大句
腰取神社
現在の「腰取(こしとり)神社」は天保年間に創建されたといわれる神社で、安産の神として崇められ「木花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)」を祭神としている。当社縁起によるとこの他に「大物主命(おおものぬしのみこと)」を合わせた二柱を祭神としており、鎮座地が台地(腰)に位置を占めて(取る)いたので腰取神社と呼ぶようになったという一説が記載されている。
江戸時代後期天保12年(1841年)完成の『新編相模国風土記稿』と照合すると、大句村の鎮守は「天満宮」であり、「天満宮 例祭八月廿六日にて、下二社と年替りに執行す、村持、下に同じ、腰取明神社 神明社」とあることから、3つの神社が交代で例祭を執行していたようである。古老の伝承でも、大句の小地域区分(小名)である「北ノ久保(きたのくぼ)」・「村上(むらかみ)」・「村下(むらしも)」がそれぞれ神社を祀っていたことを伝えている。それが、明治初期のときに腰取神社へ他の2社を合祀するという経緯をたどったようである。明治6年(1873年)7月30日に無格社に列せられた。寺院には愛甲郡田代村勝楽寺の末寺で曹洞宗の大会「芳円寺」があり、慶長15年(1610年)と推定される庚戌年11月20日に没したとする相原和泉を開基としている。もう1つには城所村浄心寺の末寺で、曹洞宗の清流山「浄泉院」がある。同書にはこの他に地蔵堂も記載されている。
明治42年(1909年)に馬渡の菅原神社と共に岡崎神社へ合祀されるまでは、安産の神を祀っていることから妊産婦の参詣が多く、参詣者には神社より帯2本が支給されたといわれ、無事に出産が済むと帯4本を返すことが習わしとなっていた。産気づいたら一緒に頂いてきたオロウ(蝋燭)に火を灯すと、オロウが絶えないうちにお産が済むといわれ、腰取さんのおかげで大句に難産はなかったと伝えられる。伊勢原町への分村合併に伴い昭和31年(1956年)に再び腰取神社は大句に戻ったが、実は合祀の際に手放すのがもったいないと、御神体は大句の某家の神棚にお祀りしたといわれる。
岡崎神社からの分祀後は昭和35年(1960年)頃に社殿を建てたというが、現在の社殿は平成12年(2000年)9月に再建されたものである。また、かつては現在の大句自治会館の位置に神楽殿と集会場があり、大正12年(1923年)頃にこの神楽殿を現在の位置に移設したという。現在は古い神楽殿は取り壊され、鉄骨造りの神楽殿が再建されている。神楽殿の花道は取り外しが可能で、祭礼の時に地元住民によって組み立てられる。なお、現在は南側がお宮の正面であるが、かつては岡崎城のあった北側が参道であったという。
腰取神社 | 鳥居 |
昔は階段だった | 神楽殿 |
社殿 | 神額 |
半鐘 | 神社縁起 |
裏側の鳥居 | 昔の参道 |
境内 | 大句自治会館 |
物置小屋 | 水神と福寿池 |
宵宮
例大祭が日曜日に行われていた時と違い、現在の宵宮は土曜日から金曜日に変更されたため、昔と違って簡略化されている。夜は19時頃から太鼓山車でお宮近辺を30分ほど巡行した後に、自治会館前で10分程叩いて太鼓は終了となる。子供の太鼓は大祭がメインになるため、宵宮では大人を中心にして太鼓を叩く。その後は太鼓を片付けて、自治会館で食事をとる。
平成21年(2009年)からは「伊勢原文化団体連盟水墨画之会」から「ぼんぼり」を借りて、参道に飾るようになった。
自治会館前の太鼓山車 | 自治会館を出発し |
大句地区を | 巡回していく |
30分程で戻り | 自治会館に到着 |
太鼓を打ち鳴らす | 太鼓連会長も参加 |
太鼓を山車から外し | 自治会館へ運ぶ |
中で太鼓を | 受け取る |
締太鼓の革を緩める | 乾杯して食事をとる |
参道を照らすぼんぼり | 社殿内の神輿 |
例大祭
