上郷かみごう河原口かわらぐち

有鹿神社

 「有鹿(あるか)神社」は延長5年(927年)完成、康保4年(967年)施行の『延喜式』の「神名式(延喜式神名帳)」に記載されている相模国13座の1社で、近世には海老名郷五か村の総鎮守、河原口・上郷二か村の鎮守であった。『三代実録』によると「貞観十一年(869年)十一月十九日壬申、相模国従五位下有鹿の神に従五位上を授く。」とあり、相模国式内社十三座のうち六国史に叙位のあることが明記されているのは、一之宮の寒川神社を別にすれば当社と石楯尾神社のみである。
 創建時代は不詳であるが、永和3年(1377年)2月の作成とされる「有鹿明神縁起」では神亀3年(726年)には既に存在し、天平宝字元年(757年)に海老名郷司藤原広政が中心となり再建、鎌倉幕府滅亡時に兵火にかかり本殿以外の付属建物を失ったとされている。また、天保2年(1831年)9月に矢倉沢往還を通り、江戸から厚木等へ旅をした渡辺華山の「游相日記」には、「有鹿の神社といふあり、相模十三坐之一、式内の明神なり」と記されており、近世でも一般の神社とは異なるものと見られていたことが分かる。
 相模国高座郡の式内社六座のうちの「有鹿(あるか)神社」は・・・・ 拝殿は三間二面の建物で建築は比較的新しい・・・
 天保12年完成の『新編相模国風土記稿』によると当社はかつて、永和(1375〜77年)の古縁起と天正(1573〜91年)の続縁起を所蔵しており、古縁起では祭神が「大日?命(おおひるめのみこと)」であること、天平勝宝6年(754年)8月に郷土藤原広政というものが夢兆によって神祠を修理し、同8年に墾田五百町を寄進したことを記しているという。また、続縁起では天正3年(1575年)3月に別当総持院の住職である慶雄という者が、夢のなかの告げによって神祠の東北の池中に石一つぶをみつけて、これを神体として奉戴したということが記してあるという。前記の別当総持院は現在も有鹿神社の南100mほどのところにあり、「海老山満蔵寺」と号してその本尊の虚空蔵菩薩は有鹿神社の本地仏であったといわれる。

有鹿神社鳥居
狛犬狛犬
社号標社号柱など
幟竿玉垣
手水舎神社由緒
神鐘再建記念碑鉦楼
神楽殿記念碑
狛犬狛犬
燈籠拝殿
神額覆殿・幣殿
社務所絵馬
お札納箱御焚場
有鹿天神社日枝社ほか
水鉢・石祠など境内

 当社は現在、海老名市河原口に鎮座しているが、『日本地理志料』には「磯辺村に有鹿谷あり。毎歳神輿をここに奉じて祭をおさむ。けだし旧阯なり。」と記している。また、『風土記稿』では「祭礼年々四月八日、神輿を舁いで、村北磯部村内勝坂 二里を隔つ という所に至る。この地に洞あり、有鹿谷と呼ぶ。ここに神輿を駐めて神事を修し、六月十四日帰座するを例とす。」と記されている。すなわち、往古は当社が磯部村の勝坂の有鹿谷というところに鎮座しており、当社が河原口に遷祀したのちはそこが旅所となり、毎年例祭のときには神輿が2ヶ月余の長い期間この有鹿谷に駐留していたのである。
 現在でも有鹿谷は旧磯部村のなかの勝坂というところにあり、この勝坂はいわゆる勝坂式縄文土器の出土したところとして有名である。有鹿谷というのは勝坂の西に突出している丘陵のすその細長い谷をいうようで、その谷の反対側に相模川の一支流の鳩川が流れており、そこから3.5kmほど南の河原口の現有鹿神社のすぐ背後で相模川に注いでいる。この鳩川は古くからその流域の水田を灌漑し続けて来たものと思われる。勝坂の丘陵の西側の斜面は昔の有鹿神社の社地であったと思え、その丘陵の斜面に通じている小径を下ると、有鹿谷に接するところの一隅に一つの小さい石祠が立っている。高さ30cmほどの台石の上に三角形の蓋石を置いた石祠で、一方の面に「有鹿神社氏子中」と書き、反対の面には「昭和四十年十二月」と記してある。そしてそのそばに以前に置かれてあった石祠が壊れたまま積み重ねてあり、鹿の彫刻が施されているその石祠には明治十九年と記されている。
 明治42年(1909年)11月に河原口の郷社有鹿神社は神饌幣帛供進の指定に列せられた。
 有鹿神社の本殿と拝殿の天井に描かれている龍の絵は共に、平成4年(年)10月1日に海老名市の重要文化財に指定されている。本殿は数度の再建や修復が行われており、現存の本殿は覆屋内にあり、一間社流造、建築は18世紀中期と推定されている。彫刻を多用するなど年代的に進んだ形式を示している。拝殿天井の龍の絵は大住郡坪ノ内村(現伊勢原市坪ノ内)の画家近藤如水(別名藤原隆秀)の作で、政策年次ははっきりしないが。如水が諸国を遍歴した後に故郷の坪之内に落ち着いた嘉永2年(1849年)頃と思われる。


