馬入
神社の紹介
馬入の鎮守である「神明神社」は古く「神明社」と称し、元来、八幡庄に属していた馬入村は八幡新宿に鎮座する八幡神社(現在の平塚八幡宮)としていたので、神明社(神明さん)は小鎮守として受け止められていたようである。祭神は「伊弉諾命」である。
慶長6年(1601年)に徳川幕府によって東海道宿駅の制度が定められると、往来は頻繁となり馬入川の渡船量も増加してきた。馬入村には寺院や茶屋などが建ち始め人口も増加してきたので、馬入村自身の鎮守として神明社を勧請したと思われる。記録によれば寛永13年(1636年)4月3日に八幡宮の供僧を兼帯していた別当の「神戸山(ごうどさん)蓮光寺」の秀岳法印に依って勧請されたと伝えられており、当時は「神明宮」と呼ばれていたが通称「大神宮」とも敬称されていたようである。
天保12年(1841年)完成の『新編相模国風土記稿』によると「神明宮」と称し「修験大光院」持ちであったが、明治6年(1873年)7月に式外村社に列せらると「神明社」と呼ばれるようになった。大正12年(1923年)9月1日の関東大震災によって社殿が全壊したが、昭和2年(1927年)に境内を拡張して新築した。しかし、昭和20年(1945年)7月16日の平塚大空襲で社殿を焼失し、昭和44年(1969年)4月に新社殿が完成、この時に上申して同年7月に「神明神社」と昇格奉称され現在に至っている。
境内に立っている2枚の説明版の1枚目には、昭和41年(1966年)4月に都市計画事業よって地内2557番地から現在の地に遷座したことが記されている。また、もう1枚の掲示板には昭和44年(1969年)4月に改築工事が竣工し遷座を奉仕するとあり、移転に伴う社殿建設が終わった記念に立てられたものと思われる。(昭和44年6月には元蔵邸(中堂168番地)から現在の地へ移転し、)移転前は八千代町18、現在八千代公園となっているあたりにあり、元の地所を売却しその費用を使って社殿を新築した。旧馬入地域に住んでいる人が氏子であるが、戦後もしくは近年なってから住むようになった人も任意で氏子になっている。神明社の末社に「第六天社」があり、説明版には明暦元年(1655年)の創立とある。
神明神社 | 社号柱 |
忠魂碑 | 鳥居と狛犬 |
手水舎 | 第六天社 |
拝殿 | 本殿 |
境内 |
境内の右奥に祀られている「第六天社」の祭神は「阿夜詞古沼神(あやかしこねのかみ)」と「於母陀流神(おもだるのかみ)」で、明暦元年(1655年)に勧請された。創始当時は神明社の東の方にあったが、文久年間(1861〜63年)に神明社の境内に移されたと伝承されている。略誌よると神明神社が今の所に移転する前は八千代町19消防第5分団の辺りで、第六天社の元の場所はそこから100mほど東の周辺となる。東海道分間延絵図の馬入村に神明神社と第六天社の鳥居が描かれている。
馬入の地域区分
爾来相模川の下流域を馬入川と呼び、源頼朝が馬を乗り入れたことに由来し、馬入の地名もこのことに起源すると言われる。
馬入の町並みは近年まで街村の景観を持っており、「上宿」・「中宿」・「下宿」の3つに分かれていた。この3区分はすでに『風土記稿』にも小名として記されており、古くからの区分である。「上町」・「中町」・「下町」という場合もあり、「上」・「中」・「下」で済ませることもある。馬入はこのように3宿に分かれているが、古老の記憶では昔の町並みは中宿・下宿にあり、次第に上の方に伸びていったとこのとである。上の方に家が増えたのは大正12年(1923年)の関東大震災の後だといい、「松原」というのは
