神社
神社の起り
神社といえば鳥居があり、拝殿・本殿などの社殿があるのが今日普通の姿である。しかし、この様な形式の神社が太古の昔からあったわけではない。日本の神は山上や御神木といわれる特定の樹木、鎮守の杜などに降臨すると考えられていたため、古くは神社に社殿がなく山上や鎮守の杜などがそのまま神社になった。しかし、時が経つにしたがって大切な神々にはそれにふさわしい家が必要だと考えられるようになり、伊勢神宮や出雲大社に見られる荘重な「社殿」が造られるに至った。
現在でも奈良の「大神(おおみわ)神社」や和歌山の「那智大社(なちたいしゃ)」には、参拝のためだけの拝殿があって神を祀る本殿がない。前者は背後の「三輪山(みわやま)」が、後者は「那智の滝」が御神体になっている。このように本殿を持たない神社は全国に少なからず存在し、古代の神社の面影を現代に伝えている。
神社の原始的な姿として、先ず考えられるものに「神籬(ひもろぎ)」・「磐境(いわさか)」がある。神籬とは神を宿し留める樹(き)のことで、樹木そのもの、または真垣(籬)のように並立した樹のうちに神を請じ祭るものをいう。いまでも建築現場などで地鎮祭を行うとき、臨時に設えた祭場をよくみかける。また、磐境は岩石を立てて並べ、あるいは円形なり方形なりに敷き並べて祭場としたものである。
神籬 | 磐境 |
次に神社の古訓に「社(やしろ)」と「宮(みや)」とがあることから神社の起源を考えてみる。ヤシロは社・杜と書き、ヤシロとはヤ(屋)のシロ(代)の意味である。屋は建物で、代はある使用目的のために占有された場所のことである。つまり、屋代は祭りを行うための建築予定地《神庭(かむにわ)》であり、神を祀る建物を仮設するところから社と書かれたのである。古くはこの祭場そのものは特定地であっても、祭礼に臨んでそこに神を迎えるための簡単な建築物を設け、祭が済むとこの建築物は撤去したのである。あるいはそれが建築物でなく、標的としての神木か巨石などの場合もあった。いずれにしても祭りの場は必要であっても平素そこに殿舎は必要でなかった。
これに対してミヤは御屋で、時代が進むとともに人間に住居が必要なら神のためにも住居は必要だと考えられ、特に朝廷(皇室)に縁故深い神々に対して宮殿を設けることがはじまった。『延喜式神名帳』に所載された2861社の内、大神宮は伊勢の内宮と外宮、神宮は下総の香取神宮と常陸の鹿島神宮、宮号のついたのは伊勢の度会(わたらい)宮・月読宮など六宮と九州の箱崎(はこざき)宮・宇佐(うさ)宮だけで、他は全て神社号であることがこの推定を裏付けるものといえる。
また、いま一つ神社の起こりとして考えられるものに「ホクラ」がある。ホクラは「秀倉」・「神庫」・「神府」などの字があてられるように、氏族神にちなむ宝物を神宝(かんだから)の名の下に、祭祀の地に倉庫を造りそこに奉納したのにはじまる。
延喜式と神名帳
日本は中国に比べると古代においては文化的にはるかに後進国で、応神(270〜310年?)・仁徳(313〜319年?)朝あたりからの海外交渉の活発化に伴い、急速に多量の大陸文物が輸入されるようになると文化の進歩が顕著になった。こうして大化改新(645年)の時には国家の行政組織や法制もある程度成文化(単行令の形式で)され、これは隋・唐の大陸法を母法としたものである。隋・唐の法制は「律(刑法)」・「令(行政法)」を国家の基本法とし、その基本法を改訂するものとして「格(きゃく)」が制定され、それらの施行細則として「式」が設けられた。これを「法曹(ほうそう)の四書」と呼ぶ。
日本でもこれに倣い主として隋・唐の両法を参考にし、国情に適するようにとの配慮を加えて、次のような纂修(さんしゅう)、ついで改修が行われた。
名称 | 巻数 | 撰進 | 施行 | 備考 | |
律 ・ 令 | 近江令 | 22 | ― | 天智天皇称制 7年(668年) | 即位元年 |
近江律 | 律なし | ||||
天武令 | 22 | ― | 持統天皇3年 (689年) | 飛鳥浄御原朝廷令 | |
天武律 | 律は存在したと推定されるが巻数など不詳 | ||||
大宝令 | 11 | ― | 大宝元年 (701年) | 古令 | |
大宝律 | 6 | ― | ― | ||
養老令 | 10 | 養老2年 (718年) | 天平勝宝9年 (757年) | 新令・今令 | |
養老律 | 10 | ― | |||
格 ・ 式 | 弘仁格 | 10 | 弘仁11年 (820年) | ― | |
弘仁式 | 40 | 弘仁格 と同時 | 天長7年 (830年) | 改正して承和7年(840年)頒行 | |
貞観格 | 12 | 貞観11年 (869年) | ― | ||
貞観式 | 20 | 貞観13年 (871年) | ― | ||
延喜格 | 12 | 延喜7年 (907年) | ― | ||
延喜式 | 50 | 延長5年 (927年) | 康保4年 (967年) | ※以上、三代格式という |
施行細則である式だけにつていうと、大宝律令施行以来しだいに出来上がってきた式をひとまず集成したのが『弘仁式』で、それを改訂したのが『貞観式』である。これら2式を合わせておさめ改補したものが『延喜式』であり、式の最終的集大成である。この延喜式は平安中期以降しだいにその規定どおり行われなくなったとはいえ、律・令と共に江戸幕府の末まで効力をもった国家の基本的法典であった。弘仁・貞観の2式は今日その逸文をとどめるにすぎないが、延喜式は幸いにも完全に伝存している。
『延喜式』は行政事務所管の官衙を部門として、その部門別に詳細な規定を集めたものであることから『諸司式』ともいわれる。始めの十巻は神祇・行政に関するもので「神祇式」といわれ、祀?典(してん)の方法が詳密に規定されている。また、巻第十一「太制官式」から巻第五十「雑式」に至るまでの規定のなかにも、諸司の神祇・行政関連規定がある。次に示すのは神祇式といわれる巻第一から十まである。
巻 | |
第一 | 四時祭・上 |
第二 | 四時祭・下 |
第三 | 臨時祭 |
第四 | 伊勢大神宮 |
第五 | 斎宮(さいぐう) |
第六 | 斎院(さいいん) |
第七 | 賤祚大嘗祭(せんそだいじょうさい) |
第八 | 祝詞(のりと) |
第九 | 神名・上 |
第十 | 神名・下 |
この巻第九神名・上と第十神名・下をあわせて「神名帳」または「神名式」と呼び、神名帳に載せられた神社のことを「式内社(しきないしゃ)」と呼ぶ。巻第九の始めには次のように記載されている。
天神地祇三千一百卅ニ座
社二千八百六十一処
前二百七十一座 ※「前」は相殿に祀るものの意味
大四百九十二座
三百四座 並預ニ祈年・月次・新嘗等祭之案上官幣一?。
就中七十一座預ニ相嘗祭一?。
一百八十八 並預ニ祈年国幣一?。
小二千六百卅座
四百卅三座 並預ニ祈年案下官幣一?
