座間ざま

座間神社

 「座間神社」は座間宿の総鎮守で、座間一丁目に鎮座する。祭神は日本武尊(やまとたけるのみこと)で、境内社として天神社・明王社・浅間社・山王社・道祖神・蚕神社(かいこがみしゃ)など、明治期以来に合祀された小祠などを併せ祀る。境内には本殿・幣殿・神饌所・神楽殿・鐘楼などの社殿がある。
 当社は明治9年(1876年)まで「飯綱権現社(通称飯綱様)」と称し、飯綱権現(皇足穂命/すめたりほのみこと)を祭神とし、「鈴鹿明神社」の末社であった。その創建は欽明天皇の時代(550年頃)にまで遡るといい、伝承によると悪疫の流行で苦しむ座間郷の人々の前に、飯綱権現が白翁神の姿となってあらわれ、座間の崖下に湧き出づる清水を御神水として用いるように告げた。人々がそれに従ったところ疫病が治まったので、湧水の地に飯綱権現を祀ったという。御神水の湧水地は「泉水(せんずい)」と呼ばれ、今でも境内南西の崖下にあって神社の聖地とされているが、米軍基地建設後は湧水も枯渇している。一方、『皇国地誌』には別の創建伝承がとりあげられており、建久年中(1190~99年)に日本武尊を祀ったのが神社のはじまりといい、慶長7年(1602年)には領主内藤修理亮清成が社参して武運長久と氏子の繁栄を祈ったとの記事もそこに述べられている。
 また、『新編相模国風土記稿』には「飯綱権現社。神体立像。正和二年五月二日の勧請と伝ふ。例祭八月廿四日。相撲を興行す。村持。末社稲荷。鐘楼 享保五年鋳造の鐘なり」との解説を載せていて、正和2年(1313年)の勧請説を述べている。さらに『座間古説』には「上宿飯綱ハ寛文二(年)御縄打之後ニ勧請仕ニより、畑名所付にハ飯綱はなし、皆天神原と御水帳有」とあって、勧請年は少なくとも寛文2年(1662年)の検地より後のこととしているが、「天和之時鎮守にて神楽を上ケ候へハ此森ニ飯綱腰をかけ申候間、外之所江祭へしと御たくせんある時、火防の神也と上宿氏子相談仕りて、夫より与次兵衛之山に勧請仕、其後上宿ニ七右衛門と申者、角力名人にていいづなへ新角力を立、元禄之比迄少之宮成しが、其比新右衛門と申大工が今之宮大きく立、鈴鹿神輿も右之大工清左衛門所よりこしらへ申侯とかや」と説明している。このように当社の創建年についてはさまざまな説が見られるが、元禄11年(1698年)における本殿再建時の棟札が現存するので、『座間古説』にいう天和年中(1681~83年)勧請説は少なくとも無理なく受け入れられよう。
 明治2年(1869年)に飯綱権現社は「飯綱神社」と改称され、『皇国地誌村誌』高座郡座間入谷村によれば、明治9年の紛争で鈴鹿明神社から独立して「座間神社」と改称し、座間宿村の鎮守村社となり、祭神も日本武尊に改められた。明治42年(1909年)には現在の座間キャンプ内の天神原にあった天神社や、同じく小字山ノ神にあった山王社および道祖神、富士山(ふじやま)にあった浅間社、明王山にあった明王社などの小社を一斉に合祀したが、これら小祠は境内社となって今でも本殿の左手に祀られている。大正5年(1916年)には神饌幣帛料供進神社に指定され、昭和3年(1928年)には蚕神社を新たに境内に祀る。昭和46年(1971年)には神楽殿および鐘楼を再建、昭和58年(1983年)には本殿・幣殿が新築されている。

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座間神社鳥居
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石碑社号柱(村社座間神社)
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狛犬(阿)狛犬(吽)
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鳥居第二社務所
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境内社号柱(座間神社)
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由緒石碑
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鳥居燈籠
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燈籠手水舎
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燈籠燈籠
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納札所夫婦椹(めおとさわら)
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燈籠雨水鉢
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拝殿幣殿・覆殿(本殿)
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鳥居境内社(寄宮)
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鳥居飯綱稲荷大明神
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鐘楼
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絵馬掛けおみくじ掛け
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神楽殿受付
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石碑石碑
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座間神社由緒御大典奉祝記念事業
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祖霊社境内

