城所
貴船神社
城所の鎮守である「貴船神社」は寛仁・長元(1017〜37年)の頃に、領主であった城所氏が館を築造した際に屋敷神として勧請し祀ったものであるという。城所氏は現伊勢原市の糟屋氏から分家して当地に城を築き、藤原氏の流れを汲む糟屋盛久の四男である。当社は城所城の守護神として祀ったともいわれ、創建当時は城所一帯は沼地であったため、その水源に鎮座した「谷の竜神」・「水の神」として村人が崇敬したという。天保12年(1841年)完成の『新編相模国風土記稿』によると「貴船社」と称し、「城所寺」持ちであった。祭神は「タカオカミノカミ」と「クラオカミノカミ」の2柱である。
境内にある三面大荒神社は「東鑑」にものっている補陀落山千手院常蘇寺観音堂の境内にあったもので、昭和38年(1963年)に常蘇寺跡から貴船神社境内に移遷された。幼児の夜泣きを止める「泣き荒神」の伝説を持つ。
貴船神社 | 参道 |
燈籠 | 鳥居 |
手水舎 | 遷座記念碑 |
燈籠・拝殿 | 幣殿・覆殿 |
神額 | |
三面大荒神社 | |
秋葉神社 | 御嶽神社 |
城所三面荒神略縁記 | |
城所自治会館 | 神楽殿 |
境内 |
社地の遷座
かつての社殿は現在地より後方の城所で一番高い場所に建っており、境内は平らな土地で、その頃は神社の所有地があり農地として貸していた。貴船神社があった丘陵は高射砲陣地として指定され、昭和18年(1943年)に海軍の用地として買収された。これを「城所砲台」と呼び、そこには12糎級高射砲2門と高射機関砲が据え付けられた。城所砲台は平塚の海軍火薬廠防衛のために市内はもちろん、その近隣町村に高射砲陣地が配置されたときの一つで、こうした砲台の構築は軍隊の至上命令のために神社地といえども明け渡さざるを得ず、貴船神社の遷座に至ったわけである。
移転直前の社殿は昭和17〜18年(1942〜43年)に新築したばかりで、取り壊すには余りにも忍び難かったため、社殿をそのまま現在の地に移転させることになった。社殿の移転は城所台地の突端部の標高35m前後の土地から、約20m下(標高差10m)の急斜面を引き降ろすことになり、平坦地とはことなる傾斜地での移動方法を協議した結果、鳶職人の発案が採用されることとなった。作業は伊勢原の鳶職が中心になって行い、工事費は全て当時の政府が負担した。旧社地と現在の鎮座地との間は段々畑になっていて、臼をコロにしてロープで社殿を引っ張り、上で緩めなおしながら20日ぐらい掛けて現在地に移動させた。この時の二斗バリ臼は各部落から集めたもので、この臼を畑の段差に置いて台にし、板を並べてなるべく平らにした。境内にはこの移転時に立てられた記念碑が、現在も残されている。
この砲台は終戦直後に撤去され、その跡地は昭和39年(1964年)に新幹線敷設用土砂として削り取られたため、現在は台地突端部の東側が大きくえぐられていて、台地との境は絶壁状となっている。移転前の神社の所在地は「前原」といっていたが、戦後の農地解放で大蔵省から土地が返還され、その土地を「宮ノ跡」として旧所在地を明確にした。
城所
城所は丘陵地帯に樹木が生い茂り森林地帯を呈していたので木所といいそれが城所となった。城所は「カミ(上)」と「シモ(下)」に分かれ、下はさらに「小島(こじま)」と「シモ(下)」に区分されている。一方、上の中には「ヤッパネ(矢羽根)」・「ニシッチョ(西町)」・「ダイモン(大門)」・「オカンネ(岡の根)」の4つの町内区分があるが、下の小島と下を町内とはいわないようである。
当所には「毛配面(ケイハイメン)」という変わった地名の小字があり、位置は城所地区の南西部の大住中学校を中心とした地域である。現在も学校の周辺一帯は水田だが、ここは貴船神社の巫女の化粧料を捻出するための免租地で、"化粧"の"ケハイ"に"毛配"をあて、"面"は"免"を意味する。
