、「望池」とも記された。『風土記稿』に「民戸八」と記され、「農閑期には村内や国分村等の山で薪炭作りをし、幕末には養蚕も行い」、宝暦7年(1757年)には勧進により目久尻川に石橋がかかったという。地名伝説に現在は廃寺となっている東福寺創建にあたって、国分寺の住僧は開山になる萬庵宗岳(よろずあんそうがく)/(長禄3年(1459年)卒)を伴い、国分の丘陵上からこの地を見下ろし、寺の位置を決定した。住僧は「貴僧が望んだ地ゆえ望地とするがよい」と言ったと伝わっている。社寺は『風土記稿』に飯綱権現社、東福寺などが載る。


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