囃子ばやし

祭囃子とは

  祭囃子の一般的な源流は中世に発する京洛祇園会(きょうらくぎおんかい)の祇園囃子とされているが、既に古代日本には太鼓・金器などを用いて、農作物(特に稲)の害虫を追い払う呪術(じゅじゅつ)行事である「虫送り」や「疫神(疫病神)送り」などの風習が存在し、祇園会の疫神追放行事(869年初発)に先駆する。そのため、祭囃子は支那の爆竹などと同じく強烈な音響を以って魑魅魍魎(ちみもうりょう)を街頭から呪圧することに発端し、それが笛・太鼓・鉦という器楽の整頓を受けて囃子を構成し、道を行く山車を神座として祭祀音楽化したものであると考えられる。日本六十六国の城主や豪族が夏季の悪霊退散の呪術として招来したなど多くの記録がある。
  この様に祭囃子とは神幸の行道楽の一種であり、さらに日本最初の外来楽舞であった「伎楽(ぎがく)」の古称「道楽(みちがく)」の流係であって、その韻律を民間の素朴な楽器によって模擬・模倣して民俗の祭礼に用いたのが初発であと思われる。囃子というとたいていは音曲としての囃子をイメージするが、古くは様々な賑やかしもハヤシの機能を帯びていおり、それがもっぱら音曲としての囃子を言うようになった。また、道楽という言葉から分るように祭囃子は「山鉾」・「屋台」・「練物」・「楽車」・「山車」など、路上を練行する用具の上部または内部に一定の配置場所を設けて演奏される。近来、交通事情などの制限によって運行を禁止される場合、神社の「神楽殿」・「拝殿」・「櫓」などの固定した場所で奏し、これを「居囃子(いばやし)」と言う。



祭礼囃子の由来

  祭囃子に関する最も古い文献は明治28年(1895年)に発行された『祭礼囃子の由来』であると思われ、内容として囃子の由来と巻末に東京西南地区の囃子連名が記載されている。この本は活字本と毛筆本の2種類が現存し両社の内容はほぼ同じであるが、曲目の扱いについては若干の相違点があり、さらに毛筆本の巻末には囃子連名がない。

●祭礼囃子の起源について
「    祭礼囃子の由来
抑も神社祭典に於て囃子及び舞子をなす其元始及び盛衰を記するに当り先づ前世音楽の最も至近なるものを例証し以て起原の概略を載す是却りて明瞭よして敢て贅言に非らざるべし 」
               ↓以下は現代語訳
『    祭礼囃子の由来
  そもそも神社祭典において、囃子および舞子の起源と盛衰を記すにあたり、まず前世の音楽のなかで最も近いものを例にあげて起源の概略を記す。こうしたほうがかえって明瞭であり、あえて余計な説明をする必要はない。 』

「    同 元始前
人皇三拾四代推古天皇の御宇秦川勝舞ひを始め又三十六番の面を造る七十三代堀川院永長元年京都にて田楽法師と云ふもの流行す白河法皇院中に召して是が技芸を叡覧し賜ふ以上は斯技の起原にして源氏物語宇治拾遺及古書に徴して明なり史に曰く「文治五年乙酉頼朝及妻政子詣鶴ケ岡祠召静命舞垂簾観焉云々、」中略す「此時工藤祐経?皷畠山重忠撃銅拍子云々」と是蓋し静の舞ひは七拾四代鳥羽の院の御世永久三年乙末遊君嶋の千歳、若の前、等の始めし所の女舞流にして囃子は後日祭礼囃子の起る兆となるなり然り而して以上の技芸は当時専ら大奥及び武士中に行はれ大に玩楽の具となれり而して以上の人等は斯道の達人なりき  」
               ↓以下は現代語訳
『    祭礼囃子の発祥以前
  人皇(※それ以前の神代に対して神武天皇を初代とする代々の天皇)35代の推古天皇の時代(593〜628年)に、秦河勝(秦氏は6世紀頃に朝鮮半島を経由して日本列島の倭国へ渡来した渡来人集団といわれる)が舞を始め、また36番の面を造った。73代の堀川院の永長元年(1096年)に京都において田楽法師(田楽を演ずる専門の芸能者)というものが流行し、白河法皇(1129年崩御)の院中に招かれてこの芸能が披露された以上、この伎(祭礼囃子の技?)の起源であり、源氏物語、宇治拾遺および古書に照らし合わせても明らかである。・・・・(漢文の訳は後日)        静の舞は74代鳥羽院(1103〜1156年)の在位期間(1107〜23年)の永久3年(1115年)乙末に遊君島の千歳、若の前などが始まった時の女舞流であり、この囃子は後日に祭礼囃子の起る兆しとなったようである。以上の技芸は、当時もっぱら大奥および武士の間で行われ、遊びの道具として広まるとともに、こられの人達はこの道の達人となった(なりきの意味は?)。  』