二千二百七座 並預二祈年国幣一?
これ以降は宮中卅六座の神を始めとし、京中・五畿内・東海道の神名を列記する。五畿内以下の諸国についてはそれぞれの始めに国内の総座数を、次に大・小各別の座数を記し、次いで郡別に神名を記し、ニ座またはそれ以上の場合にはその旨を、また「(並)名神、大、月次、相嘗、新嘗」 「名神、大、月次、相嘗」 「名神、大、月次、新嘗」 「大、月次、相嘗、新嘗」 「大、月次、新嘗」 「名神、大」 「鍬靱」 「一名柿本社」などと註を加えている。巻第十には東山道・北陸道・山陰道・山陽道・南海道の各国の神名を、前巻と同様に列記している。
式内社
上記のように「式内社(しきないしゃ)」とは『延喜式』の神名帳に記載された神社のことであるが、『延喜式』以前の『貞観式』や『弘仁式』においても、これらの神社のうちの多くの名前はすでに掲載されていたものと思われる。また、『古語拾遺』では神名帳は天平年間(729〜749年)において中臣(なかとみ)氏が勘造したと説いていることから、奈良時代のころから神名帳は存在していたと考えられる。これら式内社といわれる神社の起源はさらにもっと古く、その多くは古墳時代あるいはそれ以前に発生していると思われ、相模国の式内社においてもその例外ではない。
式内社は古い由緒を持つ神社として、特に日本歴史の研究が盛んとなった江戸時代中後期から重要視されたが、重要視された理由は複雑である。平安中期以降の律令制の衰退にともない官社の維持ができなくなって社殿の荒廃をきたし、江戸時代中期までには多くの式内社が滅亡して所在不明となった。そうした式内社を探し当てる研究が活発化したからに他ならない。明治4年(1871年)に設置された社格制度で高位に列せられる条件には、由緒として式内社であるかどうかが重視された。また、村の鎮守社となっていた式内社も少なくないが、その場合では中世以降に八幡宮や祇園社などに祭神も社号(神社名)も変化しているのが普通で、明治以降に式内社の祭神と社号に復し、中世以来の祭神はその相殿神(主祭神の脇に並べて同じ本殿に祀られる祭神)とされた。ただし、式内社に復す際に確実な証拠が必ずしもあったわけではなく、地名や不確かな伝承に基づいて所在不明となっていた式内社に比定された例も少なくない。ときには同一の式内社に対して2・3社が候補とされていることもあり、それを「論社(ろんしゃ)」と称している。今日、各神社の由緒書では、式内社であれば必ずそれが疑われている。
官社(官幣の社と国幣の社)
『延喜式』の神名帳に載せられた神社は全て当時の「官社」で、官社というのは神祇官(神祇・行政の中央機関)が所管・所祭する社という意味の語である。官社の制度の起こりは奈良時代(8世紀)にあるが、それ以前にも全国多数の神社のうち、農耕・交通・軍事など、国家の大事、民生公共の福利に関して霊験の著しいものに祈請・奉幣した例は史上によく見られる。奈良時代になるとこれらを官社に列して国家的待遇で扱うことが始められ、その手続きは国司の選考・上申に基づいたが、中には崇事する氏族代表者の申請によるものもあった。
官社に列せられると神祇官の神名帳(官社帳とも)に登載され、農本主義の時代のこともあり、毎年2月の祈年祭(としごいのまつり)には神祇官の幣帛(へいはく)が奉られて祭られた。これが官幣供進で、当時の官社は全て官幣の社であった。ところが、遠い地方の神職が官の幣帛を受けて帰り、これを奉奠(供えること)することは非常に困難であった。そこで該地の神社へは国司が官に代わって奉幣することに改められ(その資には正税が用いられた)、これが「国幣の制」で延暦17年(798年)からのことである(『類聚国史』)。ここにおいて、官社のうちに「官幣の社」と「国幣の社」の別が生じたのである。
山城国(やましろのくに)以下五畿内の社は全て官幣の社(大社・小社の別あり)で、その他の諸国には武蔵の氷川神社など少数の官幣の社(いずれも大社)があるが、九州(九国・二島)にはまったく官幣の社がない。官幣の大社には祈年祭のほか、月次・新嘗の各祭に奉幣されるものがあり、とりわけ71座には相嘗祭(あいなめのまつり)にも幣帛を奉った。五畿内の官幣の小社のうちには祈年祭の奉幣にあたって鍬(くわ)・靱(ゆき)、あるいはそのいずれかを加えて奉られるものがあった。官幣の社の大・小、国幣の社の大・小の区別は神験の程度によるものであるが、神祇官で幣帛を分けるとき、これを案(つくえ)/八足案(やつあしつくえ)の上に置くものが官幣の大社、案の下の薦(こも)の上に置くものが小社であった。国幣の大・小の別も同様で、国司が幣帛を分けるときには、神祇官における場合に準じて行ったものであろうと思われる。
官社 (神祇官所管) 3132座 2861所 | 管幣の社 (神祇官所祭) | 737座 573所 | 大社 | 304座 198所 |
小社 | 433座 375所 | |||
国幣の社 (国司所祭) | 2395座 2288所 | 大社 | 188座 155所 | |
小社 | 2207座 2133所 |
