田村たむら

神社の紹介

  田村の鎮守である「八坂神社」は、天保12年(1841年)完成の『新編相模国風土記稿』によると古くは「牛頭天王宮(ゴズテンノウグウ)」と記され、真言宗の「南向山円光院(現在は存在しない)」持ちであった。牛頭天王は仏教の守護神で日本では「素盞鳴尊(スサノヲノミコト)と同神とされている。素盞鳴尊は厄病災難防除、いわゆる無病息災の厄除けの神で祖先より氏神として尊敬されている。
  言い伝えによる牛頭天王宮の創建は延暦年代(782〜805年)に既に社殿があり、坂上田村麻呂が戦勝を祈願し、更に承久年代(1219〜1221年)と貞応年代(1222〜1223年)には頼経将軍や三浦義村らが社参・寄進したとされている。明らかな記録としては延寶5年(1678年)に寄附された石灯籠2基に藤原氏の榊原忠乗との刻印があったとのこと、更に現存している「元禄10年(1698年)牛頭天王宮一宇社 別當:南向山圓光院」の棟札は名実ともに神社の寶(宝)と言える。
  明治元年(1868年)の神仏分離令により「八坂神社」と称号が変わり、造営、祭事などの諸費用は全て氏子の奉仕となった。初代の神主は石川シュゼンという人で、神道と仏教の分離を推進したといわれる。大正12年(1923年)9月1日に発生した関東大震災では、本殿を残して拝殿などすべて崩壊したと記され、その後大正14年(1925年)11月に拝殿の棟上げが行われている。現在の本殿に覆殿はなく?、本殿が震災前のままだとすれば延享元年(1744年)創建ということになる。また、かつての幣殿は本殿の向拝柱を共有して一体化し、しかも朱塗であったといわれる。
  昭和63年(1988年)10月になると37年振りの神川橋架け替えが行われ、それに関連して神社南側の県道拡幅工事が実施されることになった。道路の拡張部分を確保するためには神社を移築する必要があり、これは本殿・拝殿・神楽殿・大鳥居などの全てを北側へ8m移動するものであった。同年に八坂神社では「社殿等移転対策委員会」を発足させ、この「平成の大移築」は平成2年(1990年)に終了した。翌平成3年(1991年)には梵鐘と鐘楼を新築(昭和19年に供出したものを47年振りに復元)し、さらに平成4年(1992年)には玉垣の整備、そして平成5年(1993年)に社務所・太鼓練習所の新築をもって、4年8ヶ月の年月と約2億4千万円の費用を掛けこの一大事業が終結した。

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八坂神社両部鳥居
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狛犬狛犬
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拝殿・向排幣殿・本殿
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神楽殿社務所
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鐘楼社殿等移設記念碑
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石祠市保全樹木 むくのき・けやき


末社・摂社

  神社境内には末社として、「琴平社(祭神:大己貴命(おおなむちのみこと)・少彦名命(すくなひこなのみこと)」・「神明社(祭神:天照大神(あまてらすおおみかみ))」・「日枝社(祭神:大山昨神(おおやまくいのかみ))」・「稲荷社(祭神:宇賀御魂命(うがのみたまのみこと))」を祀る。次に、村内各所に散在する摂社を紹介する。

●上町・・・天獏社(祭神詳ならず、相殿白山姫神・稲荷神)
  「天獏社(宮)」の祭日は2月28日で、昔はこの日にお日待をしたという。この神社は明治時代に八坂神社へいったん合祀されたが、元の社地の隣家の人の夢枕に立たれたので、大正初期に元の場所に戻したという。
●横宿・・・天神社(祭神:菅原大神)
  「天神社」の祭日は2月25日で、2月24日の宵宮には代神楽をした。野菜・米などを集めて、宿になった家で御馳走をする。そして、この日はお日待ちをしたという。宿はお宮の近くの市川家がすることに決まっていて、市川家は昔から神主の世話をしている。この場で若い衆世話人が翌年の世話人を決めたという。
●下町・・・諏訪社(祭神:諏訪大神)
  「諏訪社」の祭日は8月27日である。また、秋元武氏の敷地内には「若宮社(祭神:若宮八幡大神)」が祀られ、承応元年(1652年)築との記録がある。

