大島おおしま

神社の紹介

 大島の鎮守は「八幡神社」で、天保12年(1841年)完成の『新編相模国風土記稿』によると大島村の鎮守を「八幡宮」としている。石一顆(形鳩に似たり、長尺二寸、高四寸許)を神躰とし、本地弥陀は鏡面に鋳たる像であった。寛永16年(1639年)及び寛文11年(1671年)、寛永元年(1624年)の棟札を蔵し、鐘楼の鐘は寛政2年(1790年)の鋳造であった。末社には「天王疱瘡神地神合祀」、「天満宮金比羅蔵王権現合祀」、「三峰」があった。
 『皇国地誌』には八幡神社を式外村社としており、勧請年月は不詳であるが、祭神に誉田和氣を祀ると記載されている。鳥居の扁額と例大祭に立てる大幟旗には「正八幡宮」とある。

八幡神社鳥居
水神
水鉢
拝殿幣殿・本殿
 
大島自治会館境内

 『風土記稿』によると八幡宮は「十輪寺」持ちであり、昭和7年(1932年)生まれの十輪寺住職の米山清光氏によれば、十輪寺は3代か4代くらい前までは八幡神社の別当をしており、先代も祝詞をあげに八幡神社へいったりしていたという。昭和20年(1945年)代に八幡神社と分離したという。


祭礼の歴史

 天保12年(1841年)完成の『新編相模国風土記稿』によると祭礼日は旧暦の8月18日であったが、その後は9月18(『皇国地誌』)→10月10日→9月18日と変遷し、昭和30年(1955年)代初めに4月18日した。祭礼日が秋から春に変遷した理由については、秋はまだ米が取れていないので、大勢来て米を食べてしまうと、後で米が足らなくなってしまうので春祭りにしたという。現在は人が集まらなくなったという理由で、4月第3日曜日となっている。
 戦前は式が終わると神官は宮世話人の家へ行って、御神酒やおこわをごちそうになって帰った。今は神社でやるが、当時はそういう風に決まっていた。祭典費については政府から祭典費が出たが、御神酒が五合、スルメが一枚、それからコブが買えるくらいで、決算報告を出す必要があったため、拝殿で飲むなんてことはできなかった。太鼓にハナが掛かれば太鼓のもので、神社の方はあまり掛からんかったという。幟竿は皆でロップで引っ張って立て、2代目は戦後になって大山へ伐り倒しに行った。
 戦前の祭りは賑やかで、小学生は袴をはき、2時間授業が終わると全員が参拝へ行くので、大島の祭りには全校生徒が集まった。神官にお祓いと祝詞をあげてもらって解散となり、今日は店が出るぞといって小遣いを二銭から三銭もらった。嫁に出た者は実家に帰ってくるのが楽しみで、子供を全員連れて帰ってくるので賑やかだった。前の日から親元に帰ってきて、お蕎麦を打つのを手伝うとか、サトイモの皮をむくとかやっていた。
 戦後の混乱期後であった昭和21〜30年(1946〜1955年)頃の祭礼は青年団に任されていたので、当時、青年会員は30数名であったと思われる。祭典当時は役割分担で会計・舞台・太鼓・炊事掛かりであった。また、前日の宵宮の日は山車を曳き、3時頃に出発して地区内を一回りして、宮着は深夜の11時頃であった。
 祭り当日は下島・城所・小鍋島・平間・大竹地区の各青年太鼓連が応援に来て、終日の深夜まで太鼓の共演で鎮守の森も賑わった。祭りには芝居や板店が付き物であり、芝居は奉納の舞から始まり、一連の演技4〜5幕で神社境内で見た。境内には筵を約100枚くらい敷き詰めて、氏子の善男善女子供親戚、また、近隣の若者男女が見物に来たものである。その当時は他に娯楽もなく、唯一の楽しみのひと時であった。一方、板店は10時頃に開店して夜の9時前後まで、玩具屋を始めおでん屋等、数軒の店で賑わっていた、子供たちには非常に人気であった。そして、祭りの夜は12時頃に幕を閉じた。
 大祭当日は神社境内に幟が立てられ、神主を呼んで祝詞をあげてもらう。


