岡田・小谷・大蔵
菅谷神社
「菅谷(すがや)神社」は岡田・小谷・大蔵の3地区の鎮守社で、明治42年(1909年)に岡田・小谷・大蔵の3ヶ村の鎮守であった「神明宮(俗称天の宮)」を母体に、岡田村社であった西岡田の「日枝神社(山王社)」と無格社で東岡田の「東守社」、岡田西三町(根下・仲町・大塚)の「八坂神社(天王社)」、小谷の「稲荷社」、大蔵の「諏訪社(第六天社)」の計6社が合祀してできた神社である。寒川町域の神社合祀(合併)に関して出された決議はこの岡田・小谷・大蔵の3ヶ村が最も早い例で、明治40年(1907年)12月の決議書には次の如く記されている。
「 明治四十年十二月神奈川県訓令第四十九号ノ旨趣ニ基キ、寒川村岡田・小谷・大蔵ノ各神社ハ、今回合併ノ必要ヲ認メ、茲ニ三部落ノ代表相会シ、左ノ通リニ決議ス
一 従来寒川村岡田・小谷・大蔵ノ三部落ニ於テ、奉祀シアル大字岡田地内神明社(俗称天ノ宮)ヘ各部落ノ神社ヲ合併シ、村社トシテ相当ノ設備ヲナシ、正規ノ基本財産ヲ蓄積シ、永久確立奉祀セントス、其合資神社左ノ如シ
一 岡田村社日枝神社 同無格社東守神社
一 小谷村社稲荷神社
一 大蔵村社諏訪神社
但、末社ヲ合祀スルモ妨ナシ (後略) 」
ここでは3ヶ村の4つの神社を岡田の神明社に合併することを決議したことを報告し、またこの議決が「神奈川県訓令第四十九号」によって行われたことが明らかである。なお、この決議書は3通作成してそれぞれの村で所持するものとし、最後にこの決議に参加した岡田20名・小谷12名・大蔵7名の署名と捺印が付されている。この決議書で決められたことを要約すると、主な項目は以下の通りである。
@合併神社名は菅谷神社とすること。
A合併神社に採用する物は、西岡田日枝神社の釣鐘、城堂、東岡田
東守神社の本殿、大蔵諏訪神社の神楽殿、小谷稲荷神社の鳥居と
神楽殿(拝殿用)、岡田神明社の社殿等である。
B合併神社の諸経費は戸数割として平等に負担する。
C合併に伴う工事は明治42年2月ごろより着工する。
D社殿建築等の会計は大字の委員長が行う。
高座郡内でも神社合祀がうまくいった地域として、明治42年の『横浜貿易新報』には寒川地域について「最も良成績を得たるは菅ヶ谷神社にして、右は村社の数三個と無格社三個とを合併したるものなり」と紹介されている。大正13年(1924年)に建立された記念碑によれば6つの神社とは、西岡田の八坂神社、東岡田の東守社、岡田の日枝神社、小谷の稲荷社、大蔵の第六天社としている。神社合祀の経緯や当時の状況を詳細に記す史料は残されていないが、その成功の理由のひとつには元々神明社(天照太神)が江戸時代以来3ヶ村の鎮守であったという、複数の村落の神社であったという性格によるところが大きかったとも考えられる。
菅谷神社 | 社号柱 |
鳥居 | 燈籠 |
手水舎 | |
燈籠 | |
狛犬 | 狛犬 |
幣殿 | 覆殿・幣殿 |
釣り燈籠 | 石祠など |
古いお札納め処 | 神楽殿・社務所 |
記念碑 | 境内 |
●岡田村の鎮守と社
江戸時代の岡田村の神社の全体像を概観することのできる江戸期の史料は文政7年(1824年)の『地誌御調出帳(以下地誌差出帳)』と、天保12年(1841年)完成の『新編相模国風土記稿(以下風土記稿)』の2種である。前者の『地誌差出帳』は『風土記稿』編纂のために岡田村から江戸幕府地誌取調調出役へと提出されたものの写しであり、後者は提出されたものを基に編纂されたものである。従って、内容的に大きく食い違うことはないが、編纂の過程で一部表現が改められているといった違いはある。
この2種の史料に記された神社の数は「東守権現社」・「山王社」・「神明宮」・「稲荷社」の4社で、このうち、東守権現社は岡田村の村鎮守であった。また、神明宮は岡田村・小谷村・大蔵村の3ヶ村の村鎮守として記されており、これは小谷・大蔵の両村が近世初期に岡田から別れた分村であったことに関係する。
『風土記稿』によれば東守権現社の支配は古義真言宗岡田村安楽寺末の「観護寺」、山王社は安楽寺末の「等覚寺」、神明宮は安楽寺末の「宝塔院」で、稲荷社だけが寺院の支配を受けない村持による支配であった。しかし、文政7年(1824年)の『地誌差出帳』の稲荷の項には「村持、別当宝塔院」と記された後に「是は天保二年卯十月再び書上げ申候」という後筆がみられ、天保2年頃に支配関係に何らかの変化があったと思われる。また、岡田村のいくつかの神社に関しては領主である旗本から供御米(くごまい)が支給され、神社の支配には経済的な問題も付随しており、これらを切り離して考えることのできないものであった。
明治元年(1868年)の岡田村『明細書上帳』には上記4社の他に「山王宮」が書き加えられ、岡田村の神社数は計5社となっている。その翌明治2年(1869年)に神奈川裁判所に対して出された『社寺書上帳』には稲荷社の記載がなく、それに代わって「天王社」と「向山王社」が新たに加えられ、さらに明治3年(1870年)に作成された『相模国高座郡岡田村明細書』ではこの2社が名称を「八坂大神」・「向社日枝大神」と変更している。神明宮も明治2年の段階で「天照太神」として改称するなど、これらの神社のいくつかは名称に異同があった。さらに、明治8年(1875年)の『田畑其他反別取調野帳』によれば八坂大神と稲荷社は史料にあらわれず、既に土地を所有する形では存在していないことがはっきりする。2社の土地の消滅理由は明確ではないが、両社に共通するのことは江戸時代に領主による供御米を支給されていた神社であったことであり、こうしたことがある程度関係していた可能性はある。
岡田村の神社は記録に出たり出なかったりとやや実態が錯綜してはいたが、江戸時代以来から存在した上記6社の神社が推移してきたと思われる。明治42年(1909年)に岡田・小谷・大蔵では6つの神社の合祀が行われ、当時天照太神と称していた岡田村の神明社を母体とした「菅谷神社」が誕生した。
●小谷村の鎮守と社