  田村は「上町」・「横宿町(中町)」・「下町」に分かれ、この町内は「ブラク(部落)」ともいい、今でも強く機能しており、祭礼を始め伝統行事の折々に表れている。各町内では祭祀することを「講」と称し、上町では「天獏講」、横宿が「天神講」、下町が「諏訪講」と呼んでいる。また、祭りに参加しているチョウナイの人々を「講中」といっている。



宵宮(お仮屋と屋台の曳行)

  昭和初期における宵宮には現在の旧道田村十字路にお旅所(お仮屋)が設けられ、お仮屋を中心に子供神輿の運行や屋台曳行が執り行われていた。上町世話人に継承された古文書の中に大正15年7月16日の『山車運行願』が残されており、次の記載がされている。

  伊勢原警察署長 警部 佐藤周治郎 殿   願人 石井亀吉
  運行の日時  大正15年7月19日 午後6時より11時まで
  運行場所    田村1528番地先道路より1534先道路まで
  運行の方法  八坂神社の祭典に付、挽子40人、警護6人付
            年齢17歳以上の青年にて運行
  山車の容積  横幅8尺、長さ15尺、高さ8尺

  現在の状況から運行距離を考えると、1528番地(旧巴屋付近)から1534番地(旧買場、井筒屋の南側)の僅か100m程度の道のりであったことがわかるが、19日の屋台曳行まで神輿の置かれていた場所(お仮屋)と屋台が3台揃った場所までは確定できない。また、昭和7年(1932年)の下町・諏訪社に保管されている古文書には下記の記載があり、下町の役割が幟立て、提灯の作成や管理などであったことがわかる。

  灯篭張り 4名(17日)、 子供輿番 各3名(17,18,19日)
  灯篭番 各2名(17,18,19,20日)、 幟立て 各2名(17,18,19,20日)
  むしろ集め 4名(18日)、 輿の寝番 1名(20日)
  屋台の提灯 2名(19日)、 屋台の寝番 2名(19日)

  例祭の前日の宵宮には演芸大会が催され、神楽殿では田村ばやし保存会の演奏が披露されたのち、氏子・崇敬者による三番叟やカラオケ・民謡・踊りなどが奉納される。昔の宵宮はチョウナイ毎に行っていたという。   



例大祭

  『風土記稿』による祭礼日は6月7日から14日迄でという記録があり、8日間で300m程西にある堂の前のお旅所に神輿を置き続けたということである。また、明治45年(1912年)の『上町内諸事金銭出納帳』には7月13日が宵宮(太鼓叩きと綱引き)で、14日が祭典(神楽殿の舞台)と15日に鉢洗いという記載があり、大正15年(1926年)の『上町山車運行願』には7月19日宵宮の記載がある。このことから大正に入ってから7月20日が祭典日となったと思われ、昭和7年(1932年)の『下町戸口役連名』に7月17・18・19宵宮、20日祭典、『上町祭典戸口役割当帳』の昭和15年(1940年)に7月19宵宮、20日祭典の記載がある。しかし、同じ『上町祭典戸口役割当帳』によると昭和18〜30年(1943〜55年)までに7月27日宵宮、28日祭典とあり、例祭日は現在まで変遷があったことが確認できる。現在は28日に近い日曜日になっている。
  本祭りの時には上町→下町→横宿の順番で、各町内が「ネン番」・「コシ番」・「アイ番」という役にあたった。ネン番というのは各町内の先達を努め、祭りの主導権を握っていた。例えばお囃子をする場合はネン番が始めるまで演奏してはいけないし、ネン番がやめたらすぐにやめなければいけない。すなわち、何でもネン番のいう通りにしなければならなかったという。ネン番に対してコシ番は神輿を担ぐ権利を持っていて、アイ番はその年には役がなく太鼓を叩いたり神輿を担がしてもらう。



