国府祭こうのまち

国府祭とは

  「国府祭」とは、昔の相模国の国府庁(今でいう県庁)が置かれたといわれる現大磯町国府で行われる、「神揃山(かみそりやま)の祭り」と大矢場(おおやば)における「国司祭(こくしさい)」の2つをいう。国府祭は相模国の有力大社6社が参集し、相模国を網羅する関東一の最大の祭典として、また全国的にも珍しく貴重な祭りとして知られ、昭和53年(1978年)6月23日に神奈川県の無形民俗文化財に指定されている。国府祭は国府を「コウ」、祭を「マチ」と読み、「ノ」の助詞を付けて「コウノマチ」と読むのが正しく、この国府祭という名称は明治時代以降の創定で、それ以前は「端午祭」といわれた。この他にも「天下祭」・「六所祭」・「御大祭」・「御用祭」・「五月会」という呼び方もあったようである。
  国府祭では祭礼に参加する5社がそれぞれの神社から祭場である神揃山まで渡御し、一同に会して座問答などの神事を行い、その後に大矢場まで降る。そして大矢場まで渡御してきた総社である六所神社を中心に神体面・国司奉幣・神裁許などの神事を行い、各社の御分霊と考えられる守公神(しゅこうじん)を六所神社に納めて還御する。この国府祭は相模国府で行われていた総社の祭り、あるいは国司の祭りとよばれている祭礼の伝統をひくものであろうと考えられている。また、六所神社の母神のもとに5人の兄弟が集まり、一年の悪神平定の手柄を報告し合うのだとも伝えられている。
  祭り当番は新宿中丸(本郷)・馬場(本郷)の三地区が毎年交替で勤めるので、3年に1回当番が回ってくる。この祭り当番をトウバンチョウナイ(当番町内)ともいっている。



祭日

  祭日は奈良・平安時代に2月4日であったが、国府祭類社会から出された昭和30年(1955年)代のものと考えられる『千年の伝統を持つ国府祭』というパンフレットには、弘安5年(1282年)から日を改めて5月5日に行われるようになったと記されている。これが確かだとすれば鎌倉時代以来、端午の日に祭礼が執り行われてきたということになる。また、天文13年(1544年)の『北条氏印判状』には「相州六所領六十五貫七十八文之内 五百文 端午祭」と記されていることから、すでにこの時代には5月5日に行われていたことが知られる。天保12年(1841年)完成の『新編相模国風土記稿』ではコウノマチは府中の祭礼と記されており、5月5日に行われるのが定例になっていた。
  現在、国府祭に携わっている人達の多くはこの祭礼が明治以降も中断することなく行われていたのだと語っているが、実際には中断した時期があったようである。昭和7年(1932年)増補再刊の『寒川神社志』によると「明治六年以降廢絶せしを大正十三年八月六日付復興、現在は六月二十一日」とあり、明治6年(1873年)から大正12年(1923年)には一時中断された。大正13年(1924年)に復活した際に旧暦の5月5日を新暦(太陽暦)に換算して祭日を6月21日に決め、その後は6月21日から22日にかけて行われるようになった。さらに太平洋戦争中に一時中断していたが、戦後になってまた再開されている。その後は、6月の時期では雨が多いことや農家が田植えで多忙になることなどが理由となって、昭和44年(1969年)に再び端午の節句である5月5日となって現在に至る。
  国府祭は長年に渡って端午の日に行われており、近所の人達はこの日までに田植えを済ませ、大麦・小麦の刈り取りも済ませて祭りに参集したものであったという。農事の目安ともなる馴染み深い日であったから、復活する際も1ヶ月以上も早い太陽暦にはできず、従来通り旧暦を選ばざるを得なかったのであろう。それ以降6月21・22日に固定して行われてきたのは、この日が夏至にあたることと関係があるようだ。そして旧国府村に属する村々を中心とする地域では6月21日を端午の節句として庭先に鯉幟をたて、五月人形を飾り、ショウブ・ヨモギ・茅(カヤ)を結えて軒先にさしたものであった。端午の祝いを太陽暦の5月5日に行う家もあったが、その場合でも鯉幟だけは国府祭の日にも庭先に立てたという。
  昭和40年(1965年)代になってこの祭礼に奉仕する各神社の氏子の中にも勤めに出る人が多くなり、また農作業の様相も大きく変ってきたことから、子供の日として休日でもある5日5日に祭日を移すという案が出てきた。その際に大きな問題になったのはチマキを巻く茅が充分入手できるかどうかで、国府祭では神饌としてチマキが大きな位置をしめているのである。



国府祭の起源

  国府祭の起源を研究してみると、それは大化改新(645年)までさかのぼることができる。大化改新に於いて日本の国の制度が一段と改められ、地方では国々が再編成され、また新たな国もできると、各国の中心に国府(こう)を置き、中央政府より「国司(今の県知事のような人)」が任命されて国の行政にあたらせた。大化改新で制定されたこの国司制度は、後の大宝令によって完備された。諸国は大国・上国・中国・下国に等級付けられ、『延喜式』によると相模国は上国に属する。
  中央政府より任命された国司は、任国(じんこく)に着くとまず最初に「神排(じんぱい)」または「巡排(じゅんはい)」といって、その国の有力大社を回る制度があった。この回る順番によって後に「一之宮」、「二之宮」、「三之宮」・・・と称されるようになった。また、「班幣(はんぺい)」といって毎年2月4日の祈年祭(きねんさい)等の幣帛として国幣を各社に班(わか)つ慣いがあり、国府近くに斎場を設けて各社の神主や祝等(はふりたち)を招き、班幣の神事と荘厳な祭祀が行われ、それと共に各地の豪族を招いての盛大な宴会があった。
  しかし、時代が経つにつれて国司の巡拝は大変な日数と費用と人員を要するため、巡拝する神社の分霊を国府近くの神社に合わせ祀る慣いが起り、これが惣社(総社とも書く)の起源となった。そして国司は巡拝にかえて総社に神排し、また日常の国内安泰祈願所とするために、各社に神輿を以て国府に集まるよう依頼した。この様に、国府祭は国司班幣神事と総社へ分霊を納める祭祀が一体となって、年に一度の盛大な行事となっていった。従って神揃山は班幣の斎場であり、大矢場(高天原)は総社に分霊を納める斎場である。
  相模国の国府祭の起源については天保12年(1841年)完成の『新編相模風土記』では養老年間(717〜723年)とあり、『皇国地誌』では天応元年(781年)としているが、いずれも歴史的な史証はない。また、国府祭という祭名は明治以後の創定で、それ以前は「端午祭」と呼ばれていた。端午祭の典拠は天文十三年(1545年)甲辰十二月廿三日付「国府本郷村民吉兵衛所蔵、北条氏印判状」に「相州六所領、五百文、端午祭」とある記載を最古とする。



