座間市の祭礼
座間市の地勢
座間市は神奈川県のほぼ中央部、相模川中流の左岸に位置し、北部に相模原市、東部に大和市、南部に綾瀬市・海老名市、西部に相模川を挟んで厚木市がある。
座間市のほぼ中央部を座間丘陵が北の相模原市から南の海老名市にかけて連なり、西方の相模川沿いの低地(沖積低地)は水田地帯となり、自然堤防の微高地に集落が形成されている。丘陵の西武は平坦な段丘となり、沖積低地との間には崖面(高さ約15m)の露出がみられ、その下部から湧水が流出している。丘陵の東部には平坦な台地(相模原台地)が展開し、その中央部の谷間を目久尻川が流れる。丘陵にも段丘部にも氷河期の海進海退による浸食のための起伏が多くみられ、小規模の谷間を伴い、「谷」のつく小字が多く、坂道が多いという印象を受けることとなっている。表層は関東ローム層と呼ばれる赤土に覆われ(約30m)、これは箱根・富士の噴火によるものである。
この座間丘陵は相模原市新磯地区から海老名市杉久保地区にかけて南北に広がる丘陵地で、その幅は東西に0.5〜1kmの細長いもので、座間市内ではキャンプ座間、神奈川県立座間谷戸山公園、立野台地区の一部が含まれる。形成されたのはおおよそ35,000〜15,000年前で、最初に相模川の作用による砂礫層が堆積し、その後、この上に富士山を中心とする火山の噴火活動により関東ローム層が厚く積もったものである。その後も、相模川により平坦面の浸食が見られ、河岸段丘が発達し、その直下には数多くの湧水が見られる。
座間の起こり
座間に関係する歴史的資料として最古のものは『続日本紀』の宝亀2年(771年)の記事で、ここで登場するのが「夷参」である。座間の名はこれによるとの説が有力視されていて、『続日本紀』には次の如くある。
『太政官奏すらく、「武蔵国は山道に属せりといへども、兼ねて海道をうけ、公使繁多にして、祗供堪へがたし、其の東山の駅路は、上野国邑楽郡よりまげて五ヶ駅を経て武蔵国に到り、事おはつて去る日、又同じ道を取りて下野国に向かふ、今東海道は、相模国夷参駅より下総国に達す。其間四駅にして往還便近し。しかるにこれを去り彼に就くこと損害極めて多し。臣ら商量するに、東山道を改めて東海道に属せば公私所を得て、人馬息すること有らむ」と。奏可す。』
意訳すると「これまで武蔵国府は東山道に属していたが、使節の往還に非常に不便であった。武蔵国を東海道にして、相模国の夷参駅から武蔵国を経て下総国に至る道を官道にすれば公私とも非常に助かることになると太政官の奏上があり、許可された」とするものである。律令制下の駅制は諸道三十里ごとに一駅を置き、駅馬を備えることが規定されているが、古代東海道の夷参駅が現在の座間地域内にあったとすれば、近代の海岸をたどる東海道に比べ内陸の山沿いの道をたどったことになる。恐らく、大河の河口付近を通過するのに支障が多かったと思われる。
『皇国地誌村誌』や鈴鹿明神社の棟札に「相州高座郡渋谷庄」とあるように、中世には渋谷氏が高座郡一帯に進出した。『座間古説』に渋谷高間が登場し、宗仲寺の地にもと渋谷道場があったと伝えることなどがある。源氏の旗上げに活躍した近江国佐々木氏とこの渋谷庄との関係は、平治の乱(1159年)で源義朝側について敗れた佐々木秀義が奥羽へ逃れる途中、渋谷氏に勧められて渋谷庄に止まったという。下栗原には佐々木秀義の義父である為義の館があったとか、龍蔵権現社が為義の勧請によるものという言い伝えがある。
「座間」の名の由来については諸説あり、それぞれに確証がある訳ではないが、およそ次の三つに絞られるようである。
@鈴鹿明神社のあたりの古名「井ヶ尻」から「イ」=「座」、尻→「摩る」から「座摩」となったとする、大阪の座摩神社の由来に求める説(『皇国地誌村誌』など)
A座間の古名とされる倭名抄の記事にある高座郡の郷名のうちの「伊参」を座間の地とし、「伊参」=イサマから「イ」が脱落して、サマ→ザマと転訛したという説(『新編相模国風土記稿』など)
B相模川河畔からの「石間」(イサマ)説
座間町から座間市へ