貴船神社は東方にある城所藤五郎正場の居城の「城所城」とのかかわりで建立されたもので、その城址は「宮ノ跡」で、その範囲は字名でいうと「城東(キットウ)」・「稲岡」・「宮ノ跡」・「大手先」・「前原」・「矢羽根(ヤッパネ)」・「向原」・「宮ノ下」と、一部伊勢原市の下平間にまたがっている。この城に仕える専属の大工にはその扶持料として免租地が与えられ、その土地を「番匠面(バンショウメン)」といって毛配面の東南部のすぐ近くにある。
宵宮
宵宮の昼間には境内に幟が立てられ、上地区と下地区にはそれぞれ国旗が揚げられる。
境内に立てられた幟 | 幟竿の獅子 |
上の国旗 | 下の国旗 |
夜は19時から車山車がお宮を出発し、大祭と同様の道順で城所地区を巡行する。宮入りは21時30分頃で、その後は自治会館内で宴の席が設けられる。
自治会館前の山車 | 出発前に |
発電機に換える | 電飾された山車 |
叩き手が乗り込み | 出発準備が完了 |
大人の山車が | 先に宮立ち |
子供の山車が | 後に続く |
城所地区を | 巡行 |
屋根にはイルミネーション | のしの紙を貼っていく |
私の分も貼ってもらいました | 山車内部の様子 |
巡行を終えて宮入り | 自治会館前に宮付け |
発電機は匂いが強いので | 家庭用配線に交換 |
自治会館にテーブルを並べ | 夜の宴会 |
例大祭
祭礼日は『風土記稿』によると旧暦の8月19日とあるが、昭和16年(1941年)頃までは9月19日に祭礼をしていた。その後は9月8日と変わったが、9月は祭礼に人を招いても保有米が少ないので十分な接待ができないとか、晩秋蚕の掃き立てなどで多忙であったといわれ、第二次世界大戦の頃に4月11日となった。しかし、時代の流れと共に勤めに出る氏子が多かったために例祭日を一般的な休みに変更する意見があがり、4月11日前後の日曜日などの案も出たが、最終的には固定の日付にしたほうが良いということになり、「みどりの日(現在は昭和の日)」である4月29日に変更され現在に至る。
●大祭準備
大祭当日は早朝から準備が進められ、式典の準備や花などの飾り付けが行われる。鳥居前には国旗を交差させるが、これは漢字の「入(はいる)」を意味しているといわれる。
式典の準備 | 自治会館から花を持出す |
自治会館に花を付ける | 鳥居前に花を付ける |
国旗を交差させる | テントではテーブルと椅子を準備 |
写真を掲示し | 花を添える |
神楽殿に供物を用意 | |
自治会館には受付を用意 | 御祝儀をもらうと |
お返しにタオルを渡す | 館内では筆でのしを書く |
●太鼓・山車の準備
早朝から締太鼓を締めて、叩く面が分かるように枠に固定するロープを付けていく。山車には竹に紙で作った花を付けたものを四方に垂らし、両サイドは広がらないように紐で固定する。
太鼓を締めて音色を調整 | 紐を付ける |
自治会館前の山車を | 移動し |
拝殿横に停める | 花を四方に垂らす |
横方向の竹に縛り | 広がらないように柱に固定 |
締太鼓を運び | 枠にはめ |
竹を通す | 紐を締め |
枠に固定 | 続いて大胴を |
山車に載せ | 柱に縛り付ける |
太鼓に毛布を掛け | 準備が整う |
●式典
式典は10時から執り行われ、「修祓」・「献饌」・「祝詞奏上」・「玉串奉奠」・「撤饌」・「直会」の順で祭事次第が進められる。かつては大神から神主がやって来て、氏子総代・隣組の組長を従えて神主がお祓いをしたという。
神主が自治会館に到着 | 社殿で式典の準備 |
供えられた供物 | 貴船神社 祭事次第 |
太鼓の合図で | 関係者が拝殿前に集まる |