国府祭に参加する神社

  国府祭に参加し、この祭礼の主役となっているのは、次に掲げる6社である。

国府祭に参加する6社
称号神社名鎮座地各社リンク
一之宮寒川神社高座郡寒川町宮山3916国府祭
二之宮川勾神社中郡二之宮町山西2122国府祭
三之宮比々多神社伊勢原市三ノ宮1472国府祭
四之宮前鳥神社平塚市四之宮4-14-26国府祭
一国一社平塚八幡宮平塚市浅間町1-6国府祭
総社六所神社中郡大磯町国府本郷935

  ここで疑問に思うことは、寒川神社から前鳥神社までの4社には順位を示すらしき一之宮から四之宮までの称号がついているのに、平塚八幡宮は今も昔も五之宮といわない点である。『風土記稿』の六所明神社の項には次のように記されている。「五月五日、国中一之宮 二之宮 三之宮 四之宮 及ビ平塚新宿ニ鎮座スル、八幡ノ神輿、神揃山ニ集リ、一人は三種ト号セル、鉾ノ如キモノヲ馬上ニ押立、又一人ハ、守公神ト号シテ榊ヲ持、次第ニ列シテ神揃山ノ下高天原ト云所ニ至ル、彼五社ノ神輿、次第ニ山ヲ下リ、神事終リテ帰社ス・・・」 また、八幡社の項には「当社ハ当国第五ノ宮、古ヨリ八幡宮ト称シテ五宮ノ唱ハナシ、按ズルニ東鑑ニモ四宮の次二八幡宮と載ス」とある。
  四之宮までの四社は『延喜式神名帳』に記載されているいわゆる「式内社(しきないしゃ)」であるが、平塚八幡宮は式内社ではないという違いがあり、そのことが原因しているとも推測される。享保年間(1716〜35年)に作成されたといわれる川勾神社所蔵の『神揃山端午祭場古図』によると、平塚八幡宮ではなく「鶴峰八幡宮」と記されており、これは茅ヶ崎市に鎮座している鶴峰八幡宮であるかは特定できないが、平塚八幡宮はある時期から加わったということも考えられる。そのことを証する記録はないようであるが、かすかに伝えられているところによると、初め海老名のあたりの神社が五之宮として加わっていたのだがそれが何等かの理由で脱落し、かわって平塚の八幡様がくるようになったというのである。海老名には国分寺の跡もあり、平安時代の末に相模国府が現在の国府地区に移る前にはこのあたりに置かれていたという説もあり、海老名は相模国にとって重要な地位をしめるところであったと思われる。
  いずれにしろ、現在の国府祭を構成する五社は六所神社を中心にして相模平野の下流域に片寄っており、そのことが国府祭の成立とその後におこったであろう移り変わりの多くを物語っているのかもしれない。
  国府祭は、明治6年(1873年)に寒川神社が財政面などの理由で神輿の渡御を廃止したので、そのころから寒川神社を除いた4社と六所神社で行われるようになった(中断していた?)。そして、大正13年(1924年)から寒川神社が参加するようになったので、現在の国府祭が復興した。



  永田衡吉氏はその大著『神奈川県民俗芸能誌』において、神揃山および大矢場における現在の祭事は「修験道の祈法」によるものだと論断しているが、現在の祭事のあり方を国府祭当初のものとすることは疑わしい。おそらく六所神社の別当寺が国府祭の祭事を支配していた時代に、修験道の祈法が取り入れたと思われる。六所神社の別当寺は「真勝寺」といい、神揃山の東方300mほどの山裾に現存している。『風土記稿』にはこの寺に関して次のように記している。

  「真勝寺 相府山偏照王院と号す。古義真言宗、六所明神の別当寺なり。開山行基。中興真長、天文十三年(1544年)三月十一日寂す。」

  開山を行基とするのはもとより真実ではなく、おそらく真長が初代住職であったか、そうでないにしても彼の頃に初めて同寺が六所神社の別当寺となったと思われる。そうだとすると、室町時代の末期から江戸時代を通じて今日まで、現在のような六所神社の祭事の方法が継続されて来ているものと考えることも出来る。
  ここに注意されるのは真勝寺が古義真言宗に属していたと共に、平塚の八幡神社の別当寺の「等覚院」も同じく古義真言宗に属し、しかも関東檀林三十四院の一つで寺格の高い寺院であったということである。真勝寺の中興とされている真長は、平塚の等覚院と何か特別に緊密な関係にあったという説もある。国府祭に参加する五社のうち一之宮から四之宮が加わることは当然として、もう一つの神社が式内社でもない比較的新しい八幡社であるという理由はそのようにして解釈することもでき、つまり真長の斡旋によって平塚八幡社が国府祭に参加するようになったと推測できる。
  もしそのような推測が正しいとすれば、国府祭の参加社の構成、その祭事の次第・方法・場所などは天文のころ以降のものであって、それ以前の国府祭の参加は一之宮から四之宮までの四社のみで、国府祭のの祭事の次第・方法もずっと素朴・簡素なものであり、またその祭場も総社たる六所神社の境内か、それに近いところで行われたと考えられる。



神揃山

  国府祭は「神揃山」と「大矢場」の二つの祭場で行われる古式儀礼である。神揃山は「神集山(かみつどいやま)」とも呼ばれ、さらに「シイラバ」という俚称がある。神揃山を呼ぶときは誰方も明瞭に「カミソリヤマ」と発音しているが、これは「カミソロイヤマ」の訛(なまり)と考えられている。『風土記稿』には「神揃山西北の方、生澤村堺にあり、高さ二十間許り、山上平衍の所、方四十間許り、五月五日、近郷五社の神輿集會する故、名とす。」と記されている。
  神揃山は旧国府本郷村の北端、旧生沢村との境にある。西側には不動川が流れていてやや大きな谷になっているが、この不動川が海抜15mから20m足らずの国府平地をつくっている。その三方を取り巻くような形になっている丘陵の、中央に近い部分の突端に神揃山は位置している。海抜40mぐらいで頂上がやや平坦になっており、全体で五反歩ほどの面積があるといわれ、木の間を通じてこゆるぎの浜が近くに望まれる。昭和16年(1941年)に整地されて現在のような状態になったというが、整地したといっても5社の神輿の行在所となるテントが張られる中央部をならすとか、5社の神輿のお成道を整え、桜を植えるといった程度のもので大幅な変更はしていないように思われる。

神揃山神揃山碑
一之宮神輿道二之宮神輿道
三之宮神輿道四之宮神輿道
八幡宮神輿道五社下り道
祭場仮宮

  神揃山の東の麓には南から八幡宮・四之宮・一之宮の神輿道がつけられており、それを上った中央部が平坦になっている。この中央部の真中より南側に寄ったところに「神体石」または「ヒモロギ石」といわれる6個の岩があり、最も南に二之宮・八幡宮・四之宮の神体石が1列に並んであり、少し離れて一之宮と六所神社、その西北にやや離れて三之宮の神体石がある。また、西側の隅には下に降りる道があり、これは神揃山の神事が終わって5社の神輿が大矢場に渡御するときに下る道である。

