一之宮
八幡大神
江戸時代の一之宮村の神社についてその全体像を示す史料は2つあり、1つは天保12年(1841年)完成の『新編相模国風土記稿』であり、もう1つはその編纂のために地誌御調御用役人であった小野太郎左衛門正隣らに対して提出された、文政7年(1824年)の日付を持つ『地誌御調に付書上帳写』である。これらの史料からは一之宮村の神社には専従の神職は存在していなかったようであり、それぞれの社を支配する寺院僧侶による別当支配であったということがわかる。
『風土記稿』によれば一之宮村の神社は「若宮八幡社」・「荒神社」・「諏訪社」・「第六天社」・「天神社」・「聖天社」の6社で、若宮八幡社・荒神社・諏訪社・第六天社の4社を支配していたのは日蓮宗鎌倉妙本願寺末の「妙光寺」、天神社を支配していたのは古義真言宗岡田村安楽寺末の「南泉寺」、聖天社は独立していたのか南泉寺の支配を受けていたのかは記載から読み取ることができない。ちなみに聖天社は『地誌書上帳』には記載がなく、『風土記稿』は差出された『地誌書上帳』によって編纂されていたはずであるから、聖天社が『地誌書上帳』へ記載から漏れていたと考えられる。
これらの史料をはじめとして他に神社の起立年代のわかる史料はなく、その年代については極めて困難であるが、天神社に関しては延宝5年(1677年)6月の日付を持つ石碑が残されている。その碑文には「造立」と記されており、少なくともこの延宝5年には成立していたことがわかる。石碑によればその名称は「天満天神宮」と記されており、また「別当、南泉寺」とも彫られていることから、既に延宝5年にはその別当支配が確立していたこともわかる。
明治9年(1876年)頃に作成されたと思われる『田畑其外段別取調野帳』および、明治13年(1880年)に作成された一之宮村の『一村字限切図』によると、『風土記稿』には記載のなかった「琴平社」を含む5社が記されており、「荒神社」と「聖天社」の2社が近代の帳簿からは消えていることになる。『風土記稿』では6社の神社がどの程度の独立した社地を所有する存在だったのか、あるいは寺社の境内地のなかに付属する形で存在していたのかなど、それらについて明確に読みとることはできず、ある程度はっきりしていたのは八幡の森にあったという「荒神社」のみであった。しかし『段別野帳』には独立した形で社地を所有する神社として、その土地の所有権が記載されているのは「荒神社」と「聖天社」の2社を除く5社であり、このことから『段別野帳』にも記載がなく、また『地誌書上帳』にも八幡の森と記されていた「荒神社」は、土地帳簿から見ても独立した社地を持たない境内末社であったこと推測される。また、「聖天社」については『段別野帳』にも記載されており、後の「琴平社」に比定できる。
次に神社5社の社地の構成について触れるておくと、『段別野帳』によれば一之宮村内で当時最も面積が大きかったのは「八幡社」であり、字茶畑一一四四番地に一反二九歩の敷地を所有していた。次が「天神社」で神下一五四〇番地に三畝四歩であるが、『地誌書上帳』には除地一〇歩としかない。「第六天社」は字茶畑に二筆所有しており、ひとつは一一八七番地に敷地一畝二七歩、もうひとつは隣接地一一八八番地に山林二〇歩と、『地誌書上帳』に除地二畝一〇歩とあるのとほぼ等しい。「諏訪社」は字小町屋に二筆、一三〇八番地と一三〇七番地に敷地一〇歩と山林一畝二〇歩とあり、『地誌書上帳』に除地二畝歩と出ていることから文政期の面積と変りはない。また「琴平社」は字根下一〇九三番地に二畝二一歩の社地を所有していた。
