馬渡
菅原神社
「菅原神社」は馬渡の鎮守で、祭神は文道諸芸の神(文筆の神)と崇められている「菅原道真」である。菅原道真は平安時代中期の学者で政治家でもあり、醍醐天王に重用され右大臣まで昇進したが、左大臣藤原時平の中傷で九州の大宰府に流され配所で没した。のちに罪を取り消され、正一位太正大臣を贈り霊を慰めるため、天満天人(天満大臣自在天)と尊称した。
このような天満天人、即ち「天神様」を馬渡りで勧請したのは正徳元年(1711年)で、当時の馬渡村の人々によるものであった。天保12年(1841年)完成の『新編相模国風土記稿』によると「天神社」・「山王社」・「御嶽社」・「道祖神社」が存在したが、いずれも鎮守ではなく、明治初年頃に天神社を鎮守としたようである。寺院は芝増上寺の末寺で帰命山寿経院と号す浄土宗の「無量寺」があり、当寺の敷地は戦国時代に伊勢宗瑞(北条早雲)に滅ぼされた岡崎城の本丸跡とされる。このほかには地蔵堂もあった。
以降、村人の守り神として崇敬された馬渡の天神社であったが、明治末年に政府の主導によって推進された神社合祀の際に、大句の氏神とともに旧岡崎村の総鎮守であった「岡崎神社」に合祀されている。岡崎神社は『風土記稿』では西海地区に鎮座する「山王社」で、「岡崎郷七村の総鎮守」として位置づけられている。昭和2年(1927年)10月21日の日付を有する謄写版の文書「神社誌 村社岡崎神社」によると、山王社は明治維新に日吉神社と改称し、さらに明治42年(1909年)3月20日に「白髭神社外六社ヲ合併岡崎神社ト改称ス」とある。
昭和28年(1953年)の町村合併法に基づき岡崎村は昭和31年(1956年)9月30日に平塚市に編入されたが、地理上では伊勢原町に隣接する馬渡と大句は伊勢原町へ編入された。伊勢原町と合併するにあたり、岡崎神社に合祀した神霊を再び元の鎮座地に分祀して、馬渡は「菅原神社」、大句は「腰取神社」として祀るようになった。
菅原神社 | 鳥居 |
狛犬 | 狛犬 |
鐘楼 | 手水舎 |
拝殿・燈籠 | 覆殿 |
御嶽神社 | 神楽殿・社務所 |
石祠 | 境内 |
境内 | 馬渡公会堂 |
例大祭(午前)
馬渡と大句は岡崎神社に合祀してから、岡崎神社の大祭である10月9日に祭りを行うようになり、伊勢原町へ合併するまで続いた。但し、馬渡では合祀した後も菅原神社を「仮宮」と呼んで4月25日に祭りを続けており、戦後数年経った頃からは3月25日に行うようになった。戦後しばらくまで愛甲から神楽師をよんだり、座間市や東京から芝居をよんだりして楽しんだ。その後は3月の最終日曜日に移行したが、昭和62年(1987年)度に社殿を新築した落成式を兼ねて4月29日に祭りを行ってからは、現在もこの日になっている。
以下は平成22年(2010年)4月29日に行われた大祭の様子である。大まかな準備は前日の土曜日に行われ、大祭当日は朝8時頃から飾りつけなどの準備が行われた。
社殿の雨戸を明け | 式典の準備を始める |
榊を用意し | 紙垂を取り付ける |
奥では祭壇の準備 | 私の御神酒も供えてもらえました |
神楽殿の裏では伊勢原市 | 文化団体連盟水墨画之会が |
ぼんぼり(灯籠)の準備 | 正面の階段から |
境内のフェンス越しに | 社殿裏までぼんぼりを設置 |
最後に俳句(歌)の書いた紙を | ぼんぼりの下に垂らす |
裏から砂を積んだダンプが到着 | 前日に雨が降ったため |
ぬかるんだ境内に | 砂を落とす |
シャベルですくって | 境内にまき |
平らにならしていく | ダンプは前進しながら |
