下島しもじま



八幡神社

 「八幡神社」は下島の鎮守で、旧称は「八幡宮」である。天保12年(1841年)完成の『新編相模国風土記稿』には下島村の鎮守を「八幡宮」としており、祭神は応神天皇と仁徳天皇の二座、神体秘封とある。社領一石五斗の御朱印は天正19年(1591年)11月に賜った。鐘楼には寶暦6年(1756年)の再鋳の鐘を掛け、鷹狩りの銘文があった。八幡宮は神職高梨右近吉田家の支配下で、末社は神明・天王・稲荷の3社、神木は松樹であった。
 社殿の建立は棟札によると安永5年(1776年)で、内部に間仕切はないが、向かって右が「八幡神」、左が「若宮」である。下島の八幡神社は「正八幡」と「若宮八幡」を一緒に祀ったといい、下の高梨義治家で祀っていた八幡さんを出して一緒にし、下島の八幡にしたというが詳細は不明である。

八幡神社鳥居
水鉢下島自治会防災備蓄庫
拝殿本殿・幣殿
下島自治会館
石造物収納庫
幟支柱境内

 昔、下島の八幡さまは松ばかりの森で囲まれ、鷹狩りの好きな家康は良くこの辺りで鷹狩りをした。ある日、神社の境内で鷹を放したが、鷹は高い松の枝に留まったままで手許にもどってこない。いつも戻るように合図する扇で招いたが駄目だった。それを見た神主が扇を社前に供え、祝詞をあげて祈り、その扇で招いてみると鷹は戻ってきた。家康はたいそう喜んで神社に一石五斗の社領を寄付した。それが「扇畑(おおぎばた)」で、神社のすぐ西側の畑で、神主の子孫で分家の人が今も耕作している。
 このように、家康が鷹狩に来た際に下島の接待が良かったので、お金をたくさんくれた。それで貧乏村にしては破格の中宮を作ることが出来き、社殿の中宮は彫り物がすごいという。また、渋田川にかかる三つの橋である美里橋・青井橋・土安橋のうち、青井橋は葵橋だったともいう。


八坂神社の夏祭り(テンノウサン)

 八幡神社の境内末社として、「八坂神社」と「稲荷」が祀られている。八坂神社は中宮がひどかったので、下庭の地神さんのお宮と替え、廻りの小屋を新しくした。稲荷は上庭の人がお祀りしているという。
 八坂神社の夏祭り(小祠天皇様の祭り)は7月25日に行われ、かつては7月9日であった。7月25日の祭礼には昔から子供神輿(田村の古い神輿を買った)を担ぎ回った。しかし、年に2回の祭りは大変だというので夏祭りは中止し、神主を呼んで祝詞をあげるだけにしている。この祭りは「テンノウサン(天王さん)」といい、後には虫送りやオオバレイも同じ日にするようになった。しかし、オオバレイは耕地整理のあった大正3年(1914年)からやっていない。
 夏祭りは戦後に子供会ができてから復活したようで、子供会の資金集めを兼ねて始まった。昔は「イキミタマ」が7月25日で、他出した子供たちが遊びに来た。それを利用してお祭りを始めたが、お祭りはやってもイキミタマをやる家はなくなっていまったという。子供神輿は古い神輿(田村から買った神輿か)があったが、それを処分して刑務所で作った神輿を安く買った。子供神輿は部落全戸を巡り、笊の中にお賽銭を入れてもらう。結婚したばかりの人がついて回り、神輿の世話をすることになっていた。今は担ぐのは宮出しと宮入りの時だけで、神輿の下に台車を付け、子供が紅白の綱を引いて回る。子供たちはザルを持って各家を回り、「お願いします」と言ってご祝儀をもらう。昔は夏祭りも大人たちが太鼓を叩いていたが、今は叩かずに車から太鼓のテープを流している。14時に宮出しし、16時30分頃に神社へ戻る。

