城所
貴船神社
城所の鎮守である「貴船神社」は寛仁年間〜長元年間(1017〜37年)の頃に、領主であった城所盛道が館を築造した際に屋敷神として勧請して祀ったのが始まりとされている。盛道は藤原氏の流れを汲む糟屋盛久の四男で、現伊勢原市の糟屋氏から分家して当地に城を築き、城所氏を名乗った盛道が城所城の守護神として祀ったともいわれる。創建当時の城所一帯は沼地であったため、その水源に鎮座した当社は「谷の竜神」・「水の神」として村人が崇敬したという。天保12年(1841年)完成の『新編相模国風土記稿』によると「貴船社」と称し、「城所寺」持ちであった。祭神は「タカオカミノカミ」と「クラオカミノカミ」の2柱である。
かつての社殿は現在地の後方の城所で一番高い所に建っており、境内は平らな土地であった。昭和17〜18年(1942〜43年)に社殿を建て直したが、その直後に政府の方針で砲台を建設するために強制的に現在の場所に移転させられた。旧社地の後方は一段と高くなっていて、山王山といって前方後円墳があったが、これも砲台を造る時に壊されてしまった。砲台は終戦直後に撤去し、現在は旧社地のあたりは畑になっている。なお、城東の山王社は岡崎四郎が建てたという。
境内にある三面大荒神社は「東鑑」にものっている補陀落山千手院常蘇寺観音堂の境内にあったもので、昭和38年(1963年)に常蘇寺跡から貴船神社境内に移遷された。幼児の夜泣きを止める「泣き荒神」の伝説を持つ。
貴船神社 | 参道 |
燈籠 | 鳥居 |
手水舎 | 遷座記念碑 |
燈籠・拝殿 | 幣殿・覆殿 |
神額 | |
城所自治会館 | 神楽殿 |
境内 |
社地の遷座
かつての社殿は現在地より後方の城所で一番高い場所に建っており、境内は平らな土地で、その頃は神社の所有地があり農地として貸していた。貴船神社があった丘陵は高射砲陣地として指定され、昭和18年(1943年)に海軍の用地として買収された。これを「城所砲台」と呼び、そこには12糎級高射砲2門と高射機関砲が据え付けられた。城所砲台は平塚の海軍火薬廠防衛のために市内はもちろん、その近隣町村に高射砲陣地が配置されたときの一つで、こうした砲台の構築は軍隊の至上命令のために神社地といえども明け渡さざるを得ず、貴船神社の遷座に至ったわけである。
移転直前の社殿は昭和17〜18年(1942〜43年)に新築したばかりで、取り壊すには余りにも忍び難かったため、社殿をそのまま現在の地に移転させることになった。社殿の移転は城所台地の突端部の標高35m前後の土地から、約20m下(標高差10m)の急斜面を引き降ろすことになり、平坦地とはことなる傾斜地での移動方法を協議した結果、鳶職人の発案が採用されることとなった。作業は伊勢原の鳶職が中心になって行い、工事費は全て当時の政府が負担した。旧社地と現在の鎮座地との間は段々畑になっていて、臼をコロにしてロープで社殿を引っ張り、上で緩めなおしながら20日ぐらい掛けて現在地に移動させた。この時の二斗バリ臼は各部落から集めたもので、この臼を畑の段差に置いて台にし、板を並べてなるべく平らにした。この時に、境内に祀られていた他の神社も一緒に遷した。境内にはこの移転時に立てられた記念碑が現在も残され、次の様に刻まれている。
貴船神社は伊弉諾尊の御子闇?神を祀る神名の意義は谷の龍神で水源の神と仰がれ給う當部落草創の昔北丘前原七番地に鎮座以来悠久千年適々大東亜戦争が勃発した為社地を海軍用地に選定され代供の現地に奉遷と決したので工事を大工吉川鈴造に托し労役は氏子が奉仕して本年八月三十日起工営々本日に至つて竣工した乃ち氏子中相謀り事由を勒して後昆に傳へると云ふ
昭和十八年十月十一日 村長 菅沼保之輔(以下六名)
遷座記念碑 |
この砲台は終戦直後に撤去され、その跡地は昭和39年(1964年)に新幹線敷設用土砂として削り取られたため、現在は台地突端部の東側が大きくえぐられていて、台地との境は絶壁状となっている。移転前の神社の所在地は「前原」といっていたが、戦後の農地解放で大蔵省から土地が返還され、その土地を「宮ノ跡」として旧所在地を明確にした。