宵宮祭り
本祭りの前日に「宵宮(ヨイミヤ)祭り」を行い、神社の境内に「奉献 神明神社氏子中」と書かれた幟を2本立てる。現在は氏子総代以下宮世話人が行うが、かつては東海道沿いの一里塚に村中の人が総出で幟を立てたという。その他に社殿の掃除や提灯の取り付け、神輿の準備清掃や注連縄の取り付けなどの作業を行う。また、供物としてお神酒や餅・魚・野菜・果物など(海や山の生産物を7品?)供え、夕方になると神主が来て祝詞をあげて宵宮祭りが行われる。
例大祭
かつて、神明社の例祭は毎年4月10日に行われ、鎮守の八幡神社の例大祭は8月15日(現在も同じ)に行われていた。八幡神社の例大祭は八幡庄に属していた「平塚神宿」・「八幡」・「馬入」三村の輪番制で行われ、明治22年(1889年)に馬入村は須加村と合併し須馬村と改めたが、この輪番制は変わらなかった。これ以外にも八幡宮では大磯の神揃山で行われる「国府祭」にも参加する。
古老の話によると馬入では八幡神社と神明社の2つの祭りがありながら、これらとは別に八幡神社の非番の3年に1度執行される豪華な「馬入祭り」があったという。この馬入祭りは何時の時代から始められたか定かではないが、木遣りを唄い屋台が曳かれ、屋台の先頭で振られた萬燈も珍しく、屋台上では祇園囃子が叩かれ日本舞踊が奉納されたという。
現在は4月の第2(または第1)日曜日に行われ、朝に神主が祝詞をあげて玉串を奉奠すると、神輿を自動車に乗せて町内を巡行する。境内では狭いながらも舞台をしつらえて余興が催されるが、余興の内容は時代の流れに従い大きく変わって来ている。かつては神楽殿があったが、戦災で焼けてしまった。その頃は厚木(荻野)・愛甲から神楽師を呼んで神楽を奉納し、歌舞伎・芝居・漫才・講談・舞踊などの芸人を呼んで演芸を奉納した。芝居小屋をつくるために、材木屋から木材を借りて舞台をつくったこともあるという。
丁髷塚
江戸時代の末頃、毎年端午の日に行われた相模の国府祭の夕暮れに、東海道を帰還途中の一之宮寒川神社の神輿を担ぐ若者達と平塚八幡宮の神輿を担ぐ馬入村の若者達(3年に1度の年番役)がささいなことから馬入の地で喧嘩をはじめ、馬入の若者たちが一之宮の若者たち数人を殺傷し、さらに一之宮の神輿を奪い取って馬入川の深瀬(本流)へ投げ込んでしまうという事件が起こった。その頃の馬入川は川水が多かったため、一之宮の神輿はすぐに流されてしまった。
この喧嘩では双方に沢山の怪我人を出したが、相模国の一之宮の神輿に乱暴を働いた馬入の若者達が代官江川太郎左衛門の厳しい取調べを受けることとなった。馬入村の下手人たちを大磯の鴫立沢に召喚し厳重に取り調べた結果、16人を打首とする旨の宣告を行った。しかし、いよいよ処刑の日になると16人の丁髷(ちょんまげ)のみを切り落として打首に代えると、充分訓戒を与えて放免した。罪を憎んで人を憎まぬ名代官の名処置に16人はもちろんのこと村人たちは涙にかきくれ、馬入の若者達は感激して将来再びかかる狼籍をしないことを堅く誓い記念として16個の丁髷を埋めて塚とした。
一方、一之宮の神輿は数日を経て南郷村(茅ヶ崎・南湖)の浜に漂着し、南郷村の魚師であった孫七が発見すると神輿は四方破風であったので、急いで一之宮に注進して無事に一之宮へ帰還となった。以来、毎年7月15日に一之宮の神輿が南湖へ御礼に渡御されることとなり、近郷の各社もこれに参加するようになったという。その御礼参りが現在の浜降祭の始まりといわれる。
青年集団