次に「名神(みょうじん)」は各社の零神の意で、官社中でも特に神験の著しいものである。名神は国家・民生の大事にあたって臨時に行われる奉幣・祈請の対称であり、『延喜式』の神名帳によれば全て305座で(臨時祭式では285座であるが、この式は追討するのを忘れたのであろうとされている)、いずれも官幣の大社と国幣の大社に限られている。また、「座」というのは幣帛を供進するときの神の単位であり、1所(1社)に2座またはそれ以上の神を祀るものもあるため、所数は座数よりも少ない。
国内神名帳
上・中世において、諸国の国司(長官は国守)は諸政の主として神祇・行政をなしとげる任務を持っており、国守が任国に下がるとまず管内の官社(延喜式内社)を始めとして、主要神社に奉告を兼ねて参拝した。これを「神拝(じんぱい)」とも「巡拝」ともいう。そして恒例・臨時の祭祇に奉幣(ほうへい)・祈請し、社殿の造修、神領の監督、神職の補任(ぶにん)等のことに携わった。それらのことのために管内の主要神社(管社以下)の名簿(台帳)を作り、これが「国内神名帳(略して国内帳・国帳)」といわれるもので、今日『和泉国神名帳』以下10数ヵ国のものが伝存している。そのうち『上野国神名帳』の579座が最多数の記録で、仮にこれを500所(500社)として全国66ヵ国2島(壱岐・対馬)に及ぼして合計すると3400社となり、これくらいが中世の神社数であろうというのが通説になっている。
相模国の国内神名帳は現存していないが、おそらく数百社はあったと思われる。ちなみに隣接する『伊豆国(いずのくに)神階国内帳』には95ヵ所が、『駿河国神名帳』には292所が録上されている。
諸国には一の宮・二の宮などがあり、国司が管内の崇敬社(いわゆる国内帳社)に対し神拝・奉幣をするとき、その最首となるものが一の宮であり、以下順次二の宮・三の宮などの称が生じた。平安中期以降そのことが固定し、おのずから一種の社格のようになった。相模の国では四の宮までが『吾妻鏡』建久3年(1192年)8月9日の条に見えている。
一の宮・・・寒川 式内 二の宮・・・川匂 式内
三の宮・・・比比多 式内 四の宮・・・前鳥 式内
平安末期になると国司が神拝・奉幣の煩労を省こうとして、国衙に近い官社などの神社に管内の崇敬社の全部または代表的名社の神を合祀し、ここで代表的神事を営むようになった。これを「総社(惣社とも書く)」といい、中には国衙の近くに1社を新しく建てて総社にあてたものもあるようである。武蔵の大国魂(おおくにたま)神社(もと官幣小社・府中市)、尾張の大国霊(おおくにたま)神社(もと国幣小社・稲沢市)などがこれであり、相模国では六所神社(もと郷社・中郡大磯町国府本郷)がこれである。
相模国には一の宮や総社の他にも、箱根神社(もと国幣小社・足柄下郡箱根町)、鶴岡八幡宮(もと国幣中社・鎌倉市)、荏柄(えがら)神社(もと村社・鎌倉市)、甘繩(あまなわ)神明宮(もと村社・鎌倉市)、江島(えのしま)神社(もと県社・藤沢市)などの古社もあり、さらには高来神社(もと郷社・大磯町)もある。
ちなみに戦前の神奈川県の神社には、鶴岡八幡宮(国幣中社)・鎌倉宮(官幣中社)・箱根神社(国幣小社)・寒川神社(式内、国幣中社)のほか、県社6、郷社47、村社702、無格社498の計1253があったが、今日では宗教法人として存在するものが1110社である(全国では約8万社)。
式内社の分布
式内社は全国に渡り2861?(官社と式内社の違いは?)所に分布するが、早い時期に開拓されて人口が密で、人々の生活程度の高い所、あるいは特殊な政治的重要地に数多く分布している。例えば伊勢国(いせのくに)の二百五十三座、出雲国(いずものくに)の百八十七座、大和国(やまとのくに)の二百八十六座、近江国(おうみのくに)の百五十五座などはその多いほうの例であり、薩摩国(さつまのくに)の二座などは少ないほうの例である。遠く離れた地であっても壱岐(いき)・対馬(つしま)二島は辺要の地として、それぞれ二十四座・二十九座の式内社を持っている。
関東圏において相模国の式内社は十三座にとどまり、上野国(かみつけのくに)の十二座、下野国(しもつけのくに)および下総国(しもふさのくに)の各十一座と同程度である。さらに比較すると上総国(かずさのくに)および安房国(あわのくに)の各五座よりは多いが、近接の伊豆国の九十二座、武蔵国の四十四座などに比べても少なく、常陸国(ひたちのくに)の二十八座、甲斐国(かいのくに)の二十座にもおよばない。相模国が上国でありながら式内社が少ないのは、当国の大部分は8世紀になっても広々とした草原に覆われ、しかも沼沢が多く、人家のまれなところであったからと思われる。
奈良時代の全国の人口は500〜600万人だろうと推定されており、その分布は五畿内とその周辺の国に密で、西に東に遠ざかるにつれて人口密度は減っていったと思われ、東国は特に人口希薄な地であった。そのため、政府では治安の維持と開拓労働力の確保のため、7〜8世紀にしききりに帰化人を東国あるいは武蔵・上野・下野などの諸国に移し、これに公糧を供給するとともに開拓に従事させていた(日本書紀・続日本紀)。例えば、天智天皇5年(666年)には百済の男女二千余人を東国に住まわせ、三年間官食を供したのがそれである。このときの「東国」の中には相模国も含まれたいたと察せられ、高来神社の存在もこれに関連する可能性も否定できない。
相模国十三座