『風土記稿』の小谷村の項には3社の「稲荷社」と1社の「山王社」の合計4社が記されている。このうちの2社の稲荷社のいずれも村鎮守とし、ともに支配は小谷村内の曹洞宗三田村(現厚木市)清源院末の「福泉寺」であった。残りの稲荷社はやはり小谷村の「吉祥院」持の稲荷で、この吉祥院は村内にあった観音堂の別当で、遠藤村(現藤沢市)大験寺配下の当山派修験であった。寒川町域の神社の中で修験の支配を受けていたのは、史料で見る限りこの稲荷社のみである。一方、「山王社」は『風土記稿』の記載の形態からいうと、福泉寺の境内社と考えられる。
吉祥院持の稲荷社は明治初期に「社宮守社」と名称を変え、鎮守であった稲荷社は明治42年(1909年)に岡田村の菅谷神社に合祀された。
●大蔵村の鎮守と社
大蔵村の江戸時代の神社について概観できる江戸期の史料としては『風土記稿』のみといってよい。それによれば村内に寺院はなく、村鎮守として「第六天社」のみがあげられている。支配は岡田村の「宝塔院」で、例祭を9月29日としている。また、庵とするのみの村持の庵がひとつ記されている。 岡田村のところで触れたように岡田村の「神明宮(神明社)」が大蔵村の村鎮守でもあり、これは大蔵村が岡田村からの枝郷であったことと関係している。分村後も神明宮が3ヶ村の村鎮守という性格を維持し、祭祀的な関係も維持されていたようである。
明治3年(1870年)に神奈川県役所に対して提出された『村差出明細帳』には第六天社の名はなく、鎮守として記されている「諏訪社」に加えて「山王社」も記された計2社となっている。いずれも年貢地とあり除地ではなく、領主からの供御米等もなかったようである。7月27日には諏訪社で「一村限りにて日待仕り候」と日待(徹夜してこもり明かし、日の出を拝む行事)を行っていたことがわかるが、一村とはいうものの明治3年当時の家数は19軒であった。これらの記載と『風土記稿』との相違がどのような理由によるのかは不明であるが、明治以降の史料には第六天社と諏訪社が交互に表記されていることなどから同一の神社であったと考えられ、第六天社は明治初期までに諏訪社と名称を変えていたと推測される。
明治4年(1871年)の『諏訪神社境内地等書上』によれば、その諏訪社はニ畝拾歩であった。一方、山王社は「日吉社」となり、一畝ほどの社地を有していたことがわかる。この段階では神主がいないので諏訪社は村持となっていたが、明治6年(1873年)の神奈川県への『諏訪神社書上』によれば、諏訪社の神官として岡田村の岡本正直が記されており、その後は岡本により支配されていたようである。諏訪社はその後、明治42年(1909年)に岡田の菅谷神社に合祀される形で吸収された。
東岡田の東守神社
「東守(とうす)神社」は『風土記稿』に「東守権現社 村の鎮守なり、祭神詳ならず、例祭九月九日観護寺持云々」とあり、かつては岡田村の鎮守社であった。祭神は神社明細書に「天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)」と記されている。その昔、郷内(さとうち)に疫病が流行った折、村人が祈願を執り行ったところたちまちに治った故事があり、以来疫病平癒の霊験あらたかなる神として信仰されてきたという。当社は明治42年(1909年)に菅谷神社に合祀され、現在の社地は跡地とされている。
『風土記稿』に9月9日とする東守権現社の例祭は、合祀後も「お日待ち」として9月18日に東仲町・久保地・上下町の三町の氏子によって行われていた。この東守権現社では明治後期に神楽や手踊りのあったことが見え、間口一ニ間・奥行一九間の小屋が掛けられていた。明治26年(1893年)の祭礼に関しては高座郡の警察に対して「神楽奉納御届」を出し、「信心為東守社へ神楽奉納仕度」旨を願い出ているように、神楽は奉納されるべきものであった。
かつては東守神社の財産として共有の田が一反くらいあり、東岡田の3町内で稲を植えて刈り取り、その収入を東守神社のお日待(9月18日)の費用に宛てていた。かつてはヤド(宿)を決めて掛軸をかけて飲み食いした。この共有地は耕地整理でなくなってしまった。
東守神社(跡地) | 神社由緒 |
社殿 | 境内 |
神社合祀は明治42年の4月11日に笛や太鼓で賑やかに行われ、同年7月に改めて合祀式があった。合祀後の神社の拝殿や本殿については三部落で相談したが、東守神社の舞台は茅ヶ崎の室田に譲ったといわれる。昭和42年(1967年)11月に東守神社の建替の話が始まり、氏子80名が百円から一万円の寄付を出し合って約二十万円集まった。神社の役員は一年交代であったがその年の役員は、後藤庫(東岡田)・後藤時松(東岡田上)・三枝惣治(東岡田中)・森川桃蔵(総代 西)の各氏で、後藤庫氏が建具別で大工の手間賃を奉納として仕事し、三枝惣治氏も銅工の手間賃を奉納して現在の東守神社が再建された。
西岡田の八坂神社・日枝神社
西岡田にはかつて「八坂神社」と「日枝神社」があり、八坂神社が西岡田の根下・仲町・大塚の三町を氏子として祀られ7月15日を例祭とし、日枝神社は岡田全体で祀られ9月29日を例祭としていた。両社は並んで建てられ、境内地は現在の大塚児童遊園地のあるところ(岡田2422番地)であった。その境内には神楽殿があったが、舞台の記録は残っていない。神楽殿は明治42年(1909年)の合祀後は菅谷神社に移され、大正7年(1918年)の「仮設演芸場設置願」に菅谷神社境内の間口四間半・奥行二間半の神楽殿とあるのが移されたものであろう。
『風土記稿』には岡田村の神社として「東守権現社」・「山王社」・「神明宮」・「稲荷社」の4社が上がっているが、八坂社は見当たらない。慶応3年(1867年)の三枝茂代氏蔵の『慶応三卯年納米其外仕訳帳』という史料には「米五升 天王宮供米」との記載があり、岡田村を治めた旗本の一人であった飯田弥兵衛へ納める年貢米一石余のうち、米五升は「天王宮」という神社の維持経費として免除されていたことを意味する。明治2年(1869年)の三沢恵一蔵の『社寺書上帳』にも「天王社」の名がみえ、鎮守山王社の岡田斎宮が神主を兼帯していたことがわかる。この天王社が八坂社の前身と考えられ、翌明治3年(1870年)の同氏蔵の『相模国高座郡岡田村明細帳』に初めて「末社八坂大神」という記載が見られる。