祭神

 鈴鹿連胤の『神社覈録』によると有鹿神社の祭神は「太玉命(ふとだまのみこと)」であるとなし、その典拠として『惣国風土記』巻七十残欠に「相模国高座郡有鹿神社 圭田五十七束八毛田、祭るところ忌部氏の祖神太玉命なり。天智天皇三年(664年) 甲子夏五月、初めて神礼を行う。」という記事のあることを記している。当社の祭神も長い年月のあいだは、いろいろの変遷を経たものと思われる。


例大祭

 7月14日に近い日曜日

囃子

●上郷はやし連
 上郷の囃子は「下町囃子系」で、明治時代に草柳の方から来た東京の人より伝授されたとの伝承がある。囃子は大太鼓1・締太鼓4・鉦1・笛で構成され、曲目は「鎌倉」・「四丁目/シチョーマイ」・「岡崎」・「屋台」・「ねんねこ(踊)」・「キリ(お終い)」がある。
 「上郷はやし連」は毎週金曜日に上郷自治会館で練習をしており、年末年始やGW、盆休み以外はほとんど実施している。令和7年(2025年)時点での年間行事としては次のようになっている。以前は、4月のさくらまつりや8月の盆踊りにも参加していた。

・1月第4日・・・新春はやし叩き初め大会
・5月か10月どちらか一回・・・せせらぎまつり(県立相模三川公園)
・7月第2日・・・有鹿神社例大祭
・8月第4日・・・扇町おもいで祭り
・10月第4日・・・郷土芸能発表会 ※不定期(2025年参加)
・11月第1土・・・えびなっ子ふれあいフェスタ ※不定期(2024年参加)
・11月第3日・・・えびな市民まつり


●河原口はやし連
 河原口の囃子は「下町囃子系」で、昭和59年(1984年)にはやし連を設立した。囃子は大太鼓1・締太鼓4・鉦1・笛1で構成され、曲目は「鎌倉」・「仕丁目」・「屋台囃子」・「岡崎」・「はじめ」などがある。「河原口はやし連」


神輿

 


有鹿神社の社号

 有鹿神社の社号のよみかたについては三説ある。第一説は「アリカ」という説で、『風土記稿』によると社号に「阿利加」と注しており、『神社覈録』も同説である。これに対して『日本地理志料』や『大日本地名辞書は「アラカ」とよんでおり、そのうち『日本地理志料』には「有鹿 訓欠く。正に読んで阿良加と云うべし、即ち在処(あらか)なり。紀伊に荒賀郷あり、古語拾遺に「麁香」に作る。いわく、古え正殿を謂いて麁香となす。神名式に高座郡有鹿神社を載す。蓋し麁香ノ忌部ここに居り、その祖、手置帆負、彦狭知の二神を祀る。云云」と記してある。
 アリカ説の二書もとくにその理由を示していないが、『日本地理志料』が上記のように「有鹿」を『古語拾遺』の「麁香」にちなむものであるとし、アラカの忌部がここに住んでその祖先を祭ったというのは、『惣国風土記』残欠に「有鹿神社の祭神を忌部氏祖神の太玉命なり」と記していることに基づいたものであると思われる。
 ところが現地の氏子によると有鹿神社のよみ方は「アルカ神社」であるといっており、古老たちは「アルカ様」と称している。したがってこの素朴なよみ方が本来のものと考えることもできる。