青年会・町内仲間

  かつて町内毎に「町内仲間」というものがあり、これは青年団以前の若者組の組織である。小学校を卒業すれば仲間に加入し、45歳までであった。仲間に入らないと町内の屋台も曳くことができず、神輿も担げなかった。町内仲間の頭として「若い衆世話人」がおり、世話人は世帯を持ったばかりくらいの若い人がなる。これとは別に町内を総括する役に「大世話人」がいて、年齢は50から60歳で、若い衆世話人は大世話人の指図を受け町内会費などの徴集などもした。
  町内仲間は別名「ワケーシュレン」・「ワケーシュ仲間」と呼ばれ、ワケーシュ達は派手な裏地をつけた長ばんてんを着て2寸巾のシュスのヒラムケという帯をし、ホッカムリして集団をなしていた。ワケーシュレンはがらの良いものではなく村の茶番や料理屋に来る客をからかったり、芸者あげ・女郎買・隣村とのケンカなどがもっぱらであった。自分の息子がこの様な格好をしだすと、一人前になったといい喜んだという。仲間に入るのは小学校を出てからで、祭礼の後の鉢払いの時に酒を出して挨拶をする。このワケーシュレンの最大の出番は祭りの時で、屋台曳きや神輿担ぎはワケーシュの晴舞台であった。年齢の若い者ほど雑用が多く、祭りの朝に「オコシバン」といって町内をどなって家々を起こして歩く役から、太鼓の修繕のために海老名まで出掛けたり、提灯の注文などに走り回った。また、芝居の役者の風呂炊きや舞台の幕引きなどもした。
  青年団を作った時期は大正初めまたは昭和初めという人があるが、大正12年には道しるべを青年団として作って建てたというから、それ以前にはできていた様である。大字毎に支部があって支部長が存在し、中部北部の10ヶ町村で集まって運動会をしたり、弁論大会を開いたりした。団員は小学校を卒業すれば入り、25歳まで資格があった。



田村

  「田村」という地名が付いた経緯については不詳であるが、次の二つの説がある。
  その一つは、田村地区はもともと四之宮分であって、四之宮地区には畑地だけで水田がないのに対し田村地区には水田があることから、「田のある村」から「田村」と名づけられたという説である。現に「四之宮に水田なし、田村は元四之宮内、ここにのみ水田あり、故に田村と称す」という記録があり、大正13年(1924年)発行の陸地測量部の地形図からその土地の利用状況をみると、四之宮には桑畑と普通畑、田村地区には旧厚木道の東側は普通畑で西側に水田が分布している。
  これに対してもう一つの説は、平安時代初期の武将坂上田村麻呂(758〜811年)の名から「田村」になったというものである。『皇国地誌残稿』の「相模国大住郡田村地誌」(明治14年12月2月)には、これに関する記載があるという。
  かつて横内を含んでいた田村地区には京都を模した町割りが施され、これは鎌倉時代に当地に田村館を持っていた三浦義村によるものといわれている。この古代都市の町割りを「条坊制」といい、農耕地の「条里制」に対するものである。古代都市は「大内裏」を中心として設計され、そこから延びるメイン道路が朱雀大路とその左右に4条の大路が設けられ、都合9本の南北大路が設定された。これらに直行する形で最北の1条大路から9条大路の東西路が設けられ、南北を「条」、東西を「坊」としたことで「条坊制」という名が付けられた。
  この都市計画を田村の地に持ってくるという計画によると、東を流れる相模川を加茂川に、西を流れる渋田川を桂川に擬し、内部に中央部の「社宮神」の地を中心として、東西・南北の直交道路が設けられた。当地に直交状の道路が存在しているのをみると、当地に小京都ともいうべき町割りが実施されたことが伺える。



田村館

  当地には中世の「田村館」と呼ばれる三浦義村の館があり、そこには将軍も来遊したとの記録が残っている。



田村の渡し

  当地には相模川に架かる神川橋の袂に「田村の渡し」の石碑があり、これは江戸時代に相模川の舟運の便を果たす渡し場があったことを示すものである。馬入の渡しの上流にあった田村の渡しは中原街道と藤沢からの大山道の二つの往還の渡しで、主に大山参詣や江戸への物資輸送のために利用された。渡し場のある田村はこの両往還と厚木からの八王子道が交差するところで、旅籠屋などもあり「田村の宿」と呼ばれていた。
  この渡しを管理していたのが相模川を挟んだ西側の田村と、対岸の高座郡一之宮村(寒川町)および田端村(寒川町)の三村が勤めていた。馬入の渡しと違って公儀役ではなく渡船場株の所有者が経営し、舟4艘が常備されていた。十辺舎一九の『諸国道中金草鞋(かねのわらじ)』には「田むら川鈴鹿にあらではやき瀬ハ 千の矢をゐるごとき水せい」という狂歌が載せられており、当時の相模川の水勢はかなり速かったようである。この他に大神村と四之宮村にも渡船があったが、いずれも農業用に利用されたものであった。