「    同 元始
建久三年七月頼朝征夷大将軍に任ぜらる於是頼朝鶴ケ岡八幡を相模国鎌倉雪の下に於て大に祭祀す朝野其美を尽して祭典す其の華麗殷振言語の能く及ぶ所よ非ざりしといふ殊に将軍治政の始め加之幕府の地たるを以て今人の予想外なりしを推して知るべきなり是より先永久以降は古来の音楽大奥及武士の専ら玩弄する所となり居れり然るに彼の杉山の六騎と称するもの即ち土肥次郎実平、同弥太郎遠平、土屋三郎宗遠、岡崎四郎義実、足立藤九郎盛長及新開忠氏此の六氏は斯道の所謂達人と謂ふべきものなりき然るを以て此の大祭に與ると同時に当時猶互に恙なきことを祝し旧懐の余り同情相求め五人囃子の雑曲を奏し迭く且舞ひ且調曲せられし是則祭礼に於て囃子及舞子のある原始とはなり而して其曲節の美妙にして且勇ましく当時武士の嗜好に適せし故一時に流伝せり又其曲を命名するに地名祭儀軍事都景等を以て今猶其名を存す即ち鎌倉、國堅、昇殿、大間昇殿、宮昇殿、破矢、師調目、能懸、都津波、宮鎌倉、麒麟、階殿、活光、等なり而して以上の六氏は皆万町以上の領地を有し所謂大名なりしことは鎌倉武鑑等にも載する所なり是よりして上の好む所は下亦之に従ふ宜なる哉相州一宮寒川神社を始めとして近在近郷は勿論祭礼には必ず此囃子及舞子を奏調することとはなりぬ是より伝播して殆んど天下に普く其流行盛大遂に其極を見ざるに至りき
鎌倉三代及北条七代中は最も盛なりしが北条高時以後足利氏末世迄は天下麻の如く乱れ戦争止む時なかりし程なるを以て随ひて神事祭礼を往々欠くに至れり是を以て大に斯道衰へり是時世の変化に伴ひ数の免かれざる所其浮沈敢へて怪むに足らざるなり  」
               ↓以下は現代語訳
『    祭礼囃子の起源
  建久3年(1192年)7月に頼朝が征夷大将軍に任命されると、頼朝は相模国の鎌倉雪の下において鶴ケ岡八幡を大いに祭祀し、朝野(朝廷と民間)はその美を尽して祭典を催した。その華麗で賑やかな・・・ これより先永久(1113〜17年)以降は古来の音楽が専ら大奥および武士の遊び道具であった。それにもかかわらず、頼朝の杉山の六騎と称するもの、すなわち土肥次郎実平、同じく土肥弥太郎遠平、土屋三郎宗遠岡崎四郎義実、足立藤九郎盛長および新開忠氏、この6人はこの道の俗に言う達人といわれる者であった。そうしたことからこの大祭に招かれると同時に、当時お互いに平穏無事であったことを祝し、昔を懐かしく思うあまり同情(?)を互いに求めて五人囃子の雑曲(雅楽以外の曲)を演奏し、代わる代わる舞っては曲を演奏した。すなわちこれは祭礼において囃子および舞子の起こりとなるものであり、その曲調は言い表せないほどの美しさである一方、勇ましくもあり、当時武士の好みに合っていたことから瞬く間に世間へ広く伝わった。また、その曲を命名する際に地名・祭儀・軍事・都景などを採用し、今なおその曲名が存在する。すなわち、鎌倉・国堅・昇殿・大間昇殿・宮昇殿・破矢・師調目・能懸・都津波・宮鎌倉・麒麟・階殿・活光などである。そして以上の6氏は皆万町以上の領地を所有するいわゆる大名であることは、鎌倉武鑑にも載るところである。これにより、上(かみ)の好むものは下(しも)も同様に従うのは当然のことであり、相州一宮寒川神社を始めとして近在近郷はもちろんのこと、祭礼には必ずこの囃子および舞子を演奏するようになった。これによって伝播し、ほぼ国内全域に広まったその流行は盛大ではあったが、最終的にはその極みを見ることはなかった。
  鎌倉3代(源実朝、在職:1203〜19年)および北条7代(北条正村、在職:1264〜68年)の時代はこの祭礼囃子および舞子が最も盛んであったが、北条高時(第14代、在職:1316〜26年)以後から足利氏の末世までは世の中の状態がひどく乱れ、戦争が止むことがなかった程であった。従って神事祭礼を実施できなかったことは頻繁にあったことで、祭礼囃子および舞子は衰退していったのである。これは時代の変化に伴って免れることのできない事態であり、その浮き沈みは当然の結果である。  』

