一之宮いちのみや

神揃山までの道筋

  



往路

  寒川神社の古式祭記によると、5月4日の日没後、国府六所管より奉迎の使者として社人1人が騎馬にて当社に参着し、当社の神輿は翌5日の午前5時に氏子たちに担がれて出発した。出発した神輿は当社大門脇の旧社地の「端午山」と称するところでしばらく休憩し、一之宮村より田村の渡しを船で渡って相模川対岸の大住郡田村に着輿、それより厚木・平塚道に出て平塚新宿から東海道を上って、大磯浜を迂回して小磯より神揃山に至った。その渡御の途中が長いだけではなく、風雨のときなどは難儀することもひととおりではなく、かつては相模川を渡過の際に風浪のため船がくつがえり、神輿を川に流したこともあったという。
  神輿の道筋は大正13年における国府祭の復活後に少しこれを変じている。発輿後は一之宮→田端→荻園を経て東海道に出て、今宿から相模川を橋で渡って一路西へ進み、馬入→新宿→本宿→大磯に至り、大磯で小憩の後に小磯→中丸・と進み中丸から右折して神揃山に到着している。



復路

  一方、帰路は道を変えて馬入の渡しを通るのが例になっていたようで、その際は平塚八幡宮の神輿が渡し場まで見送っていたという。そういう場合えてして争いが起こりがちのもので、国府祭でも渡御の最中や引継ぎの際に争いがあったという言い伝えは多く残っている。次の伝承もその1つである。
  天保9年(1838年)5月5日の帰路において、渡船に乗り移ろうとした一宮の神輿に八幡宮の神輿を担いでいた馬入の者が狼籍をしかけ、一宮の神輿は梅雨期で増水していた相模川に落ち、激流にのみこまれて行方がわからなくなったという。死者3名、怪我人多数を出す大事件となり、狼籍者16名は打首の刑と申し渡されたが、実は代官江川太郎左衛門の温情によってチョンマゲを切ることで許されたという。馬入村ではそのことがあってからはさまざまな災難が続いたので、村人達は一宮様の祟りであるといって一宮神輿通行の際は土下座をして拝んだという。
  神輿流出という災にあった一宮では三百石という懸賞をかけて海沿いの村々に捜索を依頼したところ、その数日後に南湖の浜で地曳網をひいていた鈴木孫七が沈んでいる神輿を発見し、引き揚げて一宮に通知した。一宮では5月15日に迎えに行き、還御したという。現在、7月15日の深夜から未明にかけて寒川神社の浜降祭が茅ヶ崎市南湖の浜で行われているが、これはさきの神輿流出事件に由来するといわれている。

  


戻る