二之宮・八幡宮・四之宮の神体石一之宮・総社の神体石
三之宮の神体石三之宮力石

  西斜面の南寄りに小さな塚が2基並んでおり、幣帛束が立てられている。この2つの塚は「比翼(ひよく)塚」とも、また右を父神、左を母神とする「両神塚」ともいわれている。もとは5社の神輿が揃ったらこの塚に神拝する行事があったというが、現在は行われていない。二之宮のお成道はこの塚より北寄りにあり、三之宮は神揃山から続いた北の尾根をたどってくる。三之宮が神揃山に入ってすぐ右手にも小さな塚があり、忌み竹がたてられ注連が張られている。これもまた三之宮の化粧塚といわれており、三之宮の行列はこの上を通るのだが、その時神輿はいったんこの塚の上に据えられた後に西の斜面をまわってお仮屋のテントに納まる。

神揃山の東南側には一之宮
四之宮八幡宮の化粧塚が並ぶ
神揃山と大矢場の間には二之宮の化粧塚
神揃山の北側には三之宮の化粧塚
馬場公園の角には総社六所神社の化粧塚


大矢場

  『風土記稿』には大矢場が「高天原(たかまのはら)」とあり、この高天原は神揃山と大矢場の中間にある六所神社有地の畑地で、江戸時代には祭りの当日はこの辺りを町屋と称した。六所神社では現在も高天原と呼んでいる。現在では大矢場は「馬場公園」になっており、この馬場公園で六所神社と5社の間で祭祀が執り行われる。オオヤバは「逢親場」・「王家場」・「皇家場」・「鳳家場」などの字も当てられ、『寒川古式祭記』には「おほや」ともあり、神事の場を卜定(ぼくてい)するために行った「矢占」に由来する地名とも推測される。また、地元ではオオヤバの由来について、次のような伝承がある。
  ずっと昔、神代のこと、この相模地方にも多くの悪神が跳梁しているのを御覧になった天照大神は、5人の息子を持つ女神に悪神征伐を命ぜられた。命を受けた女神は5人の息子達と共に下ってこられ、自らはこの地に止り、5人の息子達をそれぞれ国内各地に配して悪神の平定にあたらせた。5人の兄弟神達は平定になったのち紙揃山に集まり交歓したのだが、手柄話が講じて激論となった。やがそれも納まり、母神に使いを出しておいでを願うことになって、使いを受けた母神はオオヤバまで出御して母子対面をしたのである。このことにちなんで毎年一回日を決めて5社の神々が集まり、母神との対面を行う儀を執行するようになったのだという。従ってオオヤバは逢親場だといい、兄弟神たちの激論の様子を儀式化したのが神揃山で行われる座問答ということになる。

馬場公園祭場
6本の国旗祭場に設置されたテント
六所神社の行在所

  高天原では麦を刈り取ったあとの畑で農具をはじめ日用雑貨品、衣類や小間物などの露店、見世物小屋や芝居小屋などが所狭しと立ち並び、相模国の三大農具市の一つといわれた。昔は5社のお伴をしてきた農民達が群集し、この市で農具を買うと豊作になるという信仰があった。鍬・マンガ・コマンガ・鎌・オンガ(草けずり)・ナタ・ヨキ・ノコギリ・桶(肥桶・担い桶)・げすっぷり(ふり桶)・天秤・み(竹み・こくみ)・ふるい(トウシ)などの農具は国府祭で買うはずになっていて、農具類の行商は国府祭の後では売れないので前に来た。国府祭で買えなかったときは、7月9日の真田のホウズキ市へ行った。また、神輿が渡御する道筋の多くの家では屋根の庇に茅・蓬・菖蒲を束ねて一年中掛けておいたり、茅・蓬・菖蒲を束ねて薪に結んで屋根に上げておいたという。
  農村では病虫害に悩まされる季節なので、明治初年までは一之宮13ヵ村・二之宮8ヵ村・三之宮28ヵ村・四之宮10ヵ村・八幡1宿3ヵ村・六所4ヵ村、計70数ヵ村が村内へ火の番を回して留守を守らせた。また、大正時代頃には農耕馬によって草競馬も行われたといい、神輿が神揃山から下ってくる前に5・6頭の馬が回り馬場を走ったという。かつては見世物小屋も並び、サーカス・オートバイの曲乗りなどもやった。大正11年(1922年)6月22日の『横浜貿易新報』には国府祭について次のような記事がある。
  「朝来快晴の為め近郷からの人出多く百数十軒並んだ農具店植木屋飲食店諸興業ものも繁昌を極め殊に氷屋金魚屋は大繁盛であった、又神揃山下の競馬場へは地方の愛馬家数十頭の馬を牽き来って余興の競馬会あり之を見物せんと馬場の両側に人波を打ち養蚕も了りて暫く農閑なるとお天気都合能きため近年にない雑踏であった」。
  昭和30年代の所見ではカブキや見世物の掛小屋が賑やかに農民達に呼びかけ、"市"の面影を連想させた。畑地の持主達は国府祭に集う人々に畑を踏まれることを豊穣の予祝としたが、この古風な信仰は既に喪失している。



守公神

  「守公神(しゅこうじん)」とは現在の大矢場の北方にある小祠である。養老2年以来六所明神の末社(祭日は6月20日)で、神主は後藤家が世襲したが今は神主はいない。昔は国府祭の前夜から大矢場に高張提灯を立て、その下に坐して警護の役を勤め、祭りの当日には六所神社の御零代の裏側に侍するのが祭俗であった。守公神は社宮神・守宮神・左久神・作神・左口神・石神などと呼ばれる土俗神で、その性格は明らかではないが、国府祭における守公神は守護神・土地の神という意識が高い。他県では総社の一つに加えているところもある。



国府祭の準備

  国府祭に先立って3月10日に全役員が参加して、神揃山の植樹と下草刈りを行う。4月になると宮司をはじめ総役員が出席して、国府祭準備会議(五社会議・類社会議)が開催される。平成元年度(1989年)の場合は祭り当番が馬場で、準備会議は4月16日(日曜日)に行われた。その内容は国府祭予算・日程・役割分担・駐車場借用の件、露払い行事・青年会・鉾担ぎ・鷺舞・在庁などの奉仕依頼の件、案内状・招待状などの配布の件など豊富である。
  4月末までに各町内の授受者が粽用の茅を用意して六所神社へ届ける。4月29日は神揃山と大矢場の掃除と、大矢場の国旗立てを行う。5月2日は馬場の宮世話人が六所神社の社務所で役員が胸に付けるリボンを作り、直会用会場の設営などを行う。また、役員全員で配布用の粽を作る。5月3日は新宿の世話人が神社の受付所や国府祭の案内所などの設営をしたり、露払い行事(宵宮の道清め)に使う幟・槍などの持ち物の仕度をする。また、大矢場では行在所を設立して鷺舞の舞台作りを行う。(日時不定→幟立ては新宿と中丸で青年会が中心となって行った。かつては若者が多かったので大きな幟を立てたという。馬場には昔から幟がなかったので、立てなかったという。)5月4日は道浄め・浜降り行事に参加する小学校6年生の男子を子供会に依頼する。また、この行事が終わると社殿の中に椅子を並べて席札を付ける。