●徳川時代の祭礼囃子について
「      同 徳川時代
天正十八年八月徳川家康江戸城に入り市街を開邸第を設け諸神を祭るに当り斯道再挽回し漸々隆盛の緒を開けり然れども世の変遷に伴ふて古の流儀とは大に趣きを異にせり是時世の然らしむる所言を待たざるなり而して他國の事実は暫く置き是より専ら江戸而己に係る事を記せんと欲す
慶長八年八月家康征夷大将軍となりし以降慶応の末年に至る弐百六十年間世の太平に伴ひ武蔵國一の宮氷川神社、神田神社、芝神明、王子権現、渋谷八幡、等の大祭には華車数輛を引き之を賑はすに必ず祭礼囃子及舞子を附す而して時の将軍の上覧或は諸大名の賞覧ありしこと枚挙するに遑あらず又寛保元年及天明二年には鎌倉八幡宮の開帳を富ケ岡に又亀井戸に於て享和二年に天満宮の九百年忌祭等此前後或は花車或は屋台等に於て此伎を演ず其盛大殷賑幾何なる素より比数なかりき因りて当時の人天下一の祭と称せしなり是当時の記録を見ても決して誣称に非さるなきを知るべし
当時武士の歌舞伎を卑み其見物を禁ぜられしにも係らず囃子及舞子は猶将軍及諸大名の上覧ありしは斯道の最も名誉ある処なり如何となれば当時は古の如く上下混同に非あらず多く在野人士の伎に傾ければなり然れども猶諸大名及幕下の紳士にも亦斯道を好めるもの往々是あり其主なる例を證として挙げれば元松江藩主済々殿即ち楊光翁及有名なる大久保彦左衛門孫字鬼善兵衛氏等は最も著名なり猶此他多しと雖紙数に限りあり且繁累なるを以て省きぬ以上記載の祭礼に次ぐものは飯倉、妻恋、三囲、亀井戸、冨ケ岡、牛の午前、府中六社、鷲明神、愛宕、湯嶋、三輪明神等なり其他村落に至りては筆紙の能く尽す所に非ざるなり是を以て至る処斯の曲調を耳にせざるは無きに至れり誠に盛なりと謂ふべし如斯なるを以て殊更江戸は天下の首府なる故斯道の盛大にして且冠たること亦偶然ならんや然り而して斯く盛大なるを以て是時に当り諸國の名人続々江戸に集り神田神社大祭には替違昇殿、神田丸、又亀井戸神社大祭には亀井戸の新曲調を奏始す等古今未曾有の大盛を極めたり故に世人天下祭りと称せしなり而して文化時代は煎餅屋留七、神徒安五郎、神主増五郎の三氏等斯道の名人なりき而して最も破矢、横笛を能せしなり是より大井馬込の江の島、経堂の安宅崩、谷山の矢車、金獅子、目黒の本間矢車、碑文谷の大幕、上目黒の本間崩、大平分の麒麟崩其他下り葉等の新囃子続々起れり以上記す所は斯道の主なるもの而己を挙げたる迄にして此間の大祭に関したる囃子は往々泰平記、及当時の雑所に明なるを以ちて茲に大略す若し是事を尋ねんと欲せば以上の書籍に附きて見るべし以上述ぶる処は慶応四年即ち明治元年迄の大略にして其基着する処は古書に徴し又斯道の名人の遺書及高老の口傳并に口唱中最も確実なるものを集めたるものなり其誤脱は後の君子の教へを待故に敢て言語文字を毫も修飾せず唯実事而己を記載すと云ふ爾
附言明治元年より今明治廿八年に至る間の事実は現在諸人士の明瞭に知覚し且其徴跡審に殊更肉体を以て聞視せられし故に載せず是記者の労を省くのみならず亦權便ならん然れども明治の囃子と称するものあり今是而己を挙ぐ即ち六郷の金澤昇殿及馬込の両國並に大世話人の連戦勝伝是なり
以上記する所の末端は専ら当部内に係るものなり茲に同士と謀り部内有名人士の連名を加へ印刷し以て頒つ  」
               ↓以下は現代語訳
『    徳川時代の祭礼囃子
  天正18年(1590年)8月に徳川家康が江戸城へ入り、市街を開いて屋敷を設置すると、諸神を祀るにあたって祭礼囃子および舞子が再び挽回し、徐々に隆盛の糸口を開いていった。しかしながら、世の中の変遷に伴って古い形式の祭礼囃子および舞子は当時の好みとは大きくかけ離れ、これは時代の流れがそうさせているのであって・・・(?)。他国の事実は暫く置くことにし、これから主に江戸のみについて記したいと思う。
  慶長8年(1603年)8月に家康は征夷大将軍となり、これ以降は慶応の末年に至る265年の間、世の中が平和になってくると武蔵国一の宮である氷川神社、神田神社、芝神明、王子権現、渋谷八幡などの大祭には華車(だし)数台を曳いて、これを賑やかすには必ず祭礼囃子および舞子が付随していた。そして時の将軍や諸大名がこれを観賞したという史実は、数えたらきりがない。また、寛保元年(1741年)および天明2年(1782年)には鎌倉八幡宮の開帳を冨ケ岡に、また、亀井戸においては享和2年(1802年)に天満宮の900年忌祭など、この前後に花車(だし)あるいは屋台などにおいてこの祭礼囃子および舞子が演じられた。その盛大さはほ・・・(?)  よって当時の人は天下一の祭と称し、これは当時の記録を見ても決して事実と反することではないと理解できる。
  当時は武士の歌舞伎が見る価値のないものとして位置づけられており、その見物を禁止されていたにも係わらず、囃子および舞子が相も変らず将軍および大名によって上覧されていたことは、この道において最も名誉のあることであった。なぜならば当時は古くからのしきたりのように上下混同の時代ではなく、多くは一般庶民の中で地位や教養のあった者がたしなむ程度であった状況にも係わらず、なおも諸大名および幕下のような位の高い人々がこの道を好んだからである。その例を証拠として挙げれば、元松江藩主済々殿、すなわち楊光翁および有名な大久保彦左衛門の孫である鬼善兵衛氏(あだ名)などは最もその名が世間に知られている。なお、この他にも多くの人物が存在していたが、紙数に限りがあるのと話が複雑になってしまうので省略する。以上の祭礼に次ぐものとしては飯倉、妻恋、三囲、亀井戸、冨ケ岡、牛の午前、府中六社、鷲明神、愛宕、湯嶋、三輪明神などであり、その他の村落に至ってはこの本で細かく紹介することはしない。以上のことから至るところでこの曲調を・・・(?)、誠に盛んであったと言うべきである。このようなわけで特に江戸は天下の首府であったことから、この道において盛大でかつ最高と認められ・・・(?) この時には諸国の名人が続々と江戸に集り、神田神社大祭には替違昇殿・神田丸が、また亀井戸神社大祭には亀井戸の新曲が演奏され始めるなど、かつて無いほどの大盛を極め、世間からは天下祭りと称されていたのであった。そして文化時代(1804〜17)には煎餅屋留七、神徒安五郎、神主増五郎の三人らがこの道の名人で、最も破矢、横笛を・・・? ここから大井馬込の江ノ島、経堂の安宅崩、谷山の矢車・金獅子、目黒の本間矢車、碑文谷の大幕、上目黒の本間崩、大平分の麒麟崩、その他下がり葉などの新囃子が続々と誕生した。以上に記載した内容は祭礼囃子と舞子に関する主なものだけを挙げただけであって、この期間の大祭に関する囃子は泰平記および当時の書物などで確認できることが多いので、ここでは概略のみを記載した。もし、この事について調べたいと思うならば、これらの書籍を見るのが良いと思われる。以上述べたことは慶応4年(1868年)までの概要であり、その根拠となるものは古書を参考にし、またこの道の名人の遺書および高老(?)からの口伝や口唱の中で最も確実であると思われるものを集めた。それらに含まれる誤字脱字については、将来の研究者の調査結果を待つことにして、ここではあえて言語文字を少しも修飾することなく、事実のみを記載した。
  付け加えて述べると、明治元年(1868年)から現在の明治28年(1895年)に至る間の事実は、多くの方々が明確に記憶しており、かつその徴跡(?)は詳細に、とりわけ彼らの体で直接見たり聞いたりしていることから、この期間については記載していない。このことは記者の労力を軽減させる為だけではなく、権便(?)  しかしながら、明治の囃子と称されるものがあり、ここでその囃子を挙げると、すなわち六郷の金澤昇殿および馬込の両国ならびに大世話人の連戦勝伝がこれにあたる(どこで区切る?)。
  以上記載した所の末端は主に当部内に関係するものであることから、ここに同士と相談して部内の有名人たちの連名を添付して印刷し、それぞれに配布する。  (※これ以降に記載されている有名人士の連名は省略する)  』