『延喜式』の「神名帳」の中で、相模国の十三座に関しては巻第九に掲げられている。全十三座はことごとく国幣の社であり、そのうち「名神・大」が1社で他は全て小社である。また、旧大住郡に4社と旧高座郡に6社あることは、相模国の二大中心地域があったと考えられる。式内社はそれまでの部落社または地方的地位から国弊社的地位に格付けられ、その保護の下に発展していった。
相模国十三座 大一座 小十二座
足上郡一座 小
寒田(さむた)神社
余綾郡一座 小
川勾(かわわ)神社
大住郡四座 並 小
前鳥(さきとり)神社 高部屋(たかべや)神社
比比多(ひびた)神社 阿夫利(あふり)神社
愛甲郡一座 小
小野(おの)神社
高座郡六座 大一座 小五座
大庭(おおば)神社 深見(ふかみ)神社
宇都母知(うつもち)神社 寒川(さむかわ)神社 名神大
有鹿(あるか)神社 石楯尾(いわたてお)神社
相模国十三座のうち本来の式内社であることに議論のあるのは石楯尾(いわたてお)神社だけで、あとの十二座はいずれも昔から式内社であることがはっきりしている神社ばかりである。この点は武蔵国の式内社の半数近くの二十座ほどが、どれが本来の式内社であるかにつき議論が分かれていて、明瞭でないのとは大いに相違している。もっとも石楯尾神社については論社が5社も6社もあり、そのうち有力なものは2社である。1つは神奈川県津久井郡の名倉に、他の1つは同県同郡の上岩(かみいわ)に鎮座しており、いずれも相模国の北端、甲斐国との境に近い幽邃の山地に位置している。
相模国の式内社の分布状態をみると、その大部分は2つのグループに分類できそうである。1つは大山ならびにこれに連なる山塊の裾がのびて、沖積平野に臨む台地に沿いつつ鎮座しているものであり、他の1つは相模川の東側の台地の上で、だいたいにおいて南北に分散しているものである。前者には西から東にあげてゆくと寒田神社・比比多神社・阿夫利神社・高部屋神社・小野神社の5社があり、そのうち阿夫利神社は大山の山麓ではなくその頂上に本社がある。後者すなわち相模川の東側の式内社としては、北から南にあげると有鹿神社・宇都母知神社・寒川神社・大庭神社の4社がある。以上の9社を除いた残りの4社は比較的海岸に近いところ(川匂神社・前鳥神社)や、武蔵国または甲斐国との国境に近いところ(深見神社・石楯尾神社)に、独立的に散在している。
相模国の式内社が大山山塊の麓と相模川の東側に多くまとまっているということは、古代の村落がこの地帯において早くから開かれ発達していたこと、従って比較的大きい古墳の数も多いこと、また古代の交通路が通じて相互に連絡していたことなどと関連があると思われる。
社名 | 元 社格 | 現鎮座地 | 式の郡 | |
1 | 寒田神社 | 県社 | 足柄上郡松田町松田惣領 | 足上郡 |
2 | 川勾神社 | 郷社 | 中郡二宮町 | 余綾郡 |
3 | 前鳥神社 | 郷社 | 平塚市四之宮神戸 | 大住郡 |
4 | 高部屋神社 | 郷社 | 伊勢原市下糟屋 | |
5 | 比々多神社 | 郷社 | 伊勢原市三ノ宮 | |
6 | 阿夫利神社 | 県社 | 伊勢原市大山 | |
7 | 小野神社 | 郷社 | 厚木市小野 | 愛甲郡 |
8 | 大庭神社 | 郷社 | 藤沢市大庭 | 高座郡 |
9 | 深見神社 | 郷社 | 大和市深見 | |
10 | 宇都母知神社 | 郷社 | 藤沢市打戻 | |
11 | 寒川神社 | 国幣 中社 | 高座郡寒川町宮口 | |
12 | 有鹿神社 | 郷社 | 海老名市河原口 | |
13 | 石楯尾神社 | 郷社 | 津久井郡藤野町 |
※左の番号は延喜式の記載順を示す
社号と祭神
神社の社号は一般的に祭神名あるいは地名によって定められているが、式内社には独特な社号すなわち個性的な祭神名や地名その他のものが多い。例えば広島県福山市の「多祁伊奈太伎佐那布都(たけいなたぎさやふつ)神社」のような長い社号や、奈良県大和郡山市の「矢田坐久志玉比古(やたにいくますくしたまひこ)神社」のような地名(矢田)と祭神名(久志玉比古命)を示した社号、さらには京都府大山崎町の「自玉手祭来酒解(たまでよりまつりきたるさかとけ)神社」のように途中に返り点を打たないと読めない社号もある。村の鎮守社の社号は祭神名が一般的であったが、近代になってから地名に改められた例が多い。その理由は八幡神社や熊野神社のように同名の神社が多くて区別しにくく、神社合祀によって複数の神社を統合したことにもよる。また、明治以降に式内社の社号に復したした神社もあり、神社の歴史を調べる際には明治維新以前の社号を確認することが大切である。
神宮号は古代の特別な大社だけに使われた社号であって、伊勢神宮・熱田神宮(名古屋市)・気比神宮(越前一宮、福井県敦賀市)・香取神宮(下総一宮・千葉県佐原市)・鹿島神宮(常陸一宮・茨城県鹿島市)などがあった。官号は歴史的に実存した(あるいは実存したとされる)人物を祭神とする神社に多く、応神天皇を祀る八幡宮、仲哀天皇を祀る香椎宮(福岡市)、菅原道真を祀る天満宮、徳川家康を祀る東照宮などが著名である。明治の社格制定にともなって神宮号や宮号の使用が厳しく制限され、八幡宮は八幡神社、天満宮は天神社、東照宮は東照社に改称された。天満宮の本社である北野天満宮(二十二社、京都市)は北野社と改称されたが、戦後になって以前の由緒ある北野天満宮に復されている。
