入谷いりや

鈴鹿明神社

 入谷1-3499に鎮座する「鈴鹿明神社(すずかみょうじんしゃ)」は入谷地区の総鎮守で、明治初年までは座間郷二十七ケ村の郷社であり、このあたりが座間郷の中心地であったと思われる。祭神は伊邪那岐命(いざなぎのみこと)と須佐之男命(すさのおのみこと)の2神で、境内社として「稲荷社」と「厳島神社(弁天社)」、境外社として「諏訪神社(入谷一丁目)」「金毘羅神社(入谷五丁目)」「神明社(入谷五丁目)」「三峯神社(入谷三丁目)」を合わせ祀る。境内には本殿・幣殿・拝殿のほか、神楽殿・鐘楼などの社殿がある。
 神社の創建年は不詳であるが棟札などの資料から、おそらくは南北朝期頃(1337~1392年)と推定される。また、それよりもさらに古くに遡るとする説もいくつかいわれていて、たとえば正倉院文書の『相模国封戸租交易帳』には「従三位鈴鹿王、食封高座郡土甘郷五十戸」などとあり、当地に鈴鹿王の所領のあったことが推定されるとし、鈴鹿の地名とゆかりの深い神社が祀られたとする説がある。また、境内地が前方後円墳の形をしていることから、鈴鹿王の墳墓上にその霊を祀るための社として当社が創建されたとの説もある。更には『紹運禄』の記事を引いて、寛仁元年(1017年)に相模国田倉郷で疫没した伊勢国鈴鹿郷の大領小野宮師綱の霊を祀って、当社が創建されたとの説もみられる。
 しかし、もっともよく知られた説は『座間古説』に記されてた次のような伝承である。伝承では欽明天皇の御代(531~71年)に伊勢の鈴鹿明神の祭礼で神輿が海上渡御したとあり、暴風で漂流、当時入海であったこおの辺りに流れ着いたという。この説もまたそれが史実であることを証明するには無理が伴い、物語としての縁起伝承の域を出ないとはいえ、昔は境内に銀杏などの大木があって船の帆のように見えたことから、鈴鹿明神社の社叢の遠景は「樫の森」や「船形の森」と呼ばれていたという。
 『皇国地誌』によればその牛頭天王の勧請は天文年中(1532~55年)に遡るといい、同年中における火災焼失後の社殿再建時に八坂神(須佐男命)が合祀されたという。その後、弘治2年(1556年)には領主北条氏によって社殿が再建され、今に残されたその時の棟札には「奉還宮鈴鹿大明神再造成就処、弘治二年丙辰五月二日、大旦那北条藤菊丸殿、造畢之貫日五千疋、施主若林大炊助」と記されている。社殿の再建修理は元和6年(1620年)にも地頭内藤満次郎の手で、寛文6年(1666年)には領主久世大和守の手でそれぞれ行われているが、元禄16年(1703年)、享保3年(1718年)および18年(1733年)、宝暦8年(1758年)にもそれぞれ修理の記録がある。また、元禄3年(1690年)奉納の梵鐘には「相模国鎌倉郡座間郷、奉鋳造鐘壱口、鈴鹿大明神(中略)、別当星谷寺、禰宜古木宮内、右両社惣氏子衆、元禄(ママ)三庚午暦霜月吉日、武州江戸住御鋳物師小沼播磨正永作」との銘文があって、奉納者である座間郷二十七ケ村の名主名もそこに刻まれていたが、鐘は戦時供出されたので現存しない。さらに宝永4年(1707年)には厳島神社(弁天社)、享保18年(1733年)には稲荷社が勧請されて境内社となった。
 明治維新後は社号「鈴鹿大明神」を「鈴鹿明神社」と改称し、祭神牛頭天王を八坂大神といいあらわすようになり、さらに別当星谷寺による祭祀を離れて独立した神社となった。明治6年(1873年)には県下二十大区二十七ケ村(座間入谷・座間宿・栗原・新田宿・四ツ谷・新戸・磯部・下溝・上溝・当麻・田名・大島・下九沢・上九沢・相原・橋本・小山・清兵衛新田・矢部・矢部新田・渕野辺・鵜ノ森・上鶴間・下鶴間・柏ヶ谷・上今泉・下今泉の各村)の郷社に指定された。大正3年(1914年)には神饌幣帛料供進(しんせんへいはくりょうきょうしん)神社に指定され、昭和9年(1934年)には現在の幣殿が、昭和49年(1973年)には鐘楼がそれぞれ再建された。
 平成5年頃の鈴鹿明神社の氏子数は約450戸、崇敬者数は約500人で、年間の主な祭事としては、1月1日の歳旦祭、2月17日の祈年祭、7月第2日曜の夏越大祓祭、8月1日の例大祭、8月28日の風神祭、11月15日の七五三祝、11月23日の新嘗祭、12月27日の年越大祓祭などが行われている。
 鈴鹿明神社の祭礼は明治初年まで「イガスリ祭」と呼ばれていたという。「イガリスの祭り」は大阪(難波)の坐摩神社の祭礼で、難波が防人の集結地であったことから、坐摩神社と同じく、蝦夷に向かう兵士たちの武運祈願の神社として祀られたのかもしれない。と同時に、これが「座間」の名の起こりでもあったらしい。昭和37年の発掘調査で本殿東側(現在は本殿の下)から縄文後期の平地式住居址が発見され、石囲炉、土器片、石斧などが採集された。