江戸時代以来、岡田・大蔵・小谷の「三ヶ村鎮守」とされてきた神明宮に、明治42年に5つの神社が寄せられて菅谷神社が誕生し、ここにおいて八坂神社は西岡田の鎮守としての役目を終えた。大正13年(1924年)10月には日枝・八坂両社の旧社地に、西岡田氏子の手によって両社の記念碑が建立されている。
大塚児童遊園地(旧社地) | 記念碑 |
岡田・小谷・大蔵の歴史
●岡田
岡田は大きく「西岡田」と「東岡田」に分けられ、それぞれ3つの町内によって構成されている。東岡田は「ウエッチョウ(上町)」・「ナカッチョウ(中町)」・「クボジ(久保地)」からなり、西岡田は「ネシタ(根下)」・「ナカッチョウ(中町)」・「オオツカ(大塚)」からなる。ただし東岡田は4つの町内に分けられることもあり、その場合は上町を「ウエシタッチョウ(上下町)」と呼び、シタッチョウ4軒を別にすることがあるという。岡田の各町内の戸数は10軒前後で、岡田全体では60軒くらいが古くからある家である。また、大塚と中町の境はかつて七町歩ほどの新田であり、新田への水は安楽寺脇の弁天様から通していたという。このようにかつては町内の境ははっきりしていたが、今では田は埋められて人家がつながっている。
岡田の戸数は天保14年(1843年)頃の資料である『相模国寄場組合村高家数明細長』によると58戸で、明治末年はで西岡田が22.3戸、東岡田が42.3戸の合計65戸程度であった。終戦までは現在の「新町」はなく、田を埋めて作ったという。大正10年(1921年)に茅ヶ崎と寒川間に相模線が開通したのをきっかけに、寒川駅周辺は岡田の分家が集まって新たに地区ができ、「岡田新町」と呼ばれるようになった。県営住宅(現岡田7丁目)や殖産住宅(同8丁目)ができてから、岡田は戸数が増えていった。
●小谷
小谷はもとは隣の岡田村に属しており、正保4年(1647年)にはまだ村としての記述はなかった。これから約30年後に検地をしたことが明らかになっているので、岡田村からの分村はこれ以前に行われたようである。小谷は「東町」・「西町」・「入町」・「原町」の4町内で、以前は「小谷十七軒」といわれ、『風土記稿』には37戸とあることから、17戸は近世後期以前のことになる。天保14年の資料(同上)によると39戸であり、その後は「小谷七〇軒」と言われ、その状態が長く続いていたようである。
昭和初期の戸数はそれぞれ20軒・11軒・7軒・30軒くらいで、全体では70軒ほどあった。戦後は130〜140戸で、そのうち農家は50戸ほどであった。昭和55年(1980年)頃で自治会に約800戸が加入しており、回覧板は780戸に回されていた。
●大蔵
大蔵は「原町」・「入町」・「北町」の3町内に別れており、それぞれ古くからある家の数は7軒・5軒・7軒の計19軒である。このように大蔵は小さな集落であったため、町内より小さい区分はない。
大蔵は小谷と同様に正保4年頃まで岡田村に含まれていた。大蔵の戸数は天保14年の資料(同上)によると17戸で、明治末年頃で19戸程度であり、その頃は遠くから移住してくる人はほとんどいなかったという。大正のはじめには22戸あったが、当時はその数も増えたり減ったりしていた。大蔵でも戸数が増えたのは終戦後である。
青年会・青年団
大正末期に岡田には青年会が2つあり、西三町(大塚・中町・根下)がそのうちの1つのまとまりであった。当時は12、13人くらいの会員がいて、15歳くらいで入って、25、26歳くらいまでいた。入るときは酒一升と肴代を町内の役員のところに届け、その酒を飲む際に顔を出して挨拶した。祭りのときに神輿を担ぐのは大切な仕事であった。岡田の青年団は7月の菅谷神社の祭りのときに、宮世話人に叱られつつも値段の高い芝居を頼んだことがあった。岡田の青年はまた、小出(茅ヶ崎)に出かけたり、一ツ橋を渡っては寺尾(茅ヶ崎)の祭りにいったり、また向こうからもき来たりしていた。
例祭
7月15日に行われる例祭は菅谷神社の年間祭儀において最重儀とされる神事で、『風土記稿』では神明宮の例祭を11月15日としているが、合祀後の菅谷神社の例祭は大正期から7月15日となったようである。この祭典だけは菅谷神社の宮司を兼務している寒川神社の宮司が奉仕し、寒川神社の宮山総代を始め、倉見神社・八幡大神・小動神社・中瀬大神・下大曲神社・十二神社・貴船大神に至るまで多数の神社関係者を招く。例祭は午前10時から始り、宮司・禰宜・奉仕神主の3名と役員・総代をはじめ各地区の自治会長や議員など約40名が参列する。例祭には神社本庁より「幣帛料」が奉られ、神前に弁備の後に宮司の祝詞が奏上される。また、三大祭については予め拝殿東側の祓所にて一同を祓い、拝伝に参入する。
●例祭儀註
一、神饌 十台・・・米,酒,餅,海魚,鶏卵,海菜,野菜,果物,菓子,塩水
二、装束 衣冠
三、式次第
先 修祓(しゅばつ)
先 宮司一拝(ぐうじいっぱい)
先 御扉開扉(みとびらかいひ)
先 献饌(けんせん)の儀
先 神社本庁幣(じんじゃほんちょうへい)を献(けん)ず
先 宮司祝詞奏上(のりとそうじょう)
先 宮司玉串拝礼(たまぐしはいれい)
先 参列者玉串拝礼
先 神社本庁幣を撤(てつ)す
先 撤饌(てっせん)の儀
先 御扉閉扉(みとびらへいひ)
先 宮司一拝
退下(たいげ)
現在の境内地には天照大御神を祀る神明宮が鎮座し、明治42年に各地区の鎮守を合祀した経緯がある。その中で西岡田に鎮座していた八坂神社が当時の神社としては一番趨勢もあり、合祀後も八坂神社の例祭日である7月15日を菅谷神社の例祭日としたようである。しかし、明治9年(1876年)頃から平成8年(1996年)までは浜降祭が7月15日に斎行されていたこともあり、その期間は菅谷神社の例祭を7月14日に斎行し、直会の後一旦解散、そして夕刻に再度参集して7月15日未明に天保神輿が発輿して浜降祭が斎行されていたようである。
神輿が氏子地域を巡行するのは例祭の日ではなく、7月の第1日曜日に行われる神幸祭である。また、7月第3月曜日の海の日には浜降祭へ参加し、寒川神社の神輿を筆頭に茅ヶ崎市南湖の浜で禊を行う。かつては浜降祭の帰りにそのまま村周りをしていたが、昭和53年(1978年)に「昭和神輿」が完成したのを機に神幸祭を別に設けて村周りを行うようになった。