境内末社
『風土記稿』では貴船神社に境内末社の記載は無いが、現在は「御嶽社」・「秋葉社」・「三面大荒神社」の3社が祀られている。いずれも昭和18年(1943年)の遷座とともに移転した。御嶽社は同署に該当する神社が見当たらないが、秋葉社は同書の浄心寺境内社に「△秋葉社」があり、これに該当すると思われる。三面大荒神社は村民持ちの「○荒神社」と記されている。祭日は、御嶽社は2月11日、秋葉社は7月に各々役員が参加して行っている。
三面大荒神社は昔は山の上の観音さんのところにあったが、観音堂の移転に伴い貴船神社の境内に遷された。社の中に彩色された三面大荒神の木像が祀られている。泣き荒神といわれ、かつては子供の夜泣きに困る親が多く、近隣の村々からのお参りが絶えなかった。願をかけて願いが叶うとお礼に絵馬を持参し、昭和18年(1943年)頃迄は社の格子戸に絵馬が鈴なりに掛かっていた。また、8月17日の観音さんのお祭りのときなどにお参りした。現在は11月23日にお宮の役員などで簡単に祭りをしている。
部落長の申し送りの箱に三面大荒神のオスガタの版木が入っていた。版木はお姿と縁起が彫ってあり、世話人が版木で刷って、お札として売った時もあった。子供が夜泣きをするときにもらいに来た。表装し掛軸としている家庭もある。オスガタは現在も年に数件依頼があり、氏子世話人が保管して希望者に刷っている。
矢羽根のある人は、子供の頃に夜泣きが激しかったので、吉田キヌさんに見てもらったところ、「おむつと神社のお札が一緒になっているのでやめるよう」に言われ、その通りにしたら夜泣きが止まったという話を父親から聞き、ご利益があるとのことで、近年泣き洗神の謂われの碑文を寄進した。碑文の文面は版木の縁起と同じである。
御嶽神社 | 秋葉神社 |
三面大荒神社 | 社 |
城所三面荒神略縁記 |
三面大荒神社の前に社に向かって左向きで寝そべっている牛の石像があり、この石像は矢羽根の石塚富士之助氏の曾祖父の萬兵衛氏が日露戦争勝利祈願のために作り、山の上にあった三面大荒神社へ奉納したものである。銘文は「<台正>為日露戦争献納 <台左>世の中は 行とかへりの國堺ひ 行連来る人 死て行人 石塚萬兵衛七十七才」とある。
しかし、大正12年(1923年)の関東大震災で行方不明になり、翌年、城所中で赤痢が流行り、ムラで半分くらいの人が赤痢にかかった。何か祟っているのではないかとムラの役員が吉田キヌさんというよくミル人に見てもらった。おキヌさんが堂坂を歩き、「ここだ」と杖を当てた場所へ村人がシャベルを入れると石に当たり、牛の石像が出て来て赤痢はとまり、牛を元の場所へ戻した。おキヌさんはよほど霊感のあった人で、無くなり物があると見てもらっていた。
また、全体逆向きの瓜二つの牛の石像が石塚富士之助氏宅にあり、こちらは日清戦争勝利を祈念して明治27〜28年(1894〜95年)に作ったものである。奉納する前に戦争が終わってしまったので庭の隅に置き、たんにウシと呼び、富士之助氏が子供の頃は近所の子供達と石像に乗りよく遊んだ。最近、場所を少し移動して銅葺きの小屋を作り中へ納めた。明治時代はまだ牛を飼う人も無く、役牛として朝鮮牛が飼われるのは大正時代に入ってからで、なぜ牛にしたのかは判らないという。石塚氏は日露戦争の方が顔が怖く、10年若いがあらたかな感じがするという。
祭礼の歴史
祭礼日は『風土記稿』によると旧暦の8月19日とあるが、『皇国地誌』では月遅れの9月19日となった。戦前の昭和16年(1941年)頃までは9月19日に祭礼をしていたが、雨の時はお祭りを延期することもあったという。その後は9月8日と変わったが、9月は祭礼に人を招いても保有米が少ないので十分な接待ができず、また、9月は養蚕をやっている農家は蚕の掃き立てなどで忙しく、昔は座敷に畳みを上げて蚕を飼っていたため、お客さんが来ても上がってもらう部屋もない状態であった。