次に明治初期における神社支配の変容に関してみていくと、明治以降の神社支配の大きな特徴はそれまで行われてきた寺院による神社の別当支配が終わりを告げることであった。明治政府によって出された慶応4年(1868年)のいわゆる神仏分離令を背景として、これらの支配関係は各社の神社において大幅に変わり、一之宮村の場合にも寺院による従来の支配関係が切り替わっていく。明治4年(1871年)5月に一之宮村から神奈川県へ提出された『社寺境内反別取調書上帳』によれば、当時一之宮村の神社5社のすべてが神官、すなわち神道的宗教者による支配となっていたことがわかり、当時これら5社の神社を支配していた神官は井上正という宗教者であった。
『寒川神社履歴書綴 明治七年以降』の主典の部によれば、井上は元々は一之宮村にあった宮山の曹洞宗興全寺末寺の「西光寺」の住職であった。通称を正之進、復飾(僧が還俗すること)後の名は宗円、出生が文政5年(1822年)7月とあることからすると、明治元年当時の年齢は46歳であった。復飾直前は西光寺隠居であったが、「履歴書」には明治3年(1870年)4月23日に神奈川県より復飾願が受理されたとある。復飾と同時に八幡大神の神官となり、さらに中瀬村の神明宮についても同日兼勤を県より申し付けられている。明治4年には一之宮村の5社すべてを井上は支配するに至っていたので、一之宮・中瀬両村の神社6社を少なくともこの段階で支配していたことになる。しかし、江戸時代の西光寺は一之宮村のなかに支配する神社を持っておらず、井上の神道的宗教者への転換は、ひとえに井上自身の政治的な感覚とそのパーソナリティーによるところが大であったと考えられる。ただし、復飾の時期としてはやや遅く、その間の事情も不明である。
井上はその後の明治6年(1873年)5月には寒川神社の主典兼補訓導までになっており、国家神道の体制下においても生き永らえていった宗教者であり、僧侶から神官への転換において成功した人物であったといえる。ちなみに西光寺は『境内取調帳』には無住と記されており、また『段別野帳』にも記載がなく、明治4年から明治9年(1876年)までの間に廃寺となったようである。これまで見てきたように神仏分離にともなって、他の地域でも多く発生した僧侶から神官への鞍替えという過渡期の現象をこの一之宮村でも確認することができる。
明治元年の神仏分離令により妙光寺より村持となった「八幡大神」は、社格制度制定により明治6年に村社に列せられた。八幡大神の神社明細によれば明治41年(1908年)12月23日には、一連の神社合祀の流れを受けて一之宮でも神社合併が許可された。これにより八幡大神を母体に村内の「琴平大神」・「天神社」と八幡大神境内社の「荒神社」・「稲荷大神」の5社が合併されることとなり、翌明治42年(1909年)1月23日には合祀の祭典が神主平尾政寛と、合併の委員長広田久作を中心に行われている。 社殿を再興した。
大正12年の関東大震災により建物一切が崩壊するが、大正15年に本殿他を再建した。昭和20年(1945年)の終戦により宗教法人となり、昭和58年(1983年)12月には社殿の屋根葺き替えならびに改築、神楽殿と社務所の新築に着手し、翌59年(1984年)6月に完成し本遷座祭ならびに奉祝祭を齋行した。
祭神は「誉田別尊(ほむだわけのみこと)」・「大日貴神(おおひるめむちのかみ)」・「稲倉魂命(うかのみたまのみこと)」・「大山咋命(おおやまくいのみこと)」・「奥津比古命(おきつひこのみこと)」・「奥津比女命(おきつひめのみこと)」・「大雀命(おおささぎのみこと)」・「菅原天神(すがわらてんじん)」を祀っている。
鳥居 | 社号柱 |
参道 | 神社由緒 |
社号柱 | 手水舎 |
狛犬 | 狛犬 |
燈籠 | 釣り燈籠 |
拝殿 | 本殿・幣殿 |
