河原口
神社の紹介
相模国高座郡の式内社六座のうちの「有鹿(あるか)神社」は・・・・ 拝殿は三間二面の建物で建築は比較的新しい・・・
『三代実録』によると「貞観十一年(869年)十一月十九日壬申、相模国従五位下有鹿の神に従五位上を授く。」とあり、相模国式内社十三座のうち六国史に叙位のあることが明記されているのは、一之宮の寒川神社を別にすれば当社と石楯尾神社のみである。有鹿神社に関しては、有鹿神が貞観十一年(869年)十一月十九日壬申に従五位に昇叙された(三代実録)。
天保12年完成の『新編相模国風土記稿』によると当社はかつて、永和(1375〜77年)の古縁起と天正(1573〜91年)の続縁起を所蔵しており、古縁起では祭神が「大日?命(おおひるめのみこと)」であること、天平勝宝6年(754年)8月に郷土藤原広政というものが夢兆によって神祠を修理し、同8年に墾田五百町を寄進したことを記しているという。また、続縁起では天正3年(1575年)3月に別当総持院の住職である慶雄という者が、夢のなかの告げによって神祠の東北の池中に石一つぶをみつけて、これを神体として奉戴したということが記してあるという。前記の別当総持院は現在も有鹿神社の南100mほどのところにあり、「海老山満蔵寺」と号してその本尊の虚空蔵菩薩は有鹿神社の本地仏であったといわれる。
有鹿神社 | 鳥居 |
狛犬 | 狛犬 |
社号標 | 社号柱など |
幟竿 | 玉垣 |
手水舎 | 神社由緒 |
神鐘再建記念碑 | 鉦楼 |
神楽殿 | 記念碑 |
狛犬 | 狛犬 |
燈籠 | 拝殿 |
神額 | 覆殿・幣殿 |
社務所 | 絵馬 |
お札納箱 | 御焚場 |
有鹿天神社 | 日枝社ほか |
水鉢・石祠など | 境内 |
当社は現在、海老名市河原口に鎮座しているが、『日本地理志料』には「磯辺村に有鹿谷あり。毎歳神輿をここに奉じて祭をおさむ。けだし旧阯なり。」と記している。また、『風土記稿』では「祭礼年々四月八日、神輿を舁いで、村北磯部村内勝坂 二里を隔つ という所に至る。この地に洞あり、有鹿谷と呼ぶ。ここに神輿を駐めて神事を修し、六月十四日帰座するを例とす。」と記されている。すなわち、往古は当社が磯部村の勝坂の有鹿谷というところに鎮座しており、当社が河原口に遷祀したのちはそこが旅所となり、毎年例祭のときには神輿が2ヶ月余の長い期間この有鹿谷に駐留していたのである。
現在でも有鹿谷は旧磯部村のなかの勝坂というところにあり、この勝坂はいわゆる勝坂式縄文土器の出土したところとして有名である。有鹿谷というのは勝坂の西に突出している丘陵のすその細長い谷をいうようで、その谷の反対側に相模川の一支流の鳩川が流れており、そこから3.5kmほど南の河原口の現有鹿神社のすぐ背後で相模川に注いでいる。この鳩川は古くからその流域の水田を灌漑し続けて来たものと思われる。勝坂の丘陵の西側の斜面は昔の有鹿神社の社地であったと思え、その丘陵の斜面に通じている小径を下ると、有鹿谷に接するところの一隅に一つの小さい石祠が立っている。高さ30cmほどの台石の上に三角形の蓋石を置いた石祠で、一方の面に「有鹿神社氏子中」と書き、反対の面には「昭和四十年十二月」と記してある。そしてそのそばに以前に置かれてあった石祠が壊れたまま積み重ねてあり、鹿の彫刻が施されているその石祠には明治十九年と記されている。
祭囃子
●河原口はやし連
昭和59年(1984年)にはやし連を設立。囃子は大太鼓1・締太鼓4・鉦1・笛1で構成され、曲目は「鎌倉」・「仕丁目」・「屋台囃子」・「岡崎」・「はじめ」などがある。
●上郷はやし連
上郷の囃子は明治時代に草柳の方から伝授されたとの伝承があるが、詳細は不明である。囃子は大太鼓1・締太鼓4・鉦1・笛で構成され、曲目は「鎌倉」・「四丁目/シチョーマイ」・「岡崎」・「屋台」・「ねんねこ(踊)」・「キリ(お終い)」がある。7月の有鹿神社の祭礼のほか、4月のさくらまつりや8月の盆踊りなどで演奏される。
神輿
祭神
鈴鹿連胤の『神社覈録』によると有鹿神社の祭神は「太玉命(ふとだまのみこと)」であるとなし、その典拠として『惣国風土記』巻七十残欠に「相模国高座郡有鹿神社 圭田五十七束八毛田、祭るところ忌部氏の祖神太玉命なり。天智天皇三年(664年) 甲子夏五月、初めて神礼を行う。」という記事のあることを記している。当社の祭神も長い年月のあいだは、いろいろの変遷を経たものと思われる。
例大祭
7月14日?