町内では注連縄の準備縄を張り
紙垂を付け電柱等に結び付ける

  5月5日の当日は受付係が6名で、奉納金を受付け記念品を手渡す。掲示係は三地区の評議員が務め、受付の手伝いもする。各町内から1名の代表を出して、祭典に参列して玉串の奉典をする。式典準備係は参列者を各席に案内し、また、大矢場へ行く行列が並ぶ順序を考えて行列を作り進行を勤める。接待係は氏子総代や宮世話人が勤め、直会の席上で接待する。参拝者への案内係は新宿と中丸の宮世話人2人づつで務め、国府祭の資料や粽などを配布する。また、内殿への献饌は祭り当番である馬場の宮世話人3名が務める。区長は式典が始まる前に在庁役の氏子に連絡をする。
  5月6日は神社役員全員・各区長・中丸馬場の町内会長が大矢場に集まって、行在所を撤去してから会計報告などをした後にハチアライの直会を行う。



チマキ

  祭礼前の準備として主要な仕事は神饌として備え、また氏子・参拝者などにも配布されるチマキづくりであり、六所神社では毎年1800本以上つくるという。例年5月1日までに氏子町内からチマキに使う茅とミゴが届けられ、茅は刈り取ったものを日陰干しにしたものであり、ミゴは稲藁(いなわら)の穂先の部分を抜いたものである。チマキは茅の葉を4・5枚あわせて筒状にした中に、細く長方形に切った餅を包みミゴで五ヶ所しばったものであるが、結構手がかかる。最近はミゴが手に入りにくくなったので、六所では麻を使っている。5月2日をチマキ巻きの日としており、氏子の中から選ばれている神社役員が総出でつくるが、40人ほどで小一日かかるという。
  国府祭ではチマキをお供えとして神輿に献じ、参加した人達にはお札と共に渡し、また参拝者にも授与される。神揃山や大矢場では祭りに集まった人々が、ひきもきらず各社の神輿に参拝しチマキをいただく。これを家に持ち帰って神棚にあげ、あるいは厄除けとして門口に吊るしておくのである。5月5日の端午の節句に無病息災・招福除厄を祈ってチマキをつくって食べる風習は古く見られ、ここでのチマキもそれと同じものと思われる。



神輿の旅立ちと道行き

  国府祭の特色は5社の神輿が神揃山に集まり会するということであるが、たとえ近郷とはいへ各社の神輿がそれぞれ自社から渡御されるということは大変なことであった。5社のうちで最も距離の遠いは一之宮で神揃山までの直線距離が約12km、次いで三之宮の10km(往復7里の道程だといい慣わされている)である。神輿を担いで一日の行程にしては相当以上にきついに違いないが、できないことではないであろう。三之宮に比べて他の4社はずっと近い。
  今は神揃山まで各社とも車で来るが、かつて神輿が担がれて来た頃は各宮とも三之宮と同じように途中で休憩する家が決まっていた。



迎神使の出迎え

  5社の神輿は総社から来た「迎神使」の出迎えを受け、迎神使のことを国府祭では「在庁(ザイチョウ)」といっていい、迎神使は各宮とも2人宛で出る。迎える場所は平塚方面の境である切り通しで一之宮・四之宮・八幡宮を、二之宮方面の境の少し手前である変電所前で二之宮、寺坂方面の境である実修学校前では三之宮となっている。『風土記稿』の三宮明神の項に「此時 六所ノ宮ノ禰宣、 異様ノ衣冠ニテ馬ニ騎リ途中ニ来テ神輿ヲ迎フ。是ヲ在聽ト唱リ」とあり、昔は国府境である寺坂村と生沢村の境まで迎えに出たという。三之宮以外の4社については旧来と変らずに国府境まで出迎えているが、三之宮の場合には略されて神揃山の下までということになっている。
  在庁というのは「在庁人」あるいは「在庁官人」といわれた国府の庁に勤務していた下級役人のことであろうか。古く相模総社の祭りが国司の主宰する祭りであった時代、在庁人が迎神使として遣わされていたのであろう。その名残りが現在までこういう形で伝えられていると考えられる。在庁は紋付袴の出で立ちで迎えたが、現在は服装が自由になって簡素化し、黒の礼服となっている。この役はかつて家柄が重視されたが、近年は年齢順になってきたという。
  六所神社には江戸時代に社人15人がいたが、そのうちの4人は在庁と称されており、国府本郷村に住んでいた。天文13年(1544年)に北条氏から社領六五貫七八文を与えられた印判状が残っているが、その中にも在廳(ざいちょう)4人に神領のうち各壱貫五百文を宛行う旨の記載がある。ちなみに、江戸時代の六所の神領は五十石であった。六所の社人としての在庁は中世までさかのぼると考えられ、さらに国府崩壊後は総社の祭礼に関係のあった在庁人が六所の社人として引き継がれた可能性も大きい。5社に対して在庁4人では1人不足するが、六所の鍵取役を勤めていた満田(まんだ)村の出縄主水(いでなわもんど)が四之宮の在庁役を兼ねていて、役料として四之宮別当から麦三斗を贈られると『風土記稿』に記載されている。不足するところは他の神官が兼ねていたのであろう。
  迎神使としての在庁役は江戸時代には宮毎に決まっていたと思われるが、近年は家として決まっておらず一之宮・二之宮は新宿、四之宮と八幡宮は中丸の神社役員が勤めるようになり、これは国府祭が大正末に復活してからのことであると思われる。三之宮の場合は馬場の近藤氏と中村氏が行くことに決まっており、近藤家が国府での宿となっていた。現在は在庁の家を宿とすることがなくなって、公民館や寺などを借りて休むようになっているが、もとは各宮とも在庁として迎神使に出る家が宿を勤め接待をしたという。
  5社は神輿の他に各々鉾(鉾のことを「サエグサ」という)と榊に紙垂をつけた神璽である「守公神」を神官あるいは神社役員が守護し、在庁がそれらを受け取ると神輿の先にたって神揃山を登る。



座問答

  今日斎行されている国府祭の祭典の中でも「座問答(ざもんどう)」の神事は特に珍しく、全国的にも知られ名高い。また、現在までこの座問答の言われを多くの人達が研究し発表してきたが、確証はなく大変謎が深く興味深い神事でもある。以下に座問答の諸説を紹介する。