田村ばやし(平塚市指定重要文化財)

  「田村ばやし」は市内田村地区の氏子に伝わる祭り囃子である。伝承によると鎌倉時代の安貞2年(1228年)に豪族三浦平六義村が4代将軍藤原頼経をこの地にあった田村の館に招いた際に、京都から同伴した楽人がこの地方の里太鼓からヒントを得て編曲し、里人に伝えたとの説がある。
  田村ばやしは「大胴1」・「締太鼓2」・「笛1」・「鉦1」の5人によって構成され、曲目は「屋台」・「宮昇殿」・「昇殿」・「神田丸」・「唐楽鎌倉」・「仕丁舞」・「印場」の7曲である。これらの曲は「屋台」・「宮昇殿」・「屋台」→「昇殿」・「神田丸」→「唐楽鎌倉」・「仕丁舞」→「印場」と組み合わされて演奏され、いずれも笛のリードによって曲が変化していくことが特色である。なお、田村ばやしの中の「印場」は祭典後の「鉢洗い」といわれる後片付け後に、即興的に囃され踊られたものとの伝承がある。昭和48年(1973年)の神田小学校100周年記念行事の一環として行われた田村ばやしの後継者育成活動の中で、「今まで聞くお囃子に見るお囃子(踊り)を入れたい」との発想から、厚木市相川の垣澤社中に「男踊り(ひょっとこ)」と「女踊り(おかめ)」の振り付けと笛の作曲を依頼した。しかし、男の子は恥ずかしさがあってか後継者に恵まれず、現在は女の子による「おかめ踊り」のみが継承されている。
  明治に入ってから、「相州一之宮」・「門沢橋」・「下戸田」・「大神」等に伝授したが、所々手を替えて教えたと言われる。

田村ばやしの曲目
曲名解説
屋台乗り物にて神霊を送り迎えする調べ
宮昇殿神霊が宮に近づいたことを知らせる調べ
昇殿神霊がいよいよ宮に入ることを知らせる調べ
神田丸
(かんだまろ)
神霊が宮にはいられたので神官が挨拶をする調べ
唐楽鎌倉
(とうがくかまくら)
安泰を祝い神官が余興楽として行う調べ
仕丁舞
(しちょうめ)
以上の行事が終わり、神官が浮かれながら帰る調べ
印場
(いんば)
一切が終わり、下男・はしため・おかめ・ひょっとこが鉢洗いする調べ

  田村ばやしは明治22年(1889年)に神田村ができたときから、「神田囃」と呼ばれるようになったといわれる。昭和31年(1956年)9月30日に行われた『平塚市合併祝賀行事』のお囃子競演会において、この神田囃がみごと第1位となり(賞品は小太鼓の胴)、当時の文化財保護委員の高瀬慎吾氏の絶賛を得た。その後、江戸の神田囃子の亜流とも云われかねないということから、高瀬慎吾氏の推奨もあり呼称を昔の「田村ばやし」に戻すようになった。
  昭和50年(1975年)に「田村ばやし保存会」が設立され、田村ばやしは昭和51年(1976年)11月24日に平塚市教育委員会より平塚市指定重要文化財(無形:民俗)に指定された。

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太鼓練習場田村ばやしの碑


屋台

  田村地区では「横宿」・「下町」・「上町」で各1台の屋台を所有し、昭和12年(1937年)頃までは神輿とともに田村の宿場での花形であった。3基ともほぼ同形同大で、以下に共通する要素について説明する。

  @規模・・・舞台正面の柱間は3基とも6.5尺で、舞台奥行き柱間は横宿・下町が4尺、上町が4.5尺である。楽屋の奥行きも横宿・下町の6尺に対し、上町は6.3尺でやや大きい。舞台の間口はいずれも10尺である。土台下から床上までは横宿3.93尺、下町4.16尺、上町4.3尺である。床上から桁上までは横町5.5尺、下町6.6尺、上町6.9尺である。いずれの寸法も上町が大きく、次いで下町、横宿の順である。