『風土記稿』によると天満宮・腰取明神社・神明社の例祭日は旧暦の8月26日であった。明治42年(1909年)には岡崎神社に合祀され10月9日を大祭日としたが、昭和31年(1956年)9月に岡崎神社より分祀された当初の大祭日は10月4日である。その後は8月第1日曜日としたこともあったが、近年では9月の第1日曜日となり、平成15年(2003年)頃から9月の第1土曜日を祭礼の日としている。日曜日から土曜日に変更した理由としては、月曜日の片付けに人が集まらなくなってきたからだという。以下に例大祭当日の様子を紹介する。
●大祭準備(8:30〜10:45)
当日は朝8時30分頃に集合し、午前中に大祭の準備を行う。大句では「実行委員」とそれ以外の「お手伝い」の2つに分けられ、あらかじめ担当区分を決めて準備を進めていく。実行委員は宵宮から大祭翌日の後片付けまで祭礼を取り仕切るが、お手伝い組みは@大祭の午前(本宮準備作業)、A大祭の夜(会場係)、B大祭翌日の午前(後片付け)の3つに分かれている。実行委員とお手伝いの名前は自治会館前に張り出されており、準備をする前に各自が自分の名前に○を付けて出欠確認をする。
本宮の準備は@境内・参道の提灯取り付け、A境内・参道の飾り付け、B神楽殿の飾り付け、C御輿山車の組み立て、D自治会館の飾りつけの5組に分かれ、実行委員にお手伝い組みが付く形で進められていく。大祭の準備が終わると境内で小休憩を挟み、その後昼食は各自で取るようになっている。
早朝から祭りの準備 | 倉庫から花を出す |
かつて祭りで使った纏 | 人が徐々に集まり始め |
小屋からベニヤを取り出し | お宮へ運ぶ |
ゴミ入れのカゴも運ぶ | その他の備品を出す |
自治会館前では | 名前に○をつけて出欠を取る |
左が実行委員の名簿 | 右がお手伝い組みの名簿 |
氏子委員長の挨拶で | 朝礼が始まる |
各自の持ち場を確認し | 祭礼の準備が始まる |
神楽殿から資材を出し | 足を立て |
横に棒を渡し | 花道を組み立てる |
神楽殿から椅子と | ベニアを出し |
花道に掲示板を作る | 屋根に花を垂らす |
舞台正面に紅白幕を渡す | 舞台奥にも幕を垂らす |
参道付近では電球を取付け | 提灯に入れる |
参道に沿って配置し | 吊り上げる |
女性陣は境内と | 参道の掃除 |
社殿内部と | その周辺も掃除 |
こちらはリヤカーにベニアを敷き | 子供神輿2基を載せる |
中心に柱を立て | 飾り付けをしていく |
竹をなたで尖らせ | 花を挿していく |
神輿の屋根からロープを掛け | 棒でねじっていく |
胴回りに榊と紙垂を付ける | 御輿山車に幕を渡す |
境内には椅子を並べ | 椅子を雑巾で拭いていく |
提灯枠の花付け | 祭壇の準備 |
鳥居に縄を掛け | 紙垂を付ける |
自治会館では飾り付けと | 受付の準備 |
軽トラックが境内に上がり | 持ってきた氷を砕く |
飲み物を冷やすために | 氷をバケツに入れる |
準備も終わり休憩し | 各自で昼食をとる |
太鼓山車が姿を表す | 鳥居を通過し |
急坂を登り | 境内に到着 |
神楽殿前を通り | 社殿横に停める |
●昼の部(12:00〜17:50)
大祭の行事は午後から始まり、12時から受付スタートとなる。12時40分頃になると伊勢原大神宮の宮司が到着し、13時から社殿にて祭礼の式典が執り行われる。その後は御輿山車と太鼓山車のお祓いと自治会館横にある水神様の石祠で神事が執り行われ、13時50分から自治会館内で直会(なおらい)が開かれる。
昼から受付スタート | ご祝儀を貰うと |
お返しを渡す | のしの紙をお宮へ持って行き |
神楽殿横のボードと | 太鼓山車に貼り付ける |
しばらくすると宮司と | 巫女が到着 |
挨拶を済ませお宮へ上がり | 式典の準備 |
関係者が社殿へ集まり | 席に座る |
自治会館で宮司が衣装を変え | 社殿に向かう |
太鼓の合図で | 式典が始まる |
下では子供達が集まり始め | 境内に上がる |
神輿前に集合し | 記念撮影 |
式典が終わると | 御輿山車を |
回転させ | 参道側に正面を向ける |