●相模国の一之宮の地位を争った説
  相模国は大化改新以前に、今の大磯より東の方に「相武(さがむ)」という国があり、また西の方には「師長(しなが)」という国があり、この2つの国が合併して相模国が成立したといわれている。そして東の相武の国で最も大きな神社(相武の一之宮)が「寒川神社」であり、西の師長の国で最も大きな神社(師長の一之宮)が「川勾神社」であったため、両国合併に当たり相模国で一番大きな神社を決める必要があった。なぜならば当時の国司は巡拝といって国の中の主なる神社を参拝して巡る必要があり、先ず最初に参拝するのがその国の一番大きな神社でなければならなかった。
  氏子の人々にとってこの参拝の順位付けは大変重大なことであり、この2つの神社の間に相模国の一番大きい神社はどちらかという論争が起こった。そこで、この論争を解決するために「比々多神社」の宮司が「前鳥神社」と「八幡宮」の宮司と相談し、仲裁に入ることで円満解決した。この論争の模様が儀式化され、神事となって伝わったのが座問答であるといわれている。
  注連縄の中の正面に建てられた5本の鉾(ほこ)は5社の神の依り代であり、祭場に置く虎の皮は神座を意味している。そして後方には同じ装束姿の5社の宮司が並ぶ。同じ処に並んでいる虎の皮を上位に進めることは「当神社が相模の国の一番の神社(すなわち一之宮)である」ということを無言で表しており、それより上に推し進めることは「そうではなく、当神社こそ相模の一之宮である」という意味で、それを三度繰返すことは永い論争があったことを表している。これではいつまでたっても解決されず次の祭典も出来ないため、その仲裁として比々多神社の宮司の「いずれ明年(みょうねん)まで」という言葉で解決される。
  2つの国が合併して一之宮の論争が起こったことは他の国でもあり、加賀国(かがのくに)成立の際には「山(やま)神社」と「府南(ふなん)神社」が、越中国(えっちゅうのくに)の成立の際には「気多(けた)神社」と「二上(ふたがみ)神社」が歴史に記されている。

●国府移転に伴う一之宮要求説
  寒川神社と川勾神社が一之宮を争ったという点について、相模の国府が大住郡から余綾郡に移されたのに伴い、川勾神社の位置が同じ余綾郡であり、かつ相模国の式内社の中では国府に最も近く、また国司との間の関係も自然に緊密になっていたであろうから、川勾神社が一之宮の地位を要求するようになったものと解することができる。
  武蔵国の総社であった東京と府中市の大国魂神社においては、その祭神のうち一之宮の地位を占めるものは従来一般的には武蔵国の一之宮といわれていた氷川神社ではなく、総社と同じ多摩郡内にありかつ地理的に最も近い小野神社であることが想起される。大国魂神社の他の5社の神輿は平素は大国魂神社の中に保管されており、5月5日の国府祭に府中市の町内の氏子たちによって担がれて旅所に赴くのであるが、一之宮たる小野神社の神輿だけは大国魂神社の南方4kmほどのところの一之宮部落から、その部落の氏子たちによって担がれて来るのである。

●神婚祭事説
  永田衡吉氏によると、国府祭の祭事は全て神婚祭事を意味するのもので、座問答もその一環に他ならないとする。すなわち座問答は「イザナギ」・「イザナミ」の国土生成説話を演繹したもので、同氏の国府祭に関する神婚祭事説は確かにひとつの卓見である。神揃山の神事に続いて5社側から派遣された七度半の使者が、総社の祭神である稲田姫の御霊代を迎えに来ること、見合いの松の下で総社と一之宮との神輿が見合いを行うこと、また、大矢場の祭場において五社と総社との間に「対面の式」・「裁許の式」が行われることなどは神婚説と解するにふさわしいようである。この場合でも座問答においてはその神事の内容からいって、首座を争うことに主眼があることは疑いがないと思われ、一之宮の地位にあるものが稲田姫の結婚の相手となるという前提があったのではないか。

●双子の神の長男論争説
  この座問答については古くから国府地区に伝説がある。それによると、総社六所神社の神が母神で5人の男子を産んだが、一之宮と二之宮が双子の神であり長男の論争があった。先に生まれた寒川神社が長男といわれたことに対し、弟を先にして後から生まれた川勾社が長男であると反論したため、三男の比々多神社が仲裁に入って解決されたという。

  この他にも禅問答説や山伏問答説などがある。



宵宮(道浄め・浜降り)

  六所神社では祭礼の前日である5月4日に、祭礼の場となる国府の地を浄め、祭礼に参加する人を浄めるための行事である「道浄(みちきよ)め」・「浜降り」の神事が行われる。これは子供達が中心になって行われるもので「ヨイミヤ(宵宮)」とか「前夜祭」といい、もとは夜の行事であったというが、現在は宮世話人達も参加して13時頃から行うようになっている。道浄めは「露払い」ともいわれ、この行事に参加することは子供達にとって重要な勤めであったという。
  12時30分頃になるとテント下では露払いの準備が始まり、子供達に渡す半纏等を用意する。12時45分頃になると子供達が集まり始め、テントで渡された半纏を羽織る。その間に宮世話人達は倉庫から旗を持ち出し、神楽殿前に色別に分けて置いて行く。半纏を着た子供達は神職の指示に従い、神楽殿に並べられた旗を取って参道に整列し行列の準備をする。

テント下では半纏の準備
子供達が集まり始め六所神社へ到着
境内を進みテント前に並ぶ
半纏をもらい羽織る
宮世話人や神職は倉庫から旗を運び出し
神楽殿前に置く並べられた旗
宮司と神職の指示に従い学年順に幟を取る
旗を持ち参道に整列する

  かつて子供達だけで行列が組まれていた時代は、2列縦隊で順序は小幟1名・大幟1名・薙刀(なぎなた)2名・槍10名(十番槍から一番槍)の構成であったが、人数が多いと白布に「六所大明神」と墨書きされた幟(現在では青色や赤色の布が使われている)を持って先頭につく。この六所大明神の幟を持つ子供達を「フンドシカツギ」と呼んでいて初めて参加する者が勤めるが、順次年数を重ねることによって地位が上がり「オオゼキ(大関)」で終わる。大関は一番槍・二番槍を持って行列の最後につき、浜降りの行事では太刀持ちを勤めた。この地位は年齢によって決まるものではなく、参加年数によって決まった。
  古くは馬場の子供達が道浄めの行事を行ったが、昭和20年(1945年)代から30年(1955年)代にかけて一般に祭礼行事に対する関心が低下し、国府祭もその例外ではなく道浄めも馬場の子供達だけでは不足するようになった。そこで、馬場・中丸・新宿の小学校6年生が行うように変わり、子供達だけではなく大人の宮世話人も加わるようになったので、行列の組み方や順序も時代と共に変化して来ている。宮世話人が加わった初期の行列は二列で先頭が御用提灯、続いて高張提灯2名・幣束2名・太刀2名で、ここまでは羽織・袴で正装した宮世話人が持ち、その後にフンドシカツギ・小幟・大幟・薙刀・槍という順で子供達が続き、さらに役を持たないその他の宮世話人が続いた。
  平成21年(2009年)の行列は2列縦隊で神職が先導し、その後ろに「大麻」・「神籬樹」・「桶」が続く。さらに後方には3色の旗があり、「水色社名旗」・「紺色社名旗」・「紅旗」の順で並んでいく。水色社名旗は小学6年生の男女が、紺色社名旗と紅旗は5年生の男女が持つことになっている。そして最後尾には神社役員がつく。