神仏分離
明治元年(1868年3月に明治政府の神祇事務局から諸社へ対して布達があり、いわゆる神仏分離が始まった。一連の布達や太制官布告を「神仏分離令」とか「神仏判然令」と呼んでいる。その主な内容は「権現」や「牛頭天王」といった仏教的な新号を止めること、仏像を神体とすることを止め、懸仏・鰐口・梵鐘・仏具などを神前から撤去すること、社僧の社務を禁じることなどであった。これにより神宮寺や別当寺は廃止され、社僧は追放、神社祭礼から仏教的行事が排除された。神社境内にあった仏教建築は取り壊され、仏教的な社号や神号も改められた。
明治維新の神仏分離によって仏教的な社号の停止が命じられており、それにともなって社号の変更が全国に実施された。とくに山王権現や金比羅大権現や熊野権現のような権現号は、本来は仏であるが衆生(しゅじょう)を救うために仮(権)の姿で現れた神という本地垂迹説に基づくものであり、祇園社(牛頭天王社)はそもそも仏教の祇園精舎からきたものであったことから、明治政府の槍玉にあげられた。山王権現は日吉神社や日枝神社に、金比羅大権現は琴平神社や金刀比羅神社に、祇園社は八坂神社や八栄神社あるいは祭神名をとって素戔鳴神社や須佐神社などに改称させられた。竜王社・聖霊社・弁財天社・妙見(妙現)社なども社号変更の対象となった。社号変更にともない牛頭天王や金比羅大権現のような仏教的な祭神名も、素戔鳴尊や大物主命など記紀に登場する祭神名に変更された。
明治政府の旧社格
村の鎮守社とは江戸時代の村にあった複数の神社の中で最大の神社で、のちに明治政府から一般的に「村社(そんしゃ)」という社格を与えられていた神社である。従って鎮守社は村や町などの単位で地縁的に定まっている信者である氏子によって祀られるため、「氏神社(うじがみしゃ)」とも呼ばれる。氏子は先祖代々の居住者である必要はなく、各地で行われている年一度の祭りの多くはこの氏神社の祭礼である。村の鎮守社の多くは中世の在地領主によって勧請されたという由緒を持ち、それぞれの社殿に従えばその勧請の時期は14世紀から16世紀に集中している。近世初頭の天下統一の過程において、とくに慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおける戦後処理による西軍大名の取り潰しと東軍大名の西日本への加増転封にともなって、神社を護持していた在地領主が一掃されてしまい、取り残された神社が村人(氏子)の神社へと変化発展したものである。
在地領主は一般的に武家(または武士)であったので、源氏の氏神である八幡宮(明治政府により八幡神社と改称)が多く、そのほかに熊野権現(神仏分離にともない熊野神社と改称)、祇園社(神仏分離で八坂神社・清神社・素戔鳴神社などに改称)、賀茂神社、諏訪神社といった有名な神社の分祀が圧倒的に多い。それらの中には平安時代の荘園の鎮守社であった神社も含まれている。現在、重要文化財に指定されている神社本殿の大部分は、かつて村の鎮守社の本殿である。
村社の上に「郷社(ごうしゃ)」があり、その上に「県社(けんしゃ)」または「府社」が明治政府によって定められていた。府・県社のさらに上には「官幣社(かんぺいしゃ)」と「国幣社(こくへいしゃ)」が定められており、それぞれ「大社」・「中社」・「小社」の三等級があった。最高位の官幣大社から国幣小社までの6階級で、あわせて官国幣社と呼ばれていた。官幣社は例祭に皇室から幣帛を奉る(奉幣)神社で、皇室に崇敬された神社や皇室に関係する祭神の神社である。国幣社は国庫から幣帛を奉る神社で、古くからの有力神社や国土経営などに功績のあった神を祀る神社である。官国幣社は一宮など歴史的に著名な有力神社であったり、本殿形式に特徴があったりする重要な神社がその多くを占めている。この他には特別な功績のあった臣下を祀る別格官幣社が創設され、官国幣社のさらに上位には皇室の祖神である天照大御神を祀る伊勢神宮(正式名称は神宮)が君臨した。
昭和13年(1938年)の統計によれば、官国幣社が205社、府県社が1098社、郷社が3616社、村社が4万4823社あった。どの社格にも列せられなかった神社は「無格社(むかくしゃ)」と称され、6万496社が存していて、神社の大半は社格制度では無視されていたことになる。無格社の多くは由緒不詳とされ、社殿の規模も小さな神社であったが、村社をはるかに超える社殿や境内地をもっていた礼もあり、村社であっても由緒不詳は少なくない事例であった。明治の社格決定は担当役人の資質によって大いに左右され、明治末期の神社合併政策で廃社となった神社の大部分は無格社であった。明治末期の社格制度は太平洋戦争の戦後処理で撤廃された。
神社合祀
