栗原くりはら

栗原神社

 栗原中央四丁目に鎮座する「栗原神社」は栗原地区の総鎮守で、祭神は豊受大神(とようけのおおかみ)・天御柱命(あめのみはしらのみこと)・国御柱命(くにのみはしらのみこと)・道友大神(みちとものおおかみ)・稚日留女命(わかひるめのみこと)の五柱である。栗原神社は明治6年(1873年)に旧栗原村の各地に祀られていた5社の小鎮守神龍蔵社・若宮社・山王社・握財社・絹張社)を寄せ宮して成立した神社で、境内には本殿・幣殿・拝殿を三棟一宇とした社殿がある。
 合祀のいきさつについては『皇国地誌』に「在昔、王子社・龍蔵社・握財社・若宮社・絹張社ト合セシ五社タリシヲ、明治六年癸酉 旧王子社ノ々(社)地ニ合祀シ栗原神社ト称ス」とある通りで、五社が合祀されたtことになるが、これらはいずれも古くから当地に祀られてきた小鎮守である。元禄十四年(1701年)の『栗原村寺社書上』には当時、栗原村に祀られていた神社が次のように列挙されている。

上 阿□(久)山大権現 壱ヶ所
小池 絹張大明神 壱ヶ所
 御除地下田壱反七畝拾歩者、小池次郎左衛門と申百姓支配仕候、当時源左衛門也
中 王子大権現 壱ヶ所
 天正元酉年始月、願主大矢太郎国忠勧請
中 若宮大権現 壱ヶ所
中 稲荷大明神 壱ヶ所
下 龍頭(蔵)大権現 壱ヶ所
 〆六ヶ所

 これら六社の名はほぼそのまま元禄14年(1701年)の『栗原村村鏡』、宝永4年(1707年)の『栗原村明細帳』に見えるものの、文化13年(1816年)の『栗原村明細帳』には稲荷大明神が欠落して、握財権現(もとの阿久山大権現)、絹張明神、王子権現、若宮権現、龍蔵権現(もとの龍頭権現)の五社のみ記されており、結局この五社が維新後まで残存して栗原神社の前身となったわけである。号社後の栗原神社は大正15年(1926年)に神饌幣帛料供進神社に指定され、昭和43年(1968年)には社殿の改修が行われた。
 平成5年頃の氏子数は735戸、崇敬者数は約150人となっている。年間の主な祭事として、1月1日の元旦祭、4月29日の年祭、9月第1土曜日(もとは9月3日)の例大祭、11月15日の七五三祭、11月28日の新嘗祭などが行われている。
 各集落には崇福寺、専福寺、栗原神社、龍藏神社、山王神社などの社寺があり、廃寺になったり、合祀されたりした小さな社寺跡や民俗を伝える石塔がある。ことに「上栗原」の「セ―の神」の庚申塔、道祖神は座間で最古の石塔である。

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参道栗原神社
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社号柱(栗原神社)社号柱(村社栗原神社)
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御芳名社務所・神楽殿 御芳名
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狛犬(吽)狛犬(阿)
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鳥居石碑
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石碑神楽殿
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稲荷神社手水舎
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千引(ちびき)の石(いし)水鉢
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栗原神社 由緒燈籠
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拝殿覆殿(本殿)・幣殿
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絵馬掛け北側入口
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参道石碑記念碑
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社殿新築寄付者芳名御神木記念碑
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社殿新築寄付者芳名倉庫
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境内シラカシ跡
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倉庫境内

 明治6年(1873年)の合祀前における各神社の沿革は次の通りである。

●握財社
 甲州より勧請した神で、天文元年(1532年)の再建と伝えられる。上栗原および下小池の鎮守であり、崇福寺の北側に社殿が祀られていた。栗原神社への合祀後、その社殿は大和市深見の鹿島神社に引き取られたという。