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鈴鹿明神社燈籠
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社号標(鈴鹿明神社)稲荷神社
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狛犬(吽)狛犬(阿)
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石碑鳥居
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狛犬
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道祖神ほか玉垣造成奉賛記念
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稲荷神社三影鳥居建設記念碑
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燈籠神池改修之碑
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厳島神社燈籠
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手水舎参集殿
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西側入口燈籠
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社号柱(郷社鈴鹿明神)石碑
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戦没者慰霊碑鐘楼
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絵馬掛け絵馬掛け
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おみくじ掛け社務所
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狛犬(吽)狛犬(阿)
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社殿燈籠
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勾玉石燈籠
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鈴鹿明神社由緒境内

囃子

 座間市内で祭り囃子をはじめたのは日露戦争のあとの明治30年代からのもで、鈴鹿明神の氏子の囃子は明治30年10月に太鼓を新調した記録があることから、大門や皆原の太鼓も同じ時期に購入されたと思われれる。囃子の導入先は各々違った所から導入したものであるが、何処から習得したかは詳かではない。入谷の囃子は古老の話によると、東京府西多摩郡稲城村(現多摩市)の祭り囃子を導入したという。稲城は神楽の元締めのいるところで、祭り囃子の大きな拠点でもあるので、ありうるところである。


神輿

 

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神輿殿神輿殿

祭礼の歴史

 当時、毎年6月に行われていた鈴鹿明神社の祭りはもともと牛頭天王(八坂神)を祀った祭りであったと思われ、『新編相模国風土記稿』にも「例祭六月七日より十四日に至る。此時天王の神輿を仮屋に遷し入谷村星谷寺の僧来て法楽す」とある。
 『座間古説』には鈴鹿明神社と海老名の有鹿神社との深い結びつきを述べた次のような伝承も記されていて大変興味深い。かつて座間七ケ村の内の勝坂(現相模原市内)に有鹿(あるか)という蛇身の神が棲んでおり、鈴鹿の宝玉を盗もうと狙っていた。鈴鹿明神に合祀されていた梨の木の諏訪神と弁財天はこれを追い払うべく、蛇の姿となって谷の深(やのふけ)(桜田の周辺)で有鹿と戦い、相模川沿いに敗走した有鹿は海老名で有鹿明神(海老名市上郷)に祀られて海老名の総鎮守となった。その後、有鹿明神の神輿は勝坂に巡行したが、諏訪神社のある梨の木の諏訪坂をよけて進んだものの、鈴鹿の森の西方で神風に吹き飛ばされ、巻き落とされてしまった。そこでこのあたり(現在の座間小学校付近)を輿巻(こしまき)と呼び、以来、有鹿明神の神輿は梨の木の諏訪坂を通らない。
 また、鈴鹿明神の祭礼の神輿は毎年6月7日に鈴鹿の森を出て大川原(新田宿の相模川原)へ「浜降り」をし、14日まで宮川家(伊勢の宮川から明神に付き添ってきた人々の子孫という)前で休息のあとに還御するが、この日は有鹿の神輿の帰る日でもあって、有鹿の神はその時に石に変身し、馬の背に担がれて還御し、鈴鹿の神輿を引き上げるのを待ってからその後を通るのが習わしであったという。有鹿の氏子を困らせるために鈴鹿の神輿の出発をわざと遅くしたりすることもかつてはあったようで、ために有鹿の方でも仕来りを守らず、双方で相争うこともあったというが、享保の頃から6月14日に鈴鹿の神輿が有鹿の神輿を勝坂まで迎えにいき、ともに巡行して河原宿のあたりで別れて還御するかたちにあらためられるようになったといわれている。
 明治8年(1875年)には座間宿村が新たな鎮守神社として「飯綱権現社(座間神社)」を立てるにおよんで鈴鹿明神社の氏子から離れ、翌明治9年からは祭日も今までの6月7日~14日から8月1日~6日に変更された。それ以来、神輿も「浜降り」の際に座間宿に着輿せず、有鹿神社の神輿との合同渡御も行われなくなった。また、明治23年(1890年)からは皆原方面へも神輿が渡御するようになった。


