岡崎おかざき

神社の紹介

  「岡崎神社」は岡崎地区(丸島を除く)の総鎮守で、祭神は「大山咋比命」・「猿田彦命」・「須佐之男命」・「応神天皇」・「大物主命」・「菅原道真」である。創立年代は大同2年(807年)という言い伝えがあり、治承(1177〜1181年)の頃には岡崎四郎義実が当社を崇敬して霊験を得たという。
  天保12年(1841年)完成の『新編相模国風土記稿』によると、西海地には岡崎郷七村である大畑(おおばたけ)・矢崎(やさき)・大句(おおく)・馬渡(まわたり)・西海地(さいかいち/さいかち)・上入山瀬(〜いりやませ)・下入山瀬(〜いりやませ)の総鎮守である「山王社(坂本三王大権現?)」があった。明治時代初期になると社名を「岡崎日吉神社」と改め、明治6年(1873年)7月30日には社格を村社と定められた。明治22年(1889年)に岡崎九村(大畑・矢崎・大句・馬渡・西海地・上入山瀬・下入山瀬・丸島・北大縄)が合併され、明治42年(1909年)3月20日に白髭神社外6社を合祀して現在の「岡崎神社」と改称した。
  神社合祀後に岡崎村でこの岡崎神社を祀っていたが、昭和31年(1956年)9月20日に大句馬渡の神社(御神体)を分離する事になって大騒ぎになった。結局、合祀前の各神社が所有していた土地全てを金額に換算して、大句・馬渡へ神社の財産を支払った。

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岡崎神社鳥居
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社号柱神門
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狛犬手水舎
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鐘楼神楽殿
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拝殿幣殿・覆殿
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山王神社弁天社
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社務所
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西海地会館
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境内


例大祭

  『風土記稿」』によると4月中の申日、7月28日、9月5日に神事があると書かれている。近年の岡崎神社の例祭日は10月9日であったが、平成20年(2008年)から10月9日に近い?日曜日に行うようになった。
  昭和2年(1927年)の『神社誌 村社岡崎神社』によると、氏子惣代について「宮世話人ト称シ社務祭典ニ関スルモノ二十二名競馬ニ関スルモノ二十名ヲ全村ヨリ選出シコノ内ヨリ三名ノ氏子惣代人ヲ互選シ神社日常ノ機務ニ参ズルコトゝセリ」とあり、大句と馬渡が分村する前だったので宮世話人が22名いて、当時は草競馬を行いその役員(競馬の世話人)として全村から20名を選出していたことが知られる。
  祭礼の時は宮下が祭りの前日に灯籠を立てることを担当したが、幟立ては岡崎地区全体で立てた。幟は祭り前日に立てるが、日曜日でないときが幟立てにあたると勤め人などがいて困るという。大畑・西海地・入山村・矢崎・別北の各地区から10人ずつ位出て、50人位で幟を立てる。幟返しの時は10月10日になり、この日は祝日にあたるので人手に困ることはない。以前には年配者がほとんど出ていたという。

太鼓

  戦前まで岡崎神社の祭りには各部落の太鼓が競り合い、境内には7つの太鼓連が集まり夜を徹して太鼓を叩いた。なお、祭りの時の太鼓の並び方は抽選であった。また、昭和10年(1935年)代までは矢崎に「屋台」があり、若衆の囃子太鼓が賑やかで、子供達は喜んで宵宮から当日にかけて綱を引いた。太鼓の叩き手は部落の中の模範青年であったというが、叩き手の多くが出征した為に祭りの太鼓は自然に行われなくなってしまった。その後は大句と馬渡が伊勢原市へ編入されて岡崎神社を分離し、太鼓も五カラに減った。
  現在は各地区を子供神輿と山車が巡回し、夜は西海地・大畑・別北の3台の山車が境内へ上がって叩く。



神輿

  



青年会・青年団

●西海地
  昔は西海地にある家からはどこからも1名ずつ「青年会」に入り、祭りのことや村仕事としての道普請などをした。3月15日頃は雹祭りといい神社へ御神酒をあげ、神事のあとに下げて飲んだ。7月下旬には虫送りをし、明治33年(1900年)生まれの上原森三氏が知るようになってからは、神社にまず御神酒をあげてから虫がわかぬように祈願し、そのあとに御神酒をおろして飲むことだけをした。また、9月1日には月見と称し公民館へ集まり、米や里芋を持ち寄って酒を飲んだ。
  一方、「青年団」は大正中頃にでき、この団体も昔から地にいた者だけが入った。団長・副団長・会計があり、女子青年団もあった。岡崎青年団としてあって、競技大会をやることが多かった。青年団はなくなったが、青年会はその後も続いたという。
●大畑
  官製の「青年団(小学卒から25歳まで)」とは別に、部落毎に「青年会」があった。青年会は高等小学校2年(現在の中学3年)を卒業して数え年で16歳で加入し、38歳あるいは数え年の40歳ぐらいまでの若い衆で構成された。加入するのは男子だけだが、1戸から何人が加入してもよい。各部落の若い衆は25歳まで青年会と青年団の両方に属していたことになる。青年会では祭りの太鼓の練習や9月の月見、正月の謡い初めなどに集まった。
  謡い初めは戦後は行われなくなったが、それまでは各部落の青年会館(現在の公民館)で行っていた。大畑の青年会館は昭和23年(1948年)頃に公民館として建て替えられたもので、岡崎中で最初の公民館である。