昭和52年(1977年)の夏祭り
下島在住 山梨善広氏提供
山車の巡行
子供神輿

オオバレイと虫送り

 下島では7月18日にオオバレイをして虫送りをした。朝、全戸から1人ずつ八幡神社に集まり、神主に祝詞をあげてもらったあと、ケップー(ホラ貝)を吹きながら太鼓を青竹で担ぎ、オオド(大きい鉦)と竹筒のカイを持って、お宮→四ツ家→小鍋島境→打間木境と村の耕地を西回りに一周し、南東隅の渋田川の土手に出た。各戸から1人ずつ出て、子供がお供をし、「稲の虫おくれ」といいながら回った。このとき一服するのは四ツ家で、飯田清司家に頼んで子供たちに菓子を出したし、最後の高梨喜重家にも菓子を頼んでおいたという。朝から昼までかかったもので、最後に川に流してイネノムシを送った。打間木との境の美里橋の近くで「稲の虫送れ」と叫んで、神主に切ってもらった虫送りの幣束を渋田川に流し捨てたという。
 大正3年(1914年)生まれの飯田清司氏によれば、田植えが終わると子供が竹竿を担いで田んぼの中を歩き、「○○の虫送れよ」と唱えた。竹竿に紙をつけ、紙には何か書いてあった。ヨツヤの屋号インキョヤ(飯田清司屋敷内の別棟)で、お婆さんがその日だけ子供に菓子を配った。最後にお宮へ持っていき、燃やしたか流したかした。虫送りは大正末頃まではやっていたと思われる。


淡島社(淡島堂)