河原口を含む旧「海老名町」は昭和15年(1940年)に町制が敷かれる以前は、明治22年(1889年)年以来「海老名村」と呼ばれていた。またそれより前にさかのぼり江戸中期頃までは、海老名村は「河原口」・「国分(こくぶ)」・「大谷(おおや)」・「中新田(なかしんでん)」・「上郷(かみごう)」・「上今泉(かみいまいずみ)」・「下今泉(しもいまいず)」・「柏(みかし)ヶ谷(わが)」の八ヵ村に分かれていた。ところが江戸初期の生保の地図を見ると上郷村(河原口村の有鹿神社のすぐ北に続く)は「上海老名村」といい、上今泉村と下今泉村の両村は分離しないで「泉村」という一村であった。
さらに室町時代にさかのぼると応永9年(1402年)の鶴岡八幡神社、大伴氏蔵の文書には「当国下海老名郷領家職事云云」の記事があり、そのころこの辺りは「上海老名郷」と「下海老名郷」に分かれていたことが伺える。さらにもっと古くは二つに分離しないで全体を「海老名郷」と唱えていた。平安末期の康平年間(1058〜64年)の奥州の役には源頼義の武将に海老名源四郎親季があり、また、源平合戦のころには海老名源八季定等の名が史上に残されているが、これらはいずれもこの地方に居住して在名を名のっていたものと思われる。
ところが平安中期に著わされた『和名抄』によると海老名郷という郷名はなく、「有鹿郷」という郷名が載せられている。『日本地理志料』では有鹿郷の説明として「図を按ずるに、上郷、河原口、中野、中新田、社家、門沢橋の諸邑に亘りて海老名郷と称し、渋谷庄に属す。是れ其の域なり」と記している。また、『大日本地名辞典』は「有鹿郷は今、海老名村及び綾瀬村蓋し是れなり。」と述べており、当時の海老名および綾瀬村の地域は前記の『日本地理志料』にいう諸村のほかに、それより東側の早川・深谷・蓼川・寺尾などの旧諸村をも含み、そうとう広い範囲に及んでいたことになる。
なお、有鹿郷の郷名が後に海老名郷と称されるようになった理由はその形状に基づくものではないかと考えられ、文字通り動物のエビに似ていることから生じた地名であると思われる。この土地の形状は極めて細長く、上今泉・下今泉の旧村を頭部とし、河原口のところがやや膨らんで腹部となり、門沢橋のあたりが尾部にあたる。また、エビナのナは土地という意味で、山名・川名・桑名・浜名などの類型の地名がある。
有鹿神社の社号のよみかたについては三説ある。第一説は「アリカ」という説で、『風土記稿』によると社号に「阿利加」と注しており、『神社覈録』も同説である。これに対して『日本地理志料』や『大日本地名辞書は「アラカ」とよんでおり、そのうち『日本地理志料』には「有鹿 訓欠く。正に読んで阿良加と云うべし、即ち在処(あらか)なり。紀伊に荒賀郷あり、古語拾遺に「麁香」に作る。いわく、古え正殿を謂いて麁香となす。神名式に高座郡有鹿神社を載す。蓋し麁香ノ忌部ここに居り、その祖、手置帆負、彦狭知の二神を祀る。云云」と記してある。
アリカ説の二書もとくにその理由を示していないが、『日本地理志料』が上記のように「有鹿」を『古語拾遺』の「麁香」にちなむものであるとし、アラカの忌部がここに住んでその祖先を祭ったというのは、『惣国風土記』残欠に「有鹿神社の祭神を忌部氏祖神の太玉命なり」と記していることに基づいたものであると思われる。
ところが現地の氏子によると有鹿神社のよみ方は「アルカ神社」であるといっており、古老たちは「アルカ様」と称している。したがってこの素朴なよみ方が本来のものと考えることもできる。
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