正月の総寄り合いを村中に触れて回るのは15歳になった男子の仕事で、これを行う者あるいはこの仕事のことを「コアルキ」といった。コアルキを済ませないと一人前に認められず、これを済ませると次の年から父親の代わりで村役に出られた。総寄り合いの通知以外にもいろんな文書を読んだり、口頭での言い継ぎも行った。大正3年(1914年)生まれの武井吉次氏がコアルキをしたのは昭和の初めで、この頃がこの仕事の最後だったという。
昭和の初期に青年団はなく、コアルキを終わると17・18歳で「青年会」に入った。村の若い衆は全員入り、世話人の指示で町内の奉仕事業をやった。道路の保全や水路の掃除は農業の家と一緒にやり若干の報酬をもらったが、災害には関与しなかった。青年会は24・25歳まで入っていて、嫁を貰ってもやめた。また、徴兵検査が終わるとやめることもあった。年に1回大寄り合いをし、コアルキは全員引っ張り出された。お宮の敷地に青年会館を造り、ここを舞台にして芝居などをしたことがる。
馬入祇園ばやし
「馬入祇園ばやし」は馬入地区に伝わる祭囃子で、東海道往来の旅人が伝えた説や、天保年間(1830〜1844年)に上方から来た浪人(または旅僧)が山王山辺りの小屋に住し、村人に伝えたものともいわれるが定かではない。楽器構成や曲調などは京都の祇園囃子とはが全く異なる。屋台曳行の囃子で3曲が現存しており、屋台を曳き出すときに唄う木遣りは馬入だけの伝統である。
馬入祇園ばやしは一時期盛況を誇った時代もあったが、大正10年(1921年)の祭りを最後に八幡神社の馬入祭りが途絶えてしまった。その後は神明社の祭礼だけに屋台が曳かれ、囃子も神明社の祭りで継承されていたが毎年低調になってしまった。昭和3年(1928年)秋に行われた昭和天皇の御大典祝賀には屋台が曳かれ社儀理が叩かれたが、第二次世界大戦中(1939〜45年)は村祭りが中断されたので祭囃子も途絶えてしまった。
終戦後の昭和22年(1947年)に大野力蔵氏を中心に祇園囃子再興が企画され、住民の力を得て昭和24年(1949年)には復活し愛好会も作られたが、翌年の昭和25年(1950年)の平塚復興祭で演奏したのを最後にしばらく途切れた。昭和52年(1977年)9月28日には「馬入ばやし保存会」が設立され子供達の指導を始めたが、昭和59年(1984年)2月4日に伝承者の武井常吉氏の通夜に叩かれた「社儀理」を最後に再び途切れた。しかし、平成13年(2001年)に再び「馬入祇園ばやし保存会」を立ち上げ、老朽化が進んで曳き出すことも難しくなっていた屋台も有志の努力で修復されると、平成15年(2003年)の例祭には馬入祇園ばやしの復活と共に、屋台も曳き出されて町内の一部を巡行することが出来るようになった。
祇園囃子を演ずる「囃子方」は揃いの浴衣に手ぐけの帯を締め、豆絞りの手ぬぐいで鉢巻をしたが、三味線ひきは鳥追いの姿であった。楽器構成と曲目を以下に記す。
楽器 | 昔 | 昭和 50年代 | 現在 | 備考 |
横笛 | 3 | 1 | 4 | |
締太鼓 | 3 | 2 | 4 | 大小の太鼓は交互に 叩かれる |
大太鼓 | 1 | 1 | 1 | |
特大太鼓 | ― | ― | 1 | 近年取り入れられた |
鼓 | 1 | ― | ― | 現在まで復活していない |
鉦 | 1 | ― | ― | |
三味線 | 1 | ― | 1 | 一時途絶えたが復活 |
曲名 | 解説 |
社儀理 | 屋台を曳き出す前後に叩かれる |
引き返し(曳き返し) | 屋台が村内巡行の帰路に叩かれる |
子守(ねんねこ) | 祭りが終わりに近づき屋台を納める前後に叩かれ、通称「ねんねこ」と呼ぶ子守唄の曲 |