神奈川県の祭囃子

  神奈川県にはおよそ千百を数える神社があり、その四分の一にあたる神社の祭礼で祭囃子が演奏される。神奈川県の祭囃子は中世まで遡らず、江戸時代の享保頃に下総葛西地方から伝流したという小田原伝承が一番古いが、それが葛西から直接移入したか、一旦、江戸市中を経由したものかは不明である。通説としては、葛西囃子は江戸の天下祭と呼ばれる大祭礼(神田祭・山王祭・根津権現祭・三社祭)の隆盛とともに市中に迎えられ、「神田」・「目黒」・「深川」・「品川」・「佃島」などに拠点を持つ様になり、各々その町名を冠して「神田囃子」・「目黒囃子」などと呼ばれるに至った。
  旧武蔵国に属する川崎・横浜では目黒囃子系と品川囃子系が主流で、それが分かれて港北山田を拠点とする「山手(やまのて)」と保土谷仏向町を拠点とする「下町」の二流となった。また、津久井は八王子を源流とする別系である。しかし、相模川以西の祭囃子は小田原囃子の葛西囃子系を除き、その系統を実際に識別する事は至難と言うべきである。
  神奈川県全域には江戸囃子系の五人囃子が主流を占めている。天保11年(1840年)の洪鐘祭描写といわれる鎌倉「円覚寺洪鐘祭行列板絵」には、踊り屋台・底抜け屋台・江の島唐人囃子に混じって、踊り手一人付きの五人囃子が2組描かれている。このことから県東部の鎌倉では、江戸とほとんど同時平行で五人囃子が定着しつつあったことがうかがわれる。県東部の平野地域は東京都西南部と地形的にも一続きであり、県北部の津久井郡は八王子など東京地区の囃子とも交流が密である。ちなみに多摩地区は明治の初めは神奈川県に所属していたが、首都の水質源確保の目的で明治26年(1893年)東京都に移管された経緯がある。


●小田原囃子
  西南部の小田原囃子は、早い時期に葛西囃子系統が伝わったといわれるが、現行の葛西囃子とは程遠い音楽になっている。


●江の島囃子(天王囃子)
  神奈川県で独自な囃子としては、前述鎌倉「円覚寺洪鐘祭行列板絵」に描かれた江の島天王祭りに出る「江の島囃子」がある(昔は天王囃子といった)。その楽器構成は普通の祭囃子とは異なり、七穴の篠笛・大太鼓・スリ鉦・締太鼓の他に、チャルメラ・三味線・銅羅・柄太鼓・小鼓が加わる全国稀少の祭囃子である。
  その囃子連は江の島の西町(町方)・東町(漁師町)に分れ、各々、それらの楽器を用いて4種のハヤシを奏しつつ島内を行道する。特に注目されるのは少女たちが三味線を弾くことで、他の楽器はすべて若衆があたる。囃子の曲目と所用楽器は下表の通りである。

曲目と所用楽器
地区曲目所用楽器備考
西町
(町方)
通り囃子笛3・柄太鼓3・三味線3・大太鼓1・スリ鉦3・ドラ1最初の道行に奏する
のうかん笛3・締太鼓3・三味線3・小鼓2静かな曲律
松囃子笛3・締太鼓3・大太鼓1・ドラ1
唐人囃子チャルメラ2・笛3・柄太鼓4・大太鼓1・ドラ1賑かな曲律で眼目の囃子
東町
(漁師方)
通り囃子西町と同じ
松囃子殆ど西町と同じ
神囃子笛3・小鼓2・締太鼓3・大太鼓1西町の「のうかん」にあたる
竜神囃子チャルメラ2・締太鼓3・小鼓3・三味線3・スリ鉦2・笛3西町の「唐人囃子」にあたる

  チャルメラは表に6孔と裏に1孔で、珊瑚をつけた美しい房は異国的である。祭囃子にチャルメラを用いることは全国的に珍しい。これを吹いている間、締太鼓は緩やかに間拍子を打つが、チャルメラに代わって篠笛になると三味線が入る。三味線は島の娘達が短い間稽古をして、しかも首から吊るして鳥追い笠をかぶり歩きながら弾く。
  柄太鼓は直径30cmで巴紋を描くき、バチは30cmほどである。太鼓を打つと同時に右足を踏み出して上半身を屈めるようにし、親指と人差し指でバチをつまんで、太鼓の革をサッと擦すように打ち上げ、セイッと声をかける。この打ち方を「フリバリ」という。
  江の島では、この天王囃子は大昔、仙人が天降って伝えたという。おそらく三味線は古代の神楽琴に代えたもの、チャルメラは雅楽の笙の効果をねらったもので、天王囃子そのものは近世の民俗楽器をを用いて、琴歌神宴の古楽メロディを再現しようとしたものであった。なお、江の島の地勢は険しく山車が曳けないので、底抜け屋台を用いて締太鼓3個を据えて並べ打ちをする。その屋根の上に若芽かおる杉葉をふいていた。まさしく、古代祭祀の青葉山を形象したものだが、今は省かれている。


●寄の囃子(松田町)
  足柄上郡松田町にある寄神社の祭囃子は、江戸囃子とは全く異なる囃子を伝えている。祭日は3月第1土曜日(昔は3月5日)で、「虫沢」・「弥勒寺」・「大寺」・「三ヶ村」の4部落の笠鉾が社前で協奏する(居囃子)。曲目は「雛遊び」・「若竹」・「二上り」・「楽(がく)」・「ドウデェ」・「新かぐら」・「本調子」・「デエデエ(太太)」・「京京?(きょう)」・「シャギリ」など16曲ある。特に神輿が発向する際に一斎に打ち鳴らす「オーシャ」の曲は、祭囃子の乱声(らんじょう)というべきもので異色を放つ。
  楽器は「大胴(大太鼓)1」・「締太鼓2」・「笛1」で、もとは三味線もあったといい、鉦は最初からなかったというが、中途で失ったという口承もある。この祭囃子がいつどこから伝来したか不明である。