 「飯綱」は座間神社周辺の旧字名で、神社のある丘上を「飯綱上」、丘下を「飯綱下」という。また、神社の北側にあった農道の坂を「飯綱坂」といったが、台上が陸軍用地(現キャンプ座間)となって不用になった。かつて飯綱上の寺山と呼ばれる場所に草ぶきの鐘楼があり、この鐘楼には原という鐘つきがいた。明け六つ(午前5時)・午の刻(正午)・暮れ六つ(午後5時)に鐘をつき、人々に「飯綱の晩鐘」と呼ばれ親しまれていた。明治10年の新戸の大火事のとき、付近の山が延焼したため、草ぶきの鐘楼は類焼を防ぐために取り壊され、鐘は宗仲寺に移されたが、戦時中の金属回収で供出されてしまった。
 平成5年頃の座間神社の氏子数は515戸、崇敬者数は約1,500人となっている。年間の主な行事としては毎月1日の月次祭のほか、1月1日の元旦祭、1月15日の成人祭、1月最終日曜日(もとは1月25日)の天神祭および筆祭、2月節分日の節分祭、2月11日の紀元節、2月17日の祈年祭、4月上旬の春祭(桜祭)、6月30日の夏越大祓式、8月30日の例大祭、9月の二百十日の風神祭、11月15日の七五三祭、11月23日の新嘗祭、12月31日の師走大祓式および除夜祭などが行われている。

囃子

 


神輿

 


座間の歴史

 座間地区は現在の座間一丁目と二丁目に相当する地域である。北側は相模原市新戸と境を接しており、東側および南側はキャンプ座間、入谷一丁目と二丁目と接し、西側は新田宿である。
 大字座間は江戸時代には「座間(宿)村」と呼ばれ、上宿・中宿・下宿・河原宿・中河原の5つの集落から構成されていた。このうち河原宿と中河原は相模川沖積層の氾濫原に開けた集落で、5つの集落の中で最も早く形成された宗ラックである。『座間古説』によると永禄年間(1558~70年)頃になると、相模川の川筋は次第に対岸の下依知(現厚木市)方向へ流れるようになったため、その周辺を座間村の人が開墾したと記している。一方、上宿・中宿・下宿の集落は江戸時代の初期、内藤清成によって「八王子往還」の宿場として整えられたことから発展がはじまったとい言われている。内藤清成は領主として就任直後から「八王子往還」の重要性に着目し、その道筋の上宿に父の菩提寺として「宗仲寺」を建立し、農民をその周辺に移住させ、馬付きの宿場とした。また、領地内の農民を総動員して、家康遺骸移送の道となる「御尊柩御成街道」の座間、町田木曽間の改修整備を短時間で行うと共に、家康遺骸を安置する御霊屋を宗仲寺に建立した。
 これらの献身的な協力を高く評価した幕府は、座間宿を「八王子往還」の宿駅として認可した。座間宿は宿駅としての役割を担うことで実力をつけ、集落として上宿・中宿・下宿の小字名が定着したのはこのころだと考えられる。しかし、まだ独立した村ではなく、入谷と座間宿とは分村していなかった。万治2年(1659年)に領主となった久世大和守広之は領地の開発に熱心に取り組み、相模川の流作場や周辺の山林等を開発するために、村内鈴鹿・長宿・星ノ谷等の農民を移住させて新田開発に従事させた。『座間古説』によるところの開発によって生まれた新田の一つに「宮川新田」という名前があったと記している。久世大和守は寛文2年(1662年)と寛文4年(1664年)に領地の検地を行い、領地の実高を算定した結果、座間村を「座間宿村」と「座間入谷村」の二つの独立した村に分村した。
 座間宿村はまず、宿駅としての「座間宿」の整備にあたった。天保10年(1839年)に刊行された『相中留恩記』の絵図に、宗仲寺と座間大通りが載っている。その絵図を見ると中央に用水路を配した「八王子往還」の宿駅としての「座間宿」の様子が散見できる。このような中央に用水路を配した「座間宿」が整備されたのは、座間宿村として独立したころだと言われている。用水路は座間神社(当時は飯綱社)崖下の泉水(小字名)から湧水を導き、道のほぼ中央に幅3尺(約1m)の用水路をつくり、用水路の両側に幅3間(約5.5m)の「市」が開催できる道路を設けたので「座間宿大通り」と呼ばれ、「八王子往還」の宿駅としての機能と市などが開けるような「座間宿」となった。この時、榎を植えて三つの集落の境にすると共に、市開催の時の出店の目印としても役立ったといわれている。この榎の一つが上宿の裏通りとの分岐点に、昭和初年ころまで繁茂していたという。
 このように整備された座間宿大通りは次のような二つの特色をもっている。その一つは上・中宿(相武台下駅へ行く道の交差点から鮎の道の入口まで)の道幅が広いこと、他の一つは大通りと平行して東西九尺(約3m)の裏通りが整備されていることである。この裏通りは「座間宿大通り」が本格的に整備される以前は、主要な街道であり生活道であったと思われる。特に西側の道はかつての八王子往還の道筋で、家康遺骸移送の時はこの道が利用された可能性が強いといわれている。その後、上宿・中宿・下宿の集落は、「座間宿大通り」に沿って発展していった。天和2年(1682年)にこの「座間宿大通り」で市祭りが開かれた記録が残されていることから、「座間宿大通り」での市の開始時期はこの前後ではないかと思われる。
 市の形式は月の五十(ゴトウ)の日に開催された六斎市で、同じような町並みを備えた宿場の厚木宿(現厚木市)と当麻宿(現相模原市)の中間に位置していたので、物流交易の重要地点にあったため大変賑わったと伝えられている。しかし、幕末になると厚木・上溝・町田などの市に押されて次第に衰えてしまったが、明治19年(1886年)に座間大通りの夏の市に商人がスダレを掛けるための許可願の書類が残されている。このことから、明治10年代はじめごろから座間大通りの市が復活したことが推定できるのである。この市も六斎市であったが毎月「十」の付く日が盛んで、中でも8月10日の盆市と12月20日の暮市は大市と呼ばれ、近在の村々から多くの買物客が来て賑わったといわれている。
 この市が市として成立したのは明治30年代後半までであったといわれている。その原因は座間大通りに常設の商店が次第に多くなり、不定期の市は次第に衰え、明治40年末に廃止されたと伝えられている。明治20年代に作成されたと推定できる絵図「高座郡座間村字座間自上宿至中宿市場縮図」が、『座間市史3(近現代資料編)』の口絵に収載されている。この絵図は「地籍図」として使われた「切り絵図」で、当時の座間大通りの様子を詳細に記している。この絵図を見ると南北に貫く大通りを挟んで東西に人家が並ぶかたちに記され、人家には地番・所有者名・面積が記入されている。この「切り絵図」には「座間大通り」に面した屋敷と東西の裏通りに面した屋敷がほぼ短冊形に区切られていて、かつて一定の地割りによって集落が形成されていたことが判断できるのである。この「高座郡座間村字座間自上宿至中宿市場縮図」では用水路が大通りの真ん中に描かれているが、明治30年ごろには東側に移され、昭和年代の県道の拡張に伴い座間宿と共に歩んだ用水路もその姿をけしたのである。