正装で神主が現れ | 社殿に上がる |
式典が始まる | お祓い |
神主が榊を準備し | 玉串奉奠 |
神主が拝殿を降り | 挨拶 |
その後は自治会館へ移動 | 太鼓保存会は山車へ移動 |
神主も山車へ向かい | 保存会をお祓い |
続いて子供用の山車をお祓い | 運転席もお祓い |
大人用の山車も同様に | お祓い |
太鼓保存会が記念撮影 | 自治会館へ向かう |
直会の挨拶 | 乾杯の挨拶があり |
皆で乾杯 | 直会が始まる |
会直の後は山車巡行を参照。
●露店
貴船神社の大祭に出る露店は城島地区では最大で、平成21年(2009年)度は11店であった。準備は早朝から行われ、城島地区以外の伊勢原からも参拝客が訪れる。
露店のトラックが境内に入る | 資材を降ろし |
屋台を | 組み立てる |
昼頃には | 準備完了 |
夜は境内を | 明るく照らす |
城所ばやし(城所太鼓)
「城所ばやし」は城所地区の鎮守「貴船神社」に伝わる囃子でその発生は定かではないが、明治・大正時代には岡崎や城島、伊勢原市大田など10ヶ所ほどへその芸を伝授したといわれ、鎌倉囃子の流れを汲むものであると伝えられている。昭和30年(1955年)頃まではこうした近隣の太鼓連をお互いの祭りに呼び合い、境内に櫓を組み太鼓を並べて叩き合いをすることが盛んで、戦前は最大六・七カラの太鼓を並べたという。競り合いでの曲はバカッパヤシだけで、笛を吹いても聞こえなかったので笛は入らなかった。また、現在でもそうであるが、競合いの時はコバチを使わずにオオバチで叩いたという。昔は太鼓連といって青年会の若者が50〜60人くらいで朝から晩まで太鼓を叩き、また笛も加わり大変賑やかで盛大であったという。太鼓は隣村からも借りてきたという。また、かつては豊田村から山車を借りてきて曳いたこともあったという。
城所自治会館には境内に櫓を組んでいた当時の写真が残されており、一番左は城所の太鼓が設置され、当時はまだロープ締めであった。城所の右隣は西沼目(伊勢原市)で、さらに大島(平塚市)・大竹(伊勢原市)・馬渡(伊勢原市)と続き、この年は5カラの太鼓が並んだようである。写真では現在の伊勢原市内と平塚市内の太鼓連の交流があったことになるが、かつては市町村という区分ではなく同じ中郡であったことと、城所が伊勢原寄りにあるという地理的な条件も重なり、このような付き合いムラが形成されていたと推測される。
境内の櫓前で撮られた写真 | 城所の太鼓はロープ締め |
左から西沼目青年 | 大島青年 |
大竹青年 | 馬渡青年が並ぶ |
このようにかつては盛んだった城所の太鼓であったが、昭和30年(1955年)代半ば頃から一時太鼓が途切れてしまった。太鼓が途切れたのはお宮で余興をやらなくなったのが原因といわれ、約10年の間は祭りで叩かない時期が続いた。しかし、昭和42・43年(1967・68年)頃に「城所太鼓保存会」を結成し、会長・副会長・会計や地区毎の責任者などの役を置く。保存会の半纏は背中に城所の「城」の文字が入るが、会長と副会長の半纏のみ太鼓連の「連」が刻まれ柄も異なる。
城所太鼓保存会の半纏 | 会長・副会長はデザインが異なる |
現在の城所ばやしは保存会結成後に川口政男氏に教わったもので、川口氏は城所出身で一時期諏訪町に転出していたという。城所ばやしは14曲からなるといわれているが、当時この全てを知っている人は川口氏しかおらず、川口氏がいなかったら城所の太鼓も他所と同じようにバカッパヤシだけになっていたであろう。川口氏は笛も吹いたといわれるが、残念ながら川口氏の笛を受け継いだ者はいない。現在の笛は四之宮や、かつて城所から囃子が伝わったといわれる伊勢原市の池端から習ったものであるが、屋台以外の曲は四之宮の前鳥囃子の笛を城所の太鼓に合わせてアレンジしたものである。また、踊りの形式は定かではないが、言い伝えでは昔から踊りがあったという。