稲荷大明神 | 八幡会館・社務所 |
絵馬 | 境内 |
その他の神社
●金刀比羅宮
鳥居 | 社殿 |
金刀比羅会館 |
●天満宮
天満宮 | 鳥居 |
石碑(梶原景時館跡) | 参道 |
燈籠 | 手水舎 |
社殿 | 境内社 |
石碑 | 境内 |
●その他
北町集会所(第六天神社) | 西町集会所(薬師堂) |
宵宮(屋台神賑行事)
8月第1週の土曜日に行われる宵宮での神賑行事では屋台巡行が行われ、早朝から屋台の準備を始める。
18時30分前になると神主と役員3名が、総年番(08年度は宿東)の地区に向かってお宮を出発する。18時30分になると宿東で神事が執り行われ、屋台の前でお祓いや玉串奉奠などが行われる。16時50分頃には次の北へ移動し同じく神事が執り行われ、19時には最後の西で神事が執り行われる。神事が終ると神主はお宮へ戻り、各町内では太鼓の演奏や木遣りが唄われる。
神主がお宮を出発 | 宿東で屋台のお祓い |
氏子のお祓い(宿東) | 玉串奉奠(宿東) |
北での神事 | 屋台のお祓い(北) |
氏子のお祓い(北) | お神酒で乾杯(北) |
西での神事 | 豆腐を配る(西) |
北で木遣りを唄う | 西でも木遣りを唄う |
19時40分頃になると、総年番である宿東が花火の合図をすると、夜空に数発の花火が打ち上げられ、北と西へ屋台の出発を知らせる。宿東では花火の後に囃子の演奏が始まる。
宿東は一度観音寺前まで屋台を移動させてから屋台の巡行を始め、北は第六天神社を出発し、西は天満宮まで移動した後に巡行を始める。西は天満宮前でも木遣りを唄う。
各町内の屋台は大勢の氏子によってロープで曳かれ、屋台の前後に丸太をもった人達が屋台を方向転換させながら松戸橋へ向かう。松戸橋へ到着すると交差点の東側に宿東の屋台が、西側に西の屋台、そして南側に北の屋台が配置され、20時30分頃にはそれぞれが交差点の中央に向かい合う形で配置される。
宿東の屋台が出発 | 景観寺前まで移動(宿東) |
北の屋台も出発 | 豊月堂の前にて(北) |
西の屋台も出発 | 天満宮にて木遣りを唄う(西) |
宿東が北を先に通す | 西の屋台が松戸橋へ到着 |
北の屋台も松戸橋へ到着 | 北と西が向き合う |
交差点中央で屋台を回す(北) | 福祉会館側に移動(北) |
宿東の屋台も到着 | 3基の屋台が向き合う |
各屋台が松戸橋に到着すると各屋台の囃子は一時止まり、毎年恒例の演技が披露される。先ず「相州一之宮 木遣り保存会」による木遣りが披露され、続いて「寒川町観光協会 寒川獅子舞の会」による獅子舞とおかめ・ひょっとこ踊りが披露される。次に、今年度(第46回)神奈川県消防操法大会で優勝した「寒川町消防団 一之宮消防団」が木遣りを披露した。
最後には一之宮に太鼓を指導した田村の横宿が、田村囃子の中から「昇殿」・「神田丸」・「屋台」の3曲を披露した。
木遣りを披露(木遣保存会) | 獅子舞を披露(寒川獅子舞の会) |
子供にお菓子を投げるヒョットコ | 一之宮消防団が円陣を組む |
木遣りを披露(一之宮消防団) | 田村横宿が囃子を披露 |
全ての演技が終了すると各屋台の囃子が一斉に鳴り響き、交差点で屋台を回転さながら、21時10分頃から総年番である宿東、西、北の順でお宮に向けて出発する。
21時30分頃に宿東の屋台が鳥居の前に到着し、屋台を鳥居に向けるために回転させる。お囃子はそれまで演奏していた「屋台」を切り、「宮昇殿」を演奏し始める。屋台は鳥居を潜り参道を進み、境内に入る直前に囃子は再び勇壮な「屋台」に切り替わる。西と北も同様に「宮昇殿」で宮入をし、境内に向かう。この時も夜空に花火が打ち上げられ、屋台の宮入を告げる。