神社は全国に9万6千社ほど存在するとされているが、路傍や山野の祠(小型の本殿だけの神社)を含めるともっと多いと考えられる。戦前は神社が国家により直接や間接に管理されていたので正確な統計がなされており、明治31年(1898年)には19万1898社もの大小さまざまな神社が存在し、この中には小さな祠もすべて含まれていた。しかし、明治39年(1906)年に内務省(この中の神社局が全国の神社を統轄)が打ち出した神社合併の達しによって、大正5年(1916年)までには11万7720社に整理統合され、現存する神社数はほぼこの値に近いと考えられる。それ以前の明治4年(1871年)にも神社合併の触書が出されているので、江戸時代に全国に存した神社の総数は軽く20万社を超えていたと考えられる。
神社合併は付近の人々が信仰するだけの小さな神社では、社殿の維持管理や祭祀などが滞って神の威厳が損なわれるという理由から、小さな神社を廃社としてその祭神を村の鎮守社などに合祀させた。廃社となった神社の神体は合併先の神社本殿の中に移されて祀られることが多く、そのため鎮守社本殿の内陣には多数の神体が並べられるようになった。その際に、御幣や木札を新たな神体として合祀することも推奨されており、神体の変更がなされている。今日の本殿内部の有様は明治維新以前とは少なからず変化しており、合併先が有力な神社である場合にはその本殿内には合併されず、その境内に祠を並べて祀られたり、合祀社の本殿を新設(または廃社となった本殿を移築して再利用)してそこへまとめられたりした。
村の鎮守社ぐらいの比較的大きな神社においては、主祭神だけではなく別の神も祀られているのが普通である。主祭神を祀る本殿内に合わせ祀られた神を相殿神といい、境内に別に本殿を建てて祀る場合には摂社あるいは末社と呼ぶ。摂社は主祭神と関係の深い神あるいは格式の高い神を祀り、末社にはそれ以外の神、例えば合祀した神社の祭神などを祀ることが普通である。摂社・末社の本殿に対して、主祭神の本殿は本社という。
鳥居
鳥居は神が降臨する神域と人間が住む俗界を区画するもので、神社に常設の社殿がある以前から存在した。つまり、社殿はなくとも鳥居があればそこから神の聖域、すなわち神社になる。今でも鎮守の杜の入口に鳥居だけが建てられ、本殿のない神社は各地で見ることができる。
鳥居のルーツについては様々な説があり、インドのストゥーパイの「トラーナ」という門の形が鳥居に似ており、また、トラーナという音もトリイに通じることからこれが鳥居の起源であるという説がある。また、中国では宮城や陵墓(りょうぼ)の前に建てられた「華表(かひょう)」という門が鳥居の起源だという説も古くからあり、ちなみに鳥居の中国語訳はこの華表である。さらに日本では古くから二本の柱の上部に注連縄を渡した「しめ柱」があり、これが鳥居の原形だという説もある。この他、朝鮮や満州などアジアの様々な地域に見られる門に鳥居のルーツを求める説があるが、はっきりしたことは分っていない。
鳥居は原則として4本の柱より成る。2本は左右の「立て柱」、1本は2本の立て柱の上部を貫いている「貫(ぬき)」、もう1本は上部を渡っている「笠木(かさぎ)」という。また、鳥居の用材は木製が基本であり、「素木(しらき)」もあれば「朱塗」もあるが、中世からは「石鳥居」・「唐金(からがね)鳥居」もあった。このように4本の丸太を使って組み立てるのが鳥居の基本形であるが、時代と共に様々な形の鳥居が現れた。
鳥居の数は神社によって異なり、特に決まりはない。小社は1基だが、2基以上も多い。皇大神宮儀式帳に「御門十一間」とあり、伊勢神宮では古く鳥居のことを御門といった。のち入口に近い方から一鳥居、二鳥居と呼び、公喞が勅使として神宮に参向するときは、一鳥居で下馬、二鳥居で御祓(おはらえ)をした。境内に鳥居の数が多くて有名なのは、京都伏見の稲荷神社をはじめ全国の稲荷神社で、奥の院などに通ずる参道には奉納された鳥居が林立している。
最も古いのは伊勢神宮に代表される「神明鳥居」で、これに続いて鹿島神宮(茨城県)が発祥の地といわれる「鹿島鳥居」・「明神鳥居」などが現れた。後世、明神鳥居は最も普及し現在でもよく見られる。また、広島の厳島神社でおなじみの「両部鳥居」も少なくない。さらに特殊なものとしては奈良の大神(おおみわ)神社の「三輪鳥居」、滋賀県の日吉神社の「山王鳥居」などがあり、ひと口に鳥居といっても全国各地には特色のある鳥居が多い。
本殿
神社にはそれぞれいくつかの建物があるが、その中心であり基本となる建物は「本殿(ほんでん)」である。しかし、神社発生の由来からすればはじめは本殿はなく、拝殿の方が先に造られたであろうし、さらに遡れば建物自体は臨時的に設けられたもので、後世のような常住の社殿はなかったのである。それが、人間に住居が営まれるのと同様に、大切な神に対しても住居が必要という考え方が生まれ、神を奉安する本殿が造られるようになった。
本殿は近世以降の一般的用語であり、古くは「正殿(しょうでん)」・「宝殿(ほうでん)」・「御殿(ごてん)」・「神殿(しんでん)」などと記されるほうが普通である。古語拾遺に「凡(およ)そ神殿を造り奉る者は、皆須(すべから)く神代の職に依るべし」とあるのが神殿の初見で、これは「カミノミアラカ」と訓んだものと思われる。古語拾遺は齋部広成(いむべのひろなり)が目家の由来を述べたもので(807年撰)、その神代以来の家職として斎部の官(つかさ)のもの御木(みき)・麁香(あらか)の斎部を率い、斎斧(いみおの)をもって木材を伐採し、斎鋤(いみすき)をもって立柱の穴を掘ったと記している。同書にはまた神殿を一に正殿ともいい、これは古語で麁香というと注記がしてあることから、正殿の語も古いことがわかる。宝亀2年(771年)2月13日の大政官符(類聚神祇本源所収)に「天下諸社大中小神殿」とあるが、その同じ官符でも「神殿」と「正殿」とが混用されているので、すでにその頃に2つの呼び方があったのである。このことは皇太神宮儀式帳(804年)や、延喜大神宮式に正殿とあることによってもうなずかれる。