9月は養蚕のために忙しいという事で、第二次世界大戦以後は4月11日となったが、時代の流れと共に勤めに出る氏子が多かったために例祭日を一般的な休みに変更する意見があがり、4月11日前後の日曜日などの案も出たが、最終的には固定の日付にしたほうが良いということになり、平成に入ってから間もなく「みどりの日(現在は昭和の日)」である4月29日に変更され現在に至る。
貴船神社氏子会の「平成13年度事業報告」によれば、13年度には次のような行事を神社で実施している。
元旦祭
2月11日・・・祈年祭と御嶽神社祭
4月29日・・・貴船神社例大祭
7月22日・・・大祓祭と秋葉神社祭
11月10日・・・七五三祝
11月23日・・・勤労感謝祭と三面大荒神祭
12月23日・・・師走大祓祭
宵宮
ここからは平成21年(2009年)4月29日に行われた宵宮の様子を紹介する。宵宮の昼間には境内に幟が立てられ、上地区と下地区にはそれぞれ国旗が揚げられる。
境内に立てられた幟 | 幟竿の獅子 |
上の国旗 | 下の国旗 |
夜は19時から車山車がお宮を出発し、大祭と同様の道順で城所地区を巡行する。宮入りは21時30分頃で、その後は自治会館内で宴の席が設けられる。
自治会館前の山車 | 出発前に |
発電機に換える | 電飾された山車 |
叩き手が乗り込み | 出発準備が完了 |
大人の山車が | 先に宮立ち |
子供の山車が | 後に続く |
城所地区を | 巡行 |
屋根にはイルミネーション | のしの紙を貼っていく |
私の分も貼ってもらいました | 山車内部の様子 |
巡行を終えて宮入り | 自治会館前に宮付け |
発電機は匂いが強いので | 家庭用配線に交換 |
自治会館にテーブルを並べ | 夜の宴会 |
例大祭
ここからは平成21年(2009年)4月29日に行われた、例大祭当日の様子を紹介する。
●大祭準備
大祭当日は早朝から準備が進められ、式典の準備や花などの飾り付けが行われる。鳥居前には国旗を交差させるが、これは漢字の「入(はいる)」を意味しているといわれる。
式典の準備 | 自治会館から花を持出す |
自治会館に花を付ける | 鳥居前に花を付ける |
国旗を交差させる | テントではテーブルと椅子を準備 |
写真を掲示し | 花を添える |
神楽殿に供物を用意 | |
自治会館には受付を用意 | 御祝儀をもらうと |
お返しにタオルを渡す | 館内では筆でのしを書く |
●太鼓・山車の準備
早朝から締太鼓を締めて、叩く面が分かるように枠に固定するロープを付けていく。山車には竹に紙で作った花を付けたものを四方に垂らし、両サイドは広がらないように紐で固定する。
太鼓を締めて音色を調整 | 紐を付ける |
自治会館前の山車を | 移動し |
拝殿横に停める | 花を四方に垂らす |
横方向の竹に縛り | 広がらないように柱に固定 |
締太鼓を運び | 枠にはめ |
竹を通す | 紐を締め |
枠に固定 | 続いて大胴を |
山車に載せ | 柱に縛り付ける |
太鼓に毛布を掛け | 準備が整う |
●式典
式典は10時から執り行われ、「修祓」・「献饌」・「祝詞奏上」・「玉串奉奠」・「撤饌」・「直会」の順で祭事次第が進められる。かつては大神から神主がやって来て、氏子総代・隣組の組長を従えて神主がお祓いをしたという。
神主が自治会館に到着 | 社殿で式典の準備 |
供えられた供物 | 貴船神社 祭事次第 |
太鼓の合図で | 関係者が拝殿前に集まる |
正装で神主が現れ | 社殿に上がる |
式典が始まる | お祓い |
神主が榊を準備し | 玉串奉奠 |
神主が拝殿を降り | 挨拶 |
その後は自治会館へ移動 | 太鼓保存会は山車へ移動 |
神主も山車へ向かい | 保存会をお祓い |
続いて子供用の山車をお祓い | 運転席もお祓い |
大人用の山車も同様に | お祓い |
太鼓保存会が記念撮影 | 自治会館へ向かう |
直会の挨拶 | 乾杯の挨拶があり |
皆で乾杯 | 直会が始まる |
会直の後は山車巡行を参照。
●露店
貴船神社の大祭に出る露店は城島地区では最大で、平成21年(2009年)度は11店であった。準備は早朝から行われ、城島地区以外の伊勢原からも参拝客が訪れる。