屋台寸法


舞台楽屋土台下
〜床上
床上
〜桁上
正面柱間奥行柱間間口奥行
横宿6.5
(1970)
4.0
(1215)
105.8
(1755)
3.935.5
下町6.5
(1970)
4.0
(1210)
106.0
(1815)
4.166.6
上町6.6
(1995)
4.4
(1340)
106.3
(1900)
4.36.9

                   ※数値の単位は"尺"で、括弧内は"mm"
  A平面・・・舞台と楽屋からなる。舞台は正面と両側面の三方に廻縁風の張り出しを設けるが、この部分も舞台に取り込んでいて、床に段差はない。舞台の三方は開放で、擬宝珠高欄を廻らし、両側面の縁の突き当りには脇障子を設ける。このあたりは神社本殿の形式に通じる。舞台と楽屋の境には2本の半円柱の中柱を立て、この間を出入り口とする。円柱の両脇には彫物を嵌める。楽屋の両側面は格子戸を嵌め殺しにし、背面は引き違いの格子戸とする。
  B屋根・・・正面および背面を唐破風とする。屋根面はすべて細かい格子に和紙を張り、障子のように仕上げている。棟および螻羽も同様である。
  C構造・・・日の字形に組んだ土台の上に柱または束を立て、床を設ける。下町屋台では背面および舞台・楽屋境の4本の柱を桁下まで立ち上げるが、横宿屋台では背面2本のみである。そして上町では桁まで立ち上がる柱はなく、床面は全て束で支えられる。いわゆるオカグラ造である。車輪は小さく床下に隠されており、大木の輪切りのようである。
  D材質と仕上げ・・・主な部材は欅材を使用し、本体に欅材の彫刻が各部にはめ込まれる。彫物には部分的に彩色するものもあるが、基本は素木である。

  続いて、各屋台の特徴について説明する。

●横宿
  制作年代を示す資料はないが、古老の話によれば横宿の屋台は江戸時代(天保3年(1832年)という説も)の製作で、八坂神社の社殿を造営した大山の・「手中明王太郎」の作であるという。3基の中では最も高さが低く、また構造も簡素であり、年代的には最も古いと判断される。この屋台の特徴は楽屋境の2本の半円柱上に出三斗を組み、菖蒲桁を受けて唐破風を設けることである。楽屋部分が独立した空間のように扱われ、メリハリのきいた優れた意匠である。
  正面および背面の唐破風は3基のなかで最もゆったりした曲線を描き、兎毛通は松に鶴の浮き彫りである。楽屋入り口の半円柱上端には獅子の木鼻を付け、低い位置に架けられた内法長押上には龍に乗る人物と馬に乗る人物を中心とした大きな浮き彫りを嵌める。唐破風の兎毛通は玄武と思われる彫物である。両脇間の欄間は右が龍に梟、左が龍に鶏の浮き彫りである。脇障子は鳳凰の浮き彫りとする。組物は楽屋前以外には用いられておらず、周囲の桁も一重に回すのみである。正面の水引虹梁上は中備の蟇股で棟を受けるが、楽屋境および背面通では虹梁に束を立てて棟を受けるという簡素な手法である。廻り縁は床梁を張り出して縁葛を受けるという、最も単純にして合理的な手法である。
●下町
  下町の屋台は江戸時代後期の建造と伝えるが、横宿屋台よりもやや年代が降ると判断される。彫刻家は不詳である。平面の規模形式は横宿と全く同じだが、その他の形式は上町屋台と共通する点が多い。装飾的な彫物がふんだんに使用され、また構造も手が込んでいる。
  正面唐破風の兎毛通は鳳凰の浮き彫りである。横宿屋台と異なって楽屋入り口に唐破風は設けず、内法長押上部には幅いっぱいに龍と闘う武人像を浮き彫りにしている。半円柱両脇の小壁も同様に龍の彫物とする。脇障子は武器をもつ人物像である。各柱上には出三斗をのせ、頭貫位置には虹梁形の差物を入れて絵様を施し、桁との間には鶴や梟など鳥の彫物を嵌める。柱上端には獅子の木鼻を付ける。正面の水引虹梁端部には梅の浮き彫りを施し、上部虹梁との間には孔雀の彫物を嵌める。棟は各柱筋の、三丁の大きな蟇股が受けている。舞台廻りの縁は持送りで支える。
●上町
  上町の屋台は火災で焼失し、現在の屋台は明治21年(1888年)7月に建造された。3基のなかで最も新しく、基本的な構成は下町屋台と同じであるが、彫物等による装飾がより一層濃密になっている。楽屋境の欄間背面には「相模国大住郡石田村産/愛甲郡中津村居住人/彫刻師和田太吉光親/明治二十一年/七月吉日」の墨書銘がある。彫刻の中心になった人は相州大住郡石田の住人和田太吉光親で、皇居の明治宮殿の彫刻をした人である。
  正面唐破風の兎毛通は浦島太郎と思われる浮き彫りである。基本的な構造は下町屋台と同じで、柱上には出三斗を組み、頭貫を虹梁形とし、桁との間には彫物を嵌める。棟木は蟇股ではなく、正面柱筋では鶴の彫物が、楽屋境および背面柱筋では力神の彫物が支える。主要な彫物は三国志の名場面を題材にしているらしい。正面柱筋では水引虹梁とその上部が一体の彫物として化している。楽屋境でも欄間の彫物が上部の梁にまで及び、また長押の一部に覆いかぶさっている。正面柱の木鼻の龍も、柱に巻き付くように彫られている。そして縁葛や正面の束には地紋彫が施されている。廻り縁は束に納差しとした腕木によって緑葛を受ける。