神殿はさらに「瑞殿」とも「宝殿」ともいった。瑞殿は古語拾遺に「古語美豆能美阿良可」と注記があり、「ミズノミアラカ」と訓まれた。宝殿はやや時代がさがり、中右記?の元永2年(1119年)11月1日の条に見える。このほか、地方の小社では石をもって宝殿を彫り抜くか、石を合わせて石殿を造る例が中世からあり、これを「石宝殿」と称した(和漢三才図会ほか)。また、土台を方形に築き上げた土壇に神を迎えるところから、神殿を「社壇」といった例もある(百練抄・春日権現験記など)。
初期の神殿の建築は素朴であり、時代とともに発達し変遷した。それぞれの文化の影響を受け、また仏教寺院のそれを採り入れたりしてたりして多様化した。その名称については古今要覧稿や神道名目類聚抄に、神明造・石間造(八棟造)・皇子造(春日造)・堂舎造(権現造)・相殿造(二間社)・禿倉(ほくら)造などと記されている。なお、元来の建築資材は木材(檜)であるが、のちには石造・金銅製もあり、いまではコンクリート製まである。また、塗り方も元は素木(しらき)であったのが、朱塗や中には黒塗の例(香取神宮など)もあらわれた。
権殿
正式の神殿に対して、「権殿(ごんでん)」と呼ばれるものがある。権は「かり」とも訓まれるように、仮に御神体を安置する御殿の意味であるが、これには常設のものと臨時のものがある。前者は「遷殿(うつしどの)」考えられていることろで、神殿を造営修復するにあたって一時的に御神体を移すところであり、後者は京都の賀茂別雷神社(上賀茂)のように必要に応じて仮殿を造る。また、石清水八幡宮(百練抄)・宇佐八幡宮(同左)・北野神社(康富記)などもその都度仮殿を別に造ったことが知られる。
しかしながら、伊勢神宮の場合はこれらとは異なり、非常の際を慮って特定の社殿を予め定めておき、これを仮殿とした。古来、「東宝殿」・「御饌殿(みけでん)」・「忌火屋殿」がそれにあてられていた。これと同じようなケースは他の神社にもあった。
拝殿
神殿の前面にあるのが「拝殿」で、これは字の如く神を祭祀し拝礼するために設けられた建物である。大和の大神神社には拝殿があって正殿がないが、これが神社の古い姿と考えられ、また沖縄の「拝所(うがんじょ)」が神社の一形式とされるのもそれである。
拝殿の語の最も早い例は宝亀2年(771年)2月13日の太政官符で、大社は「五間草葺、拝殿一宇〔高八尺〕」、中社は「三間板葺、拝殿一宇〔高七尺〕」、小社は「三間草葺、拝殿一宇〔高七尺〕」とある。中世になると春日権現験記に「若宮の拝殿」、高倉院厳島御幸記に厳島神社について「拝殿をたてたり」、吾妻鏡に「武蔵六所宮拝殿」などとみえる。
室町時代には一に「拝屋(はいのや)」ともいわれ、応永14年(1407年)の春日社造替日記に「拝ノ屋」・「拝屋」とある。また、拝殿は礼拝する殿舎であるから、平安時代の末頃から「礼殿(らいでん)」とも呼ばれた。吾妻鏡治承5年(1181年)正月の条に鶴岳若宮の「礼殿」とあり、百練抄文暦元年(1234年)2月の条に「北野宮礼殿」とあり、さらに伊豆走湯山縁起の永観元年(983年)の条に伊豆山神社の「礼殿」のことが見える。
拝殿の屋根は前引の文からもわかるように板葺と草葺(おそらくは萱葺)とがあり、その大きさは柱口三間くらいのものが一般的であったように思われる。なお、拝殿は大体においてどこの神社にもあるが、伊勢神宮と熱田神宮とにはこれがない。一般人はともに神殿前の外玉垣(とのたまがき)御門を拝殿と心得、ここから拝礼するのであって特別の例である。
一般に拝殿は神殿より大きく造られる。これは神殿には祭神が祀ってあり、人の出入りを硬く禁じているのに対して、拝殿には参拝のために大勢の人々が出入りするからである。神社の神殿と拝殿の関係は、寺院の「内陣(ないじん)(金堂にあたる)」と「外陣(げじん)(礼堂にあたる)」の関係と同じだが、寺院の本堂は内陣と外陣を一つ屋根の下に納めるのに対し、神社の本殿と拝殿はそれぞれ別棟にするのが一般的である。神道では神が鎮座する神聖な本殿と俗界からやってきた人々が出入りする拝殿を一つ屋根の下に納めることは許されないからである。しかしながら、京都の八坂神社などは神殿と拝殿が一つ屋根の下に納められている。八坂神社は神仏習合色が強く、明治の神仏分離以前は神道と仏教の両方の信仰が渾然(こんぜん)としていたためである。そのため、仏堂のような建物が用いられていたのである。この他には、滋賀県の日吉大社も仏堂と区別がつかない造りである。
幣殿(中殿・中間)
多くの神社において神殿と拝殿との間に「弊殿(へいでん)」があるのが普通で、幣殿は字義通り幣帛(へいはく)を奉奠するところであり、一に「中殿(ちゅうでん)」とも「中間(なかま)」とも呼ばれる。一般には神殿と拝殿の間の空間を指すが、規模の大きな神社では本殿と拝殿の間に独立した幣殿を建てているところもある。