露店のトラックが境内に入る | 資材を降ろし |
屋台を | 組み立てる |
昼頃には | 準備完了 |
夜は境内を | 明るく照らす |
城所ばやし(城所太鼓)
「城所ばやし」は城所地区の鎮守「貴船神社」に伝わる囃子でその発生は定かではないが、明治・大正時代には岡崎や城島、伊勢原市大田など10ヶ所ほどへその芸を伝授したといわれ、鎌倉囃子の流れを汲むものであると伝えられている。城所の太鼓は近隣で有名だった。城所が太鼓の先生で大句・馬渡・矢崎・西海地・小稲葉・平間・池端・高部屋・大島・下島・小鍋島までに教えに行き、また叩きにも行った。先方へ叩きに行くと城所は大事にされ、一番良い場面で叩かせてくれたという。
昭和25年(1950年)頃まではこうした近隣の太鼓連をお互いの祭りに呼び合い、境内に櫓を組み太鼓を並べて叩き合いをすることが盛んで、戦前は最大六、七カラの太鼓を並べたという。笛を吹く人は自分の笛を持って行き、城所や大竹は囃子に合わせてヒョットコ面などを被って踊った。しかし、戦前・戦後の頃は競り合いでの曲はバカッパヤシだけで、笛を吹いても聞こえなかったので笛は入らなかった。また、競合いの時はコバチを使わずにオオバチで叩いた。なお、大島や下島は新しいので笛や鉦がなかった。
このようにかつては盛んだった城所の太鼓であったが、昭和30年(1955年)代半ば頃から一時太鼓が途切れてしまった。太鼓が途切れたのはお宮で余興をやらなくなったのが原因といわれ、約10年の間は祭りで叩かない時期が続いた。しかし、昭和42・43年(1967・68年)頃に「城所太鼓保存会」を結成し、会長・副会長・会計や地区毎の責任者などの役を置く。保存会の半纏は背中に城所の「城」の文字が入るが、会長と副会長の半纏のみ太鼓連の「連」が刻まれ柄も異なる。
城所太鼓保存会の半纏 | 会長・副会長はデザインが異なる |
現在の城所ばやしは保存会結成後に川口政男氏に教わったもので、川口氏は城所出身であったが、次男という事もあり一時期諏訪町に住んで牛乳屋を営み、晩年に再び城所に移り住んで保存会へ太鼓を教えた。城所ばやしは14曲からなるといわれているが、当時この全てを知っている人は川口氏しかおらず、川口氏がいなかったら城所の太鼓も他所と同じようにバカッパヤシ(屋台囃子)だけになっていたであろう。川口氏は笛も吹いたといわれるが、残念ながら川口氏の笛を受け継いだ者はいない。現在の笛は四之宮から習ったものであるが、屋台以外の曲は四之宮の前鳥囃子の笛を城所の太鼓に合わせてアレンジしたものである。また、F追馬からI仕丁目まではオカメとヒョットコなどの面を被った踊りが伴い、平成元年年(19889年)頃に復活した。踊りの形式は定かではないが、言い伝えでは昔から踊りがあったという。
囃子に使用される楽器の構成は「大太鼓1」・「締太鼓2」・「笛」・「鉦」の一柄を基本としているが、大祭での発表やホールなどの演奏活動では締太鼓を4個使って演奏している。曲目は下表の14曲からなり、これら14曲を地元では「正調城所ばやし」と呼んでいる。@とMは屋台囃子の前奏と最後を締めくくる曲で、BCJKLは屋台囃子の中に変化を持たせる曲である。なお、競りで叩かれる屋台囃子は「オオバチ」といってバチ数を減らして力一杯叩くが、正調城所ばやしでは「コバチ」といってバチ数を増やして叩く。
曲名 | 解説 | |
1 | 打ちつけ | 屋台囃子の前奏曲 |
2 | 屋台囃子 | 主に巡行中に囃される |
3 | 刻(きざみ) | 屋台と屋台の間に叩かれる |
4 | 攻(せめ) | これも刻みの一種 |
5 | 昇天(しょうてん) | 恵比寿の面を被った神主の踊りが入る |
6 | 神田丸(かんだまる) | |
7 | 追馬・大間(おおま) | オカメ・ヒョットコの踊りが入る |
8 | 鎌倉(かまくら) | |
9 | 忍馬・印場(にんば) | |
10 | 四丁目・仕丁目・ 仕丁舞(しちょうめ) | |
11 | 攻くずし | 刻みの一種 |