天王さん

 大島では八幡神社の境内に八坂神社を祀っていて、「天王さん」と呼んでいる。天王さんの祭礼日は7月25日で、子供達が神輿を担ぎムラ中を回ったといい、この日のことを夏祭りといった。しかし、年に2回も祭りをするのは大変であるということになり、夏祭りである天王さんの祭りは中止にした。今では神主を呼んで祝詞をあげてもらうだけである。


氏子組織

 戦前は宮世話人が3人であったといい、宮世話人は世襲的であったようである。当時の役員は羽織・袴姿で格式があった。拝殿には宮世話人しか上がることができず、普通の人が拝殿に行くと怒られたといい、芝居を見る時も拝殿に上がって見てはいけなかった。拝殿の掃除などは青年団の中で下世話人といって、青年団に入ったばかりの2、3年の者が全て行った。また、お酌や片付けなども行っていた。
 その後、宮世話人は東・西・南・北・枝から各1人と、長になる者および会計が出るので、計7人いた。平成14年(2002年)の氏子数は211戸で、東・西・南・北・枝大島の町(チョウ)に分かれている。宮世話人は自治会の組ごとに1名出て、組みとは隣組が2つ位で構成されているので合計で10組みある。選出単位と人数は次の通りで、()内は自治会の組みごとの氏子戸数である。東2名(31+24)、西2名(20+13)、南1名(20)、辰巳1名(24)、北3名(26+10+17)、枝1名(26)の計10名である。このうち宮総代1名と会計2名があり、宮総代は五選で選ばれ、任期は2年である。宮司は大神の沖津氏で、祭りは氏子会、太鼓連、子供育成会、神社世話人等で実行委員会を作っている。

太鼓

 戦前は青年団で「太鼓連」というものを作り、青年団は当時40人もいた。太鼓連に入るには特に資格は問われず、小学校2・3年から加入し、30〜40歳の者も入っていた。大島には戸数が70戸ぐらいしかなく、年齢を過ぎた人はしょうがなく特別会員としたが、特別会員を含めて40人もいた。太鼓の付き合いは、一番やった時には五(イツ)カラぐらいかけ、その代わりに今度は向こうの祭りにはこっちも行って、幕間(まくあい)に1回だけやらせてもらい、ごちそうになった。太鼓の付き合いは城島村全部で、豊田の方は打間木へ行った。
 櫓を組んで近隣の太鼓連とおつかい(お付き合い)をするようになると行ったり来たりで、叩いてくれた人に握り飯とお神酒を出した。そのためにこれらを集めたが、「今日はまだ来てねえな」などといった感じで、どこの家もなんとも思わなかった。よその祭りには太鼓を担いで行き、どこが良い音が出るかを競走した。ピンピン鳴るとこは”ひっかぶける(破ける)”ことがあり、そうなると予備の太鼓がないために鋲を打って間に合わせた(革の上から鋲を打って胴に直接固定したという話は他の地区でも聞かれる)。太鼓は芝居の幕間に叩かれ、芝居が始まる時になると神社の役員が舞台のところへ行き、「芝居が始まるから太鼓止めろー」と言って提灯を振った。戦争になると釣鐘が供出されるなど太鼓どころではなくなり、大島の太鼓は一端途切れた。
 戦争が終わると鎮守様があるからと言って太鼓が復活した。古い太鼓はどこかにいってしまったので、新規で始まった。戦後も祭りの日に太鼓の競り合いをし、城所沼目大竹平間と付き合いをしていたが、下島はあまり来なかったようである。他所から四つ来て、大島が一つで五つになった。芝居が幕になるとパパパンとやって、芝居の幕間にやった。太鼓の革をピンピンに張って鳴らしっこをした。叩き方や締め方が悪ければ怒られた。革は有馬のオンマへ買いに行き、革を見定めるのが大変であった。どういう革を買えばよいか、あらかじめ先輩から教えられて買いに行った。締める時はタオルで少し水を湿らせておいてから締め、それが乾いて湿度が30〜40%ぐらいになるとパーンと張れた。そういうギリギリのところまで締めて太鼓を持って行った。締めた太鼓は本当に大事にして、付き合いに行く時はフトンにくるみ、南京袋という麻袋に入れて持って行き、芝居の幕間に叩いた。今日は城所に負けたとか言って、様子を見ながら途中で締めた。