4基の笠鉾笠鉾内部での祭囃子
神輿子供神輿
囃子


祭囃子の構成

  祭囃子は狭い山・鉾・屋台の上で合奏することを主旨とするため、舞台と違い演奏者数に制限がある。伊勢原地方の楽器は「笛1」・「締太鼓2」・「大太鼓1」・「鉦1」の五人構成を最小基準とし、時に「ヤ」・「オ」・「ソレ」などの掛け声を発するが歌詞・囃子詩は伴わない。稀に「三味線」・「鼓(つつみ)」などが加わるところもあるが、本来性の楽器とは言い難い。
  このように祭囃子の構成は「五人囃子」が基本であり、この語は雛祭りの五童子の囃子人形から移されたものだが、楽器の異なる祭囃子に延用したのは四(死)を忌む吉祥思想からで、締太鼓を2個用いて五人囃子の構成になったという説や、締太鼓が祭囃子の代表楽器を意味することから、その打手に青年達をあて路上の邪気・悪霊・疫神の追放を彼らに負わせる古代社会の意図であったという説がある。
  屋台などの台上における五人囃子の正規な配置は下記写真の通りである。正面欄干(手摺)に面して2個の締太鼓を置き、向かって左を「上(かみ)」、右を「下(しも)」と呼び、古来の坐楽様式のように太鼓役は坐して太鼓を打つ。大太鼓は締太鼓の左側にある柱付近に設置し、太鼓役は立ったまま打つのが定法である。笛役は締太鼓の後方に立って吹き、鉦役は締太鼓または大太鼓の後方に立って鳴らす。また、締太鼓と大太鼓の間の狭い空間が「オカメ」・「ヒョットコ」などの踊り場であるが、空間が充分でない場合は屋台などの正面で踊る。
  以上が五人囃子の正型であるが、締太鼓2個だけでは淋しい場合に1個・2個増やすという風流化が行われ、それにつれて笛・鉦も2人以上になる場合を生じた。しかし、大太鼓だけは1個に限られるのが常である。また、比較的広い神楽殿・拝殿を用いる里神楽では座って横打ちをするが、山車ではそうはいかないため祭囃子では縦に鼓面を打つ。しかし、音楽的には同源・同系の囃子である。

全国の祭囃子

  日本三大囃子といえば、多くの人がまず京都祇園囃子と江戸祭囃子は文句なく指を折る。三つめは花輪囃子・佐原囃子などそれぞれ自分の町の囃子ということになろうか。ここでは全国の著名な祭囃子について紹介する。

●祇園囃子(京都)
  京都の「祇園囃子」は「祇園祭り」という最も由緒を誇る祭りで囃される囃子であるが、現行の祇園囃子の成立は祇園祭りの歴史とは別に考えねばならない。洛中洛外図に描かれた祇園祭りでは、鞨鼓の稚児を中心に太鼓・笛・鼓・鉦などが奏されているが、現在の「コンコンチキチン」と形容される大勢による鉦の響きは、江戸時代中期以降の成立のようである。祇園囃子がどのような形で形成されたかについては現在少しずつ解明されつつあるが、まだわからない事柄が多く今後の課題ということになる。
  私達は囃子のルーツを現行の祇園祭りに求め、このあまりに有名な祇園囃子が全国に伝播していると思いがちである。事実、全国の祭礼においては、囃子の総称あるいは曲目名として祇園囃子の名称を至る所で見る事ができるが、それらは祇園祭りないしは京都に対する憧れから京都をおとずれた人々が部分的に聞き覚えて、それぞれの在所に持ち帰ったものと考えられるものがほとんどである。祇園囃子が直接伝わったと考えられる祭りは京都府亀岡市の「亀岡祭り」、滋賀県大津市の「大津祭り」、三重県伊賀市の「上野天神祭り」の三ヶ所のみであり、京都周辺地域に限られている。これは江戸祭り囃子が関東地方を中心にして、かなり広く分布しているのと対照的である。これほど全国に様々な形で影響力をもってきた祭礼にも関わらず、なぜ囃子だけが近隣の限られた地域にしか伝播しなかったのかは大変興味深い問題といえよう。
  八坂神社の祭礼である祇園祭では、現在32基ある「舁き山」・「鉾」・「曳き山」・「鉾」・「傘鉾」のうち、長刀鉾をはじめとする7つの鉾と3つの曳き山および2つの傘鉾でそれぞれ独自の祇園囃子を伝承している(ただし傘鉾の囃子は形態として別系統になる)。また、焼け鉾の大船鉾では近年岩戸山の指導により囃子のみを復活させている。囃子の機会は毎年7月1日の吉符入りからの「二階囃子(囃子の稽古)」、曳き初め、13〜16日に鉾の上で囃す「鉾の上の囃子」と、八坂神社の祭礼における17日の山鉾巡行がその中心となる。今日の祇園囃子での楽器構成を以下に示す。

楽器構成
楽器囃子方人数
鉦(摺り鉦)鉦方6〜8
太鼓(締め太鼓)太鼓方2
笛(能管)笛方6〜8

  祇園囃子においては、鉦・太鼓は内容的にも一つのまとまりを持ち、固有の名称をもつ曲目を形成する。一方、笛は基本的にいくつかある旋律パターン(「流しの笛」・「筑紫の笛」など)をそれらにあてはめていく形をとる。なお、曲目によっては鉦・太鼓のリズムパターン(曲目)と固有の旋律パターンがきっちり一致するものもある。囃子の曲目は大きく分けて、山鉾巡行の当日に出発から四条河原町を回るまでの間に囃す「渡り囃子」と、その後に囃す「戻り囃子」との二つに分けることができる(山鉾によって多少異なる)。曲目の一例として長刀鉾のものをあげる。

長刀鉾の現行曲
囃子曲目
渡り囃子
(奉納囃子)
地囃子・地囃子上ゲ・神楽・唐子(奉納囃子と戻り囃子へのつなぎの囃子との両方の性格を持つ)・唐子の流し(戻り囃子へのつなぎの囃子)
戻り囃子兎・朝日・青葉・つつみ・獅子・扇・九段くだん・縁・巴・御祓みそぎ・四季・浪花・流し・兎の流し・扇の流し(御祓から続く場合は「御祓の流し」という)・上ゲ・古・太郎・日和神楽(2種類有)