囃子に使用される楽器の構成は「大太鼓1」・「締太鼓2」・「笛」・「鉦」の一柄を基本としているが、大祭での発表やホールなどの演奏活動では締太鼓を4個使って演奏している。曲目は下表の14曲からなり、これら14曲を地元では「正調城所ばやし」と呼んでいる。1と14は屋台囃子の前奏と最後を締めくくる曲で、3・4・11・12・13は屋台囃子の中に変化を持たせる曲である。1と14を屋台囃子の一部として、3・4・11・12・13の5曲を刻として1つのまとまりと考えると、全体としては8曲の構成になる。なお、競りで叩かれる屋台囃子は「オオバチ」といってバチ数を減らして力一杯叩くが、正調城所ばやしでは「コバチ」といってバチ数を増やして叩く。
城所ばやしは一時期太鼓が途切れ、笛の伝承がなくなるなど苦難の道を歩んできたが、ここまで曲数を復興できたことは氏子の相当な努力があったであろう。
曲名 | 解説 | |
1 | 打ちつけ | 屋台囃子の前奏曲 |
2 | 屋台囃子 | 主に巡行中に囃される |
3 | 刻(きざみ) | 屋台と屋台の間に叩かれる |
4 | 攻(せめ) | これも刻みの一種 |
5 | 昇天(しょうてん) | 恵比寿の面を被った神主の踊りが入る |
6 | 神田丸(かんだまる) | |
7 | 追馬・大間(おおま) | オカメ・ヒョットコの踊りが入る |
8 | 鎌倉(かまくら) | |
9 | 忍馬・印場(にんば) | |
10 | 四丁目・仕丁目・ 仕丁舞(しちょうめ) | |
11 | 攻くずし | 刻みの一種 |
12 | 乱拍子−ひ上がり | |
13 | 乱拍子−巻上がり | |
14 | 切りばち | 最後に締めくくる曲 |
太鼓の練習は3月末から大祭までの土日に開催し、子供達への指導や踊りの練習などが行われる。(写真は境内に掲示された写真を撮影したもの)
境内で太鼓の練習 | 子供達に指導 |
自治会館では大人が練習 | 踊りの練習 |
囃子 (コバチ) |
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山車
城所にはトラックに屋台を載せた山車が2基あり、大人と子供が分かれて乗る。かつては、境内で櫓を組んで叩くだけであったが、車山車ができてからは城所地区を巡行するようになった。山車には提灯以外にも屋根部にイルミネーションが施され、宵宮の巡行や大祭の夜にはお囃子に花を添える。
大人用の山車 | 屋根に付けられた彫刻 |
子供用の山車 | 屋根に付けられた彫刻 |
神輿
城所には元来神輿はなかったが、昭和10年(1935年)頃に下で神輿を作って戦前までは青年団の若者が担いでいた。その当時、上の若者は下の連中が神輿を担いでいるのがうらやましくて、小稲葉(伊勢原市)から神輿を借りてきて担いでいたという。小稲葉には太鼓を教えていた頃だったので、小稲葉の世話人を通じて夜だけ神輿を貸して貰ったという。この神輿は40〜50貫目の重量があったという。神輿の担ぎ方を知らなかったので、神輿と共に世話人が2・3人ついて来て指導してくれた。神輿は総代の家や酒屋など酒を出してくれるような所で止まったという。
古老の話では子供神輿が2基あったというが、1基は上記の小稲葉の神輿かどうかは定かではない。子供神輿は担ぎ手がいなくなってからいつのまにかやらなくなったといわれ(青年が担いで壊したという話もある)、現在は大祭で担がれることはなく拝殿に保存されている。自治会館には昭和11年(1936年)9月19日の貴船神社大祭で担がれていた子供神輿の写真が残されており、この神輿が下の所有であることが記されている。また、昭和初期には例祭日が9月19日であったことが、この写真からも伺える。