神社関係の行事を世話する組織は「年番」あるいは「総代」と呼ばれ、西岡田・東岡田・大蔵・小谷・岡田新町の5地区から1年交代で順番に役員を選出する。年番は胸に総代と染め抜かれた水色の半纏を纏い、頭には麦藁帽子をかぶる。ちなみに平成22年度(2010年)は東岡田が年番であった。
玉垣上の看板 |
神幸祭準備
以下に神幸祭の前日の様子を紹介する。神幸祭の前日は朝8時から準備が行われ、境内では提灯やのしの掲示板などの準備、町内では注連縄張りなどが進められる。
境内では早朝から準備開始 | 町内では注連縄を張る |
玉垣の上に電球を渡し | 提灯を取り付ける |
境内の木を剪定し | 切り落とした枝は |
社殿の裏手へ運搬 | ダンプから鉄パイプを降ろし |
神楽殿横で組み立て | ベニヤを張っていく |
鳥居の左手では枠を組み | 神輿殿から提灯を外し |
運び出して | 枠に掛けていく |
こちらは先導用の軽トラ | 柱を立てて屋根を載せる |
幕を張り | 注連縄を渡す |
神楽殿では子供会が集まり | 作業開始 |
神幸祭で配るお札類を | 袋に入れていく |
途中で休憩を挟み | 再び作業開始 |
鳥居では縄に紙垂を取り付ける | 神楽殿の正面上部に |
幕を張り | 提灯を取り付ける |
拝殿の正面に提灯を設置 | 神楽殿の右手にも掲示板 |
輿道ではみ出した枝を剪定 | トラックで神社へ持ち帰り |
一杯に積んだ枝を下ろす | 各行在所では竹を準備 |
神輿準備
神輿の準備も神輿愛好会を中心に、上記の準備と平行して進められる。神輿の屋根部と轅を締め付けるサラシは毎回新調され、捩り掛けに一度使ったサラシを再び使うことはない。使用済みのサラシは担ぎ手の半纏をとめる帯に使ったり、縁起物として妊婦の腹帯などに使用する他、小さくちぎって神輿を磨く布切れにも利用する。
神輿を入れるため社殿内を掃除 | 轅(輿棒)を運び |
神輿の正面へ移動 | 棒穴に差し込む |
轅を抱えて馬を抜き | 神輿を担ぎ上げる |
神輿殿から出すと | 一旦輿を下ろす |
轅を中央まで押し込み | 担ぎ上げて社殿へ向かう |
拝殿へ上がり | 馬の上に輿を下ろす |
神輿殿から鳳凰を出し | 拝殿まで運ぶ |
古いサラシを取り出し | 小さく切り分け |
神輿の汚れを取り | 磨き上げていく |
轅は紙やすりを使って | 磨いていく |
一方、子供神輿は | 神楽殿から運んで境内へ |
こちらも油をサラシに付け | 磨いていく |
神楽殿から轅を取り出し | 子供神輿の棒穴へ |
差し込むと | 楔で固定 |
天保神輿の方は担ぎ上げて | 綺麗なシートに敷き直す |
そのままシートの上へ下ろし | 今度は屋根部を磨き上げる |
新しいサラシを | 袋から取り出し |
左手前方から巻き付け | 蕨手と轅を締め付けていく |
子供神輿は社殿横に移動し | こちらも捩りを掛けていく |
天保神輿では時計回りで一周し | 四隅を締め上げる |
さらに上からサラシを重ね | 四隅を増し締めしていく |
子供神輿では若手が中心 | 隣では枝豆を枝から外す |
手綱を轅の四隅に通す | 昼を挟んでようやく準備完了 |
子供神輿の向きを入れ替える | 神輿を馬に乗せる |
中では御霊遷しの予行練習 | 遷霊祭では絹垣で御霊を覆う |
神輿を外側に移動し | 式典の出席者のスペースをつくる |
遷霊祭
神輿の準備が整うと、15時から20分程の間に御霊を神輿に遷す「遷霊祭(せんれいさい)」が行われ、神主をはじめ総代や各団体の代表者が社殿内に参列する。遷霊祭の式次第は次の通りである。
・修祓(しゅうばつ)・・・天保神輿、神饌、玉串、参列者を祓う
・斎主一拝(さいしゅいっぱい)
・献饌(けんせん)の儀
・斎主祝詞奏上(さいしゅのりと奏上)・・・遷霊祭祝詞を奏上
・斎主玉串拝礼(たまぐしはいれい)
・参列者玉串拝礼
・撤饌(てっせん)の儀・・・畢りて遷霊の舗設を為す
・遷霊(せんれい)の儀・・・菅谷の大神を天保神輿に遷す
退下(たいげ)
準備の整った祭壇と | 天保神輿 |
総代が境内に集まり | 神主が登場 |
手水舎で身を清め | 社殿へ向かう |
参列者も順次身を清め | 式典へ向かう |
15時ちょうどに太鼓が叩かれ | 遷霊祭が執り行われる |
式典が終わると | 神主は社殿を後に |
総代も社殿を出て | 社務所へ戻る |
子供神輿を拝殿から出し | 一旦境内へ置く |
天保神輿に肩を入れ | 担ぎ上げる |
拝殿から担ぎ出し | 境内に降りると |
時計回りに旋回して | 前後を入れ替える |
神輿正面を境内に向け | 後ろ向きで社殿へ向かう |
ギリギリまで奥へ進み | 輿を下ろす |
子供神輿も正面を境内へ向け | 天保神輿の横に下ろす |
鳳凰に稲穂をくわえさせ | 鳳凰を照らす照明を結び付ける |
社務所の受付では | のし書きの対応 |
書いた半紙は机の上に並べる | 境内では糊を付け |
両脇の掲示板へ | 貼っていく |
平成15年(2003年)頃までは神幸祭の前日に、カラオケ大会や簡単な模擬店などを催したというが、現在では翌日の神輿渡御に備えて準備だけとなっている。
その他の行事
●平成22年(2010年)7月18,19日・・・浜降祭
岡田祭ばやし
菅谷神社の氏子地域の中では岡田地区にだけ祭ばやしがあり、小谷地区にも大正時代に祭ばやしがあったという話もあるが、現在では伝承されていない。岡田祭ばやし保存会の初代会長夫人である顧問三留トク氏によると、岡田地区の祭ばやしは明治初期頃より引き継がれており、同氏が子供の頃に父親達が東守神社で太鼓を叩いて披露した思い出があるというが、昭和に入ると戦争により一時中断していた時期があったという。
昭和48年頃になると県下各地で昔からの郷土芸能が見直され、ふるさとの祭り行事が復活するようになると、この岡田地区でも有志の人達による夏の盆踊りの復活と共に、当岡田地区に昔から残る郷土芸能として太鼓を復活しようという話が持ち上がった。その結果、今なら思い出しながら太鼓を叩けるのではないかとの結論に至り、当時の自治会など各役員をはじめ、地域有志賛同者の協力により発足の運びとなった。初代会長であった故三留高治氏は復員後に村の青年達を誘い集めて再び太鼓連をまとめあげると、昭和50年(1975年)5月に同氏が代表となり会員25名で「岡田太鼓保存会(現岡田祭ばやし保存会)」を発足した。