 霊山寺境内に淡島社(淡島堂)が祀られている。淡島様は紀州(和歌山県)の淡島神社が本社で、江戸中期に紀州倉屋敷から分祀されたものと伝えられている。そして、明治の終わり頃に紀州徳川家からお米を賜り、合わせて明治維新の功労者であった勝海舟の筆になる「淡島神」の額が下げ渡されたという。このようなことから「関東の淡島さんの総本社」であるという言い伝えが生まれた。
 淡島様の小祠は現在は霊山寺境内にあるが、かつては寺の本堂の中にあったもので、神仏分離の際に出して建物を別に建てたのだと伝えられている。社は関東大震災で倒れたものを在り合わせの材で立て直、草屋根で今の社よりも小さかった。老朽化の為に平成元〜2年(1989〜90年)にかけて再建し、境内の百度石はこのときに建て直した。社には勝海舟が書いたと言われる「淡島堂」の額がかかっていて、昔、金田の古物商が手に入れて淡島様へ寄付してくれたという。住職によると紀州藩が下屋敷を壊した時に淡島さんも壊され、その額をこちらに持ってきたのだという。
 3月13日は淡島社の祭りで、これを「淡島待」ともいう。現在は行われていないが、かつては小祠の近くは歩けないほど人出が多かったという。戦前にはちょうどこの時期に奉公人が宿下がりをし、新しい奉公先に上がるまでの休み期間にあたっていた関係もあって、オトコシ(男衆)・オンナシ(女衆)の人出が多く、俗に「見合待」とも呼ばれていた。淡島様は女の神様で、祭りには平塚の遊郭から人力車でお参りに来た。人力車は3台くらいずつ連れ立ってきた。八幡神社よりもお参りする人は多かった。八幡神社の祭りの準備で青年がオムスビを担いで歩いていると、芸者さんに出会って冷やかされたりした。夜は他所から芝居見物やムスビなどを目当てに、冷やかしに来る人もあった。境内では住職とお寺の世話人が接待し、御札を売っていた。露天商は霊山寺から八幡様まで40軒ぐらい並ぶほど、一時はずいぶん賑やかだった。
 淡島社は安産や婦人治癒に霊験があるといわれ、縁日の日を「アワシママチ」といい、各地から参拝者が大勢やって来た。ムラの女の人はほとんどお参りに行った。お嫁さんに来たての人は振り袖などの衣装を付けてお参りに行ったので、どこの嫁さんだか直ぐに分かった。青年は忙しくてお参りに行く間もなく、行くのはご婦人ばかりだった。女の人はお針を持参して境内の針供養塔に納めて針の供養もした。安産のお札も出した。妊婦は淡島さんから腹帯をいただき、安産するとお礼参りに新しい布を返しに来るのでたまっていった。
 下島では淡島さんにあげた蝋燭の小さくなったのを借りてくる風習もあった。下島では淡島様から、城所では浄心寺の観音様から、あげられている燈明のうち、できるだけ短いトボレカカリのローソクをもらってきて、産が始まった時にヘヤあるいは床の間などに立てて火をともす。「産が早く終わるように」と、短いローソクが良いとされた。産が無事に終わって宮参りなどのついでにお礼参りをする。
 12年に1回、巳年のお開帳のときは特に賑やかで、その時には下島部落の人々が手分けして他部落の懇意な家々を回って、針供養の寄付を仰いで神社の修理をし、余ったお金でお神楽をしたという。お神楽は愛甲郡から招いた。また、芝居をあげたこともあり、その明日の番に八幡さんの芝居の舞台をずらして使った。また、昭和4年(1929年)のお開帳には境内に見世物小屋や露店が立ち並び、平塚から猿回しが出た。歌舞伎芝居などもあって大変な賑わいであった。東京方面からの参詣者もあり、近郊近在の人々で門前列を作る様であった。お開帳の時は各地区の夫人部長にお願いしてお金を集めてもらった。
 現在は平日では人が集まりにくいので、八幡神社の祭礼に合わせて3月13日に最も近い土曜日に行う。幟を立てて、別当霊山寺の住職が朝8時から30分ぐらいお祭りを執り行う。年配の人だけはお参りに行く。お札は7日朝から13日の結願の日まで1週間供養したものを分けている。巳年のお開帳にはいろいろな催し物をして盛大に行う。お開帳の年には女神像を見ることが出来る。
 お祭りの日は豆腐を買っておき、そこに針を刺していく人も見られる。古針は瓶の中にも納めてある。昔は裁縫をするお針子さんが相当いて、折れたりして使えなくなった針を豆腐一丁に刺して供養した。昔の豆腐一丁は今の倍くらいあった。今は「直すより買った方が良い」という時代だから、針仕事をする人も少なくなった。針供養の日は特に決まってはいなかったが、2月8日に針供養をしたという人もいる。供養する人は毎年針を納める。昔は豆腐を川に流したが、今はできないのでゴミに出す。また、最近は注射針や画鋲を処分に持ってくる人もあるとのことである。「<表>針供養塔 功譽書 <裏>昭和二十八年三月造立」と刻む石塔を立てた。