砂を落とし | ぬかるみを埋めていく |
神楽殿では用意してあった | 花を屋根に挿す |
舞台下には紅白幕を張る | 花は社殿前や |
それ以外の場所にも | 挿していく |
神楽殿の舞台から | 子供神輿を出し |
社殿前まで移動し | 輿を下ろす |
境内中央では山車の準備 | 締太鼓の枠を取り付け |
提灯を付け | 馬渡子供会の幕を |
山車の周りに | 巻きつける |
太鼓を神楽殿裏から | 運び出し |
舞台の花道へ | 並べる |
模擬店等に必要な荷を積んだ | 軽トラが次々と到着 |
積荷を降ろす | 境内では直会の準備 |
テントの骨組みも降ろし | 組み立てる |
シートをかぶせ | テントを立てる |
テント下にテーブルを並べ | 調理の準備 |
太鼓の山車では | 柱に座布団を巻きつける |
大太鼓を載せ | ロープで柱にくくりつける |
締太鼓はスパナで締め | 音色を確認 |
山車の枠に締太鼓をはめ | 鉄の棒を通して固定 |
太鼓の下には紅白幕 | 前後の屋根に花を付け |
準備が整うと | 太鼓の音で祭りを知らせる |
社殿ではのしの紙を書き | 花道の掲示板に貼り付ける |
大祭の準備が整うと釣鐘堂(鐘楼)の竣工式が執り行われ、その後は11時頃に大祭の式典が社殿にて行われた。式典は大句と同様に伊勢原大神宮の宮司により執り行われる。
関係者が社殿に集まり | 太鼓の合図で |
式典が始まる | 神事が終わると宮総代の挨拶 |
式典が終わると境内に降り | テーブルに食事の準備 |
宮総代の乾杯の挨拶で | 直会が始まる |
食事が一段落すると神輿の準備 | 勝太郎一行も舞台の準備 |
境内に貼られたポスター | 社殿横には習字の展示も |
例大祭(午後)
境内にて式典の直会が終わると、子供神輿と太鼓の山車がお宮を出発し馬渡地区を巡行する(馬渡地区巡行を参照)。
一方、境内の神楽殿では14時頃から余興が行われる。昨年までは氏子が参加するカラオケ大会が催されたが、今年は勝太郎一行による芝居やマジックショーが行われた。また、社殿横に設置されたテントでは氏子により焼きそばやフランクフルトなどが調理され、手ごろな値段で販売される。その他に手作りの射的なども子供達に人気があり、宮入り後の境内は多くの人手で賑わいを見せる。
神楽殿では勝太郎一行 | 熱心に聞き入る観客 |
神輿の宮入り時は | 幕を下げ |
宮付けされると幕が上がり | 再び歌が始まる |
社殿横のテントでは | 焼そば作り |
調理を終えたフランクフルトも販売 | 私も買ってみました |
その他にもジュースやビール | テント横にはヨーヨーも |
手作りの射的は | 子供達に大人気 |
舞台幕間に子供の太鼓を挟み | 今度は芝居が始まる |
幕間には大人と子供が | 入り混じって太鼓を披露 |
社殿横では後片付けを初め | 荷物を軽トラで運搬 |
鐘楼前では記念撮影 | 舞台の最後はマジックショー |
最後の挨拶を終え | 観客から拍手をもらう |
余興が終わると | 山車では太鼓を打ち鳴らす |
神楽殿での余興は17時頃に終わり、最後に太鼓を叩いて大祭は終了となる。その後は簡単に後片付けを行うが、全体の片付けは翌日に行われる。
イスとテーブルを片付け | 勝太郎一行も後片付け |
幟竿から | 幟を降ろし |
小さくたたむ | 日の丸も竿から降ろす |
社殿横では提灯を取り外す | 子供神輿は |
神楽殿へ移動し | 舞台へ置く |
山車では太鼓をしまう前に | 最後の叩き収め |