昭和23年(1948年)に9月1日を期して相模原町から分離独立して「座間町」になり、分町当時の人口は12,023人であった。昭和46年(1971年)11月1日を期して県下17番目の市として市制を実施し、座間町は「座間市」となった。市制施工時の人口が62,740人になったことは、23年前の分町時から急激な発展を物語るものである。この人口増はその後も続き、10万人を突破したのは昭和60年(1985年)12月24日のことで、市制30周年にあたる平成13年(2001年)10月には126,033人に達している。これらの人口増の要因は昭和40年(1965年)代の高度経済成長による東京・横浜の大都市圏への人口集中と核家族化現象が、その周辺都市をベットタウン化していったことによる。座間市もまた、それまで畑および山林であったところに住宅、工場、商店等が建ち、地域の開発が進んで行った。
この地域の開発は市域に限らず、近郊の都市に新しいコミュニティを生み、丘・台・カタカナ名を主体にした新しい地名や町名を生み出していった。その一方で、かつて祖先がはぐくみ育てた共同体が崩れると同時に、過去の地名や字名もしだいに忘れ去られてしまうことも確かに進んでいる。昭和30年(1955年)代前半まで座間の大字は、座間入谷・座間・新田宿・四ツ谷・栗原の5つであったが、昭和30年代前半以降の開発に伴い新しい大字が誕生した。これらの大字は相模台(現相模が丘)・立野台・相武台・緑ケ丘・明王・広野台・小松原・ひばりが丘などである。
神社信仰
明治時代から第二次世界大戦の終了時に至るまで、座間市内には公式な鎮守・氏神社として郷社1・村社4が置かれており、郷社とは旧座間二十七ケ村の総鎮守としての旧座間入谷村の鈴鹿明神社、村社とは旧座間宿村の座間神社、旧栗原村の栗原神社、旧新田宿村の諏訪明神社、旧四ツ谷村の日枝神社をそれぞれ指していた。これらの神社は旧五ケ村の地域範囲に基づき、村ごとに一社ずつ配置された鎮守の産土神(うぶすながみ)であった、村々の住民はすべてそれぞれの神社の氏子とされてきたのであったが、それは明治政府の施政下における基本的な宗教制度にもとづくものであった。
もちろん国家神道化以前の時代には各村内にこれら以外にも数多くの小鎮守神が存在し、それらはおおむね各集落ごとに祀られた小氏神であって、俗に「私宮(わたくしみや)」などと呼ばれていたが、おのおのの氏子範囲は極めて狭いものとなっていた。これらの小鎮守神は明治政府の示達にもとづいて次第に統合・合社され、一村一鎮守制がとられていくことになるが、明治期におけるこのような神社合祀のことを地元では俗に「寄せ宮(よせみや)」と呼んでいる。
座間村
「座間村」の名の所見は康永元年(1342年)に新長谷寺(長谷観音)の『相州鎌倉海光山長谷寺事実』(寺蔵)の伝える、足利尊氏が本堂を修造し、高座郡座間村内の一部を灯明料として寄進したという記事である。また、座間郷の初見は佐々木高秀が新戸の長松寺の寺領安堵状を建長寺の安首座禅師に宛てて書いたものである。この高秀には「長井」と追記(後世の書き足し)があるが、この人物は佐々木高秀である可能性がある。年代の元徳3年(1331年)も追記だが実情と合わないため、実際は1354年頃のものであろうとされている。次いで、同じ長松寺の寺領安堵状を足利氏満が発した応永3年(1396年)のものに座間郷とみえ、この頃に佐々木氏は座間の所領を失ったと思われる。『新編相模国風土記稿』には応永33年(1426年)に足利持氏の軍が座間に馳せ参じた記録があり、小田原北条氏が関東に進出してからのち、座間は北条氏照の支配下に入ったとされている。
●近世の座間
天正18年(1590年)4月に豊臣秀吉が発した掟書が星谷寺に残されており、この掟書の冒頭に「星谷寺 座間七ヶ村」と記されていて、近世初頭の座間村は7ケ村で構成されていたことが分かる。この「座間七ヶ村」は中世からの「座間郷七ヶ村」に該当し、新戸村・磯部村を含めた総称であったと考えられる。しかし、この星谷寺掟書が記された時、座間村は座間宿村・座間入谷村が一つの村として構成されていて、座間地域の村は新田宿・四ツ谷・栗原の4ケ村で、現相模原市域の新戸村・磯部村を含めても6ケ村で1ケ村が不足している。そこで、具体的に7ケ村に該当する村を資料から探ってみると、『新編相模国風土記稿』の正保絵図に記載されている。
この正保絵図は星谷寺掟書より約60年後の正保年間(1644〜48年)に作成された絵図であるが、正保年間の高座郡の村名が記されている。この絵図によると上記6ケ村の他、新田宿村と新戸村の間に「今田村」の名が記されており、近世初頭の「座間七ヶ村」の構成は、座間村・新田宿村・四ツ谷村・栗原村・新戸村・磯部村・今田村であったこと考えられる。この今田村は相模川の洪水で焼失した幻の村といわれている。