12 | 乱拍子−ひ上がり | |
13 | 乱拍子−巻上がり | |
14 | 切りばち | 最後に締めくくる曲 |
太鼓の練習は3月末から大祭までの土日に開催し、子供達への指導や踊りの練習などが行われる。(写真は境内に掲示された写真を撮影したもの)
境内で太鼓の練習 | 子供達に指導 |
自治会館では大人が練習 | 踊りの練習 |
囃子 (コバチ) |
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太鼓付き合い
次に、大正末頃から戦前までの、まだ神社が山の上にあった頃のお祭りの様子を紹介する。小学校の高等科を卒業すると青年会に入り、長男だけでなく次三男も青年会に入った。青年の中に太鼓連があり、太鼓の練習はそれほどしなかったというが、一日と十五日の午後は休みだったので太鼓を叩いたりした。昔は青年会場が無かったので、浄心寺に集まってお寺の庭の木に太鼓を縛り付けて練習した。オシさんが寛大だったので、お寺で練習ができたという。
大正10年(1921年)頃まではまだランプで生活していたが、電気がつくようになってからは、祭りの時にお宮まで電気をひくようになった。お祭りには青年が広い境内に太鼓を叩くための櫓(ヤグラ)を作り、櫓は枠の高さが2m位あって、そこに「祭」と書かれた提灯をいくつか付けた。太鼓の櫓はまだ提灯のローソクの灯りだけで、大変綺麗だったという。ヨミヤは城所の青年だけで太鼓を叩いたり、一晩中酒を飲んだりした。
城所の祭りには近隣の青年会の若者が50〜60名ぐらい集まり、櫓に太鼓を七カラくらい並べて朝から晩まで音を競い、また笛も加わり大変賑やかで盛大であったという。太鼓は隣村からも借りてきた。太鼓の付き合いをしていたのは大竹・矢崎・大句・馬渡・大島・下島などで、互いの祭りに呼びあっていた。春の祭りは大竹と下島で、その他は秋祭りだった。七カラの内訳は年により変動していたが、大竹とはずっと付き合いがあり、沖小稲葉とも付き合いがあったが、古くは大島・下島・小鍋島の太鼓連は来なかったという。
お祭りの昼間は青年に入り立ての若い人が叩き、本格的に叩くのは夕方からで神楽の幕間に叩いた。神楽師が踊っている間は太鼓を止め、神楽の方が拍子木で合図をしてから太鼓を叩き始めた。細長い提灯を振ると太鼓が終わりの合図であったが、神楽を始めようと思ってもなかなか止めないので怒られたりした。幕間は七カラの太鼓が音を競い、城所の太鼓が一番良かったという。
祭に来たワキの太鼓連へ夕食と酒を出してもてなし、夕飯はおこわ(赤飯)であった。城所の各戸で赤飯とお煮染めを作り、それを祭りの午後に青年が集めに回った。石塚酒店から麹蓋を借りていくつも持ち、もらった食物を入れて担いで歩いた。ムスビは五つずつくらい集めた。煮染めの焼き豆腐はうんとくれた。昔は魚などはなかった。食べきれないほと集まり、七部落に出して余った食べ物は、暑い盛りで悪くなるので捨てた。青年で太鼓をやるとハナといって寄付をくれるので、それで酒を買った。昭和10年(1935年)頃までのハナは50銭か1円であった。双方の太鼓連で接待をしていた。また、祭りの日は下島と大島、小鍋島から酒一升ぐらい持って行き、祝詞を上げる時に参列した。城所からも付き合いで先方の祭りへ行ったようである。
戦後もお宮に櫓を組み、多い年は太鼓を最大六(ムツ)カラ並べた。戦後は城島村の四字と大竹・馬渡を互いに行き来し、こうした付き合いは昭和25年(1950年)頃まで続いていた。当時は青年会が堀に稲を植えて青年会の資金源とし、太鼓の革を買っていた。
城所自治会館には境内に櫓を組んでいた当時の写真が残されており、一番左は城所の太鼓が設置され、当時はまだロープ締めであった。城所の右隣は西沼目(伊勢原市)で、さらに大島(平塚市)・大竹(伊勢原市)・馬渡(伊勢原市)と続き、この年は5カラの太鼓が並んだようである。写真では現在の伊勢原市内と平塚市内の太鼓連の交流があったことになるが、かつては市町村という区分ではなく同じ中郡であったことと、城所が伊勢原寄りにあるという地理的な条件も重なり、このような付き合いムラが形成されていたと推測される。