叩き終わると枠から外し | 締太鼓をゆるめる |
神輿の鳳凰を外し | 木箱へしまう |
2本の輿棒を抜き | 木箱を神輿手前に移動 |
神輿を持ち上げて箱に収め | 上から蓋をかぶせる |
太鼓は山車から降ろし | 花道に仮置き |
山車の提灯を外し | 幕を外してたたむ |
神楽殿に荷物をまとめると | 続きの片付けはまた明日 |
釣鐘堂(鐘楼)の竣工式
平成21年(2009年)度は新しい鳥居が奉納され、同年の大祭の式典前に竣工式が執り行われた。さらに、平成22年(2010年)は鐘楼が奉納されたため、10時頃から鐘楼前にて竣工式が執り行われた。
大神宮の宮司が到着し | 鐘楼へ向かう |
鐘楼前に祭壇の準備 | 供え物を並べ |
準備が整うと | 式典が始まる |
初めに宮総代の挨拶 | 続いて宮司が挨拶をし |
鐘楼前にて神事が始まる | 初めに除幕式が行われ |
祭壇前にてお祓いをし | 鐘楼前でもお祓い |
続いてハサミを | 代表者4人に渡し |
鐘楼の四隅に配置 | 紅白幕を吊るす紐を切る |
幕が降り | 鐘楼が姿を現す |
氏子に披露された鐘楼 | 神事は続き |
祭壇をお祓い | 巫女をお祓い |
氏子をお祓い | 雨は降り出すが式典は続行 |
続いて鐘楼を祓い | 枡に入った紙ふぶきを手に取り |
鐘楼の四方から | まいていく |
続いて | 玉串奉奠 |
神事が終了し | 代表者が |
鐘を撞いていく | 鐘の音に耳を傾ける氏子 |
最後に備えたお神酒を配り | 乾杯して直会 |
囃子
馬渡に伝わる囃子は締太鼓2と大太鼓1の3人編成で、曲は「ぶっこみ」から始まる通称「ばかっぱやし」のみが叩かれている。太鼓の練習は神楽殿にて大祭前の2週間ほど行われ、●や○で描いた譜面や、見本で録音した音源などを利用している。大祭当日は、馬渡地区を巡行する際は主に子供が中心となって太鼓を叩き、大人は巡行中の休憩時間や余興の幕間に叩く。
近年まで高野一峻氏が精力的に太鼓の指導にあたっていたが、残念ながら平成21年(2009年)に他界された。高野氏は太鼓一式を寄付したり、現在の山車を購入するなど、太鼓にかける思いは人並みならぬものであった。なお、高野氏はほとんど大太鼓しかたたかなかったという。高野氏は軽トラックに載せる山車も購入したというが、他界後は大きい方の山車のみが神社に寄付されている。
飾り付け前の山車 | 太鼓用の撥 |
囃子は締太鼓2と | 大太鼓1の3人編成 |
囃子 |
---|
下の半纏はかつて馬渡の青年達が着ていたもので、模様は馬の文字をあしらっている。隣の平塚市城所に残されている写真の中にも見られるように、かつては境内に櫓を組んで太鼓の叩き合いをしたほど盛んであった。岡崎神社に一時合祀されていた時期も、馬渡では例大祭を続けており、当時は青年達が精力的に活動していたことがうかがえる。また、同じ岡崎地区の大句とも太鼓の交流があり、境内で太鼓の叩き合いをしたという。戦後は他の地区と同様に祭り自体が廃れてしまったようであるが、現在では氏子の努力により盛大に例大祭が行われている。
馬渡青年があった頃の | 貴重な半纏 |
神輿
馬渡には子供神輿が1基あり、昭和末年から平成初年頃に購入したものである。かつては、子供達が神輿を担いで馬渡地区を練り歩いたが、現在は台車に載せて曳いて回っている。
子供神輿 | 巡行中に使う台車 |
馬渡の歴史