霊山寺淡島社
女神像(お開帳)下島在住 山梨善広氏提供

囃子

 青年達を主とする集団には青年会以外に「太鼓連」もあり、神社の祭礼に太鼓を叩く仲間であった。大正の頃に一時期禁止されたが、その後は太鼓を購入しなおした。城島地区の太鼓は城所が一番早く、大島、下島の順に太鼓を揃え、下島では昭和7〜8年(1932〜33年)頃に揃えた。その頃に小鍋島には太鼓は無く、戦後から揃えた。
 昭和7年(1932年)頃の祭りはずいぶん賑やかで、昔は何も娯楽がなかったので、青年団の人たちは寄ると太鼓を叩いていた。大太鼓1、締太鼓2で笛や鉦はなかった。戦前の祭りでは境内に高さ2m、間口3mくらいの櫓を組み、近所からハシゴを借りてきて台にして櫓を組み立てた。城所と大島から太鼓を持ってきてもらって櫓に三カラ並べ、ヨミヤと当日に叩いた。城所と大島の祭りへも下島から太鼓を持って出かけて行った。それぞれを呼び合うようになったのは、太鼓を揃えてからである。太鼓は1組み10人くらいいて、3組来ると30人くらいになった。また、豊田岡崎へも叩きに行き、先方からも叩きに来た。沼目からも叩きに来た。
 太鼓は芝居の一幕が終わると叩き、芝居は四幕が規定で、最初は皆が集まらないので土地の者で叩いた。下島・城所・大島の者が一番最初に叩き、来た所から順に貸した。太鼓を貸した所へは皆呼ばれて行った。叩いている間にバチが折れるので、祭りの2〜3日前から寄って、杉材でバチ作りをし、バチを束で持って行った。昔は鳴らしっこだったので何本もバチを折ったと言い、櫓の下で年配の人が聞き比べをしており、下手だと途中でその人に代えられることもあった。
 太鼓には牛の革を使い、普段は胴と革をバラバラにしておく。使うときに一本の麻縄を回して梃子で締め、締める時は昔の元老がそばに付いて世話を焼いた。太鼓の音は革の締め方次第で、革を十分に締めて大島と城所と太鼓の音を競った。締め過ぎて革が破裂したこともあり、鳴りの良くないところでは合間(芝居の上演中)に締め直しておいた。下島の締太鼓はワキよりあまり鳴らなかったが、オオドはワキにないようなケヤキの胴でいい音がした。海老名のオウマで革の張り替えをしたとき、「下島の胴のような木は他にない」と言われたという。これはムラに機敏な人がいて、神主さんが式の初めに叩いていた八幡神社の太鼓と取り替えたのだという。
 豊田や岡崎へ行くときは先方の太鼓を叩かせてもらい、豊田には何カラか太鼓があったが、下島で一カラしか借りれなかった。だいたい芝居の一幕目はまだそんなに人が集まっていないので土地の者で叩き、二幕目以降は人が寄ってくるのでワキの者が叩かせてもらった。昭和30年(1955年)代まではよその村を呼び合って太鼓が盛んで、戦後は境内に櫓を組んで四〜五カラくらい並べていたという。
 昭和40年(1965年)代頃は祭りが消滅していた時期があったが、その後は青年会が太鼓を引き継ぐようになり、昭和50年(1975年)頃に「下島太鼓保存会」ができて揃いの法被を拵えた。太鼓の曲は「鎌倉」・「昇殿」・「お囃子」・「バカッパヤシ」の順で叩き、曲が変わるところに「キリカエシ」を入れる。鎌倉・昇殿・お囃子の3曲を「コモノ」といい、鎌倉と昇殿はゆっくりしたテンポ、お囃子はテンポの速い繰り返しのリズムである。バカッパヤシは子供には体力が必要で、一番難しいので、コモノを間に入れて休ませている。昔はコモノの曲数がもっとあったが、子供が覚えるのが大変なので3曲にしている。


山車

 下島の山車は豊田の打間木で新しいのを作るというので、終戦直後に打間木から譲り受けたと言い伝えられているが、金目の方からもらってきたという説もある。戦後暫くは太鼓を載せてムラ中を引っ張って回り、昭和40〜50年(1965〜75年)頃まで続いたが、交通が激しくなるのと、山車に舵取りがついていないので曳くのが大変で、トラックのに据え付けて回るようになった。
 山車にはゴム製のタイヤが付いているが、当時は木製の車輪で、祭礼で使われないときは車輪の腐食を防ぐために、八幡神社の東側に流れる渋田川に沈めて保存していた。舞台の寸法は横幅約2.0m・奥行き約2.5mの長方形で、舞台の四隅にある穴に柱を差し込み、梁を渡して屋根を載せる構造になっているが、屋根部は残されていない。この山車はお宮の東側の倉庫に保管されていたが、下島地区での保管が困難になり、平成30年(2018年)に廃却予定になっている。
 現在はトラックの上に櫓を組み、締太鼓4つとオオド1つを載せている。本来、締太鼓は2つだが、山車に太鼓を横に並べると4つ置けるので4つ並べている。山車の上の飾りは地元の大工に作ってもらった。