 河原口を含む旧「海老名町」は昭和15年(1940年)に町制が敷かれる以前は、明治22年(1889年)年以来「海老名村」と呼ばれていた。またそれより前にさかのぼり江戸中期頃までは、海老名村は「河原口」・「国分(こくぶ)」・「大谷(おおや)」・「中新田(なかしんでん)」・「上郷(かみごう)」・「上今泉(かみいまいずみ)」・「下今泉(しもいまいず)」・「柏(みかし)ヶ谷(わが)」の八ヵ村に分かれていた。ところが江戸初期の生保の地図を見ると上郷村(河原口村の有鹿神社のすぐ北に続く)は「上海老名村」といい、上今泉村と下今泉村の両村は分離しないで「泉村」という一村であった。
 さらに室町時代にさかのぼると応永9年(1402年)の鶴岡八幡神社、大伴氏蔵の文書には「当国下海老名郷領家職事云云」の記事があり、そのころこの辺りは「上海老名郷」と「下海老名郷」に分かれていたことが伺える。さらにもっと古くは二つに分離しないで全体を「海老名郷」と唱えていた。平安末期の康平年間(1058〜64年)の奥州の役には源頼義の武将に海老名源四郎親季があり、また、源平合戦のころには海老名源八季定等の名が史上に残されているが、これらはいずれもこの地方に居住して在名を名のっていたものと思われる。
 ところが平安中期に著わされた『和名抄』によると海老名郷という郷名はなく、「有鹿郷」という郷名が載せられている。『日本地理志料』では有鹿郷の説明として「図を按ずるに、上郷、河原口、中野、中新田、社家、門沢橋の諸邑に亘りて海老名郷と称し、渋谷庄に属す。是れ其の域なり」と記している。また、『大日本地名辞典』は「有鹿郷は今、海老名村及び綾瀬村蓋し是れなり。」と述べており、当時の海老名および綾瀬村の地域は前記の『日本地理志料』にいう諸村のほかに、それより東側の早川・深谷・蓼川・寺尾などの旧諸村をも含み、そうとう広い範囲に及んでいたことになる。
 なお、有鹿郷の郷名が後に海老名郷と称されるようになった理由はその形状に基づくものではないかと考えられ、文字通り動物のエビに似ていることから生じた地名であると思われる。この土地の形状は極めて細長く、上今泉・下今泉の旧村を頭部とし、河原口のところがやや膨らんで腹部となり、門沢橋のあたりが尾部にあたる。また、エビナのナは土地という意味で、山名・川名・桑名・浜名などの類型の地名がある。


上郷の歴史

 上郷(かみごう)は海老名市の北西部に位置し、相模川左岸沿いに分布する自然堤防上にできた集落で、東は国分・上今泉・下今泉、西は相模川を隔てて下依知・金田(厚木市)、南は河原口、北は四ツ谷(座間市)に隣接する。「西界ヲ流ル相模川出水ノ節、年々度々堤切、御田地荒地出来仕、困窮ノ村方ニ候得共・・・」とあり、水損勝ちの村であった。四ツ谷境にあった外記宿は旧くは当村とは地続きの地であるが、相模川の氾濫により流失して飛び地となり、後に流路の変遷により川沿いの砂地続きとなる。用水は鳩川と磯部(相模原市)から取り入れた相模川の水を上今泉字榎戸にて堰入れ、当地の水田を潤している。
 上郷の名前の由来は定かではないが、海老名郷五か村の最上部の村という意味か。『元禄郷帳』には「海老名古者上村上之郷村」とある。上之郷の用例は明治初年の文書でも見られるところから、上郷もカミノゴウと呼んでいたものと思われる。一説によると、「上」は式内社有鹿神社より北の意ともいう。この地の西南縁の自然堤防上には弥生後期〜平安時代の土器片が出土し、上郷遺跡では中世墓地が調査されるなど古い時代からの生活と生産の歴史が認められる地である。下海老名郷の初見は文永元年(1264年)の海老名季景の譲状といわれ、下の地名は上海老名郷の存在を物語り、その本拠地は河原口地区の字御屋敷の地であったという。神海老名郷の海老名を省略し「上郷」として残るという見解もある。
 徳川の江戸入国後、当村は徳川氏の直轄領と旗本高木氏の二給地であった。検地は天正19年(1591年)で、自然堤防から離れた後背湿地は水田となり、村の南端を東西に大山道が通り、南北を八王子道が通っている。また、『風土記稿』記載の小名「外記」は江戸初期に家康の柩が日光へ向かう際の休憩地であったこと、またそれ以前、日蓮配流の時に当地にて詠んだという伝承によるとされ、この地が「宿」として存在していたということになる。その後の「度々の川欠・・・」の被害により本村の飛び地となった地である。当村は明治3年(年)の明細帳によると、「土性沼田砂交り、畑は真土砂交り、相模川縁水損場」であり、「家数八一戸中、農七八戸、鮎漁稼人一二人、船持一〇人」の記載がある。