子供神輿前で神事が始まる | 境内には子供達が並ぶ |
宮司が2基の神輿を | お祓い |
続いて太鼓山車を | お祓い |
巫女と | 子供達も祓う |
次に祝詞奏上 | 関係者による玉串奉奠 |
子供達と | 氏子委員長が続く |
式典が終了すると | 自治会館の方へ移動し |
水神様で神事を執り行う | その後は自治会館で直会 |
この後の宮発ちから宮入りまでは右記の御輿山車と太鼓山車の巡行を参照。
行事プログラム | 予定時間 |
花掛け・受付スタート | 12:00〜 |
神楽殿にて祭礼式典(大神宮宮司による) | 13:00〜 |
水神様神事 | 13:30〜 |
御輿山車・太鼓山車のお祓い (子供代表3名玉串奉天) | 13:40〜 |
直会(なおらい) | 13:50〜 |
御輿山車・太鼓山車の巡行(子供会太鼓) | 14:00〜16:00 |
休憩および食事 | 16:00〜17:50 |
境内にミュージックを流す | 17:00〜17:50 |
※上記の時間は予定であり、実際の進行と異なる部分があります。
●夜の部(18:00〜21:30)
夕方からは境内で余興が行われ、神楽殿では奉納カラオケなどが催される。昔は例祭に神楽や芝居を呼んでいたというが、時代の流れと共にカラオケなどに変わってきたという。以前は歌手を呼んで歌を披露していたようだが、現在は地元の住民達でカラオケを歌うようになっている。また、各余興の合間には子供会OBと太鼓保存会のはやし太鼓が披露される。平成21年(2009年)からは「伊勢原ジュニアリーダーズクラブ」を呼んで、子供会のお楽しみゲームを入れるようになった。境内には露店が4軒並び、綿菓子・水あめ・焼き鳥・かき氷が売られる。
夕方から子供会の囃子太鼓 | 伊勢原ジュニアリーダーズクラブ登場 |
子供達が神楽殿前に集まり | お楽しみゲームが始まる |
その間に太鼓を締めるが | 革が破れる |
子供達はゲームで盛り上がる | お兄さん達ともお別れ |
子供達は境内に列を作り | お土産をもらう |
神楽殿での余興の間は | 太鼓の演奏 |
太鼓が終わると司会者が登場し | 地元住民による奉納カラオケ |
観客が境内に集まる | こちらは親子で参加 |
露店にも人が集まる | カラオケが終わると再び太鼓 |
第2部のカラオケが始まる | 太鼓保存会の会員も歌う |
カラオケの合間は | 威勢の良い太鼓 |
奉納カラオケは最後となる第3部 | 歌に合わせて踊る人も |
こちらも太鼓保存会の会員 | 太鼓保存会会長も歌う |
最後のトリは司会者が勤める | 再び司会に戻り |
カラオケ参加者を呼び | 賞品を授与していく |
そして、いよいよ毎年恒例の | 餅まきと菓子まき |
最初に菓子を投げ | 境内は大熱狂 |
続いて紅白の餅を | 投げる |
後方ではジャンプして掴む | 余興が終わると帰路に着く |
神楽殿では後片付け | 露店も撤収 |
余興後は最後の叩き納め | 子供の次は大人が叩く |
私も山車に上がり | 一緒に叩く |
太鼓が終わると | 自治会館へ移動し打ち上げ |
神楽殿での奉納カラオケが終わると参加者に賞品が授与され、その後は毎年恒例の餅まきと菓子まきが行われる。最後に太鼓保存会が太鼓の叩き納めをし、その後は自治会館で打ち上げとなる。下記は夜の部の行事プログラムである。
行事プログラム | 予定時間 |
子供会のはやし太鼓 | 18:00〜18:20(20分) |
子供会お楽しみゲーム | 18:20〜19:10(50分) |
子供会OBと太鼓保存会のはやし太鼓 | 19:10〜19:20(10分) |
第1部 奉納カラオケ(5人) | 19:20〜19:50(30分) |
子供会OBと太鼓保存会のはやし太鼓 | 19:50〜20:00(10分) |
第2部 奉納カラオケ(5人) | 20:00〜20:30(30分) |
子供会OBと太鼓保存会のはやし太鼓 | 20:30〜20:40(10分) |