復活当初は子供の頃に覚えた太鼓を思い出しながら賛同者と共に練習を重ね、7月の菅谷神社の祭りや盆踊り、寒川神社の祭典などに参加した。その後は子供達も参加するようになったが、永く会を存続していくためにはあまりに用具等が少ない状況であった。そこで、保存会としての服装などを整えて一段と有意義あるものにするため、翌昭和51年(1976年)2月に同会は趣意書を提出して賛同者に寄付を募った。この甲斐もあって復活したばかりではあったが、昭和51年と53年には全関東祭ばやしコンクールに出場して努力賞を受賞している。また、その後も神奈川県ふるさと祭りなど県内各地で開催される祭り行事などに参加するようになった。
囃子は「大太鼓」・「締太鼓」・「鉦」・「笛」で構成され、昔は締太鼓2人の5人1組であったが、現在では締太鼓を増やして2人以上で演奏している。また、昔は「ショウテン」や「カマクラ」などの曲も演奏していたというが、現在では「シンバヤシ(新囃子か?)」のみが伝承されている。シンバヤシは一般的に叩かれている巡行用の曲で、笛の吹き始めから締太鼓のブッツケが入り、大太鼓と鉦が加わる。シンバヤシの基本フレーズは「ジ(地か?)」とよばれ、ジの途中で3種類の「コロガシ」と呼ばれるキザミのようなフレーズを入れる。ジとコロガシの間には繋ぎの役目をする「ケエチゲエ」と呼ばれるフレーズを挟み、ジと3種類のコロガシをスムーズに組み合わせながら繰り返し演奏を続ける。シンバヤシを終わらせる時には叩き手の「そーれ」という掛け声が入り、曲を終わらせる為だけのフレーズを入れる。
神楽殿での太鼓の配置 | 演奏時は締太鼓のみが座る |
囃子は大太鼓と笛 | 締太鼓と鉦で構成 |
巡行用の屋台 | 正面から |
囃子 |
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祭りばやしの練習は長年三留宅前で行っていたが(用具等も同所で管理)、交通量が激しくなって交通事故などの危険を考え、平成15年(2003年)3月より岡田地域集会所において練習を行っている。恒例の行事としては7月の菅谷神社の神幸祭を始め浜降祭、8月には岡田自治会・越の山自治会の盆踊り大会、9月の寒川神社祭礼、11月の町産業まつりなど参加行事は数多くある。
以下は神幸祭前日の岡田祭ばやし保存会の活動の様子で、午後からトラックに載せた屋台で囃子を演奏しながら氏子地域を巡回し、途中で神社に寄ると神楽殿にて囃子を披露する。
町内を巡行していた | トラックの屋台が神社へ到着 |
太鼓をトラックから | 次々と運び出し |
神楽殿に向い | 舞台に太鼓を置く |
会員は手水舎で身を清め | 社殿前に整列 |
ニ拝ニ拍手一拝で | 参拝を済ませると |
屋台へ向かい | 乗り込む |
囃子を奏でながらお宮を出発 | 再び氏子地域を巡回 |
30分程すると囃子の音が聞こえ | 屋台がお宮に現れる |
今度は鳥居前を通過し | 境内に沿って右折 |
折り返して | 鳥居前に屋台を止める |
屋台から降りると | 神楽殿へ上がる |
正面の窓を開け | 舞台に御座を敷く |
太鼓を台に設置し | 準備完了 |
笛のソロが始まり | 締太鼓のぶっつけ |
祭ばやしが奏でられる | 大太鼓は大きく腕を上げる |
途中で演奏者が交代 | 大太鼓と笛も代わる |
力強い大太鼓 | 息のあった演奏 |
舞台奥はこんな感じ | 10分程で披露を終える |
太鼓を舞台に残したまま | 神楽殿を後にする |
屋台に乗り込むと | 再びお宮を出発 |
八坂神社跡地付近を | 巡回する囃子 |
西岡田八坂神社の神輿
西岡田で祀っていた八坂神社は明治42年の神社合祀で神明宮に統合されたが、その八坂神社の神輿には昔から伝わるものと、天保15年(1844年)に寒川神社から払い下げられたものとの2つの神輿が存在した。もと寒川神社の神輿は天保9年(1838年)に国府祭の還幸時に馬入の地で相模川へ流された神輿であるとされ、流出していた神輿は数日を経て南郷村(茅ヶ崎・南湖)の浜に漂着し、その後寒川神社へ返還された。寒川神社では天保10年(1839年)に神輿を新調すると、発見された神輿は解体せずに天保15年(1844年)に岡田村へ譲り、修復墨書にあるように岡田西三町(根下・仲町・大塚)の八坂神社神輿となった。
次に示す2つの文書は天保15年に宮山村(寒川神社)が神輿を新造したので、古い神輿を西岡田村に譲り渡したことを示す譲渡証文と受取り証文である(共に菅谷神社蔵)。
●譲渡証文(宮山から西岡田へ)
「 証文之事
今般 御神輿再輿新規ニ任候ニ付、故輿御入用之由村方勝右衛門□入ニ付御譲申所実正也、為祝儀金子拾五両并御神酒壱駄御贈り被下、慥ニ致受納御輿相譲申所、後来ニ至迄少も相違無之候、併四方破風之儀ニ付而者、規矩も有之儀ニ付、繕之節御直し可披成筈、并再建之節者忍返し仕立ニ御直し可被成段証書御渡被下篤と致承知候、依之一礼差出申処仍而如件
《※現代語訳・・・このたび、(宮山村で)御神輿を新しく作ったところ(西岡田村で)この神輿を譲り受けたいとのことで、村方(宮山村)の勝右衛門の紹介で、神輿をお譲りします。祝儀として金銭十五両と御神酒一駄を確かに受け取り、神輿をお譲りします。併せて四方破風については規則があるため、修理の際はお直しされ、あわせて再建の際は忍返し仕立にお直しされるという証書をお渡し下さい。》
宮山村惣代
天保十五辰年六月 惣左衛門 印
佐兵衛 印
清五郎 印
金兵衛 印
九兵衛 印
常右衛門 印
新藏 印
東藏 印
源左衛門 印
西岡田村
惣代中
組頭中
名主中 」
●受取り証文(西岡田から宮山へ)
「 一札之事
其御村方 御神輿御出来ニ付、故御輿村方江御譲被下忝仕合奉存候、就者神道規矩も御座候事故、四方破風之儀其侭離御譲候段御尤二御座候所、差掛り候儀ニ付達而其侭御無心申候上者、向後取繕之節ハ棟木相直し可申筈、勿論再建等仕候節も譬へ後年雖末世と少も違変仕間鋪候、因茲為証拠一礼入置候所相違無御座候、為念連印仍而如件