  前者がいずれもテンポの非常にゆっくりした、荘重で厳粛な趣を持った曲調であるのに対し、後者はそれぞれのテンポが速く、楽器の奏法などにも工夫をこらしていて、変化に富み個性的であるところに特色がある。さらに、戻り囃子の曲目には「中休みの囃子」・「終了の囃子」、宵山の日に翌日の晴天を八坂神社に祈願しに行く「日和神楽」の際に囃す囃子などを含む。
  祇園囃子は巡行の時間が長いので、必然的に同じ曲目を何回も繰り返すことになるが、一回りの最後と最初との繋ぎ目がスムーズにいくような構造になっている。また、曲目の変更をスムーズに行い、繋ぎ目を感じさせないために、曲目と曲目との間に繋ぎの囃子(曲目ないしはフレーズ)を挟み込む。これらは曲目になっている山鉾においては「上げ」と呼ばれるが、繋ぎの囃子に対する認識の仕方は山鉾によってことなっている。また、囃子にメリハリをつけるく工夫も見られ、山鉾によって渡り囃子のほとんどの曲目の変り目に囃す「地囃子」や、戻り囃子の一部の曲目の変り目に囃されることがある「流し」などはその一例である。こうした工夫によって、長時間におよぶ囃子が可能になる。
  京都祇園祭りの特色は、神霊特に疫神の鎮送・遷却に関わる囃子ということで、一種おどろおどろしい雰囲気さえかもしだしている点にあるといえよう。それは旋律の笛に「能管」を用いることにより、重層的な響きからくるものと考えられる。また、京都という土地柄から、囃子方に専門の能楽師やその心得のある者が参加し、囃子そのもののか型がしっかりとしている。旋律面からみると、笛が同じ音を吹き流すことが多く、全体的にのびやかな雰囲気につつまれたものとなっている。


●江戸祭り囃子(東京)
  現在の江戸祭り囃子の起源については、葛西囃子伝承者達の間で語り継がれてきた創始説がある。江戸時代の享保年間(1716〜35年)に武州葛飾郡香取大明神(現在の葛西神社)の神主「能勢環(のせたまき)」が「和歌囃子」と称する囃子を創り上げ、近隣の若者達に教えたところ評判となった。宝暦(1751〜64年)頃からは関東代官「伊奈半左衛門」が地域の若者の不良化防止にも役立つと考え、支配下町村の若者達にこれを学ばせ毎度優秀団体を選ぶ選抜会を催し、その団体を徳川将軍覧の天下祭の称のある神田明神祭礼に出演させ。それが刺激となって葛西囃子の曲と奏法が神田祭の囃子である「神田囃子」を生み、またそれが近郊農村に広まっていったという話が「増補葛飾区史」下巻にのっており通説となっている。
  能勢環は神楽を演じる職にあって、神楽の囃子をもとに祭囃子を考案したと想像される。一方で、「江戸中期紀州の住人であった能勢環は修験道の行者として諸国遍歴の末、香取官の神官となり紀州の神楽を取り入れて祭囃子を編み出した」という話もある。いずれにせよ、これらの説は確かな文献の裏付けがあるわけではなく、葛西囃子伝承者たちの間で語り継がれてきた話である。
  初期の江戸祭り囃子の楽器構成は様々で人数も確定していなかったが、五人編成が固まってきたのは江戸・川越・鎌倉の絵画資料から天保期(1830〜44年)頃と思われる。

楽器構成
楽器人数備考
篠笛(トンビ)17穴の5〜7本調子
締太鼓(シラベ)2麻紐締めまたは鉄ボルト締め
大太鼓(大胴・オオカン)1鋲留め
鉦(ヨスケ)1

  江戸祭り囃子の人気の理由として、なにより小編成で各人が自分の技量を発揮できることがあげられる。五人編成は西欧クラシックの室内楽にも似て、余分なものが削ぎ落とされた必要最低限度の究極のアンサンブルである。篠笛ははトンビと通称されるように高音を細やかに奏する。締太鼓は麻紐締めが本来だが、東京周辺地区では締め紐を鉄ボルト締めに替え、音を甲高くしている所も多い。締太鼓は2個を横に並べ、流派により「タテとワキ」・「真と流れ」・「カシラとシリ」などと呼ぶ。大小太鼓の3人は山車の全部に横に並んで座り、その後ろに笛と鉦が立つ。長時間にわたる実際の祭りでは随時奏者が交代して多人数が必要になるが、4、5人集まれば稽古が出来る。そして2人の締太鼓は掛け合いの面白さ、笛は基本の旋律に自分の装飾も加えるなど、各人が即効的名人芸を聴かせることができるのはジャズセッションの魅力にも通じる。微妙な緩急のつけ方や間の取り方など、お互いの息を間近に感じる小編成ならではの小回りの利いた演奏スタイルは「馬鹿囃子」と通称される軽やかな音楽とあいまって多くの若者の心をとらえてきた。
  この五人編成の江戸祭り囃子の団体は東京都だけで400とも600ともいわれ、その系統分けは難しい。葛西囃子を神田祭の地元の人達も稽古し始め、「神田囃子」が誕生したといわれるが、葛西・神田が意識されるようになたのは戦後のことだという。一方『祭礼囃子の由来(河原源十郎 1895年)』によれば、文化・文政頃(1804〜29年)には品川など東海道筋や目黒・世田谷方面にも囃子が広まっており、これが今日の「目黒囃子系」である。これら諸流派を全体のテンポにより、葛西・神田流を「大間」、目黒流を「中間」と区別するところもあるが、団体差や時代差もありテンポの違いは部外者にはわかりにくい。
  江戸祭り囃子の特徴として、組曲形式の「ひとっぱやし」で奏する場合が多いことがあげられる。すなわち長い道筋を山車に乗って囃して行くよりも、じっくり一ヶ所で囃子を聴いてもらうことを目的に、全体を急−緩−急の変化をつけた組曲仕立てにしてある。串田紀代美は『東京都の祭囃子-江戸里神楽からの影響をめぐって-』の中で、東京都の祭り囃子を「ひとっぱやし」の曲目構成から、下町囃子の「葛西・神田囃子系」と山の手囃子の「目黒囃子系」におよそ二分できるとしている。この2つの「ひとっぱやし」は急−緩の配列は似ているが、曲名や曲想に違いがある。なお「ひとっぱやし」の制定に関しては「神田祭では古くから様々な種類の囃子が演奏されていたが、明治10年(1877年)、当時の名人達が集まって現在の素囃子(ひとっぱやし)の組み合わせを決めた」という神田囃子保存会の伝承がある。