山車舞台上に並べられた柱と梁
柱を入れる穴山車小屋

神輿

 


例大祭

 天保12年(1841年)完成の『新編相模国風土記稿』では例祭日が旧暦の9月13日であった。その後は3月4日、3月13日となった。大正13年(1914年)生まれの飯田清司氏は下島が9月にやっていた頃の記憶は無いというので、大正末には3月になっていたことになる。3月にした理由は淡島さんと年に2回のお祭りは大変で、昔は神社よりも淡島さんの祭りの方が賑やかだったことから、淡島神社と同じ3月13日を祭日にした。新しい住民が増えたこともあって、現在は3月13日近くの土曜日に行うが、13日以降の土曜日に行うことが多い。土曜日はイチゴの出荷が無いが、日曜日は月曜朝の出荷の準備が夕方に少しあるため、土曜日の祭りにした。
 祭りは神社境内に幟を立て、神主を呼んで祝詞をあげてもらう。神主は大神の寄木神社の沖津氏であったが、最近は城所の貴船神社宮司の沖津氏が来る。沖津氏になったのは昭和初期からで、それ以前は貴船神社の神主だった松井タマさんだった。さらに昔は下庭の高梨喜重家が神主を務め、先々代まで八幡社の神主をしていた旧家であった。高梨家には古い書物がたくさんあった。

昭和54年(1979年)の例大祭
下島在住 山梨善広氏提供
山車の巡行

芝居

 神楽殿は大正8年(1919年)頃の台風で壊れてしまったため、舞台を作らないとお祭りができなかった。青年団が神楽殿を組み立てて、屋根も付けた。祭りの3日くらい前からガタガタやった。ヨミヤには青年からムラの人も出て舞台作りをし、芝居師の入る風呂も立てた。ムラ中の家からムシロを2〜3枚ずつ集め、舞台の前へ50枚くらい敷き詰めた。芝居師が寝るための蒲団も集めた。当日は握り飯や里芋の煮物などを集め、芝居をやる人や若い衆に振る舞った。しかし、楽しかったのは青年団の上の人で、下っ端は小間使いなので大変だったという。
 役者は4月の祭りを目当てに下島で売り込んでおくと、ワキの宣伝がてらになるということで、安く半額でやってくれた。本宿の方のワタヤという芝居師や厚木の柿之助を呼んだ。厚木まで牛車を引っ張って衣装を取りに行った。芝居は祭り当日の夜に演じた。演目は勧進帳や先代萩などだった。夜11時頃まで芝居をやり、終いになると見る人は幾人もいなくなる。残っているのは本当に芝居が好きな人だけで、「人数が少なくなったからといって、ごまかすな」などと怒鳴っていたという。芝居師は夕飯を食べて神社の社務所に泊まり、翌朝に朝食を食べて帰っていった。
 四ツ家の飯田ミネキチさんは神楽芝居の笛吹きをやった人で、愛甲の神楽師に加わり、祭りが始まると家にいられなくなるくらい方々へ出かけた。神楽には笛がつきものだが、芝居は太夫だから笛はいらなかったので、八幡神社の祭りには1回くらいしか出演しなかった。また、芝居の好きな人は大神の歌舞伎芝居まで見に行った。
 芝居は戦争中までやったが、終戦後は芝居を呼ばずに地元の若い者がヤクザ踊りなどを始めた。中には方々の祭りに頼まれて踊りに行った人もいる。