信仰対象

●八坂神社(大畑)
  昭和39年(1964年)の『神奈川県皇国地誌残稿』によると明治9年(1876年)1月における大畑の戸数は、「八坂神社」と「金剛頂寺(真言宗)」および「円徳寺(浄土宗)」を含めて計66戸と記されている。
●八幡神社(矢崎)
  『神奈川県皇国地誌残稿』によると明治初期には、矢崎内に「八幡神社」と「大森山紫雲寺(曹洞宗)」・「清流満願寺(曹洞宗)」を含めて58戸が居住していた。これは別名「北大縄(現在の別北自治会)」を含んだ戸数で、第二次大戦中に別北自治会は分離している。矢崎は古くから西部の上矢崎と東部の下矢崎に二分されている。このように矢崎村の鎮守は八幡神社であり、明治42年(1909年)に7村の神社を合祀して岡崎神社に移す以前は、下矢崎の月本菓子店の裏にあった。また、同社は村の青年達が普段から集まる場所でもあった。岡崎神社に合祀して以降は宮世話人として矢崎から2人が出て、神社関係の多くの仕事をする。祭りの終わった後に岡崎神社の御札を持って、氏子費(平等割)を集めにくるのも宮世話人の仕事の1つである。
  現在、八幡神社の祭りの組織については不明であるが、鈴川に掛かる一本橋の南側にあった矢崎青年会事務所は合祀される以前の八幡神社の建物を移したものと伝えられている。しかし、この建物は現在は存在しない。
●疱瘡神(西海地)
  西海池の氏神様は「疱瘡神」であったが、現在は岡崎神社の境内に祀られている。疱瘡神の祭りは3月10日に行われたが、昭和10年(1935年)代には行われなくなった。疱瘡神は大畑と西海地の合同で祀っていて、5・6人の世話人と共に大畑の部落長が指揮を執っていた。祭礼には神主が来て、祝詞をあげたという。



岡崎城

  「岡崎城」は平安時代末に岡崎四郎義実によって築かれ、城の形態は平山城で別に水城・ふけ城といわれる「沼城」であった。城の立地する地形は「岡崎台地」といい、これを仔細にみると西海地土腐の北側は「岡崎中ノ台地」、南側は「山王台地」でそれらには幾つかの谷戸地形が入り込んでおり、沼城の別称は城の周囲を取り囲むドブ田が城を守る重要な防備線となっていたことから付いたものである。
  岡崎城跡は平塚市岡崎の入山瀬・西海地と伊勢原市岡崎の馬渡・大句の4地区にまたがっていて、地形は東西に長く四方が低く、大手(正面)は西片にあった。城の範囲としては東は城所の「城東(木戸の転訛)」から西は丸島の駒形神社西側石段下の池で、この間は東西2800mであった。また、南は矢崎南東側の道路(旧伊勢原道)から北は伊勢原市上平間の伊勢原藤沢線までの南北2320mであり、城の範囲はドブの広がりと一致している。なお、城所城は岡崎城の外郭線上の要害でもあった。
  本丸城跡は馬渡の帰命山寿経院無量寺(浄土宗)の北側(城山)と「山ノ後」を中心としたもので、二ノ郭は「王御住(オオミスミ)」・「柳久保」、三ノ郭は「花立(ハナタテ)」・「柳久保」・「桜畑」の位置にあり、これらの周囲がドブ田で囲まれていた。岡崎地区内にある「城山」・「城下」は文字通り城郭に関係した地名であり、その南西部の「王御住」の地は武家屋敷のあったところであるが、それとは別に「王御住神社(現在は岡崎神社に合祀)」があったことに由来するともいわれる。北の方にある「花立」は岡崎城の陣旗を立てたところである。



岡崎地区

  西海地には5つのチョウナイ(町内)があるといわれ、南の方から岡崎神社参道付近に「宮下(みやもと)」、神社の北裏手に「清水組」、田を越して北の台地きわに「中町」・「下町」・「上町」となっている。岡崎神社の周りには「山王台」と呼ばれる数軒があるが、町内としては清水組つきあいのようである。宮下は神社の膝元にあることから名がついており、上・中・下町のことは「本村」と呼ぶ。


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