《現代語訳・・・貴村(宮山村)が神輿を作られたので、古い神輿を当村(西岡田村)へお譲り下さりありがとうございます。それにつき、神道の規則のため四方破風をそのままではお譲りできないことはごもっともですが、差し迫ったことですので、強いてそのままでお願い申し上げます。ただし今後、修理の節は棟木を直すことは勿論、再建の際もたとえ後年に至っても決して約束は破りません。その証拠として一札を差し上げます。》
高座郡宮山村
天保十五年辰六月 口入証人 勝右衛門 印
同州岡田村
西丁惣代 作兵衛
儀兵衛
喜左衛門
組頭 甚兵衛
名主 藤兵衛 」
明治8年(1875年)には八坂神社の神輿を再興することになり、氏子一同が積立てを始めた。下記の史料(西岡田神社総代文書)がそれを示すもので、ここでは氏名と金額を省略しているが、36名から一〇九円四〇銭の浄財が集まった。
●神輿再興の積立
「 明治八年 積建記 乙亥第八月日
一今般八坂御輿再建ニ付、氏子一同相談之上積建金致出世三ケ年二割合仕、依之一同連印仍而如件 (後略) 」
これをもとに明治11年(1878年)に真土村(現平塚市真土)の仏工福田小左衛門と、色を塗り直すなどの修復の契約を九〇円で結んだ。以下の史料(西岡田神社総代文書)がそれを示すものであるが、ここで再興することになった神輿は天保15年に寒川神社から譲り受けたものなのか、もともと八坂神社にあったものかは分からない。
●修復契約
「 御神輿預り之証
一今般其御邨方御神輿再興ニ附、私子方へ諸事合テ代金九拾円ニテ御注文ニ相成此段難有仕合二奉存港、然ル上ハ塗替中我等方へ御下ケ被下正ニ御預り申候処確実也、勿論本年五月廿日限り極念入ニ仕立急度相納可申候、且仕様又者新規之場所色どり之次第別紙ニ認メ差上可申候、猶細工中如何様儀有之候共補証人之者引請少し茂御世話人衆中へ御心配相懸ケ申間敷候、為後日預り之証仍而如件
明治十一年寅一月廿五日
相州大住郡真土邨
仏師 福田小左衛門 印
同邨引請補証人
木邨鶴之助 印
同引請補証人 四之宮邨
上原佐兵衛 印
西岡邨丁
御世話人衆中 」
岡田から大曲、そして入野へ
明治29年(1896年)に上記の八坂神社にあった神輿の部材を使って神輿を新造したという言い伝えがある。八坂神社は神輿を新しく造ろうとしたが、その際に3体の古い神輿の部材を使って新造した。1つは古くから八坂神社に伝わってきた神輿、2つ目は神輿職人が持ってきた神輿、そして3つ目が寒川神社から譲り受けた神輿(馬入川で遭難した寒川神社の神輿)であった。これら3基の神輿の材料で作られた神輿が菅谷神社に現存するいわゆる「天保神輿」で、残った神輿の部材には不足部材を買い足しながら新たに2つの神輿を造り、1体は大曲の十二神社へ売った。大曲ではさらにこれを南湖中町(茅ヶ崎市)の八雲神社へ売ったという。
明治23年(1890年)生まれの前田喜一氏によると残りの1体は「川向う」に売ったとされ、これを売るときに岡田の若い衆が一之宮の相模川の河原まで担いで行き、買い手の若い衆が田村(平塚市)側の土手に並んで待ち受けていたという。近年までこの川向うにある譲渡先が不明であったが、平成9年(1997年)の調査により平塚市入野の八坂神社である可能性が高くなった。
明治26年(1893年)に西岡田の神輿が再度修復されることになり、その際の新しい金具の代金や古い金具を磨く手間賃の受領書(西岡田神社総代文書)が残されている。この受取書は大磯の飾り職人三武岩吉から西岡田の総代に宛てたもので、2冊の堅帳からなっており、それぞれ「一号」・「二号」と表紙に記してある。
●金物仕法帳簿
「 明治廿六年 巳八月吉日 御神輿金物仕法帳 西岡田村
一号 御せわ人中様 (以上表紙)
一 孔雀 壱羽 足しんキ
一 棒座 四枚 しんキ
一 破風金物 弐拾枚 巴付 しんキ
一 鏤盤 小金物 八枚 しんキ
一 巴タシハナ付 八枚 しんキ
〆
右者鎮中二而金黄唐草七子入念入出来仕候
古金物みかキ物分
一 鏤盤 隅四枚 巴四枚 外ニ四枚
一 野筋 拾六枚
一 わらひて 四ケ所 カスガイ四丁 セン四本
一 屋根りん棒 金箱サシ 四枚
一 破風軒付 裏甲 二拾四枚
一 軒付
一 裏甲 四拾八枚
一 茅負
一 巴 八枚
一 隅木 四ツ
一 シヤウケタ 八枚
一 棟木 四ツ
一 長押 弐拾四枚
一 長押巴 弐拾四枚
一 幣軸 六拾八枚
一 唐戸 百弐拾枚
一 打掛 四ツ
一 舟錠 四ツ
一 隅柱巻 弐拾枚
一 井垣地福 拾六枚
一 井垣隅 八枚
一 キボシ 四ツ
一 しゆみ段 拾六枚
一 台輪 四枚
一 台輪? 四ツ
一 燕 四羽
一 風林(鈴カ) 四ツ
一 纓銘 四下り
一 鈴 四ツ
新キ
一 七分巴 百拾二
〆
一 金弐拾九円也 金物新キ・古みかき代
八月十九日 内金拾円受取
大磯町月貫
錺職工 三武岩吉 印
西岡田村
小沢常吉様
木村幸太郎様
金子市五郎様
一 六拾銭 棟木金物八枚しんキ 」
「 御神輿金物仕法帳 二号 (以上表紙)
一 長押 隅十弐枚、中三拾六枚
一 切目長押 隅四枚、中四枚
一 唐戸 四拾八枚
一 茅負 隅四枚
一 鳥居後木 鼻八枚、中四枚
一 鳥居貫先 鼻八枚
一 井垣板輪 五十六
一 井垣隅柱 四枚
一 シヤウケタ 八枚
一 台輪? 四ツ
〆金拾八円五十銭
十月九日
内金拾円 受取
一 五十銭 井垣地福 中八枚
一 壱円五十銭 幣軸金物 二十八枚
一 弐円 けん 弐本
一 二十五銭 折釘 八本
差〆金三拾弐円三十五銭
内金弐拾円 十一月二十六日
木村幸太郎様より受取
又差 金拾弐円三十五銭
十二月十六日 惣勘定相済受取不足金 」
この史料はその際に買い足した部品の書上げにあたる可能性もあり、2基の神輿に必要な部品を明確にするために一号・二号と別々の冊子に記載されたものと考えられる。売られたのが明治29年という前田氏の記憶と若干の年代の相違はあるが、3つの神輿を一度に直すのであるから、ある程度の歳月がかかったと考えられなくもない。しかし、この2基のうちどちらが大曲へ行き、どちらが川向うへ行ったものか、その売られた経緯はいかなるものか、詳細はわからない。