相模川(馬入川)周辺は「田村ばやし」・「前鳥囃子」・「馬入祇園ばやし」などの民俗芸能が密集して存在しているが、このような民俗芸能が興隆した原動力の一つとして渡し場の存在が考えられる。田村と馬入の渡し場が東西交通の要所となっており、その結果宿場町が栄え、この近辺に芸能が集約されていった可能性は高い。
木遣(きや)り
八幡神社の馬入の祭りは、木遣りを唄い屋台を曳く祭りで、屋台は町内を隈なく巡行し五穀豊穣と天下泰平を祈願した。
木遣りの歌詞は東海道を往来した旅人が残していったと言われ、各地の地名を歌いこんだ歌が多く、街道筋の村らしく広範囲から集められている。木遣りの種類は次の5種類で、余程の練習を積まないと唄いこなせなかったという。
曲名 | 唄う機会 |
おおぎ木遣り | 屋台を一里塚から曳き始める時、または踊りが終って曳き出す時 |
通り木遣り | 屋台が動き出すとこの木遣りに変わる |
白酒 | 踊りが始まる前、屋台が停まっている時 |
くどき | 踊り子の支度が手間取った時、間合いを埋めるため |
鎌倉木遣り | 長丁場を曳く時 |
木遣りを唄う人を「木遣り師」と呼び、村うちで一目置かれる立場にあった。木遣り師の多くが己の唄を我が子に代々継承してきたが、大正12年(1923年)以降、八幡神社の馬入祭りが途絶えてしまったために衰退し始めた。
昭和52年(1977年)以降、木遣りの復活と保存に乗り出し、現在でも唄われている。
屋台
天保(1830〜43年)のころ曳かれた屋台は元治元年(1864年)に焼失したと語り継がれているが、現存の屋台が造られる前に屋台を造った記録はない。現存の屋台は背面彫物の裏に「明治四辛載/八月/彫工藤沢宿/裏門/彫川国造/菅?原義正/行年/四拾弐才/屋台中/是彫刻」の墨書があり、明治4年(1871年)8月の建造であることが分っている。古老の昔話では村の大工によって造られたという。
全体の造りは田村の屋台とよく似ているが、平面の構成が田村では廻り縁が楽屋の途中までしか付かないのに対し、馬入では楽屋奥行いっぱいに付く。平面の規模は正面柱間7.5尺(2250mm)、側面の舞台柱間4.7尺(1425mm)、楽屋柱間7.8尺(2375mm)、舞台幅10.3尺である。土台は二重で屋台全体が回転するように作られているが、下の土台は中古の部材である。舞台の高さは約3.5尺、床上より桁上までは6.6尺である。日の字形に組んだ土台に束を立てて床を支える。柱は全て床梁上に立つ、いわゆるオカグラ造である。廻り縁の縁葛は床梁をはね出して、その先端で受ける。三方に擬宝珠高欄を廻し、脇障子を立てる。棟木は束で支えるが、彫物に隠されて外部からは見えない。
柱上には出三斗を組み、楽屋側面の柱間には中備として拳鼻付き平三斗を入れる。そして正面および舞台・楽屋境の柱の側面、背面柱の正面・側面に獅子の木鼻を付ける。頭貫はすべて虹梁形とし、端部に絵様を彫る。桁との間の欄間には彫物を嵌める。舞台・楽屋境には2本の半円柱を立て、拳鼻付き平三斗を組み、正面に獅子の木鼻を付ける。内法長押は中央を一段高くし、欄間および両脇間には彫物を嵌める。楽屋の両側面は2枚の格子戸を嵌め殺し、背面は格子戸引き違いとする。屋根は正面および背面に唐破風を付け、兎毛通は龍の彫物とする。屋根面はかつて白と青の市松模様の障子であった。