第3部 奉納カラオケ(5人) | 20:40〜21:10(30分) |
カラオケ参加者(チーム)に賞品授与 | 21:10〜21:15(5分) |
餅まき、菓子まき | 21:15〜21:20(5分) |
子供会OBと太鼓保存会のはやし太鼓 | 21:20〜21:30(10分) |
打ち上げ | 21:30〜 |
※上記の時間は予定であり、実際の進行とずれる部分があります。
太鼓
現在、大句で演奏されるのは「ハヤシ(マツリバヤシ)」と呼ばれる1曲だけで、東沼目などと同様に途中に「そーらよ」という掛け声が入る。曲を始めるときは「ぶっこみ」から入るが、ぶっこみが叩けない子供達などはこの掛け声から曲を始める。昔は笛と摺鉦も入っていたというが、何組かの太鼓連が集まって叩き合いをするために笛と摺鉦の音はあまり聞こえず、囃子の構成から除外されていったという。また、かつてはこれ以外に「小物」と呼ばれる数曲も演奏したというが、競り合いが中心になってきたために叩かれなくなったようである。太鼓の練習は7月末頃から大祭前まで(盆の期間は除く)、合計7日ほど行っているという。
かつては「青年会」が太鼓の運営に当たっていたが、現在は平成3年(1991年)頃に結成された「相模太鼓岡崎保存会」が活動を継続している。名前に「大句」ではなく「岡崎」が含まれているのは保存会を馬渡と共同で立ち上げたためで、伊勢原市の岡崎地区としての意味合いを持つ。かつては境内に櫓を組んで馬渡や平塚市岡崎の大畑と太鼓を3カラ並べて叩き合いをし、馬渡の祭礼の時には大句からも太鼓を叩きに行ったという。馬渡と合同で活動していたのは平成15年(2003年)頃までで、現在の馬渡は別の会を結成して活動を続けている。
現在の祭礼はトラック山車で大句地区を巡行するが、かつてはリヤカーのような物に太鼓を乗せて曳いていたという。大句の太鼓山車は平成15年(2003年)に造られた鉄骨製のもので、通常は木材で屋台や山車などが造られるのがほとんどであり、金属製の山車はここ大句ぐらいである。木材に比べて重量が増えるという問題はあるが、塗料などで腐食防止をしていることもあって耐久性は高いと思われる。前後のパネルには電球が取り付けられ、宵宮や大祭の夜には「岡崎保存会」の文字が明るく照らし出される。
太鼓山車 | 山車と太鼓枠は鉄骨構造 |
両サイドには「相模太鼓」の幕 | 正面には「岡崎保存会」の幕 |
屋根の前後には | 「岡崎保存会」のパネル |
囃子 |
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大句自治会館には「東京市」の隅書きが内側に残されている締太鼓の胴が残っており、東京市は明治22年(1889年)から昭和18年(1943年)までの間に存在した市である。平成21年(2009年)の太鼓連会長である吉川恭平氏は昭和5年(1930年)生まれで、現在はダイヤ工業の代表を務めている。吉川氏によると昭和28〜30年(1953〜55年)頃までは現在のボルトではなく、麻縄で太鼓の革を締めていたという。麻縄は一貫(約3.75kg)の本麻を2分割して、麻の皮を手で繊維が細かくなるまでほぐし縄状になっていく。太鼓を締める時のカケヤが今も残っており、材質は取っ手の部分が樫(かし)で先端が欅(けやき)であるという。太鼓を締める際は縄で革と胴を組んだ締太鼓を柱に固定し、カケヤに縄をくくり付け、先端のくぼみを革のリング部分に掛けて縄を引っ張っていく。また、吉川氏によると昭和27,28年(1952,53年)頃には当時の青年会で三ノ宮の比々多神社祭礼に出向き、500円位の花を掛けて人形山車の上で太鼓を叩いたという。
押入れには | 古い締太鼓の胴 |
内側には「東京市」の文字 | ロープ締めで使ったカケヤ |
麻を手でほぐし | 縄をなう |
カケヤの凹みを | リングに掛け |
太鼓を締めていく | かつて境内で櫓を組んだ場所 |