境内の櫓前で撮られた写真 | 城所の太鼓はロープ締め |
左から西沼目青年 | 大島青年 |
大竹青年 | 馬渡青年が並ぶ |
山車
また、かつては豊田村から山車を借りてきて曳いたこともあったという。
城所にはトラックに屋台を載せた山車が2基あり、大人と子供が分かれて乗る。かつては、境内で櫓を組んで叩くだけであったが、車山車ができてからは城所地区を巡行するようになった。山車には提灯以外にも屋根部にイルミネーションが施され、宵宮の巡行や大祭の夜にはお囃子に花を添える。
大人用の山車 | 屋根に付けられた彫刻 |
子供用の山車 | 屋根に付けられた彫刻 |
神輿
城所には元来神輿はなかったが、昭和10年(1935年)頃に下(シモ)で神輿を作って(中古を購入したという説もある)戦前までは青年団の若者が担いでいた。その当時、上の若者は下(シモ)の連中が神輿を担いでいるのがうらやましくて、小稲葉(伊勢原市)から神輿を借りてきて担いでいたという。小稲葉には太鼓を教えていた頃だったので、小稲葉の世話人を通じて夜だけ神輿を貸して貰ったという。この神輿は40〜50貫目(150〜190kg)の重量があったという。神輿の担ぎ方を知らなかったので、神輿と共に世話人が2・3人ついて来て指導してくれた。神輿は総代の家や酒屋など酒を出してくれるような所で止まったという。
古老の話では子供神輿が2基あったというが、1基は上記の小稲葉の神輿かどうかは定かではない。子供神輿は担ぎ手がいなくなってからいつのまにかやらなくなったといわれ(青年が担いで壊したという話もある)、現在は大祭で担がれることはなく拝殿に保存されている。自治会館には昭和11年(1936年)9月19日の貴船神社大祭で担がれていた子供神輿の写真が残されており、この神輿が下の所有であることが記されている。また、昭和初期には例祭日が9月19日であったことが、この写真からも伺える。
拝殿に保存された子供神輿 | 昭和11年の下所有の子供神輿 |
青年会
「城所青年会」があって15歳で加入し、月に1回常会があって「浄心寺」を会場にしていた。後に大門に青年会所を作り、上の村の打ち合わせなどにも借りた。青年会所は出荷場になっていた。大正末頃から青年会が用水の脇の土掘(どぼ)りに稲苗を植え、村全体で12俵ほどになり、籾は競売して会の費用に入れた。他には縄をなったりして売った。
祭りの余興等は青年会の若者に任せて、費用は村で出した。余興として愛甲・高座郡あたりから農家の人がやっている神楽師を呼んできてお神楽をしてもらった。その他に、古沢の浪花節をする浪曲師や歌舞伎を演じる芝居師などを呼んだ。
神楽
かつて、城所では祭りの余興として神楽師を呼び、厚木の愛甲の石田や茅ケ崎の円蔵からお金を払って来てもらった。厚木の柿の助も呼んだ。事前に頼みに行き、神楽師の荷物なども青年の人が運んできた。一軒一軒から名入りのミシロを集めて境内に敷いた。祭りには親戚の人たちが来た。当日の夕方、まだ明るいうちから御神楽が始まった。サンバといって日の丸の付いたとがった帽子を被った人の踊りから始まり、終わるのは翌日の1時だった。終戦直後は地区住民による演芸大会もあった。
城所の歴史
城所は丘陵地帯に樹木が生い茂り森林地帯を呈していたので木所といいそれが城所となった。城所は「カミ(上)」と「シモ(下)」に分かれ、下はさらに「小島(こじま)」と「シモ(下)」に区分されている。一方、上の中には「ヤッパネ(矢羽根)」・「ニシッチョ(西町)」・「ダイモン(大門)」・「オカンネ(岡の根)」の4つの町内区分があるが、下の小島と下を町内とはいわないようである。
当所には「毛配面(ケイハイメン)」という変わった地名の小字があり、位置は城所地区の南西部の大住中学校を中心とした地域である。現在も学校の周辺一帯は水田だが、ここは貴船神社の巫女の化粧料を捻出するための免租地で、"化粧"の"ケハイ"に"毛配"をあて、"面"は"免"を意味する。