「ひとっぱやし」による囃子の分類
曲順葛西・神田囃子系(下町囃子)目黒囃子系(山の手囃子)
1屋台破矢
2昇殿宮鎌倉
3鎌倉国固め
4四丁目師調目
5屋台破矢

  これ以外の曲を「間物」と呼び、変化をつけたいときに「ひとっぱやし」の間に挟んで演奏する。神田囃子系統の間物としては「神田丸」・「亀戸」・「偕殿(かいでん)」・「夏祭」・「間波昇殿」・「きりん」などがあり、「きりん」は神田祭りや山王祭りなどの鳳輦渡御につく曲である。神輿が通るときには「投合」の曲を奏する所も多い。
  この二大系統の他に、多摩西部から埼玉県南部にかけて広がる「重松(じゅうま)流」は埼玉県所沢市の藍商人古谷重松(1830〜91年)が、府中大国魂神社で笛を習い自ら味付けした囃子を行商の合間に教え歩いたといわれる。曲目構成は「屋台」・「宮昇殿」・「国固め」・「鎌倉」・「四丁目」・「にんば」・「屋台」が標準で、ほかに「子守歌」・「三番叟」などを加えており、テンポも速めである。
  いずれにしろ個々の団体のレパートリーは技量の差や伝承系統の交錯から、「葛西・神田囃子系統」と「目黒囃子系統」との区別を超えてさまざまな曲の出入りがある。また基本曲の自在な演奏でさえなかなか難しく、代わりに里神楽からの「にんば」など比較的やさしい曲をおかめひょっとこの踊り付きで加えている団体も多い。その他に一流を名乗る団体はいくつかあるが、いずれも五人編成の江戸祭り囃子に含まれ、東京都教育委員会の調査報告書『江戸の祭囃子』記載の391ヵ所の中での例外は、武蔵村山市の「三ツ木天王様祇園囃子(笛1・大太鼓1)」などほんの数箇所に留まる。
  次に葛西神田囃子系統の「ひとっぱやし」について基本曲の性格を簡単に記す。

曲目構成と特徴(葛西・神田囃子系統)
曲目解説
屋台屋台や山車を曳くときの曲を意味するのであろう、祭り囃子らしい華やかな曲。締太鼓ソロの「打ち込み」から入る。
昇殿鎌倉と共に大太鼓がゆったりしたテンポを保持する。屋台・昇殿・鎌倉はそれぞれ笛の自由リズムのソロ「吹き出し」で始まり、「地」を数回繰返した後に「トメ」・「上げ」などの結尾部で終る。
鎌倉太鼓が繰返す16拍からなるリズム型に乗って笛が静かな旋律を聴かせる(獅子舞を伴う場合は寝ている獅子に合わせて「江戸子守歌」を入れる)。
四丁目「地」にはさまれて2ヵ所の玉入れがあり、「先玉」でタテ締太鼓が、「後玉」ではワキ締太鼓がそれぞれ「玉の地」を奏し、相手の「地」の手と競演する。テンポを徐々に速くして次の屋台に帰る。
屋台吹き出しは省き、いきなり「屋台頭」から入ってあっさりと「トメ」・「本上げ」で終える。

  祭礼での山車巡行に際しては必ずしもこの順番にはこだわらない。若山流教本によれば山車や屋台に乗って囃す場合は道中に「鎌倉」を演奏する約束とあるが、素人集団の場合は「昇殿」を神社前での挨拶に使うほかは、テンポの速い盛り上がる曲を使う傾向にある。まず「屋台」で始まり、太鼓の上手な者がいれば「四丁目」を、子供のひょっとこ舞に合わせて易しい「にんば」を長時間奏することも多い。他所の囃子によくある、坂道や通りの角を曲がるときの専用曲があるわけでもない。一曲の中での緩急あるいは「ひとっぱやし」全体の緩急をどうもっていくかは主に「締太鼓」がリードし、祭りの現場で状況に応じて部分的に繰り返したり短く切り上げたりの判断は主に「笛」に任されるが、「締太鼓」・「大太鼓」がきっかけをつくる場合もある。あるときは競い、あるときは相手の一音一拍に気を集中させ、歯切れの良い緊張感の持続が要求される。
  このように、江戸祭り囃子はいくつか系統があるとはいえ、緩急の曲を組み合わせて演奏する、最初と最後に同じ曲を置く、「鎌倉」は太鼓のリズム型の繰り返しに乗せて静かな笛を聞かせる、「四丁目(師調目)」には「玉入れ」といって二丁の締太鼓による打ち合わせがあるなど、同名曲の性格に共通性があり、大きくいえば一つにくくることができる。


●花輪囃子(秋田)
  「花輪(はなわ)ばやし」とは秋田県鹿角市の中心部である花輪地区に現在まで伝承されている囃子であり、花輪の地の相鎮守である「幸稲荷神社(産土神さん)」に奉納される祭礼囃子のことである。幸稲荷神社の祭典は、例年8月16日に本殿から神輿の渡御があり、町通りを一巡後、ご神体は御旅所に安置される。そして20日の未明に枡形渡御があり、午後に本殿へ還御する。この祭典の後半2日間を「花輪ばやし」として、花輪地区の10町内からそれぞれ屋台が繰り出されて囃子が演奏される。したがって、花輪囃子という名称は祭礼囃子の名称であると共に、祭礼全体を指す語としても用いられている。この祭りは東北の三大夏祭りに数えられる
  屋台の中には床がなく、囃し手が歩きながら演奏する。底抜け屋台は、もともと四本柱に軽快な屋根を架けるだけといった簡素な造りの一回性の造形物であって、芸屋台などと一対で練物の祭りを賑わしてきたものである。囃子方が歩きながら奏する「歩(かち)囃子」そのものは、花巻祭りなど東北地方に分布する大型の作り山の囃子として広く行われている。
  花輪ばやしは祭礼囃子として花輪の10の町内に伝承されている。10の町内とは祭典時の屋台運行順に従って、「舟場三区」・「舟場町」・「新田町」・「六日町」・「谷地田町」・「大町」・「旭町」・「新町」・「横丁」・「組丁」である。この町内には現在12の音曲が伝承されている。これらの伝承曲の起源に関しては、現時点においても明らかになっていない。

花輪ばやしの伝承曲
曲目解説
本(屋台)囃子・二本滝・鞨鼓
霧囃子・宇現響うげんきょう・祇園
代表的な曲
追込おいこみ不二田ふじた・矢車・シャギリ上曲とはやや成立が異なっている
拳囃子・吉原格子江戸の遊芸囃子を移入したとされる