河原口の歴史

 河原口(かわらぐち/かあらぐち)は海老名市の中西部やや北寄り、相模川の沖積低地左岸に位置する。東は国分・大谷に、西は相模川を挟んで厚木・金田(厚木市)に、南は中新田、北は上郷に隣接する。相模川の発達した自然堤防上(標高21〜22m)に早くから形成した集落と、中世に海老名耕地とよばれた後背湿地帯を抱えた地域である。
 河原口の地名は相模川と中津川、小鮎川の三川が合流して大きな河口を形成することによるといわれるが、村の出入口が河原にあるところから起こった地名であろう。当地はかつて対岸の厚木と共に相模川にかかる「厚木の渡し」の渡船権をもつ宿駅で、大山街道、八王子街道の交点にも当たり賑わった村である。なお、村名の表記については『風土記稿』は「川」、『相中留恩記略』は「河」を用い、有鹿神社の石灯籠銘は「川」を刻んでいることから、「河」の定着は明治22年以降であると思われる。
 当村の成立期は未詳であるが、自然堤防上に鎮座する海老名五村の総鎮守、式内社有鹿神社の存在により、当時の相模国有鹿郷の拡がりを想定できる。相模川の自然堤防上に人々がその生活の跡を残すのは弥生後期に遡るという。また、後背湿地については古代条里制を思わせる整然とした区画と、一〜五大縄の字名が残り、試掘によれば現在の直線道路の下層に当時の畦畔や「イネ」の珪酸体(プラントオパール)が検出されたといい、この地の古い定住の歴史を知ることができる。「海老名」の地名について『風土記稿』では、旧く康平年間(1058〜65年)に既に当地の地名を姓とした伊予守の属将があったこと、応永の頃(1394〜1428年)は郷が上・下に分かれていたことを記している。また、永享の乱の折には足利持氏がこの地に在陣したことなどが伝えられている。
 小田原北条氏時代は川越衆山中姓二氏により知行され、家康入国後は幕領となり、天正19年(1591年)に検知、当時の民戸は63戸という。用水は鳩川の水を下今泉村字榎戸の堰で引き入れ南の村々の水田を潤した。源流にあたる北磯部村勝坂(相模原市)の有鹿洞において当村有鹿神社の神事として、ここを訪い修す行事が行われていたという。街道は八王子道が南北に、大山街道が東西に通じ、厚木の渡しにつながる。社寺は『風土記稿』に有鹿神社、総持院、宗珪寺、安養院などが載る。


厚木の渡し

 相模橋が架けられるまで大山街道を往来する人々が相模川を越えるためには、厚木の渡しに頼るより他に術はなかった。相模川の渡し場は「馬入の渡し」をはじめとして、みな右岸の地名を冠しているが、なぜ「河原口の渡し」と呼ばなかったのであろうか。それは東京が首都になる以前は京都中心で、京都の方を上方といい、京都方面の地名をとったからである。
 渡しの運営は厚木側は溝呂木氏の私営、海老名側は河原口と中新田が共同で行っていた。船は底の平たい平田船を用いていた。『風土記稿』の河原口渡船場の項に「・・・持船五艘をおいて、往来に便す」とあり、そのうち一艘は馬船であった。徳川家康もしばしばこの渡しを利用して、中新田にある老臣高木清秀の屋敷を尋ねた。ある時、中新田の船頭が家康を乗せて船を操っていると、川に溺れる者がいた。船頭が直ちに飛び込んでその者を助けると、その鮮やかな身のこなしに大変感激した家康は、その様が鴨に似ていたとしてこの船頭に鴨之助という名を与えた逸話がある。
 昭和の初めに政友会の重鎮であった胎中楠右衛門(たいなかくすえもん)が少年の頃に、勉学のために上京しようと郷里の高知を出発してこの厚木の渡しにさしかかった。ところが懐中無一文で困り果てていたのを、海老名の一村民がなにがしかの金を恵んで助けた。後年、氏が上今泉の秋葉山に居を構え、国家や選挙区のために力を尽くしたのも、この渡しの機縁からであったという。  「さあことだ馬が小便渡し船」これは何かの折に馬と人が同船した時のこと、逃げ場もなく馬の小便の飛沫を浴びてしまったという笑えぬ風景もあったという。古い絵図では船番小屋は川岸近くに建っているが、「明治のころはすぐ土手下にあって船頭2人が待機していた。寒い時には火を燃やして暖をとっていて、5人くらいたまると船を出していた」と今は亡き古老の話であった。


戻る(海老名市の祭礼)