流出した寒川神社の神輿
上記の「証文之事」と「一札之事」の内容は神輿の贈呈と謝礼の文面であり、大正元年(1912年)の春に岡田の木村家の古箱より発見された。発見した故木村慈太郎の遺蹟書からは、この古箱は天保生まれの長兵衛が使っていたものであり、翌大正2年(1913年)に寒川神社の宮司に見せたとある。さらに神輿の払い下げになった理由を書き添えて宮内省にその古文書を提出したところ、「喧嘩で神輿を流したとは恐れ多い。事故、敬神の意味からもこの証文は家宝として大事に保存しておいて下さい。」という返事があった。そこで慈太郎氏はこの証文を書き写し、この神輿の謂われについての理由を明記した文書と、御神輿巻物添書を1つの箱に入れ、これが平成に入ってから発見された。最初の文書は上記の2つの文書が発見された大正元年に書かれた可能性が高いと思われる。
「 此の巻物御神輿証文ニ通は大正元年岡田ニ〇一九番地木村慈太郎家古箱より発見す この御神輿は天保九年舊五月節句中郡国府祭(神揃山)帰路馬入川渡御の時馬入村と喧嘩即死三名負傷者多数ありと 其時御神輿は海に流出茅ヶ崎南湖通称孫七と称されし漁師に舊五月十五日朝拾い上げられ寒川神社氏子より御神輿迎に行 夫れより濱降祭始まり今に及ぶ 時の馬入村喧嘩の頭立者十六人刑に処せらしと古人の言伝え 又鈴木孫七氏には京都紫寝殿より御神輿拾上げし功に依り鳥帽直垂及び墨附頂かれ 其時の寒川神社御神体守護の御神輿なり 明治四十二年七月廿三日時の縣令に依り岡田西部神社氏子より天元の宮菅谷神社へ合併 右の御神輿を納めたり 右由緒の証文御神輿巻物故発見者にて保存す 連名の名主藤兵衛は慈太郎四代前の父親なり 右由緒を書に付 天保より文久代迄の古老の言伝へを聞き調べ後年の為敬信の意を持て書添す
南湖 鈴木孫七 印
馬入 武井宣考 印
岡田 木村慈太郎 印 」
次の文書は木村氏が事件の当事者である馬入方と、寒川方の古老から話を聞きだして明記したものである。記入された年月はないが、大正元年から数年の間と考えられる。
「 御神輿巻物添書に付馬入方寒川方古老の伝説を明記す
寒川神社(一之宮)神揃山帰路 馬入川渡行不祥事 一之宮方即死三名負傷者多数 御神輿は海に流れ出 時の代官江川太郎左衛門の耳に入り宮入出来ず 馬入方喧嘩の頭立者刑きまり初めて宮入せしと時十六人の刑 打首三名十三名は丁髷を切り所拂い 馬入連光寺裏西側竹藪の際共同墓地に皆埋葬せらる 大正の大震災前迄有志方供養せられしと 不肖当時の歌に粋な平塚喧嘩じゃ馬入と云早歌出来今に言伝ありと 右不肖ありし為か代官江川太郎左衛門は天保十一年に代官は小田原管轄になりしと 其の不肖事後馬入村には不時の災難数しれず一之宮様の祟りと人々恐れ 寒川様の御通りの時は昔の人(天保代)皆我家の前土下座して御通過を拝しせられしと言伝有り 其の不肖事後一之宮様御神輿擁護の為 血巻の棒と云樫の木にて造りし喧嘩棒出来 御神輿の下に添付らる又御神輿流れ出し時 濱辺には一之宮様御神輿見附拾い上げし者には褒賞として百石下し與えらると云触れ 江川様より出たれと」
菅谷神社の天保神輿と昭和神輿
菅谷神社に現存する神輿は明治26年(1893年)から明治29年(1896年)頃に新造されたと考えられるが、天保15年(1844年)に寒川神社から譲り受けた神輿の部材を使っているという伝承から、「天保神輿」という名称で呼ばれるようになったと思われる。昭和9年(1934年)11月30日に大磯の塗師中川が再修復しているが、その後の天保神輿は老朽化が進み、昭和50年代における神輿ブームに乗った形で新しい神輿が再建されることとなった。この「昭和神輿」の請負は東京都葛飾区の出村栄作氏で天保神輿よりはひと回りほど大きいが、飾りものはそっくりにつくり江戸情緒を残した。この昭和神輿が昭和53年(1978年)6月に完成すると、それまで担がれていた神輿は翌昭和54年(1979年)12月15日に「天保神輿」として寒川町の重要文化財に指定された。
木村慎次氏の話によれば、昭和神輿の製作に関しては職人を呼んで、お金はいくらでも出すから天保神輿と同じものを作ってくれと実物を見せてたところ、「勘弁して下さい、いくら金を積まれても今じゃあこんな彫り物の出来る細工師はいやしません。」と断られた。そこで、1つだけ天保の名残を残してほしいと頼んだのが「龍が玉を持っている彫り物」で、玉の中に又玉が入っているそこだけは真似て作ってもらいたいと強く言ってなんとかしてもらったようである。神輿を作るという話が持ち上がったとき、寒川神社から「古い方(天保神輿)を神社へ納めてくれれば、ご希望の神輿を作って菅谷(神社)へ奉納しましょう。」と申し入れがあり、大蔵や小谷の人達からは寄付を集めなくて済むことからそうしようという意見も出たが、「おいらの祖先が苦労して買ったお輿だから、いつまでも菅谷さんに置いてもらいてえ 西岡田の願いだよ!」と言うことで、氏子の方々から多額の浄財を仰ぎ今の(昭和)神輿が出来たという。
一方、菅谷神社にはかつて多くの子供達に担がれていた子供神輿があったが、古くなって破損等が激しくなると久しく担がれていない状態が続いていた。岡田・大蔵・小谷の3町内に分かれた広い氏子区域であることから菅谷の氏子として子供達が祭りに奉仕することも少なく、責任役員や総代は子供達が氏子として部落を越えて連帯感を高め心を一つにして奉仕するには、神輿を共に担ぐことにより自覚を高めるのではないかと考えていた。そのような状況のなかで、大人の神輿が再建されたのを機会に子供神輿も建設したいとの声が高まり、さらに寒川神社では日頃青少年の情操教育に力を入れ、先の国際児童年にあたり記念行事として町内の各神社へ子供神輿を送る事業の中で、菅谷神社に対して援助を行うことが決まった。昭和54年10月に昭和神輿と同じ神輿店へ注文し、型も古くから伝わる天保神輿と同じ新しい子供神輿が昭和55年(1980年)に完成した。最終的には昭和55年7月6日(日)の神幸祭において、昭和神輿と共に子供神輿が氏子町内の子供会500名により渡御されたことで一連の記念行事は完遂を見た。
昭和53年製造の神輿 | 同年製造の子供神輿 |