拝殿に保存された子供神輿 | 昭和11年の下所有の子供神輿 |
青年会
「城所青年会」があって15歳で加入し、月に1回常会があって「浄心寺」を会場にしていた。後に大門に青年会所を作り、上の村の打ち合わせなどにも借りた。青年会所は出荷場になっていた。大正末頃から青年会が用水の脇の土掘(どぼ)りに稲苗を植え、村全体で12俵ほどになり、籾は競売して会の費用に入れた。他には縄をなったりして売った。
祭りの余興等は青年会の若者に任せて、費用は村で出した。余興として愛甲・高座郡あたりから農家の人がやっている神楽師を呼んできてお神楽をしてもらった。その他に、古沢の浪花節をする浪曲師や歌舞伎を演じる芝居師などを呼んだ。
例大祭の余興
●城所ばやしと踊りの奉納(神楽殿)
城所地区の巡行を終えて宮付けした太鼓保存会は、18時頃になると奉納演奏の準備に取り掛かる。精陽学園では使われなかっためくりを舞台袖に設置し、曲名が分かるように順次めくっていく。発表は約30分程掛かり、発表後は自治会館で宴会が行われる。
めくりを自治会館から持出し | 舞台袖に配置 |
山車は発電機を外し | 家庭用配線に換える |
2台の山車に | 叩き手が乗り込む |
幕が開き | 発表開始 |
構成は締太鼓4と大胴1に | 笛1と鉦1 |
打ちつけから | 屋台囃子が始まる |
昇殿では | 恵比寿の面の神官の踊り |
神田丸では | 勇壮な太鼓 |
大間では | オカメの踊り |
鎌倉では | 再び神官の舞 |
印場では | ヒョットコの踊り |
仕丁舞では | もう一人のヒョットコ踊り |
再び屋台囃子に戻り | 女性とヒョットコ達の掛け合い |
お酒も入り | さらに絡む |
城所ばやしもいよいよ終盤 | ヒョットコが退場し |
切りばちで | 発表終了 |
観客に手を振って挨拶 | 幕が閉じる |
発表後は自治会館に集合 | 太鼓保存会会長の挨拶 |
乾杯の音頭で | 宴会開始 |
●芝居・マジックショー・ビンゴ大会
貴船神社では現在でも昔ながらに芝居を呼び、マジックショーやビンゴ大会など地元住民も一緒に参加できるような祭りになっている。神楽殿では普段はしまわれている舞台袖を設置し、町内の掲示板には勝太郎一座のポスターが貼られる。
神楽殿に普段はしまわれている | 舞台袖が設置 |
町内には勝太郎一座のポスター | 夕方から芝居が始まる |
その後はマジックショー | 勝太郎一座の司会による |
ビンゴ大会と続く | 参加する地元住民 |
神社役員の挨拶で | 大会開始 |
数字を読み上げ | ホワイトボードに数字を記入 |
子供も参加 | 舞台袖に並べられた景品 |
一等賞は花 | 二等賞は清酒一升 |
役員は景品の準備で大忙し | ビンゴ待ちの子供達 |
一方、私は8リーチの末 | ようやくビンゴ |
100個中96個目の | 景品を獲得 |
その後は一座による歌謡曲 | 最後の締めで余興終了 |
ビンゴが出なかった住民も | 受付で景品がもらえる |
●祭りの終わり
20時30分頃には舞台での余興が終わり、最後に太鼓保存会による太鼓の叩き合い(競り合い)が行われる。ここでは「コバチ」ではなく「オオバチ」で叩き、祭りの最後に叩き収めをする。21時頃には叩き合いを終え、太鼓を山車から外すと自治会館へ運ぶ。山車のばらしや境内の後片付けなどは、翌日の30日に行われる。
最後に | 山車2台で |
叩き合い | 私も参加させて頂きました |
競りも終わり | 太鼓を外す |
自治会館へ運び | 締太鼓をゆるめる |
帰路につく人々 | 勝太郎一座も帰り支度 |
戻る(平塚市の祭礼)