万治2年(1659年)に下総関宿の領主久世大和守広之が幕府から座間地域(座間村・新田宿村)とその周辺の村14ケ村を拝領し、その子重之と共に2代24年にわたって積極的な領地経営を行った。久世大和守広之がはじめに手がけたのは慶長8年(1603年)以来59年振りに実施した2回にわたる検地で、この検地で彼は座間と周辺の村々の状況を徹底的に調査した。1回目の検地は寛文2年(1662年)に実施し、座間を起点にして北は九沢村(現相模原市)から南は社家村(現海老名市)までを範囲とした大規模な検地であった。第2回目の検地は2年後の寛文4年(1664年)に実施し、第1回目にできなかった箇所の検地を行い領地全体の検地を終了させた。この検地により座間周辺の14ケ村の合計の石高は約1万石になることや、各村々の家の戸数および人口等の基本的資料が整い、領地経営の問題点も明らかになっていった。『座間古説』によるとこの寛文の検地で「座間宿村」と「座間入谷村」が正式に独立した村となったと記している。
江戸幕府は財政難と旗本の経済的困難を救うために、「地方直(じかたなお)し」という政策を実施した。この制度は徳川幕府が成立した当時、旗本・御家人の大部分の年間給与を石高に応じて米で支払う「蔵米取」という制度を改正して「知行地」制度にしたことである。「知行地」制度とは幕府の主な直轄地を細分化して旗本に領地として知行地を与え、旗本は幕府から与えられた知行地から年貢を微収して、自己の裁量で年間給与を賄う制度である。幕府はこの制度に切り替える元禄6年(1693年)に関東の幕府直轄領の総検地を実施して資料を整えたといわれ、この検地資料を基本にして元禄年間(1688〜1704年)から「地方直し」が行われ、完了する宝永年間(1704〜11年)まで約20年を要している。座間地域の村々もこの制度の切り替えによって10名の旗本の領地となり、1つの村に複数の領主がいるという変則的な形となった。このように1つの村を細かく分けることを「分郷」といった。次の一覧表は幕末の明治元年(1868年)に作成された「旧高旧領取調帳」に記載されている、座間地域の村々の領主名と石高である。
| 村名 | 領主名 | 知行地石高 | |
| 座間 (座間宿) | 2給地 | 勝田綱吉 | 約554石 |
| 大久保織部 | 約223石 | ||
| 座間入谷 | 酒井安房 | 約667石 | |
| 新田宿 | 岡部五郎兵衛 | 約330石 | |
| 四ツ谷 | 3給地 | 戸田恵之助 | 約82石 |
| 森川右京 | 約82石 | ||
| 高木又右衛門 | 約83石 | ||
| 栗原 | 3給地 | 山田三育 | 約301石 |
| 山田運八郎 | 約161石 | ||
| 増田邦之助 | 約119石 | ||
●近現代の座間
明治元年(1868年)には座間地域の旗本領は神奈川県の所属となり、『旧高旧領取調帳』の記載で座間宿村は「座間村」になった。明治6年(1873年)に区番制が実施され、全国を大区・小区で表示することになり、座間地域は20大区、栗原村は2小区で、それ以外の村は9小区となった。明治8年(1875年)7月から土地測量が開始され「地券」の発行が行われたが、土地に3%の税金をかける「地租改正」作業のなかで次の問題が生じ、座間村と座間入間村との間に争いが起きた。これらの問題は最終的には大審院の判決に委ねたが、基本的な解決には至らずに次の問題へと進展し長期化していった。
@鈴鹿明神社の帰属問題 → 座間村の集団転宗離檀事件
A鈴鹿明神社の神輿の帰属をめぐる争い → 座間神社を設立し
座間村社とした問題
B蟹ヶ沢等の共有地の帰属問題 → 小学校の村毎の設立
明治9年(1876年)に足柄県が静岡県と分離され、相模国(足柄上郡・足柄下郡・大住郡・陶綾郡・愛甲郡・津久井郡)が神奈川県に編入された。明治11年(1878年)11月18日にはそれまでの大区・小区制度が廃され、郡区町村制が施行されると県の指揮下へ移行する動きがはじまり、座間地域の各村は高座郡役所(藤沢町)の傘下に入った。明治17年(1884年)からは市町村村制へ移行する動きがはじまり、座間地域は後の座間村となる5つの村が集まって、座間入谷鈴鹿3514番地の仁村宅に連合戸長役場が設置された。明治21年(1888年)4月25日に「市制・町村制」が公布されると、翌明治22年(1889年)4月1日に座間村・座間入谷村・新田宿村・四ツ谷村・栗原村の5ケ村と新戸村の飛び地が合併して「座間村」が誕生し、旧村名は大字として残された。