ダルマ山車

 大島には戦前に既に山車があり、山車の枠は欅の組み立て式で、相当古いものであったという。ワッパ(車輪)が駄目になっていたので、打間木からワッパだけを借りてきて曳いたことがあった。打間木には同じような山車があり、そのワッパが使え、仮に行ったのは何回でもなかった。
 戦後の昭和24年(1949年)頃になって張りぼてのダルマを作ってもらい、山車の上にのせるようになった。ダルマ山車は豊田の中川氏が清田氏宅に泊まり込んで製作してくれたもので、中川氏は籠屋をしていた。ダルマは竹で原型を作り、その上に紙を貼った張りぼてであった。真っ赤なダルマで、中に電気を入れた。山車の上にダルマを載せていたので、木の枝や電線に引っ掛かり、電線を上げたりして除けるのが大変であったという。この山車は大変重く、35人以上いないと曳き廻せなかった。車輪は松の木で作られており、乾くと割れてしまうので、祭りが終わると神社の井戸に浸けておき、祭りの度に取り出して使用していた。
 ダルマ山車は昭和24年頃からの10年間、昭和35年(1960年)くらいまで曳いていた。その後は解体して八幡神社に保管してあったようだが、燃やしてしまったようで、現在はダルマ山車はなく、トラック山車2台が大島地区を巡行する。

昭和24年(1949年)のダルマ山車 ※清田勇氏所蔵

神輿

 


大島の歴史

 『風土記稿』には大島村の小名として「大島枝」があり、家数は58戸であった。また、明治初期の『皇国地誌』には大島村は寺を含めて67戸で、古く昔は四面を沼地に囲まれた凸形状の孤島で大島と呼ばれ、後に土地を開拓して大島村と呼ぶようになったと記載されている。その後は寺(5寺)まで入れて74軒であったという。平成16年(2004年)1月の世帯数は339戸で、人口は1079人である。
 大島地区は枝大島および東・西・南・北の5つに区分され、昔の枝大島は隣村の小稲葉との付き合いが強く、小稲葉にお堂があって、その祭礼には必ず出かけたものであった。渋田川の土手はかつての大山道で道幅は今より広く、伊勢原行きのバスが1日2便通っていた。土手は伊勢原側が切れやすく、平塚側はあまり切れなかったという。また、大島81にある角柱の道標はかつて土安橋の所にあり、大山街道に面していたが、耕地整理の時に現在の場所に移したという。


青年団

 青年団はワケーシュ(若い衆)ともいわれ、お宮の仕事を中心に祭りの采配を振るったという。また、他のムラの祭りにはこちらからも出かけていったという。大正半ばあるいは震災後頃には、お宮の境内に青年会所を作った。満15〜45歳まで加入していた。寄り合いは十輪寺を借りて行っていたとの話もあるが、青年会所ができる以前のことかもしれない。青年会所は戦後に廃止命令があったので、他の場所に移したりしたという。


芝居

 戦前は青年団がとにかく多くいて、みんなで手分けをして芝居を催した。柿之助や源五郎が来るなどといったら本当に大変で、ムシロを集めて全て敷いても座る余地もないほどで立ち見客がいた。柿之助の身ぶりの女形なんかはこの辺りが一番で、他に役者はいなかったほどであった。あとは神楽師で、落合に神楽師がいた。戸田にもいたが、そんな遠くに行かなくても交渉に行けた。
 大島には当時、清田房次郎という代議士が必ず二十円ずつ出してくれたので芝居ができ、それがなければ芝居なんてできなかった。神社で集める金はお賽銭程度なので、くれるかくれないかで若い者は余興をどうするか決めた。昭和30年(1955年)代前半頃までは余興に芝居や素人芝居をやっていたといい、幕間には近隣の太鼓連が五組位参加して演奏した。


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