境内に到着した各屋台は順番に屋台保存殿に向かって曳かれ、太鼓を境内側に向けるために180度反転させる。屋台は宿東、西、北の順番で保存殿の右側から納められる。22時10分頃には全ての屋台が納められ、2〜3分程度の間に3基の屋台により競りが行われる。
その後は囃子を止め、木遣りを唄い、三本締めで屋台巡行を締め括る。太鼓はこの時点で屋台から外され、提灯の明かりも消される。屋台での演奏は宵宮のみであり、翌日の大祭ではトラックの山車により町内を巡行する。
交差点で屋台を回転(宿東) | お宮に向けて出発(宿東) |
西と北も宿東に続く | いよいよ宮入り |
宿東が境内に入る | 屋台を回転させる(宿東) |
屋台保存殿に納める(宿東) | 西も到着 |
屋台を回転させる(西) | 屋台保存殿に納める(西) |
最後に北が到着 | 屋台を回転させる(北) |
屋台保存殿に納める(北) | 3基の屋台による競り |
木遣りを唄う | 三本締め |
太鼓を外す | 屋台の電気を消す |
例大祭
八幡大神の大祭日は8月第1日曜日だが、これとは別に8月1日の10時からは祭典が斎行される。
大祭当日の7時30分からは「遷零祭(せんれいさい)」が執り行われ、神社から神輿へ御霊が遷される。8時からは「発與祭(はつよさい)」が行われ、神輿渡御の無事を祈る。
従来の神輿渡御のコースは一日かけて一之宮地区を巡行していたが、現在は東西の二つに分けて一年おきにそれぞれの地区を巡行している。なお、平成20年(2008年)度は東地区を巡行した。巡行中は真夏ということもあり、休憩場所では冷たい飲み物が配られ、スイカやバナナなどもある。また、神職も神輿と一緒に巡回し、お捻りをくれた氏子に対してお祓いをする。
神輿が宮付けされると「還幸祭(かんこう)」が執り行われ、その後は八幡会館で直会が開かれる。毎年、神社の参道には露店が出るが、参道は前日の宵宮で屋台が通り、大祭の午前中には神輿が通るため、出店は大祭当時の昼過ぎからになる。
遷霊祭 | 御霊を神輿へ遷す |
発與祭 | 境内に集まった神輿の担ぎ手 |
休憩場所では飲み物を配る | 大量のスイカ |
栄養補給にバナナ | コロッケは大人気 |
お捻りを渡すと・・・ | お祓いしてくれます |
日差しが強い | 参道では露店の準備 |
還幸祭 | 担ぎ手に配る弁当とビール |
八幡会館で直会 | 露店が立ち並ぶ |
ばななちょこ | 射的 |
輪投げ | 神輿は終日公開される |
屋台と囃子(相州一之宮屋台ばやし)
寒川町は相州一之宮寒川神社の門前町、大山街道の宿場町、農業の中心地として古くから栄えていた。江戸末期に農民が豊作を祈願することから、明治時代の初期に米穀等を出し合い、東・西・北の各町計3台の屋台を愛川町半原(定かではない)で製作したのが一之宮の屋台囃子の始まりであると伝えられている。宵宮には一晩中屋台を曳いて、酒やハッカ水を集まった人々に振舞った。八幡大神には近世中期以降の文書「一之宮八幡宮文書」が伝わっており、断片的に祭礼の様子を伝えるが、明治12年(1879年)には「村社祭典儀定書」が作られ、祭礼執行の心得や準備、屋台曳き回しや神楽のことを定めている。
その後、屋台の巡行は途絶えていたが、昭和49年(1974年)に永年屋台保存殿に格納されている屋台を、一之宮八幡大神の宵宮に再び曳き回した。しかし、お囃子がほとんど手薄の状態で、円蔵ばやしや田村ばやしの手を借りる状況であった。なお、現在の屋台保存殿は昭和45年(1970年)に新築したものである。