伊勢原市域の諸集落はどこでも太鼓が盛んであったし、現在も集落ごとに「太鼓連」の仲間を構成し、祭礼には欠かせない存在である。その中で、旧岡崎村は明治の末に丸島を除く7集落の氏神が岡崎神社に合祀され、10月8〜10日の祭礼には各集落が青年会の太鼓を中心に競い合って祭礼に参加したためとりわけ盛況であった。若者達は8日には神社に幟を立て、太鼓を叩くための櫓を組んで祭礼の準備をした。9日には神社で奉納される神楽の合間をぬって、各集落が交代で櫓の上で太鼓を叩いた。これは夜を徹したものであった。そして10日には幟を返し、櫓を取り壊した。
当時は祭礼の太鼓にあがるハナはかなりの額にのぼった。このハナを計算して経費で慰労することを「ハチハライ」または「ハチアライ」という。この清算の場には青年会が参加して一杯のみ、金が余分に残ったときには、足駄を鳴らしながら歩いて平塚へ「ヒヤカシ(遊廓)」に出かけた。
戦前においては若者の最大の楽しみでもあった太鼓叩きは、旧岡崎村の祭礼においてのみ披露されたわけではない。青年会に「祭り付き合い」とよぶ行政村のレベルを超えた周辺集落との太鼓を通した付き合いがあった。すなわち、祭日の異なる周辺集落の祭礼に招待され、その集落と太鼓を競うという習慣があり、それを通して当地区の同世代の者との交流も持てたのである。
神輿
大句には手作りの子供神輿が2基あり、川崎にある某神社が新規に神輿を購入する際に譲ってもらったという。昭和45,46年(1970,71年)頃までは子供達が神輿を担いで大句地区を渡御していたが、子供の減少に伴い現在のように台車に載せるようになり、この御輿山車は前後に神輿2基を載せてロープで曳く形式のものである。御輿山車を曳く際には特に掛け声はなく、急な参道の上り下り以外は子供達によって大句地区を曳かれる。また、吉川氏によると昔の神楽殿には大人神輿の屋根と思われるものが残っていたというが、神楽殿と一緒に処分してしまったという。
子供神輿は2基 | 片方は少し大きめ |
例大祭では御輿山車に載せる | 前輪で方向転換 |
かつて使っていた担ぎ棒 | こちらは馬 |
青年会
大正期頃の大句の青年会は長・次男を問わず15歳から42歳までの人達で構成された。入会は9月初めに行われる青年会の「月見」のときで、15歳になると先輩に引き連れられ、酒一升を持参して挨拶することで加入を認められた。会長は25歳前後で未婚の者が務めた。加入当座は「小若い衆」とよばれ、何かと先輩の言いつけに従って行動することが要求された。もっとも小若い衆を過ぎれば集団内部の年齢序列はそれほど厳格ではなく、たとえば青年の集会のときの座順も年齢順が問題にされるようなことはなかった。42歳で青年会を退会する人達には、会の方で記念品に火鉢を贈った。
現在の自治会館が位置する場所には、当時「青年会場」といわれた建物があり、青年が集まるときに利用された。青年会の行事で定例となっていたのは、正月15日前後の「歌い初め」、9月上旬の「月見」、そして祭礼の執行である。歌い初めや月見のときには各人が米2合と会費を持ち寄り、小若い衆が炊き出しを受け持って飲み食いをした。また祭礼(旧岡崎村岡崎神社)には、ほかの集落と競い合って太鼓を叩いた。その祭礼の当日には集落の各家から青年にオコワの握り飯2個と煮しめなどの御馳走を一皿出すことが習慣となった。
青年会の活動でもっとも若者達が熱中したのは祭礼における太鼓叩きである。この太鼓の皮を買うために、青年は9月に入ると月が出ようが出まいが関係なく月見と称して青年会場で太鼓を叩き、集落の各家からハナ(御祝儀)を集めた。名目は「月見」であっても真の目的は集めた金で皮の張り替えなど太鼓を補修し、祭礼の準備に入ることであった。太鼓の皮は大正の初期までは東京の浅草へ、その後は厚木へ行って購入した。太鼓および青年会の資金はこのような各家からのハナだけではなく、青年会でホリッコウエ(堀植え)をして売った米の代金や、村から「砂利ふるい(集落内の道路補修)」を請負って得た金も充当された。
この青年会は勤め人の増加などにより会員が減少し、昭和45,46年(1970,71年)頃までには自然消滅してしまった。