先導は神職その後に大麻
神籬樹桶が続き
旗は水色社名旗紺色社名旗
紅旗と続く最後尾には神社役員がつく
掛け声

  子供達は「ヤートー、サカエ、ヤートー、サカエ」と声を揃えながら唱えて、国府地区の7km強ある道のりを歩く。順路は六所神社を出発してから神社の参道を真っ直ぐに進み、国道1号線に面した大門を出て右折し、1号線に沿って新宿の通りを二之宮境に向けて進む。行列は変電所前の交差点まで行って引き返すが、この場所が祭礼当日に川勾神社を迎えるところで、国府の西境ということになっているようである。引き返した行列は大門前を通り過ぎ、伊勢原道との交差点を左に折れてしばらく進む。天王社といわれるあたりで右折し、13時40分頃に祇園塚の神官屋敷で休憩する。

最初に宮司の挨拶続いて神社役員の挨拶
宮司から露払いの説明があり「ヤートー、サカエ」の発声練習
準備が整い神職に先導されお宮を出発
参道を直進東海道本線を潜り
大門前で国道1号を右折二之宮方向に向かい
変電所付近で引き返す今度は大門を通過し
国府新宿の交差点を左折相模原大磯線を直進
国府地下道を潜り途中で道路を横断
道を右折し更に左折
宮司宅に到着し子供達はジュースをもらい
庭で休憩神社役員も軒先で休憩

  14時頃に休憩を終えると一行は神官屋敷の横を通り抜け、祇園塚道を通って大矢場の馬場道に出る。行列は大矢場には寄らずにそのまま神揃山に登り、二之宮道を下って馬場道を引き返す。もとは神揃山から三之宮の神輿が入ってくる尾根道をたどって実習学校のところに下り、そこから馬場道に引き返したといい、この実習学校入口が現在では三之宮比々多神社を迎える場所である。さらにそれ以前は寺坂との境界まで行ったといわれ、この寺坂境が国府の北境であった。

休憩を終えた一行は再び隊列を組んで出発
宮司宅の裏から抜け祇園塚道を右折
左折して長谷川と不動川を続けて渡る
そのまま直進し馬場公園に出ると左折
馬場公園の交差点を直進し神揃山へ向かう
五社下り道を登り祭場に到着
そのまま二之宮神輿道を下り馬場道を引き返す

  14時15分頃に馬場道を引き返した行列は大矢場横を通って旧東海道に出て左折し、中丸を通って不動川沿いの道を下り、西湘バイパスの下を潜って海岸(こよろぎの浜)に出ると浜降りを行う。昭和30年(1955年)代までは六所神社ではなく祇園塚にある神官の屋敷から出発し、道浄めと浜降りの行事は別のものであった。しかし、現在はそれらの行事が一体化し道浄めに引き続いて浜降りを行うので、子供達も神官も初めから一緒に歩くようになっている。その他についてもこの道浄め・浜降り行事は時代と共に変化をしている。

馬場道を引き返した一行は馬場公園を通過して直進
不動川を渡ると東海道本線沿いに左折
右折して線路を潜り旧東海道を左折
中丸を通り再び不動川を渡る
大磯城山公園の手前を右折細い路地を進み
国道1号線に出る旧吉田邸の横を通り
海岸を目指す目の前に海が見える
西湘バイパスを潜り浜降り

  昔は中丸から国府の東境である切通しまで行って、そこからいったん神官屋敷まで引き返して道浄めを終え、そこであらためて浜降りの行列に変えて出発したものであった。浜降りの行列は一番槍と二番槍を持っていた大関が太刀を持ち、以下順次くりあがった。そして道浄めには同行しなかった神官も一緒に浜に降り、波打際に幣を立て、祝詞を上げて一同を祓い浄めたのである。
  現在は15時頃から浜で式典を執り行うが、子供達は浜に着いたら休むようになっている。祝詞奏上やお祓いを済ませると、波打際の汚れていない砂を手ですくい取って手桶に入れる。この桶を再び子供達が担いで大矢場に向かう。

神職が大麻を砂浜に立てる宮司が正装に着替える
子供達は浜で休憩式典の準備が整う
神籬樹を持った神職が海を祓う続いて宮司をお祓い
神社役員をお祓い続いて祝詞奏上
役員代表が前に出て玉串奉奠か
最後に宮司が手を会わせ式典終了
大麻周辺に集まり足跡のない砂を手ですくい
桶に入れる砂が一杯になると
神職が運び担ぎ棒を通す
一行は隊列を組み浜を後にする

  浜降りを終えた一行は15時20分頃に浜を出発し、大磯城山公園まで戻るとそのまま北上、途中の交差点で左に曲がって馬場公園に向かう。昔は御旅所などの祭場を浜降りで拾った砂を撒いて浄めていったが、現在は行われていない。15時50分頃に大矢場の行在所に到着すると、宮司が桶の中の砂を手に取って撒き、その後に神社役員が砂を撒いていて浄めが終わる。浜降りも子供たちによって行われていた時代は、太刀持ち2人が砂をすくい取って首に巻いた手拭に包み、大矢場へ行って神官が六所の行在所に砂をまいて浄めたものであった。

同じ道で大磯城山公園まで戻り不動川沿いを進む
東海道本線を潜り交差点を左折
平塚学園前を通過帰りは砂が入り重い
守公神社を通過し馬場公園に到着
園内を進み祭場に到着
宮司が砂の入った桶をテント前に置く
神社役員が集まると宮司から砂を撒いていく
役員達も砂を手に取り順番に砂を撒く
撒かれた砂その間子供達は休憩
桶に残った砂は全て撒く
一行は再び出発しお宮を目指す

  16時頃に馬場公園を出発した一行は、16時15分頃に六所神社へ戻る。子供達は旗を神楽殿に置き、半纏をテントに返す代わりに日当とパンを受け取る。役員は旗を倉庫にしまい、半纏を片付けると、社務所で食事を取る。

行きと同じ道で宮司自宅には寄らずに相模原大磯線を左折
途中で右折国府新宿地区に入り左折
右折してお宮に到着
境内まで来ると宮司の挨拶に続き
役員の挨拶で露払いが終了子供達は旗を神楽殿に置き
役員が倉庫へしまう子供達は半纏を脱ぎ
たたんでテントへ持って行き日当とパンをもらう
役員は半纏を片付け社務所で食事を取る