青年

 かつては「青年会」があり、高等科が終わると15歳で加入して45歳まで在籍した。元服祝いをする家としない家があり、祝う家では母親が縫った紺の絣の着物を着て八幡様へお参りした。加入したばかりの下っ端は「トウジセワニン」といい、使い走りさせられ、年上の元老がいて威張っていた。霊山寺のまわりに堀があり、青年達はそこに稲を植えておき、5俵くらい取れて青年達の費用になった。各村は支部になっていて、下島にも支部長がいた。青年に入ると消防団にも入り、消防団で「下島消防団」の名入りの細の提灯を出した。青年の支部長が消防団の責任者であった。
 祭りなどは青年会が一切取り仕切り、会合はお宮の青年会所でもった。青年の役目は役者の衣装運び、神楽殿の設営、櫓の設営、ムシロやご馳走集めなどで、分担して行った。祭り当日の昼間は各家からご馳走を集め、おむすび2個と煮染めなどをもらって木の箱に集めて歩いた。おむすびは芝居師やワキから太鼓を持ってくる人に振る舞った。城所大島に行った時も接待を受け、豊田岡崎にも行って一杯飲んだり、ご馳走を食べたり、接待を受けるのが楽しみだった。祭りの後の夜には青年会館に青年達が泊まったという。青年会所は婦人会も利用した。青年会所はお宮の社務所を兼ねていて、建て替えて現在の集会所ができている。
 戦前は多い家で7〜8人ぐらい子供がいて、次三男以下は奉公に出た。奉公している人はヤドサガリで帰ってくる。お盆は奉公先の手伝いがあるのであまり帰れず、正月も戻るが長くはなかった。三月が正規のヤドサガリで10日ぐらいもらえた。主人からもらった新しい着物を着て帰ってきて、「いいシセキが出たなあ」と言って皆で比べっこをした。ヤドサガリで帰ってきた人も皆が祭りの手伝いに出て、知っている人のお供について行かせた。
 会員が結婚しシンショウを持つときには、必ず支部長を祝言に招待した。嫁が来るときは青年達が提灯を持って村境まで迎えに出て、嫁入り先の家まで送っていく。酒一升とつまみなどを出されて、青年達は青年会所で飲んだ。イセキの婚礼であるとミツメの後に青年達のためにひと座敷設けたが、今では式のあとに続けてひと座敷設けている。さらに男子が生まれるとその家に坐るので、青年会のやっかいになるからと5月の初節句を祝ってくれた。樽酒をすえ、2間と1間半位の大きなタコを夜なべで作って、子供の名前や家印を入れてあげてくれた。これは戦後しばらくまでやっていた。


下島の歴史と氏子組織

 下島はカミ(上庭)・シモ(下庭)・ニシ(西庭)・ヨツヤ(四ツ谷)と大きく4つに区分され、四ツ谷はもともと四軒だったという。『風土記稿』の小名には上ノ庭・下ノ庭・四ツ谷の3つが記載されているが、西庭だけ挙げられていない。渋田川の堤防の土は城所の土を運んだ。
 天保年間(1831〜45年)の戸数は37戸で、大正7年(1918年)印刷の『城島村々勢要覧』によれば、八幡神社の氏子数は42戸で、信徒数は386人となっている。平成16年(2004年)1月の世帯数は345戸で、人口は937人である。下島草分け十三軒というが、現在のどの家に相当するかははっきりしない。37軒の時代が長く続いたといい、戦後の昭和30年(1955年)頃から増加する前は、40軒から45軒位であった。
 かつて宮総代は3名で、宮世話人が2名だった。宮総代は自治会の役の経験者など功績のある人が選ばれた。宮世話人は若い人で、ワキから婿に来た人が多かった。使いっ小僧で、いろんな行事に引っ張り出された。総代は世話人を口先で使っていた。大正3年(1914年)生まれの飯田清司氏が総代に就任した時、「婿に来た人が世話人ばかりで使いっ小僧で何とかならねえのか」との声があがり、部落会で話を出して世話人を無くして全て宮総代にした。現在は各庭から1名ずつ代表が選ばれ、お宮のそばの上庭だけは宮本なので2名出ており、計5名である。


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