大句の歴史
大句は伊勢原市域の最南端で、伊勢原台地の南東部に位置し、大句村の東部から南部にかけては水田が広がっていた。村名の由来を『中郡勢誌』では、古代の班田制下で条理が作られ田は一反四方に区画されたが、この大句村周辺では五反を一区画とした大区画が設けられたことに由来したものとしているが、詳細は不明である。なお、『皇国地誌』によれば田は二七町余、畑一三町三反としている。
江戸時代当初は直轄地で、寛永年中(1624〜44年)に今村正長領になったが、天和3年(1683年)無継嗣により幕府に没収され直轄地に戻った。元禄10年(1697年)の地方直しにより仲条直景・船橋玄恂・曾谷玄鳳に分給され、幕末まで3氏の三給支配が続いた。検地は慶長8年(1603年)に実施されたと伝えるが、詳細は明らかではない。旧家に名主外右衛門家があり芳円寺の開基相原和泉の子孫とするが、当家はそののちに小田原北条氏の遺臣で二見民部丞が継ぎ、二見氏となる。『風土記稿』では淘綾郡山西村にある二宮神社神主に二見氏がおり、民部丞の子弟を養育して相原家を継がせたものと推測している。
元禄7年(1694年)には大磯宿大助郷となり、元禄15年には平塚宿大助郷になっている。また、享保3年(1718年)からは平塚宿定助郷、同10年(1725年)より同宿大助郷を勤めることになる。文政寄場(改革)組合は田村外35ヶ村組合に属す。
大句村には大山道が2本通過し、1つは大磯宿よりのもので幅一丈二尺(3.6m)、もう1つは平塚宿より幅七尺(2.1m)のものであった。村内の野陣台(のじんだい)と呼ばれる台地に通じる所に長さ二町(218m)の坂があり宮坂と呼ばれ、この野陣台は鎌倉時代前期の武将岡崎四郎義実が陣を敷いたところという伝承が残されている。川は村の東側を谷川(馬渡村では矢羽根川と呼ばれた)が流れ、高さ八尺(2.4m)の堤が設けられていた。
御輿山車と太鼓山車の巡行
●宮発ち(出発14:00)
式典と直会が終わると、御輿山車と太鼓山車がお宮を出発する。参道は急な下り坂になるので大人達が御輿山車を自治会館まで降ろし、太鼓山車も自治会館まで移動して太鼓を載せる。御輿山車を引っ張る縄に子供達が並ぶと、自治会館を出発し大句地区を2時間ほど巡行する。
境内では子供達に | 巡行における注意事項を説明 |
太鼓山車がお宮を出発 | 自治会館へ降りていく |
続いて御輿山車が出発 | 大人達により |
坂道を慎重に下り | 自治会館前に到着 |
自治会館から締太鼓を出し | 山車へ載せる |
棒を通し | 枠に設置 |
大太鼓も山車へ載せ | 固定していく |
太鼓の準備が整うと | 子供達が荷台に上がる |
太鼓が叩かれると | 神輿の綱には子供達が付き |
いよいよ | 自治会館を出発 |
神輿を先頭に | 太鼓山車が後に続く |
●休憩場所その1(到着14:30、出発14:45)
一行はお宮を出発すると北上し、最初は大句地区の北側を巡行していく。午後からの出発で巡回する時間が短く、アップダウンが激しい場所もあるため、神輿が回りきれない場所は太鼓山車のみで巡回していく。また、各家々の門戸にはには祭りちょうちんが飾られ、祭りに花を添えている。宮発ちから宮入りまでの巡行途中には休憩場所が合計3箇所あり、子供達にアイスやジュースなどを配って暑さをしのぐ。
一行は浄泉院を通過し | 神輿は途中で右折 |
山車は神輿の横を通過し | 岡崎城址(無量寺)方向へ向かう |
神輿は正面をお宮方向へ向け | 子供達は山車が戻るまで待機 |
山車は馬渡の境で引き返し | 神輿の方へ戻る |
山車が見えると神輿が出発 | 山車は後方に続く |
来た道を南下し | 途中で左折 |
細い路地に入る | 山車も神輿に続く |
坂道を登り | 神輿はT字路で右折し |
休憩場所へ向かう | 山車は途中で左折し別行動 |
道沿いに右旋回し | 細い道を慎重に進む |
神輿が右折したT字路に到着 | 休憩場所では先に神輿が到着 |
アイスを配って | 暑さをしのぐ |