●絹張明神社
 上小池の鎮守で、もともとは当地の旧家である加藤家の屋敷神であったといわれている。祭神は女神であるといわれ、また、ユズの棘で眼を刺したために片眼の神になったともいい、以来、上小池の家々ではユズなどの棘のある樹を植えないといわれている。この絹張社の社地は加藤家の横の脇道を通り、大門坂を登ったあたりにあったが、栗原神社への合祀後に社殿は星の谷の三峯神社に移されたといわれている。

●王子権現社
 天正元年(1573年)に「相模の弥市」と呼ばれた中栗原の豪農大矢家の祖先が勧請した神社と伝えられ、元禄14年(1701年)の『栗原村村鏡』には「皇子権現」と記されている。『新編相模国風土記稿』には「皇子権現社、村の鎮守。宝永三年再建の棟札あり。例祭八月二十一日相撲を興行す。村民持下同。末社稲荷。鐘楼、宝永七年鋳造の鐘を懸」とあり、大矢純一家文書の中にはここにある宝永3年(1706年)の再建棟札のほか、当社の略縁起も伝えられており、次のような内容となっている。
 由来書 御本地仏千手観音ナリ
 ソモソモ王子大権現ノ尋ネ奉ル実(マコト)ハ国狭槌尊(クニサヅチミコト)ナリ、其ノ故ハ、人皇十代崇神甲申元年、江州志賀郡大嶽ノ傍陵(ヲカ)山有り、此ニ於テ一ノ老夫耘耕スル処ニシテ、而テ白衣ノ官人天降(アマクダ)り給ウ(フ)ナリ、老夫其ノ性(姓)名ヲ問ヘハ、我ハ国狭槌尊ナリト告ケ、而テ失(ウ)セ給ウナリ、其ノ地号而テ陵山明神ト為ス、後ニ至テ良辨僧都武州豐島郡王子山ニ勧請ス、故ニ王子大権現ト号シ奉ル、其ノ後大矢氏ノ先祖出羽守源吉源是ニ遷シ奉ル、再建ニ仍(ヨツ)テ其ノ故ヲ失ハザル為、概ヲ記ス  ※原資は漢文。原文の訓点に従って書き下ろした。
 明治期の寄せ宮に際しては当社が栗原村のほぼ中央に位置していたために、その社地がそのまま栗原神社の鎮座地にあてられたようで、昭和42年(1967年)に伐採された栗原神社の神木の大杉(推定樹齢700年)はもともと王子権現社の神木で、シラカシ(ブナ科)の古い神木(樹高20m、推定樹齢500年)と合わせて、古くからこの地に王子権現社が祀られてきたことを物語っている。シラカシは市の天然記念物に指定され、「神奈川の銘木100選」に選ばれている。市域にはかつて「樫の森」と呼ばれたシラカシの森があったと伝えるが、今は谷戸山や皆原の崖地にわずかに見られるだけになった。

●若宮権現社
 『新編相模国風土記稿』に「若宮権現社、元禄十年建立の棟札あり。祭日前社(王子権現社)に同じ。末社稲荷。鐘楼、享保元年の鐘を懸」とあって元禄10年(1697年)創建と伝えられる当社は、王子権現社の分社(分け宮)であるともいう。大矢本家の分家筋にあたる重右衛門家が屋敷の裏山に勧請したのがそもそもの祀りはじめはじめといわれ、そのあたりの地名を今でも「宮の前」と呼んでいる。

●龍蔵社

囃子

 栗原には小池・上栗原・中栗原・芹沢・下栗原の5組の囃子連があり、これらは昭和50年頃に復活して、栗原神社の祭礼において協演する。その時、境内には九尺の屋台が5組つくられ、そこで神楽殿(歌舞伎舞台)での公演合間に囃子が演奏される。どこの囃子連がどの屋台を使うかは抽選で決められる。栗原の中で下栗原の龍藏神社の祭り囃子(「かまくら」「やたい」の2曲)だけが座間市の重要文化財に指定されている。栗原の囃子において楽器の構成は下記の様になっている。