囃子

  国府祭の前日は18時30分頃から太鼓を積んだ屋台が境内を出発し、触れ太鼓として国府地域を巡行する。

六所神社の車屋台夕方頃に飾りつけ
太鼓を載せる叩き手はお宮を参拝
屋台に向かい乗り込む
太鼓を叩き国府地域を巡行

  祭典当日は8時30分頃に六所神社の屋台が境内を出発し、宵宮と同様に触れ太鼓として国府地区を巡行していく。

総社六所神社では宵宮と同様に参拝を済ませた
叩き手が屋台に乗り込むと境内を出発
左折して国府地区を巡行
大学病院入口の交差点を通過する六所神社の屋台

  馬場公園(大矢場)には各神社の山車(屋台)が集まり、2011年(平成23年)は一之宮を除く5社の山車が参加した(平塚八幡宮は2基が参加)。山車は10時前から集り始め、全ての山車が揃うのは11時頃になる。

三之宮のなでしこ囃子会が西側から1番手で登場し
馬場公園の交差点を通過後直ぐに右折して公園内へ
奥側の中央付近に停車叩き手は歩いて会場入り
2番手には総社六所神社が東側から登場
囃子を奏でながら左折し公園内に入る
左端で山車を止め三之宮と1台分のスペースを空ける
3番手には四之宮の前鳥神社平塚方向から公園に入場
囃子を囃子を奏でながら広場へ三之宮の右隣に止める
二宮方面からは梅沢はやしが神輿の行列を先導しながら登場
直ぐに公園には入らず交差点を過ぎると左車線に停車
神輿が飯島商店を通過し神揃山へ向かって左折すると
山車は交差点側へ後退し公園側へ右折
囃しながら公園を進み広場の奥へ向かう
六所神社と三之宮の間に止め残るは平塚八幡宮の囃子
30分以上待つとようやく東から囃子が聞こえ
八幡囃子が到着後方からはさらに囃子が聞こえ
二十四軒町の若宮囃子太鼓保存会が入場
年番の八幡囃子は前鳥囃子の右横に止める
最後となる若宮囃子が広場に入り
八幡囃子の右横に止め6台の山車が揃う
八幡囃子の山車では平塚八幡宮の幟を立てる

  11時30分からは各山車で15分間づつ囃子の発表が行われ、六所神社を最初に13時ごろまで披露される。囃子の曲自体は各地区とも大きな違いはないが、笛や里神楽が入っていたり、太鼓の閉め具合やテンポのなど、国府祭では地域毎で囃子の違いを実感できる良い機会となっている。

11時30分からは六所神社から順番に
15分づつ囃子を発表大太鼓は後方で叩く
右隣の二之宮が準備腕を大きく振り上げる六所
続いて梅沢はやしの発表後方で囃す笛・鉦・大太鼓
3番手は右隣の三之宮叩き手は交代しながら叩く
四之宮を飛ばし4番手に八幡宮後方では笛が入る
その間に前鳥囃子が準備裏手では子供達が衣装を着る
八幡囃子太鼓保存会の次は同じく八幡宮から二十四軒町
後方で笛を吹く近年新調した立派な山車
四之宮は衣装の準備を終え最後は前鳥囃子の発表
威勢の良いぶっこみから屋台へ続いて静かな雰囲気の宮昇殿
昇殿神田丸と続き
唐楽の次は鎌倉で恵比寿が登場
用意されたブルーシートの上で舞が披露される
観客がさらに増え扇を取り出す恵比寿
鎌倉が終わり団扇を持った天狗と狐が登場し
軽快な曲である仕丁舞が始まる
天狗から団扇を奪って逃げる狐踊り手が舞台裏へ下がると
続いてはヒョットコとオカメが登場し
滑稽な踊りが見せ場の印場が始まる
酒によったヒョットコとオカメ楽しそうに踊っているが・・・
オカメの背後から尻尾が現れオカメに化けた狐を追い回す
狐は逃げ出しヒョットコが退場して印場が終了
大勢の観客に囲まれ最後は踊り手が整列して挨拶

  各地区の発表が終わると競太鼓が始まるが、神輿の入場や鷺の舞などに合わせて休憩を取るため、叩く時間帯は年によって若干の違いが見られる。

発表が終わると六所神社前鳥囃子と太鼓を打ち始める
ここからは太鼓の叩き合い続いて三之宮
八幡とぶっこみ二十四軒町では三之宮が参加
このあと私も一緒に叩くことに六所神社の神輿が来るまで叩く

  2011年(平成23年)は総社である六所神社の神輿が入場する13時20分頃から休憩を取り、15時頃から再び競り太鼓が始まった。

神揃山から降りてきた5社の神輿が公園へ入る間は休憩し
15時頃から再び囃子始める大矢場に鳴り響く祭囃子
梅沢はやし保存会では踊りが入る
私も再び二十四軒町で叩くお隣の八幡囃子は
前鳥神社から前鳥囃子を習い笛も取り入れる
囃子に合わせてオカメとヒョットコが絡み合う

  15時30分からは東側に設置された御輿舎にて神事が執り行われ、七十五膳献上、神体面神事、国司奉幣・神裁許の儀が終わると、16時過ぎ頃から各神社の神輿と共に囃子の山車は還御していく。

大矢場での神事が全て終了し八幡囃子から山車を移動
広場で方向転換し
八幡と同じく平塚八幡宮の二十四軒町も移動を開始
神輿の行列の前に八幡が入り二十四軒町も行列へ向かう
八幡宮に続いて四之宮の前鳥囃子の山車も出発
先頭の八幡は公園を出ると平塚とは反対方向へ左折
八幡宮の大神輿を先に進め最後に二十四軒町が続く
二十四軒に続いて前鳥囃子が参道へ入る
後方では三之宮のなでしこ囃子の山車が出発
前鳥囃子の後方には四之宮の行列が続く
なでしこ囃子が参道へ二之宮と六所も移動を始める
前鳥神社の白木神輿が行列に加わる
露店が並ぶ参道を進む若宮囃子太鼓保存会
八幡宮の大神輿は西側へ左折二十四軒町も公園を出る
後方に続く前鳥囃子二十四軒町は神輿同様に左折
前鳥囃子は右折して平塚へ向かって公園を出発
馬場公園を通過する二十四軒前鳥囃子に続く四之宮の行列
最後尾には四之宮の神輿その後ろをなでしこ囃子が進む
三之宮の山車は左折しその後ろに神職や役員が続く
梅沢はやしの山車は一旦停止理由は三之宮のあばれ神輿
豪快に神輿を倒す三之宮ようやく参道へ向い
梅沢はやしの前に入る広場で練る二之宮の大神輿
囃子の山車に先導され二之宮の行列が進みだす
大神輿は行列とは別行動こちらは一之宮の白木神輿
梅沢は左折して公園を出発行列も後に続く
神輿が広場で練る中最後に六所神社の山車が出発
太鼓を叩きながら参道へ向かう
神輿もいよいよ終盤へ六所神社は露店の間を通過し
公園を出て左折六所神社へ向かう
二之宮の白木神輿と大神輿が参道へ向かう
続いて一之宮の白木神輿最後に総社の大神輿が参道へ
公園を出て西に進むと六所神社の山車が行列を待つ
さらに先には梅沢と三之宮の山車も待機