  かつて7月14日の本祭りに各町内の人が総出で屋台を曳き、屋台の曳行は夜間が本来の姿であるため、70箇位のほうずき提灯と沢山の弓張提灯を取り付けたといわれている。屋台の屋根には3m位の棒に造花を付け、実はこれが屋台の本体すなわち神籬の変形であり、神が高い所へ宿られるという古い信仰から生まれたものである。屋台の上には田村ばやしの囃子連の者が10〜15人ぐらい乗って、笛を吹いたり太鼓を叩いた。山車を曳く際には「テコ押し」といって山車の梶取が上町から6名、下町から6名、横宿から4名選ばれ、選ばれる者は若い衆で印袢天に花笠を被っていた。神輿が宮入りする際は、その後を3台の屋台がついていったという。また、上町に継承された古文書には明治26(1893年)と38年(1905年)に彫刻物の預り人が記載された名簿が現存し、3町の屋台は祭典が終わると全ての彫り物を1個1個丁寧に晒しに包み、木箱に納めて翌年のお祭りまで大事に保管していた。
  昭和初期における宵宮には、上町の屋台は天獏社の敷地にある小屋から、横宿の屋台は神社西側(円光院の跡といわれる)にある小屋から、そして下町の屋台は貞性寺敷地にある小屋から、それぞれお仮屋近くまで集まっていた。しかし、昭和15年(1940年)頃からは大戦の影響から若者がいなくなり、さらに昭和27年(1952年)にはお旅所が廃止され、神川橋のコンクリート化と県道である藤沢−伊勢原線が現在のように整備されると道路事情は悪化の一途を辿り、伝統ある祭り行事もそのまま継続することが難しくなった。そこで各町内の屋台小屋を神社境内の神楽殿に向かい合って、北側か上町・横宿・下町の順に各々単独の小屋を新築し、祭典には屋台前面でお囃子を競演するようになった。その後、各町の屋台小屋の傷みがひどくなり、昭和41年(1966年)に神田鉄工(株)、大和田昇氏の寄贈により鉄骨の屋台小屋が完成し、3町の屋台が収納され現在に至っている。このように現在では屋台の運行は中止され居囃子化し、十王堂跡地(旧道 田村十字路)のお旅所も廃止さた。

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屋台小屋

  現在は3町が屋台の上で田村ばやしを賑々しく競演しているが、本来のお囃子はあくまで屋台曳行の囃子方である。したがって、屋台の踊り場で演奏されることはなく、後ろの格子のはまった室で演奏されるのが正式の形であったという。