祭礼終了後に一之宮消防団の有志で囃子を習おうと、地元だけでなく田村からも指導を受け練習に励んだ結果、昭和50年(1975年)の屋台巡行には神事を無事終了することができた。一之宮には田村の横宿と下町が教え、一之宮では田村を「師匠村」と呼んでいた。昭和51年(1976年)7月1日には「一之宮八幡大神屋台神賑行事」が寒川町指定重要文化財第三号に指定された。昭和52年(1977年)9月には囃し方の第1期生を募集したところ75名の参加があり、それ以降も郷土芸能の継承および青少年育成を目的に囃子の練習に励んでいる。現在の練習は一年を通して毎週木曜日に行われ、これ以外にも子供達が夏休みの時期になると集中して練習日を設けている。また、平成17年(2005年)8月には「相州一之宮屋台ばやし保存会」の創立30周年記念碑を境内に建立した。
現在の屋台神賑行事は、一之宮の「宿東」・「西」・「北」の三町の屋台が各町内から出発し、囃子にのって松戸橋に集合して、三基揃って巡行しながら宮入りする(左下の宵宮を参照)。
屋台保存殿 | 屋台が出された状態(宵宮) |
3基の屋台(大祭当日) | 創立30周年記念碑 |
宿東の屋台(正面) | 宿東の屋台(横) |
西の屋台(正面) | 西の屋台(横) |
北の屋台(正面) | 北の屋台(横) |
屋根から光が入る(宿東) | 中央の仕切り(西) |
見事な彫刻(宿東) | 設置された太鼓(北) |
バチと鉦(北) | 屋台の下段(北) |
現在は屋台の正面に太鼓を設置しているが、屋台の中央には仕切りがあり、本来は囃し方が後方で演奏し、踊り手が正面の舞台で踊る構造になっている。3基の屋台は平成19年(2007年)に国の文化庁とJRの支援により、一番重要な車体の部分を改修した。その際に屋台を解体したが、製作に関する情報は何も書かれていなかったという。
宵宮での屋台囃子の構成は、一台の屋台に大太鼓1・小太鼓2・笛1・鉦1の計5人からなるが、大祭当日に回るトラックの屋台では小太鼓を4個使用し、大太鼓と共に横に一直線に並べる。また、現在演奏する曲目は「屋台」と「宮昇殿」の2曲で、宮昇殿は宵宮での宮入りの際に演奏され、巡行中は屋台を囃す。大人たちは主に屋台を曳くのに手が掛かるため叩き手は子供が多く、各町内の屋台には大勢の子供で溢れている。
宿東の囃子方 | 西の囃子方 |
北の囃子方 | 子供で溢れる屋台(北) |
囃子 |
---|
大祭当日はトラックの屋台が8時頃にお宮に到着し、屋台に積んでいた太鼓を載せ、8時30分頃に宮立ちをする。トラックの屋台は神輿とは異なるコースを巡行するが、休憩場所では神輿と合流して一緒に休憩を取る。宮入り前には神輿と合流して行列を先導し、お宮に近づくと境内には入らずに鳥居の横にトラックを着ける。
トラックの屋台が到着 | 太鼓を積む |
宮立ち | 町内を巡行 |
小太鼓は横に4個並べる | 神輿の行列に合流 |
神輿を先導 | 鳥居前に到着 |
神輿
一之宮の神輿は昭和60年(1985年)に新調した。子供神輿は以前各町内で一基ずつあったようだが、現在は担がれていない。神輿は前日の宵宮に神輿殿から出され、飾り付けを終えた後に八幡会館へ置かれる。
大祭当日は神輿を八幡会館から鳥居前に移動し、神主のお祓いと御霊入れを終えた後、一本締めにて担ぎ始める。
神輿殿 | 大人神輿 |
子供神輿 | 神輿を八幡会館から出す |
鳥居前に移動 | お祓い |
御霊入れ | 一本締め |
神輿は一度境内を一周し、8時30分頃に宮立ちをし町内を渡御する。途中の3箇所の休憩場所ではそれぞれ神事が執り行われる。
休憩場所が変わる毎に休憩時間は45分→55分→65分と長くなり、炎天下での神輿渡御に充分配慮したスケジュールが組まれている。
神輿を持ち上げる | 境内を練る |