  大矢場での行事はこれで最後となり、各地区の神輿や山車はそれぞれのお宮へ還御していく。



神輿

  国府祭に参加する神輿が神社から祭場まで渡御する道を「コシミチ(輿道)」といい、5社それぞれで定まっていた。とりわけ、三之宮である比々多神社は往路と還路が上吉沢の札の辻の一点で交わる八の字形をしているとう。当時はほどんど道らしい道を通らずに田や畑を横切っていたので、その道筋を辿ることは極めて難しい。神輿が田や畑の中を通ると作物がよく穫れると信じられ、不作であった田畑を通ってもらうように願い出るムラ人も少なくなかったという。比々多神社では途中の休憩所として、南金目の観音堂前と寺坂の鈴木家の門前と決まっていたという。三之宮の神輿が着かないと四之宮と八幡宮の神輿は道を避けて待機し、三之宮の神輿が通過してから通る慣例になっているといわれる。
  古くはそれぞれの神社の例祭で使用する神輿で渡御してきたものであったから、大きさも形も異なっていたようである。今も二之宮に所蔵されており、享保年間(1716〜35年)頃に作成されたと伝えられている『神揃山端午祭古図』に神揃山に設けられた屋形が描かれているが、その間口寸法が寒川神社五尺五寸・川勾神社八尺・比比田神社六尺五寸・前取神社六尺・鶴峯八幡宮六尺となっている。この屋形を一日堂と称していたらしい。
  現在は5社の神輿が自動車で国府のムラ境まで運ばれてくるので、その行程も大きく変わってしまった。したがって、化粧塚も形式的なものになった。化粧塚とは竹を4本立てて注連縄を張って結んで祭場にしたもので、神輿が渡御してくる前に宮司が祓っておく。化粧塚は各神社の参道前と神揃山の入口にあり、出発の際には各神社で衣冠束帯の服装を旅姿の格好に着替え、再び神揃山の祭場近くで衣冠束帯に整える場所であったという。昔は田畑を渡御してきたので、泥土で汚れた神輿をきれいにしたという。
  祭典当日は総社である六所神社を除く5社の白木神輿と、二之宮と六所神社、平塚八幡宮の3基の神輿が参集する。

一之宮の白木神輿二之宮の白木神輿
三之宮の白木神輿四之宮の白木神輿
八幡宮の白木神輿二之宮の大神輿
八幡宮の大人神輿六所神社の大神輿

  「ドッコイ ソーリャ」の掛け声で上下に振られる各神社の神輿の中で、一際目を引くのが三之宮の神輿である。担ぎ手である青年達は前後の輿棒に背を向き合って肩を入れ、「ヤートー サッセ」という昔ながらの掛け声を発しながら、まるで酒に酔ったかのようにふらふらと、時には神輿を回転させながら徘徊していく。
  次第に神輿は傾き始め、担ぎ手は神輿を寸分のところで倒さずにこらえるが、しまいには担ぎ手と共に豪快に地面に叩きつけられる。今ではこのように神輿を倒すことは珍しく、昔の三之宮は大人神輿を倒していた。

神輿を傾ける倒れそうで倒れない
寸止めでこらえる豪快に倒す

  かつては15歳から60歳までの氏子が総出で神輿に奉仕して、東西五里南北四里にわたる広範囲から集まる大勢の氏子で祭場は埋まったという。さらに遠く駿河・伊豆・武蔵・甲斐からも参集し、祭場に参詣できない沿道の人々は5社の神輿が通過するのを待ち受けてお参りしたといわれる。



鷺の舞

  「鷺の舞(さぎのまい)」は国府祭に奉納するもので、祭場に近い所に組み立てられた船形舞台(高さ七尺・長さ一二尺・幅九尺)には屋形がついている。笛・太鼓の囃子にあわせて舞い、囃子方も合わせて5人で舞うという。この鷺の舞は京都より伝えられ、古くは国司や相模の豪族達をもてなすための舞であった。舞台が舟の形をしているのは、当時の貴族文化・寝殿造の影響である。鷺・竜・獅子の舞によって天下泰平や五穀豊穣が祈願される。

船形舞台の小屋中にしまわれた舞台
小屋から出された舞台祭典に向けて紅白幕を張る
後方のトラックまで渡し屋根の下にも紅白幕を張る
準備完了

  鷺の舞は六所神社に古くから伝えられているもので、六所神社に所属する舞太夫によって奉納されるものであった。江戸時代には六所神社の舞太夫は8軒あり、萩原・小沢・笠高・大橋・松永などで六所神社の近くに住んでいた。舞太夫は六所神社の社役を勤めるだけではなく、神楽師として方々に頼まれてたという。
  明治になり祭りは保護がなくなり昭和中頃に途絶えたが、江戸末期に笠高家が伝えたといわれる曲と舞が足柄上郡中井町の八幡神社に伝えられており、平成7年(1995年)に同社の舞太夫に教えを乞い復活した。現在、国府でこの舞を伝えているのは安田氏だけになっており、安田氏は笠高氏の系統をひいているといわれる。
  鷺の舞では笛が最も重要であるが今は笛の吹き手がいないため、中井町の八幡神社の舞太夫に応援を頼んでいるという。中井の八幡社でも4月20日に行われる祭りに鷺の舞が舞われるが、これは昔、笠高氏が伝えたもので、曲・舞ともに六所神社と同じものであるという。舞は「鷺の舞」・「竜の舞」・「獅子の舞」の順で奉納され、鷺の舞は天下泰平を、龍の舞は五穀豊穣を、獅子の舞は災厄消除を祈願すると伝えられている。3種類の舞はいずれも簡単ではあるが、盛時の古雅をしのばせる舞である。このとき仮面が使われるが、鷺・竜は頭に冠状につけるもので張子づくり、獅子は普通の獅子舞に用いられる獅子頭である。
  国府祭では2回奉納され、第1回が総社である六所神社の神輿が到着し、式典が執り行われる14時40分頃に行われる。第2回目は5社の神輿が大矢場に揃い、式典が行われる15時30分頃にそれぞれ行われる。鷺の舞は総社と5社の神輿が行在所に着き、大矢場での神事が行われている間に奉納されるものであるが、総社と5社の入退去の際も送迎の曲(舞は入らない)が奏される。

左から獅子・鷺・竜の面船頭の面を
後方に移動鷺の面を被り
扇子を持つ鷺の舞の説明があり
舞が始まる左右の動きを
数回繰り返す舞が終わると面を取る
続いて竜の面を被り手に・・・を持つ
こちらも左右に数回移動し
舞を終える竜の面を外し
獅子頭を被る舞はどれも簡単だが
盛時の古雅をしのばせる
舞の間は笛と太鼓が入る
舞が終わると面を船頭に戻す


神事次第

  5月5日の祭典当日に行われる神事については、神事次第を参照。


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