地名の由来は古代に大山へ通じる道が通り、その馬継場であったことによるとされるが、詳細は不明である。『皇国地誌』では田は一七町余、畑は二八町五反余とする。江戸時代当初は直轄地で、寛永10年(1633年)の地直しにより須田盛政領になり、以降幕末まで続く。検地年代は不明である。
馬渡村内には2本の大山道が通り、村の東方を幅七尺(2.1m)、西の村境付近を幅九尺(2.7m)のものが通過していた。村の東側に矢羽根川(やばねがわ)が幅七尺で流れ、字山王山下に広さ三畝ほどの溜井が設けられた。小名には「大槻谷戸(おおつきやと)」・「蔵屋敷(くらやしき)」・「谷戸(やと)」・「一本杉」があった。馬渡村は平塚宿の大助郷になり、文政寄場(改革)組合では田村外35ヶ村組合に属した。
村内の無量寺一帯は鎌倉時代から戦国時代にかけて築かれていた岡崎城趾とされ、岡崎城は三浦一族で鎌倉時代初期に活躍した岡崎四郎義実が築城したのが最初とされる。城砦として利用されていたが、戦国時代の永正9年(1512年)に城主だった三浦(道寸)義同は、ここで伊勢宗瑞(北条早雲)・氏綱父子による攻撃を受け、応戦の甲斐なく落城した。
馬渡地区巡行
各自昼食を終えると関係者はお宮に集合し、午後から馬渡地区を子供神輿と太鼓の山車が巡行する。子供会では班を4つに分け、休憩ごとに交代しながら"わっしょい"と威勢のよい掛け声で神輿を曳いて行く。神輿は町内を全て回ることができないため、途中で山車が別行動をし、出来るだけ広い範囲を回れるように工夫している。
●お宮出発(出発12:30)
12時頃になると馬渡公会堂に集合していた子供達はお宮に移動し、境内にて式典が執り行われる。式典が終わると子供神輿・太鼓山車の順にお宮を出発し、一行は馬渡地区を巡行していく。
赤い半纏の子供達が | お宮に現れる |
こちらは黄色い半纏 | 境内に揃う子供達 |
子供神輿の前に整列し | 式典が始まる |
子供神輿をお祓い | 続いて太鼓の山車を |
お祓いしていく | 巫女をお祓いして |
子供達もお祓い | 祝詞奏上に続き |
代表者による | 玉串奉奠 |
神事が終わると | 宮総代の挨拶で式典が終了 |
黄色い半纏組は | 太鼓の山車へ移動 |
山車に乗り込み | 出発の準備が整う |
赤い半纏組には団扇と金棒 | 最初は子供神輿を大人が持つ |
境内を出発し | 提灯枠と |
鳥居を潜り | 石段を降りる |
少し先に進み | 馬に輿を下ろす |
子供達も境内を出発し | 神輿の周りに集まる |
輿棒に子供達がつき | 氏子総代と描かれた提灯が先導 |
神輿を担いで出発 | 後ろにも氏子総代の提灯がつく |
山車では太鼓を打ち鳴らし | お宮の裏から出発 |
鐘の音が宮立ちを知らせる | 山車はお宮を出発し |
子供神輿を追いかける | 子供神輿は無量寺の手前で |
折り返し | 山車も続いて折り返す |
一行は再びお宮前へ | 沿道で見送る氏子 |
暫く進むと神輿を降ろし | ここで台車に載せる |
神輿を台車に固定 | 子供達は神輿の前に整列 |
ロープを引っ張り | 再び出発 |
馬渡地区を曳き歩く | 山車も後に続く |
●伊勢原みのり幼稚園(到着12:50、出発13:00)
お宮を出発した一行は最初の休憩場所である、伊勢原みのり幼稚園の駐車場で休憩をする。
公会堂前のT字路まで来ると | 一旦停止 |
車が通り過ぎると右折 | 山車も右折して後に続く |
それぞれの家の前には | 子供達が描いたポスターが掲示 |
さくらの家福祉農園前を通過 | 暫く直進すると右折 |
巡行中最初の休憩場所である | みのり幼稚園の駐車場に到着 |