しばらくすると山車が到着 | バックして駐車 |
叩き手もアイスをもらい | 全員で休憩 |
休憩が終わると子供達は | 神輿と山車に戻る |
休憩場所を出発し | 再び大句地区を巡行 |
●休憩場所その2(到着15:05、出発15:20)
1回目の休憩を終えた一行は主要道路の61号線である平塚伊勢原線に出ると、道路沿いの回転寿司屋の駐車場で休憩を取る。太鼓山車は直ぐに休憩場所へは向かわず、田畑が多い平塚伊勢原の東側を巡行した後に休憩を取る。
一行はY字路を右折し | 坂を下る |
神輿は直進するが | 山車は途中で左折 |
神輿が回れない場所を | くまなく回る |
突き当りで | 引き返す |
もと来たT字路を左折し | 止まっていた神輿と合流 |
一行は直進し | 大通りに出ると |
左折 | 山車も神輿に続く |
城所入口を通過し | 岡崎交差点に到着 |
神輿は大人達により道路を渡る | 山車は平塚伊勢原線を左折 |
しばらく進むと右折し | 前田橋を渡る |
再び子供達が神輿を曳き | 回転寿司屋の駐車場へ入る |
子供達が休憩中に山車は | 矢羽根排水路付近を巡回 |
再び平塚伊勢原線に戻り | 左折 |
岡崎交差点を直進 | 回転寿司屋の駐車場へ入り |
山車を停めて | 休憩 |
休憩後は神輿の縄を持ち | 出発 |
平塚伊勢原線を左折 | 山車も後に続く |
●休憩場所その3(到着15:35、出発15:50)
一行は大句地区を南下して、平塚伊勢原線を途中で右折する。神輿は最後の休憩場所で休憩するが、山車は再び平塚伊勢原線へ出て、神輿が回り切れない地区を走る。
一行は平塚伊勢原線を南下 | 平塚方面へ向かう途中で |
右折 | 山車も続く |
矢羽根排水路を渡り | ゲートボール場で左折 |
畑の横を通り | 右折 |
大通りに出る | 大句バス停を通過 |
ダイヤ工業前を通過し | 交差点を左折 |
肉屋の前を通過し | 右折 |
直ぐに右折をし | 肉屋横の空き地で休憩 |
山車は休憩場所を通過し直進 | 赤羽根橋交差点を左折 |
新道城所入口を通過 | 平塚伊勢原線を北上し |
先ほど入った道まで来ると | 方向を変え |
引き返す | 赤羽橋を右折 |
スピードを上げて走る山車 | 路地裏に入り |
休憩場所に到着 | 休憩後は再び出発 |
●宮入り(到着16:00)
最後の休憩場所を出発した一行は小田原厚木道路より南下することはなく、お宮の南側を巡回した後に16時頃にお宮へ戻ってくる。参道が急坂のため、宮発ちと同様に大人達が御輿山車を押して境内に入っていく。
一行は再び大通りに出る | 小田原厚木道路手前で |
右折 | 途中でお賽銭を貰う |
神輿は途中で右折するが | ここでも山車は別行動 |
しばらく進み右折 | 牛小屋を通過 |
平塚市岡崎との境まで来ると | 折り返す |
来た道を戻り | 左折 |
芳円寺前で待機する神輿 | 山車はその後左折 |
山車が合流すると | 直ぐに神輿は出発 |
細い道を | 通り抜け |
左折して | お宮を目指す |
道沿いに右折すると | お宮はもうすぐ |
いよいよ | 自治会館へ到着 |
会館前に神輿を停める | 太鼓山車も到着 |
子供達は先にお宮へ上がり | ここからは大人達の出番 |
鳥居を通過し | 坂道を押し上げる |
道沿いに右折すると | いよいよ宮入り |
社殿の側に御輿山車を宮付け | 神様に巡行の無事を感謝する |
子供達は境内に列を作り | お駄賃をもらう |
続いて山車が坂を上がり | 大人が太鼓を叩きながら宮入り |
境内を通り | 神楽殿横に停める |
締太鼓と | 大太鼓に毛布を被せる |
宮入り後は子供も | 大人もお宮を降り |
自治会館へ移動 | 大人は館内で休憩および食事 |
宮入り後は自治会館へ集まり、休憩して食事をとる。この後は左記の例大祭・夜の部を参照。
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