貴船神社は東方にある城所藤五郎正場の居城の「城所城」とのかかわりで建立されたもので、その城址は「宮ノ跡」で、その範囲は字名でいうと「城東(キットウ)」・「稲岡」・「宮ノ跡」・「大手先」・「前原」・「矢羽根(ヤッパネ)」・「向原」・「宮ノ下」と、一部伊勢原市の下平間にまたがっている。この城に仕える専属の大工にはその扶持料として免租地が与えられ、その土地を「番匠面(バンショウメン)」といって毛配面の東南部のすぐ近くにある。
氏子組織
戦前は世話人4名で、上(カミ)から2名、下(シモ)から2名出した。上はほぼ神社を境にして東西から1名ずつ、下はシモと小島から1名ずつが選ばれた。任期は2年で、浄心寺の世話人も同じ人がやっていた。平成15年(2003年)の時点では、世話人は各地区から1名ずつ選ばれた総勢8名で、会長1名、副会長1名、書記1名、会計1名、監事2名などが置かれる。会長を宮総代ともいい、世話人が互選で決める。任期は2年である。城所は自治会とは別に氏子会制度を取っている。
例大祭の余興
●城所ばやしと踊りの奉納(神楽殿)
城所地区の巡行を終えて宮付けした太鼓保存会は、18時頃になると奉納演奏の準備に取り掛かる。精陽学園では使われなかっためくりを舞台袖に設置し、曲名が分かるように順次めくっていく。発表は約30分程掛かり、発表後は自治会館で宴会が行われる。
めくりを自治会館から持出し | 舞台袖に配置 |
山車は発電機を外し | 家庭用配線に換える |
2台の山車に | 叩き手が乗り込む |
幕が開き | 発表開始 |
構成は締太鼓4と大胴1に | 笛1と鉦1 |
打ちつけから | 屋台囃子が始まる |
昇殿では | 恵比寿の面の神官の踊り |
神田丸では | 勇壮な太鼓 |
大間では | オカメの踊り |
鎌倉では | 再び神官の舞 |
印場では | ヒョットコの踊り |
仕丁舞では | もう一人のヒョットコ踊り |
再び屋台囃子に戻り | 女性とヒョットコ達の掛け合い |
お酒も入り | さらに絡む |
城所ばやしもいよいよ終盤 | ヒョットコが退場し |
切りばちで | 発表終了 |
観客に手を振って挨拶 | 幕が閉じる |
発表後は自治会館に集合 | 太鼓保存会会長の挨拶 |
乾杯の音頭で | 宴会開始 |
●芝居・マジックショー・ビンゴ大会
貴船神社では現在でも昔ながらに芝居を呼び、マジックショーやビンゴ大会など地元住民も一緒に参加できるような祭りになっている。神楽殿では普段はしまわれている舞台袖を設置し、町内の掲示板には勝太郎一座のポスターが貼られる。
神楽殿に普段はしまわれている | 舞台袖が設置 |
町内には勝太郎一座のポスター | 夕方から芝居が始まる |
その後はマジックショー | 勝太郎一座の司会による |
ビンゴ大会と続く | 参加する地元住民 |
神社役員の挨拶で | 大会開始 |
数字を読み上げ | ホワイトボードに数字を記入 |
子供も参加 | 舞台袖に並べられた景品 |
一等賞は花 | 二等賞は清酒一升 |
役員は景品の準備で大忙し | ビンゴ待ちの子供達 |
一方、私は8リーチの末 | ようやくビンゴ |
100個中96個目の | 景品を獲得 |
その後は一座による歌謡曲 | 最後の締めで余興終了 |
ビンゴが出なかった住民も | 受付で景品がもらえる |
●祭りの終わり
20時30分頃には舞台での余興が終わり、最後に太鼓保存会による太鼓の叩き合い(競り合い)が行われる。ここでは「コバチ」ではなく「オオバチ」で叩き、祭りの最後に叩き収めをする。21時頃には叩き合いを終え、太鼓を山車から外すと自治会館へ運ぶ。山車のばらしや境内の後片付けなどは、翌日の30日に行われる。
最後に | 山車2台で |
叩き合い | 私も参加させて頂きました |
競りも終わり | 太鼓を外す |
自治会館へ運び | 締太鼓をゆるめる |
帰路につく人々 | 勝太郎一座も帰り支度 |
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