子供達は班毎に整列し | ジュースをもらえる方に |
お礼の挨拶 | ジュースが配られて休憩 |
休憩中は大人が | 太鼓を叩く |
お手洗いは幼稚園を借りる | 子供達は休憩を終え |
神輿のロープに付く | 団扇と金棒が先導 |
子供神輿が後に続き | 駐車場を出発 |
フェンス越しに右カーブ | 幼稚園の正門へ向かう |
山車も後に続き | 一行は正門前で左折 |
幼稚園を後にし | 次の休憩場所を目指す |
●布袋久保北公園(到着13:30、出発13:45)
一行は大通りである平塚伊勢原線(県道61号)に出るが、直ぐに左折して八幡台との境を進んでいく。
平塚伊勢原線に突き当たると | 左折 |
ほっともっと | ひな野の前を通過 |
馬渡交差点を通過し | 豆芳で左折 |
急坂を登り | 住宅街を練り歩く |
右側は隣りの八幡台 | 左側が馬渡地区 |
神輿は途中で左折し | 山車は別ルートで移動 |
神輿は道沿いに右カーブ | さらに右折 |
細い道を幾度も曲がり | 住宅街を進んでいく |
暫く進むと | 後方から山車が合流 |
突き当たりを右折し | 左折して下り坂を進む |
途中で右折すると | 神輿が布袋久保北公園に到着 |
一方、山車は止まらずに | 新興住宅地を巡行 |
公園で遊ぶ子供達 | 暫くすると山車が戻り |
公園に到着すると | 叩き手が交代 |
神輿は出発の準備を整え | 公園を後にする |
山車も後に続き | 次の休憩場所を目指す |
●竹園小学校(到着14:00、出発14:30)
公園を出発するとさらに入り組んだ道を通り抜け、最後の休憩場所である竹園小学校に到着する。竹園小学校では軽食が配られ、30分程の長い休憩が取られる。
子供神輿は左折して | 今度は急坂を下り |
突き当りを右折 | 別行動していた山車が |
一旦合流するが | 右折して再び別行動 |
一行は住宅地を抜けて | 太い通りに出ると |
交通指導員の誘導で右折 | 団扇で扇ぎながら坂を登り |
最後の休憩場所である | 竹園小学校に到着 |
校長・教頭に出迎えられ | 校舎前で山車と神輿が止まる |
子供会はパンとジュースを準備 | 子供達に配っていく |
階段で休憩する子供達 | 休憩中は神輿前で記念撮影 |
最後の休憩が終わると | 神輿は学校を出発して左折 |
山車も続いて出発するが | そのまま直進して別行動 |
神輿は来た道を引き返し | 突き当りを左折 |
後方から山車が合流し | いよいよお宮を目指す |
●お宮到着(到着14:50)
巡行中最後の休憩を終えた一行はお宮へ向かい、最後は子供神輿が大人たちの手で運ばれて宮入りする。
山車は直ぐに右折し | ここでも神輿とは別行動 |
神輿は緑造園 | 中山どうぶつ病院前を通過 |
しばらくすると右側から | 山車が合流 |
岡崎釣堀センター前を通過し | 太い通りに沿って進む |
交通指導員の協力のもと | 巡行は終始安全に行われる |
公会堂前で一旦停止し | 一行は右折 |
お宮はもう直ぐ | 目の前に国旗が見える |
お宮の石垣横を通過し | 正面の石階段前に到着 |
子供達は神輿から離れ | 階段付近で待機 |
山車は裏手から境内に入る | 神輿は大人達によって運ばれ |
石階段を登り | 鳥居・提灯枠を潜る |
鐘の音が宮入りを告げ | 神輿は境内を進む |
社殿前に到着すると | 馬を入れて輿を下ろす |
子供会は半纏を回収し | 子供達にお菓子を渡す |
この後は例大祭(午後)を参照。
戻る(伊勢原市の祭礼)