このように新しく誕生した座間村であったが本当の意味での統一はできず、旧座間村と旧座間入谷村の確執は続いていた。中でも深刻な問題を投げかけたのが学校問題で、明治23年度から高等科の過程を備えた尋常高等小学校が各市町に開校していたが、座間村では4つの尋常小学校のみで高等小学校の設立ができなかった。明治25年(1892年)に就任した2代目村長はこの問題に真剣に取り組み、尋常小学校3校(座間地区の真誠、座間入谷地区の日新、新田宿、四ツ谷地区の湘川)を統一して、明治28年(1895年)に尋常高等座間小学校が誕生した。この学校の開校が座間村の統一となり、以降の座間村は大いに発展していくのである。大正12年(1923年)には郡制が廃止され、同年4月の座間村は、田240町4反・畑838町・山林338町500歩・宅地153.20坪・その他370町 計1,860町300歩、人口 男3,080・女3,029人。なお、開墾地の地名に「新田」と「新開」の名があるが、「新田」は明治以前に開墾された土地で、明治以後に開墾された土地を「新開」といった。
昭和前期は小田急小田原線の開通に伴う周辺の開発が進む中で、陸軍士官が開校したり、高座海軍工廠が開廠し、軍事施設を中心とした軍都としての座間の姿に変貌していく。昭和2年(1927年)4月に新宿〜小田原間を結ぶ小田急小田原線が開通し、座間村に座間駅(現相武台前駅)と新座間駅(現座間駅)の2つの駅が開業した。この開通によって座間村の小田急沿線の土地開発が進展し、新座間駅周辺(現立野台一帯と座間ハイツ付近)には「座間遊園」の計画が進められると共に、2つの駅周辺には新興住宅地の建設計画が立てられ、小田急や不動産会社に大量の土地が買収されていった。しかし、この後、昭和大恐慌という未曾有の不況が訪れ、この計画は途中で中止または変更をせざるを得なくなっていった。
昭和20年(1945年)8月15日に終戦を迎えると、9月2日には旧陸軍士官学校跡にアメリカ軍が進駐し、旧陸軍士官学校は「キャンプ座間」と改称した。昭和28年(1953年)10月1日には極東陸軍司令部が「キャンプ座間」に置かれ、キャンプ座間は最重要基地となった。
| 地区名 | 神社名 | 鎮座地 | 例祭日 | 神輿 | 山車 | 備考 | 取材年 | |
| 1 | 入谷 | 鈴鹿明神社 | 入谷1-3499 | |||||
| 2 | 栗原 | 栗原神社 | 栗原中央4-4-14 | |||||
| 3 | 座間 | 座間神社 | 座間1-3437 | |||||
| 4 | 新田宿 | 諏訪明神 | 新田宿288 | |||||
| 5 | 四ツ谷 | 日枝大神 | 四ツ谷479 |
| 地区名 | 神社名 | 鎮座地 | 例祭日 | 神輿 | 山車 | 備考 | 取材年 | |
| 1 | 入谷 | 護王姫社 | 入谷 | |||||
| 1 | 河原宿 | 天照皇大神宮 | 座間 | |||||
| 1 | 上栗原 | 北向庚申神社 | ||||||
| 1 | 下栗原 | 龍藏神社 | ||||||
| 1 | 鈴鹿/皆原 | 諏訪神社 | 入谷1- | |||||
| 1 | 芹沢 | 山王神社 | 芹沢 | |||||
| 1 | 皆原 | 金毘羅神社 | 入谷 |
| 祭名 | 開催地 | 住所 | 祭日 | 神輿 | 山車 | 備考 | 取材年 | |
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| タイトル | 著者/編集 | 出版/発行 | 出版年 |
| 座間むかしむかし 第四集 | 座間市文化財保護委員会 | 座間市教育委員会 | 1976(昭51) |
| 座間市史6 民族編 | 座間市 | 同左 | 1993(平5) |
| 座間市文化財調査報告書 第18集 座間の地名 | 座間市文化財調査員協議会 | 座間市教育委員会 | 2005(平17) |
※上記の文献は他のページでも引用していることがあります。