 フエ(笛)・・・1 ※篠笛七穴
 オオドウ(大胴)・・・1
 コダイコ(小太鼓)・・・2 ※ツケダイコとも呼ばれる
 スリガネ(摺鉦)・・・1
 ヒョウシギ(拍子木)・・・1

 笛が最も技術の習得が難しいとされ、20人くらい仕込んでも脱落者が多く、やり遂げるのは2、3人といわれている。ついで困難なのはスリガネでで、オオドウは敬意を表して年輩の人に叩いてもらうという。拍子木は後から付け加わったものともいわれる。昔はコダイコは総て縄締め方式であったが、調節に労力と時間が掛かることからスパナで締めるボルト方式となっている。音色は麻縄で締めた縄締め方が良い。


神輿

 


祭礼の歴史

 8月31日と9月1日の2日


栗原の歴史

 栗原は座間入谷地区および座間地区の東部に位置し、芝原の台地に隣接する。中央部を「小池」を源流とする目久尻川が南流し、これに東西の老場川を源流とする芹沢川が「下栗原」で合流する。目久尻川両岸の台地下は湧き水のある地形で、台地上には縄文時代の遺跡が数多く見られる。また、奈良時代のものといわれる横穴墓も右岸崖面に見られるように、古くから人々が居住したところであった。当地の「栗原」がいつごろからいわれた名であるかは不詳だが、座間の地に駅家(うまや)が存在したといわれるように、古くから開けた地であったとすれば、栗原も中央政府の手によって開拓されたことを示すのかもしれない。
 中世においても「中丸」や「老場」に見るような遺跡の所在を思わせる場所がある。天正18年(1590年)の小田原攻めに際しての豊臣秀吉の掟書(星谷寺および座間七ケ村に宛てたもの)には「栗原」の名がある。近世の集落は目久尻川に沿って北から「小池」「上栗原」「中栗原」「下栗原」、芹沢川い沿って「芹沢」にあり、戦国時代に難を逃れて甲州あたりから移り住んだと口伝をもつ家が多い。江戸時代当初は内藤氏の知行地となり、その後は幕府領をはさんで複数の旗本の知行地として幕末に至った。明治維新となり栗原村は神奈川県の所管となり、幾度もの法改正後、明治17年に座間入谷村外五ケ村連合の戸長役場が鈴鹿に置かれ、最初の戸長には栗原村の大矢弥市(7代目弥市)が就任した。弥市の祖先は武田氏の家臣といわれ、近在の富豪として渡辺崋山の『游相日記』にも書かれている。この弥市の息子(泰臨)は「中栗原」に郷学校「誠志館」を設立し(明治2年に「共同学舎」と改名)、子弟教育のさきがけとして知られる。明治22年に五ケ村は合併して「座間村」となり、五ケ村名はそれぞれ大字となり、栗原村も大字「栗原」となった。
 栗原の東部は広大な大地で、芝原、座間野、秣場などと呼ばれていたが、江戸時代には「さいこが原」とも呼ばれたようで、「サイコ」という薬草取りがおこなわれていた。また、幕府の鷹狩場、周辺各村の入会地ともなっていたが、幕府の指導で享保年間に各村に分割され、文久3年(1863年)から明治にかけて各戸に均等に配分されたという。しかし、各村と違い栗原村での配分は不明である。昭和3年(1928年)の『座間村全略図』では芝原の「東原」地域が「栗原」と記され、北部の「上小池」などは「座間」に編入されている。この他にも「間の原」や「蟹ヶ沢」地区などに座間分や座間入谷分とされている地域がある。
 「栗原」は座間の飲料水の有力な水源地で、東西老場川上流には市の第二水源地や米軍への給水井(現在は使用されていない)がある。また、戦時中は台地一帯に高座海軍工廠の地下壕が掘られ、芹沢公園内にその一部が残っている。目久尻川流域では昭和30年(1955年)代にいたって宅地開発が進み、川の汚染と共に昭和40年(1965年)代には水田はまったくみられなくなった。台地上でも日産座間工場その他の工場進出にともない変貌が激しい。


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