入谷の歴史

 座間入谷地区は座間市の中央部に位置し、丘陵部を中心に山坂の多い変化に飛んだ地区である。現在の入谷一丁目から二丁目、三丁目、四丁目、五丁目を中心に広野台の南部、小松原の大部分、ひばりが丘の北部、明王、緑ヶ丘の大部分が相当する。北部と北西部は座間一丁目およびキャンプ座間に接し、西側は座間二丁目、四ツ谷に接している。南側は海老名市今泉地区であり、東側は栗原地区に接する。地域の中央を小田急線が走り、座間駅を持つ。西部の平地部にJR相模線が走り、入谷駅をもつ。
 入谷地域の台地上には縄文時代の遺跡が見られ、崖下でも鈴鹿明神社の池から縄文時代の居住跡の発掘があったように、台地上や崖下の豊かな湧き水を利用して古くから住民が生活していたものと思われる。この崖面や羽根沢地域の崖面には奈良時代と推定される横穴墓が見られる。
 「座間入谷」はもともと「座間」の本村とされていて、郷社鈴鹿明神社や坂東三十三番の八番札所である星谷寺などの古社が存在し、これらを結んで南北方向に府中街道・鎌倉古道・藤沢街道、東西方向に巡礼街道・星の谷街道・江戸街道・鶴間街道が通じている。『属日本紀』によれば座間の古名とされる「夷参」は、当時の東海道の駅家(うまや)であったとあるように古来から交通の要衝で、7~8世紀の政治情勢を考えると、蝦夷経営の軍事的基地でもあったようである。
 中世以降、坂東三十三観音巡礼の八番札所、星谷寺は、近郊の村々の石造物の多くが「星の谷道」の道標を兼ねているように、当地は信仰の霊地となった。通称「大門通り」は星谷寺の門前町として栄え、星谷寺前には座間入谷村の道路元標があって、距離測定の基準点であった。近世座間の中心地だったのである。また、星谷寺に現存する梵鐘に「源頼臣信綱(佐々木信綱)」の名が見えるのは、当地と佐々木氏の関わりを示す動かし難い物証である。古代・中世にさかのぼるような古い地名が散見され、東国各地に見られる座間姓、残馬姓の一族の存在を通じても、今後の研究によっては座間という名の歴史的な新局面が見られるかもしれない。
 『皇国地誌村誌』座間入谷村によると、元和元年(1615年)に領主内藤清成は八王子往来に新宿を設けようとして住民を誘致し、慶安の頃に至って整備が成ったことから、座間村から新宿を分村する気運が生まれ、寛文2年(1662年)の領主久世大和守の検地の際から、座間村は座間入谷村と座間村(新宿の地域)に分けられたとある。また、「座間入谷」の名の起こりについても、当時の名主福田権兵衛が「入り谷」に住んでいたためだと記されている。しかし、彊域(境域)についてはもと一村であったので、「田畑・山林等犬牙錯雑して区記すべからず」とあるように、入り組んだものが後世まで残ることになった。
 明治22年(1889年)に座間・座間入谷・栗原・新田宿・四ツ谷の5ケ村が合併して座間村となり、座間・座間入谷・栗原・新田宿・四ツ谷は大字として残された。明治17年の統合にあたっても、戸長役場はこの地(鈴鹿)に設けられ、村役場・町役場となってからも続いたのは、ここが座間の中心だという住民意識があったのであろう。大字「座間入谷」は昭和46年の市制施行にともない、昭和51年に町名を「入谷(1~5丁目)」となって現在に至り、市役所も平成7年に緑ケ丘一丁目へ移転してしまっている。
 現在の「入谷」には「鈴鹿」「長宿」「谷戸」「皆原」「星の谷」「羽根沢」の字名が見えるが、「下宿」にも「座間入谷」分がある。ここは前述の久世氏が陣屋を置きたかったのではあるまいか。彼は五ヶ村用用水新田宿用水の工事を実施し、相模川に堤防を築くなど、座間地域の開発のために大いに尽力した領主であったので、地元も活性化したことであろう。元禄3年(1690年)に鈴鹿明神社へ梵鐘が寄進され、これには座間近郷27ケ村の名主が記されていたが、第二次世界大戦中に供出されてしまった。
 寛文2年(1662年)から従来の座間村は座間入谷村と座間村(のちの座間宿村)に分村されたが、出身の座間入谷村との関係が深かったようで、「河原宿」の大日堂に残る天和3年(1683年)の霜月の手洗い石寄進者には「谷戸衆十五人」「皆原衆四人」「宿衆三人」とあり、谷戸の出身者が多いということで、「河原宿」は「谷戸の川原」(星谷寺過去帳)だったのだろう。なお、「座間入谷村」には上記のほか東部の芝原の飛び地と、「新戸谷戸」がふくまれていて、新戸谷戸は昭和46年の市制施行後に大字「明王」として残った。


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