  楽器構成については、屋台で演奏するとは下表の構成が常であるが、舞台などで演奏される場合などでは、その構成や規模は自在に変化する。

楽器構成(屋台)
楽器人数備考
1摺り鉦1屋台の先端に立って演奏
2中太鼓4中太鼓は最前列に斜めに立てかけ
打ち手は打太鼓と両方を打ち分ける
(太鼓は前列後列合わせて8人)
3打太鼓
4打太鼓4
5篠笛3太鼓の後ろに座して演奏
6三味線2

●佐原囃子(千葉)
  千葉県の北東部に位置する佐原は、市街地の中心部を流れる小野川を境として東を本宿(鎮守は八坂神社)、西側を新宿(鎮守は諏訪神社)と呼ぶ。夏7月に行われる八坂神社の祇園祭りと、秋10月に行われる諏訪神社の大祭には、付祭りとして巨大な人形や作り物を乗せた山車の祭りが伝承されている。
  この山車に付く囃子は「佐原囃子」と呼ばれており、踊りを伴うことが特色となっている。楽器の編成は下表の様に14人前後で、笛は4本調子から6本調子の間で、囃子方のグループごとに統一した調子を用いている。大皮は竹を細く裂いた長さ50〜60cmの撥で叩く。14人前後の構成は近年のことで、昭和40年代以前の映像資料や写真資料を見ると、笛3〜4人、鼓3〜3人の9〜11人程度の構成人員で演奏しているところが多く見られる。五人囃子で構成される江戸囃子とは、また異なった曲調および構成となっている。

楽器構成
担当楽器人数備考
笛方ふえかた笛(篠笛)5前後笛のリーダーを「親笛おやぶね」と呼ぶ
下方しもかた大皮(大鼓)1ボルト締め
鼓(小鼓)5前後
大太鼓1
ツケ(附締小太鼓)1ボルト締め
1

  現在、佐原囃子で演奏される曲目は40曲以上あり、「役物」・「段物」・「端物」に大別され、これらは山車の曳き廻しと大きな関係がある。役物は山車の出納事などに必ず演奏される儀式音楽的な性格を有している曲郡である。段物は「本下座」とも呼ばれ佐原囃子の真髄とされている曲軍で、山車の曳き廻しに合わせて作曲されたとされ、非常にゆっくりとした旋律をもつ曲である。大通りや神社、または御仮宮の前を通行する時に演奏される。「端物」は役物・段物以外の曲で、民謡や流行歌など多種多様な曲から構成されている。現在、山車の曳き廻し中に演奏される大半がこの曲郡となっている。時代々々の流行歌などを佐原囃子調にアレンジして取り入れており、現在も発展中の曲郡と言える。端物には唄を伴うものと伴わない曲郡があり、一般に唄を伴わない曲郡が端物の中でも格式の高い曲と理解されている。

佐原囃子の曲目
曲郡曲名備考
役物砂切・馬鹿囃子・はな三番叟山車の出納時などに演奏される
段物さらし・巣籠り・吾妻・八百屋・神田・段七・盾・お七・くずし・曽我・新囃子・段物わたり山車の曳き廻しに合わせて作曲された
端物唄を伴わない・・・矢車・剣囃子・新吉野・矢車くずし・津島・巣籠りくずし・盾くずし・獅子馬鹿・中山・にこにこ など
唄を伴う・・・あんば(いぞべ)・大杉あんば・小見川あんば・大和・猫じゃ・おやまか・大漁 など
民謡や流行歌を取り入れた曲

  今日、佐原型の山車と佐原囃子を用いる祭りは、千葉県の北東部地方および茨城県の南東部に分布しており、該地に一つの勢力圏を形成している。



関連情報

  



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参考文献・CD
タイトル著者/編集出版/発行出版年
東京都の郷土芸能宮尾しげを・本田安治一古堂書店1954(昭29)
神奈川県文化財図鑑(民族資料・無形文化財篇)神奈川県教育庁社会教育部文化財保護課神奈川県教育委員会1973(昭48)
大田区の文化財 第十五集 郷土芸能社会教育課社会教育係東京都大田区教育委員会1979(昭54)
神奈川県民族芸能誌(増補改訂版)永田衡吉錦正社1987(昭62)
伝統芸能シリーズ C民俗芸能西角井正大(株)ぎょうせい1990(平2)
江戸の祭り囃子 全曲集(CD)松本源之助社中日本コロムビア(株)1993(平5)
江戸の祭囃子 -江戸の祭囃子現状調査報告書-東京都教育委員会東京都教育庁生涯学習部文化課1997(平9)
日本の祭り〜祭り囃子編(CD)キングレコード(株)1997(平9)
日本の祭り〜祭り太鼓編<1>(CD)キングレコード(株)1997(平9)
日本の祭り〜祭り太鼓編<2>(CD)キングレコード(株)1997(平9)
日本の太鼓(CD)キングレコード(株)1999(平11)
日本の太鼓(CD)キングレコード(株)2001(平13)
日本の祭り 決定版(CD)キングレコード(株)2001(平13)
日本の囃子 祭囃子(CD)キングレコード(株)2002(平14)
江戸祭囃子(CD)若山胤雄社中ビクターエンタテイメント(株)2002(平14)
日本の囃子 江戸祭囃子(CD)神田囃子保存会/葛西ばやし保存会キングレコード(株)2002(平14)
都市の祭礼-山・鉾・屋台と囃子-植木行宣・田井竜一岩田書院2005(平17)
神奈川県の民俗芸能
神奈川県民俗芸能緊急調査報告書
神奈川県教育委員会同左2006(平18)
祭り囃子(CD)コロムビアミュージックエンタテイメント(株)2006(平18)

  ※上記の文献は他のページでも引用していることがあります。


参考文献(当サイト作成関連)
タイトル著者/編集出版/発行出版年
無料で簡単!ホームページ&ブログ作成入門エクスメディア(株)エクスメディア2006(平18)
CSSビジュアルデザイン・メソッド境祐司(株)毎日コミュニケーションズ2006(平18)
著作権に気をつけろ!富樫康明勉誠出版(株)2006(平18)
HTMLタグ辞典 第5版(株)アンク(株)翔泳社2006(平18)
スタイルシート辞典 第5版(株)アンク(株)翔泳社2007(平19)
GIMPの教科書長谷川アンナ(株)晋遊舎2007(平19)
ちょっと待って、そのコピペ! 著作権侵害の罪と罰林幸助実業之日本社2008(平20)