失われた村(今田村)

 相模川は洪水などのため、江戸期以前からたびたび流路を変え、もとあったと思われる集落が消えてしまったことがあったようである。「今田村」というのがその一つで、『新編相模国風土記稿』の「政保改訂図(政保元年/1644年)」や「元禄改定図(元禄10年/1697年)」には新戸(相模原市)と中河原付近の間に今田村の記載がある。しかし、「天保絵図(天保6年/1835年)」には記載がいない。但し、官製ではないが天保14年(1843年)の「復刻人文社」の「富士見十三州輿地全図之内相模・伊豆・甲斐・駿河・近江五国図」には記載が見える。いずれにしてもこの頃に集落が喪失したのであろうといわれている。
 今田の「今」は「新」と同義で、今田村は新田宿村と同じく新しく開拓された枝村と考えられる。新田宿村は既に存在していたので、今田村としたのであろう。位置的には「中河原」に近く、もしかすると「今田」は「中河原」の可能性も考えられる。政保や元禄年間では「中河原」は既に成立していたはずであるし、このころ1村が消滅したというほどの洪水も伝えられていない。しかし、別に相模川の氾濫や流路の変化で消失したと思える集落が、「河原宿」・「田中」・「雉子の尾」などにもあったらしいという説もある。


相武台神社

 「相武台神社」は相武台1丁目、府中街道の裏通りにあり、祭神を日本武尊とする。昭和7年に村民の一人が栃木県の古峰神社の御神体を分けて頂いて、初め古峰神社として建てたのが起こりでであったが、のちに近隣の人々が地域の氏神として祀るようになり、「相武台神社」と改めた。
 境内の庚申塔は文久3年(1863年)の建立になる石柱文字塔で、道標を兼ね、前面に「庚申塔 厚木大山」、左側面に「木曾ふちう道」、右側面に「加奈川 江戸道」と記されている。


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