昭和53年に新調した神輿は19年の歳月が経つと損傷が目立つようになり、平成10年(1998年)6月に合祀90周年事業として、それまで担がれていなかった天保神輿を修復した。見積もりは小田原の西山神輿製作所と浅草の宮本卯之助商店の2箇所へ依頼し、最終的には請負業者を前者の西山神輿製作所に決定した。この際、2基の神輿を見せて修理の話を持ちかけたところ、天保神輿の方を直したいといわれたという。なお、改修を終えた天保神輿が納入された日に、静岡県小芝八幡宮より昭和神輿譲渡願が提出されたが、審議により金額の折り合いが付かないこともあって昭和神輿を譲渡しないことに決定した。
修復された天保神輿 | 教育委員会による説名書き |
神幸祭
神幸祭は7月第1日曜日に行われ、天保神輿と子供神輿、そして囃子の屋台が菅谷神社の氏子地域を巡行する。夕刻には奉納芝居演芸が執り行われたり、露天商も多数出店し賑やかな境内となる。
●神幸祭準備
総代や神輿愛好会の集合時間は6時30分で、合図として花火が打ち上げられる。境内では神幸祭の準備が進められるが、大半の準備は前日で終わっているため、境内の掃き掃除や乾杯の準備などを行う。また、神輿愛好会は神輿の応援で来る友好団体や協力団体を鳥居付近で出迎え、総代らが受付で御祝儀などの対応をする。
早朝5時半 | 参拝する地元住民 |
総代が徐々に集まり始め | 準備を始める |
愛好会は境内の掃き掃除 | 参拝する総代も |
境内の外では | 花火の準備 |
集合時間の6時30分に着火 | 花火を打ち上げる |
境内に人が集まる | 社務所前には総代が |
神輿愛好会は社殿横に | 拝殿前にマイクを設置 |
愛好会が朝の打ち合わせ | 神楽殿前ではお神酒の準備 |
打ち合わせが終わると | 社殿に向かう |
子供神輿を拝殿から出し | 境内に下ろす |
天保神輿の周りに集まり | 肩を入れる |
神輿を担ぎ上げ | ゆっくりと前進 |
正面の入口をくぐり | 社殿を出る |
境内へ降りると | 担ぎ手の配置を確認 |
肩の高さを | 念入りに調整 |
馬を入れ | 輿を下ろす |
正面に台を置き | 式典の準備 |
愛好会が神輿の前に集まり | 記念撮影 |
鳥居の両側に整列し | 応援の団体を迎える |
受付で御祝儀を渡し | お返しにタオルを受取る |
続々と応援団体の車が到着し | 神社周辺に担ぎ手が増える |
愛好会は乾杯の準備 | 私も天保神輿前で記念撮影 |
応援の担ぎ手が次々と境内へ | 受付前を埋め尽くす |
神主の準備が整い | 囃子の屋台も到着 |
●発輿祭
7時30分になると太鼓の合図で発輿祭(はつよさい)が執り行われ、修祓(宮出しにあたり奉仕員を祓う)・発輿祭祝詞奏上・参列者玉串拝礼などを経て乾杯を行う。
7時30分に太鼓が叩かれ | 総代が司会進行 |
発輿祭が始まり | 最初に修祓 |
総代らをお祓い | 続いて神輿愛好会をお祓い |
応援の担ぎ手もお祓い | 続いて祝詞奏上 |
玉串拝礼 | 代表者に合せニ拝ニ拍手一拝 |
続いて祭典委員長の挨拶 | 神輿愛好会会長の挨拶 |
有効団体・協力団体の紹介 | 呼ばれた団体は |
代表者が前に出て | 順次挨拶をする |
紹介が終わると | 愛好会は乾杯の準備 |
御神酒を配り | 祭典委員長の挨拶で |
乾杯 | 御神酒で身を清める |
発輿祭が終わるといよいよ神輿がお宮を出発し、8箇所の行在所(御旅所)を経由しながら菅谷神社の氏子地区を渡御する。輿道は毎年決まっているが、隔年で回る順番を「岡田→大蔵→小谷」と「小谷→大蔵→岡田」の方向で反転させている。ちなみに平成22年(2010年)は岡田→大蔵→小谷の順番であった。各行在所では御旅所祭(おたびしょさい)が斎行され、修祓(参列者を祓う)・御旅所祭祝詞奏上・参列者玉串拝礼が執り行われる。
現在は行在所で休憩を取りながら氏子地域を渡御しているが、昔は行在所と呼ばれるものはなく、一升瓶と茶碗が用意してある家に立ち寄り、それを飲み干さなければ出発できなかったという。また、神輿を担ぐ際の掛け声は「ドッコイ」であるが、昭和50年(1975年)頃までは「ワッショイ」という掛け声で、神輿を担いだ状態で村内を走り回ったという。今でこそ神輿の担ぎ手は揃いの半纏を身に纏っているが、当時は決まった衣装はなく、男性は女装や化粧をするなど仮装行列のような格好であったという。
神輿渡御の様子は下記を参照(※記載している出発と到着の時刻は予定されたものであり、交通状態やその他諸事情などにより前後する)。
・神輿渡御(前半)・・・菅谷神社〜東守神社
・神輿渡御(後半)・・・東守神社〜菅谷神社
●還幸祭
長い神輿渡御を終えた子供神輿と天保神輿が還幸して拝殿内に納められると、総代や代表者が参列して還幸祭(かんこうさい)が執り行われる。神事の中では御霊抜きも含まれ、社殿内の明かりを全て消した状態で、神主が天保神輿の御霊を本殿へ遷していく。なお、前日の遷霊祭から神幸祭が始まり、この還幸祭で一連の神幸祭の全てが完了するとの観点にて、「斎主一拝」は遷霊祭の始めと還幸祭の最後の2回しか行われない。還幸祭の式次第は以下の通りである。
・修祓・・・天保神輿に御霊が入っているのでお祓いはしない
・還幸の儀・・・御霊を天保神輿から本殿に遷す
・献饌の儀
・斎主祝詞奏上
・斎主玉串拝礼
・参列者玉串拝礼
・撤饌の儀
・斎主一拝
退下
社殿内で神主が還幸祭の準備 | 総代達が拝殿へ向かう |
拝殿に整列し | 還幸祭が執り行われる |
拝殿前では神輿愛好会が | 応援団体を一本締めで見送る |
神楽殿では余興が再開 | 余興を楽しむ多くの見物客 |
境内には露店が立ち並び | 参拝客で賑わいを見せる |
還幸祭が終わると | 総代達は社務所へ戻る |
式典後は愛好会により | 天保神輿が持ち上げられ |
拝殿の扉が閉まるように | 神輿を奥へ移動させる |
神輿殿前でしばしの休憩 | 会長の挨拶で解散 |
神幸祭は21時頃には全ての行事が終了し、この日はおおまかな片付けのみで解散となり、全体の片付けは翌日の朝から行われる。
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