神輿

  7月14日に本祭りをしていたころは、11日に「オカリヤ(お仮屋)」を四つ角に建てて「オコシ(神輿)」をそこに運び安置し、14日には白丁を装った者が4・5名で神輿を担ぎ村中を渡御した。神輿の前を天狗の面を着けて錫杖(4尺7寸5分)を持った露払いが先導し、渡御を掌るのは各町内から選ばれた白丁であり、白丁が宮司に大きな日傘を差し掛けたようである。白丁を着る人は各町内から世帯を持っていて品格のある人物が役員に選ばれていた。また、ツジオミキ(辻御神酒)といって上町・下町・横宿の各1ヶ所につくられ、神聖なところなので辻の近くの人たちが河原から持ってきた川砂を敷いて盛り砂をした場所があった。ツジオミキでは神輿を白丁が持って回るコシ台に置いてから神主が祝詞をあげ、白丁には酒や氷水などが振舞われる。
  大正12年(1923年)9月1日の関東大震災後の大正15年(1926年)に3町は競って子供神輿を新調した。上町では町内の大工であった斉木伴三氏にその製作を委託したが、上町に残る古文書の『子供神輿建立奉献寄附収支決算簿(大正14年)』にはその収支決算が記されている。これによると神輿製作費合計は522円82銭とされ、その内訳として204円が当町植竹の大工・斉木伴三、280円が本郡旭村の塗師・山崎、8円が当村植竹の銅職・楡井初蔵などとなっている。そして横宿は浅草(東京)、下町は井上茂蔵の作である。また、昭和13年(1938年)に神田と寒川の間に流れる相模川に始めて橋(神田の神と寒川の川を取って「神川橋」と命名)が掛けられ、この橋の渡り始めに八坂神社大人神輿の勇姿が写っている。
  昭和20年(1945年)以前は田村を一巡した昼食後に横内(当時は西田村)の御霊神社へ向かい、再び田村に戻ってくると担ぎ手が村の若い衆と交代した。白丁だけで往復約2.5kmを担ぎ通した当時の力強さには驚かされるが、古老の記憶によれば出発時に神輿台を片付けてしまい、宮付けまで担ぎ通すのが当時の仕来りであったようである。例祭時には神社入口(旧田村十字路)に幟が立てられ、横宿に神輿が入ると決して戻ってはいないという不文律があり、若い衆はなかなか横宿へ入らなかった状況もあったようである。神輿は一番最後に神川橋のたもとまで行って相模川のほとりで「禊」を行い、神主が笹の葉で水をふりまきお祓いをする。また、神輿を担いで相模川の中に入ったりした。禊が終わると八坂神社へ戻って宮入となる。また、9月20日の横内の例大祭には御霊神社の神輿が田村の八坂神社に来社したというが、道路事情の悪化や社会環境の変化、田村における農業人口の減少に伴っていつしか御霊神社との交流も沙汰止みとなってしまった。
  昭和50年(1975年)3月27日未明に起きた火災は築50年の神楽殿を全焼し、神楽殿の内部に保管されていた大神輿と上町・横宿・下町の3基の子供神輿が全て消失した。年に一度、神の出座を願い処々の災禍を未然に祓(はら)い清める神輿渡御の神事は歴史と伝統をもった行事であったが、この火災により一時中断してしまった。昭和52年(1977年)には神楽殿と子供神輿を新調したが、その際に大神輿は新調されなかった。なお、大神輿のと横宿の子供神輿の孔雀が神楽殿以外に保管されていたため、奇跡的に現存している。
  昭和55年になり「八坂神社には神輿と屋台は備えるべきもの」ということから、若衆からの要望が発端となり昭和56年(1981年)には「神輿保存会」が設立され、翌昭和57年(1982年)に「神輿再建趣意書」を配布し、小田原の西山統和堂に大神輿の製作を依頼した。氏子や関係者らにより1,828万円の寄付金が集まり、同年7月11日に引渡しが行われ新調された大神輿が披露された。また同じ年に神輿殿も新築されいている。その後も神輿は昭和61年(1986年)に西山統和堂、平成11年(1999年)に東京神輿センターでの修理を経て、現在では例大祭において盛大に神輿巡行が行われている。

2007.10.202007.10.20
神輿殿

  例祭は神事に始まり、昔ながらの33人の白丁による神輿の宮出しがある。その後は神輿保存会の肩に委ねられ古式に則り田村部落内を渡御し、宮入を持って最高潮に達する。


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