境内を出発 | 参道を進む |
宮立ち | 町内を渡御 |
第六天神社に到着 | 第六天神社での神事 |
一本締めで出発 | 南泉寺北側にて |
南部文化福祉会館に到着 | 会館での神事 |
菅田公園に到着 | 公園での神事 |
甚句に合わせて練る | 丸子中山茅ヶ崎線に出る |
掛け声 |
---|
12時30分頃にいよいよ宮入りが始まり、鳥居を潜った神輿は参道を進み、境内を3周練り歩く。途中に甚句を交えて神輿が練られる。
次に神輿は社殿前に移動し、社殿と一の鳥居の間の参道を2回往復し、最後は社殿の前で甚句に合わせて練られる。神輿が降ろされると花火が打ち上がり、宮付けが無事に行われたことを告げる。その後は、三本締めで神輿の渡御が無事に完了する。
神輿は神主によって御霊を抜かれた後、サラシや鳳凰などを取り除き、神輿殿にしまわれる。
いよいよ宮入り | 鳥居を潜る |
参道を進む | 境内に入る |
境内を回る | 甚句に合わせて練る |
境内を出る | 一度社殿から離れる |
社殿に迫る | 今度は鳥居の方まで下がる |
再び社殿に迫る | 甚句に合わせて練る |
神輿を下ろす | 花火が打ち上がる |
三本締め | お祓い |
御霊抜き | 御霊を本殿に遷す |
サラシを取る | 鳳凰を抜く |
輿棒を外す | 神輿殿へしまう |
奉納演芸
大祭当時の18時20分からは「奉納演芸」が行われる。先ず最初は神事である「献饌」が雅楽の演奏に合わせて行われ、社殿に備えられていた供物を神主の手から役員へ渡されると、境内を手渡しで進んだ後に八幡会館に備えられる。
ステージと客席の準備 | 挨拶 |
雅楽の演奏 | 神主から供物が手渡される |
次の人に渡す | さらに渡す |
境内を進む供物 | 最後に八幡会館に供える |
「献饌」の神事が終ると18時35分からは地元の「屋台ばやし保存会」によりお囃子が披露される。定期的に練習をしているだけあり、息のあった演奏を聞かせてくれる。
太鼓の準備 | 発表者が舞台へ上がる |
お囃子の演奏 | 頑張って笛を吹いてます |
19時05分からは「神奈川県神社庁」により「親子で楽しむ日本の神話」が発表される。絵をスクリーンに映し、2人の神職が声優を兼ねて解説をする。子供でも分かり易いように漫画でストリーが進んで行き、途中に雅楽の効果音を取り入れるなど工夫が見られる。
画像をスクリーンに映す | 2人の神職が発表 |
絵に合わせて解説 | アクションも取り入れる |
途中に雅楽の効果音が入る | 解説に耳を傾ける観客 |
19時45分からは「黄金井流 子動舞踊愛好会」による舞踊が披露される。現在ではこのような舞踊はほとんど見ることが出来なくなってきているが、一之宮では年配の方々が昔を懐かしみ、途中で合いの手を入れたり、お捻りを投げ入れたりと昔ながらの余興を堪能することができる。
黒恋峠(踊) | 名月赤城山(舞踊) |
照明 | こちらは腹踊り |
懐かしい昭和の香りが・・・ | 九段の母(舞踊) |
忠治流転笠(舞踊) | 最後の挨拶 |
20時40分からは「相模雅楽会」による雅楽演奏が披露される。途中に曲の紹介や楽器の紹介があり、初心者でも楽しむことが出来る。最後になると「長慶子」という曲が演奏され、その間に「献饌」で備えられた供物を最後まで残った観客に配る。
奉納演芸は9時頃に終了し、大祭が終了する。屋台の飾りは翌日に外される。
雅楽の演奏 | 途中で解説が入る |
竜笛 | 篳篥 |
笙 | 鞨鼓 |
太鼓 | 最後に供物が配られる |
私も頂きました | 演芸が全て終了 |
最後の挨拶 | 屋台を保存殿にしまう |
戻る(高座郡の祭礼)