明治42年(1909年)頃に馬入川の木橋が完成した時は、茅ヶ崎の中島まで屋台を曳いたという。昭和25年(1950年)7月5・6・7に見附台公園で行われた平塚復興祭にも、この屋台は東海道を子供達に曳かれ参加しが、これを最後に屋台の巡業が途絶えていた。屋台を曳いた時は綱の中で木遣りを歌い、行列は「大マンドン」・「小マンドン(小若連)」・「金棒」・「木遣り師」と続き、その他は綱を引く。テコ棒は婿の役であった。平成15年(2003年)に大修復して現在では再び曳かれるようになった。
屋台は総欅造りで見事な彫刻が施され、舞台と楽屋の間に仕切りがある構造になっている。従来囃子方は裏の楽屋で演奏し、正面の舞台では日本舞踊が踊られた。屋台は左右2本の綱を「曳き子」と呼ばれる人達により曳かれ、大人は揃いの浴衣に手ぐけの帯を締め、白足袋に麻裏草履をつっかけて、豆絞りの手ぬぐいをまとい管笠を被った(日没後は背負う)。子供は稚児の衣装で履物は白足袋に麻裏草履であった。また、現在の屋台小屋は、神明社が中堂地内に移転された時に建てられた。
神輿
戦前は各町内に4本の注連竹を立てた御旅所を作り、神輿を担いで順番に渡御していたが、戦災で大人用の神輿は焼失した。一方、子供用の神輿は残り、近年に新しい子供神輿を新調した。
馬入の渡し
相模川(馬入川)をはじめとして酒匂川・大井川・富士川・天竜川といった大河川は、江戸時代を通じて橋が架けられることはなく、その理由は軍事政策上とも土木技術上の問題であったともいわれている。橋の架かっていない河川を渡るには渡船・歩行渡し・綱渡し・駕籠渡しという方法があり、馬入の渡しと田村の渡しは「渡船」であったが、馬入川の渡河は必ずしも渡船ではなかった。将軍の上洛であるとか朝鮮通信使節などの大通行のときには「船橋」が架設され、船橋というのは川に船を並べてその上に板を敷いたものである。
馬入の渡しは東海道の渡し場で、この渡し場が設けられた時期は東海道に宿駅が設置された慶長6年(1601年)であったと考えられる。馬入川の渡船役は須賀村と対岸の高座郡柳嶋村(茅ヶ崎市)が「定掛け」として勤め、馬入村など周辺農村が定助郷(じょうすけごう)村とされた。「定助郷」というのは常時役を負担する村のことで、「大助郷」は臨時の大通行のときだけ負担し、「加助郷」は定助郷では賄いきれないときにそれを補うために役を負担した。東海道の交通量は元禄・享保ごろより急激に増えだし、宿場や渡船場はしだいに繁忙をきわめるようになってきた。そうなってくると馬入川の渡船負担役も過重となってきて、定助郷だけでは補いきれなくり、大助郷・加助郷の村々が新たに指定された。さらに享保10年(1725年)には助郷制度が改正され、大助郷村は定助郷村に組み込まれることになった。
渡船業務は馬入村にある「川会所(かわかいしょ)」で行い、川会所には馬入村の川名主・年寄が毎日詰め、彼らが中心になって差配した。『東海道宿村大概帳』には船頭は馬入村・荻園村などから常時16人が詰めていたと記されており、ケンペルの『日本誌』には馬入の渡しの様子が次のように描かれている。
「川はものすごい水勢で、音をたてて海に流れ込んでいた。この川は歩いて渡ることができるぐらいの深さではあるが、流れが早くて、とても渡るのは不可能であった。それゆえ、われわれは再び底の平らな舟を使ったが、その舟は(すでに前に述べたように)薄くて曲がりやすい舟底をしているので、短い波に撓い、低い岸に乗りあげるのにも都合がよい。これまで左手に、遠くまた近く見えていた山脈はここで終り、土地は江戸まで続く果てしない平野となっていた。」(斎藤信訳)
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