四ツ谷よつや

日枝大神

 「日枝大神」は四ツ谷の総鎮守で、祭神は大山昨命(おおやまくいのみこと)である。境内には覆殿・幣殿・拝殿を三棟一宇とした本殿と神楽殿があり、境内社として稲荷社・三峯社・秋葉社・諏訪社・天満宮などが祀られている。平成5年頃の日枝神社の氏子数は100戸で、社掌は新田宿諏訪明神社の宮司が兼務する。年間の主な祭事として、1月1日の元旦祭、4月26日の例大祭、11月の七五三と新嘗祭との合同祭などが行われている。
 神社の創建は社伝によれば元亀2年(1571年)とされているが、美濃国の斉藤竜興が小田信長に滅ぼされた後、その家臣がこの四ツ谷に入植して村を開き、日枝大神を勧請して祀ったという。文政9年(1826年)『地誌御調書上帳』には大山大権現の境内末社として諏訪社・稲荷社(三社)・秋葉社・三峯社などが祀られていたことも記され、平成5年時点でほぼ同じであるほか、山王大権現以外にも天満宮と稲荷の相殿合社が四ツ谷に祀られていたとあり、この両社が四ツ谷村を代表する鎮守神であったらしい。このことは『新編相模国風土記稿』においても同様で、そこには「山王社、村の鎮守なり。例祭7月21日、浄土寺持、末社、諏訪、稲荷二、秋葉、三峯」および「天神稲荷合社、村民持」とあって、二つの鎮守の存在が記載されている。しかし、伝承によればもともと四ツ谷の総鎮守は天満宮の方であったといわれ、日枝神社境内の西裏にその社地があり、大正時代まではうっそうと木々が多い茂り、天神森と呼ばれていた。
 日枝神社は神仏分離令によって明治2年(1869年)に別当浄土寺の手を離れて独立し、明治6年(1873年)には四ツ谷村の村社となった。大正2年(1913年)に県の指令にもとづき、日枝神社と天神・稲荷合社は寄せ宮され、前者の境内地に後者が合祀されることになった。合社後、天満宮の祭礼を一時中断していたところ、大正5年(1916年)から村内に三度もの火災があり、火柱の中に天神の神紋である梅鉢紋があらわれたとの噂が立ち、以後祭りが復活したといわれている。天満宮の社殿は現在日枝神社の本殿左手に祀られている。日枝神社は神饌幣帛料供進神社に指定されているが、この年に東京麹町の日枝神社よりあらためて分霊が勧請された。なお、境内末社の稲荷社は文政5年(1822年)の創建と伝えられ、上社・下社・総社の三社が本殿両脇に祀られている。

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日枝大神社号柱(村社日枝大神)
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狛犬(吽)狛犬(阿)
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鳥居石碑
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旧鳥居旧鳥居
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石碑
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手水舎石碑(手水舎)
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燈籠燈籠
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社殿造営記念碑日枝大神由緒
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耕地整理記念碑土地改良記念碑
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燈籠雨水鉢
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拝殿幣殿・覆殿(本殿)
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境内社境内社
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境内社下社(稲荷大明神)
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天満宮社殿
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神楽殿物置
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境内四ツ谷公民館

囃子

 


神輿

 


四ツ谷の歴史

 四ツ谷地区は座間市の西南に位置し、西側は相模川を会して厚木市下依知、南側は海老名市上泉、北側は新田宿地区、東側は座間入谷地区と接しており、座間市内の旧村地区では小さくまとまった地域である。地域の中央を町田から厚木に向かう道路が通過しており、非常に交通量が多い。この道は新道と呼ばれ、元の道である八王子街道は旧道と呼ばれていた。四ツ谷の旧集落はこの八王子街道に沿っていたが、新道の完成により分断されてしまった。旧集落の西側は相模川まで水田が広がっており、東側も入谷地区までやはり水田が広がっていた。かつての田園風景は現在では相当に縮小されて人家が多くなったとはいえ、広々とした水田光景を見ることが出来る。
 昭和3年の『高座郡座間村前略図』ではこれに飛び地として市域の東端の秣場(現・小松原一、二丁目)が加わる。「四ツ谷」は江戸時代初期には「四ツ家」「四ツ屋」と書かれ、「四ツ谷」は江戸中期からという。その名の起こりについては、織田信長に滅ぼされた美濃国(現岐阜県)の斉藤氏の遺臣が、元亀2年(1571年)にこの土地に土着して開発を始め、当初4軒だったので「四ツ家」「四ツ屋」と呼ばれたという。しかし、小字に「上三屋」や「沖三屋(西三屋ともいう)」があり、これらが現在の町並みの家の元屋敷といわれているが、「さんや」は多く「散家」の意とされ、親村から離れて開拓した土地をいう。四ツ谷の町並みが整備された年代は詳らかでないが、少なくとも江戸時代初期ごろではないかと考えられる。そのとき、海老名の「北河原」地区がこれに加わったので、「三屋」を「四ツ屋」としたという口伝もある。
 「北河原」に接して海老名市域に「外記河原(外記宿ともいう)」があるが、ここは古くは相模川の渡船場であったとされ、『相中留恩記略』の星谷大門通り図の遠景に「外記宿」と書かれて巡路を暗示している。天明年中(1781~89年)までは「外記宿」から「四ツ谷村」に至っていた道が洪水で崩れ、以後、「下今泉村」から通じるようになったという。八王子往還はこの町並みの道を通り、「三屋の道」といわれている。その途中の「天神森」に、もと「四ツ谷」の氏神とされていた天神社があったが(現在は日枝神社へ合祀)、天神は美濃の斉藤氏の厚く信仰したこところといい、住民の祖先が美濃から来たといわれることを頷かせる。
 浄土寺はもと「西三屋」の相模川堤防のあたりにあったが、洪水で流されて現在地に移されたと伝える(年代不詳)。明暦13年(1763年)に隣接する鎮守の日枝神社(当時山王社)とともに火災に遭って焼失し、明和8年(1771年)に再建された。この寺には寺子屋があって、筆子の建立になる保田安兵衛(宝暦2年/1752年没)の墓がある。その没後も妻女が寺子屋を引き継いでいたらしい記録が寺の過去帳に見える。
 「四ツ谷」は相模川と鳩川にはさまれた地域で毎年のように出水に苦しみ、床上浸水も珍しくなかったという。洪水になると相模川の川原と水田が全て水に覆われ、まるで大きな湖のようになってしまい、集落はちょうど中洲のような光景をみせ、関東大震災の時などはあちこちで地が割れて水が噴き出して膝くらいまでつかったという。「新田宿」と同じく秣場へも遠く、生活に苦労が多かった。『皇国地誌村誌』によると、明治初年の戸数は45で、人員は248人、馬14頭、渡船1艘、漁船1艘とある。


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