幣帛は古語で「ミテグラ」といい、「ミテ」は布や絹のこと、「クラ」はそれを載せる台のことで、『延喜式』によると供進する布帛の類は?・倭文・木綿(ゆふ)・麻・庸布・絹・絲・綿・調布などが記されている。幣帛は官祭に際して官から指定の神社に必ず奉られることになっており、、令義解(神祇令)によると官祭の神社の祈年・月次の際には「忌部(いんべ)幣帛を班(わかち)て」とあり、『延喜式神名帳』にも官祭の神社の祈年・月次・新嘗・相嘗の祭に対して奉幣することが記されている。明治になってから皇室が官国弊社に奉納した幣帛は、五色(青・黄・赤・白・黒)?・絲・曝布(さらしぬの)・木綿・麻などであって、これを折敷(おしき)に載せて供進したものである。
伊勢神宮は拝殿のない例外と同じく、幣殿はあるがそれは神殿の前面ではなく、皇太神宮は板垣の外で神殿の西に接して存在し、豊受大神宮は板垣の内側で神殿の裏側にある。皇大神宮儀式帳に「幣殿一院、殿一宇〔長一丈五尺、弘人丈二尺、高八尺〕」とあり、また皇后・皇太子並びに東海道駅使の幣帛および神戸(かんべ)の調物等を納めたともあり、古神宝をも収蔵したところである。いまでも神宝類を収蔵するところとなっている。
幣殿(八幡神社) |
摂社・末社
「摂社」とは旧官・国弊社において本社に縁故の深い神を祀った小規模神社で、本社と末社の間に位置し本社の境内と境外にあるものがある。一方、「末社」は摂社以外で本社の支配を受けている小社で、本社に対して枝社のこと。社格の一種。
明治以降の制度では神官・官・国弊社に限って摂社・末社といい、府・県社以下では枝社はすべて「境内社」・「境外社」と称せられている。
楼門・神額
鳥居についで神社の入口にあるものに「楼門(ろうもん)」がある。楼門は仏寺でいう「山門」・「総門」に相当し、時に「神門」と呼ばれる。一般の邸宅や寺院で楼門ができると、財力のある大社でも楼門を造るようになった。楼門には素木(しらき)のままのものもあり、社殿が朱塗りの場合は、ほとんど楼門も朱塗りとなった。寺院では楼門の左右に「仁王像」を安置するが、神社では「随身(ずいしん)(矢大臣)像」である。
楼門中、再興の傑作であり最も豪華絢爛たるものは、日光東照宮の「陽明門」で現在国宝となっている。
また、鳥居や楼門の上部に「神額(しんがく)」を掲げた神社がある。大鏡に「よろずのやしろに額のかゝりたるは」とある。鳥居にかけた厳島神社の神額「厳島大明神」は後奈良天皇の辰筆、日光東照宮の神額「東照大権現」は後水尾天皇の辰筆である。また、神殿・幣殿・拝殿等の庇に神額をかける例もある。
神額の文字は達筆を尊んだので、三筆や三蹟の筆額と伝えるものが少なくない。名筆としては東京都国立市谷保天満宮の木像扁額「天満宮」があり、裏面に「健治元年(1275年)六月廿六日書之、藤原経朝」とある(重要文化財)。
狛犬(獅子)・燈籠
神社の景観上、今日では欠かせないものに「狛犬(こまいぬ)」、「燈籠(とうろう)」がある。
狛犬のルーツは、インドやエジプトにあると考えられており、古くから王宮の門前に獅子などの像を置いて守護とする習慣があった。エジプトのピラミッドの前に置かれているスフィンクスがその例である。これが中国に伝えられると、王宮はもとより寺院や陵墓(りょうぼ)の前に獅子などの像を置いて守護とするようになり、朝鮮半島を経由して日本にも伝えられたのである。狛犬の「狛」は「高麗」、すなわち朝鮮半島のことであるが、唐物(とうぶつ)(舶来品)の「唐」が必ずしも中国を指さないのと同じように、「狛」も漠然と外国一般を表す言葉である。したがって、狛犬は朝鮮半島から来た犬といういう意味ではなく、単に外来の犬という意味合いが強い。狛犬はもともと獅子(ライオン)をかたどったものであるが、獅子になじみの薄い日本ではこれを犬と見なしたようである。そして、日本の犬とは姿形が違うため、異国の犬つまり高麗(狛)から来た犬と考えた。
混同されていた狛犬と獅子は、平安時代になると明確に区別されるようになるが、この時代にはまだ神社仏閣の前に狛犬は現れていない。宮中などで几帳(室内の仕切りに用いた家具)の裾に置く鎮子(重し)として利用され、角があって口を閉じたものを狛犬と称して右側に置き、角のない口を開いたものを獅子として左側に置いた。このような狛犬と獅子がしだいに大型になって、寺社の守護として設置されるようになったのは平安時代末期からで、初めは本殿(神殿)の大扉前の左右に置かれたが、時代とともに拝殿前、鳥居前というように外の方へ出てきている。
初期には角のある口を開いた像を右側に置き(これを阿(あ)という)、角がない口を閉じた像を左側に置いた(これを吽(うん)という)狛犬が見られ、後世のものでもこの形を踏襲しているものがる。また、開口と閉口の二体を一対にするのは、寺院の仁王像にならったものと考えられている。ちなみに、稲荷社では神使(しんし)(神のつかい)としての狐が狛犬の代わりに置かれている。さらに猿や狼など、各神社で独自に神使とされている動物が置かれていることもある。
獅子・狛犬の用材は木製が多いが、のちには石製・青銅製が現れ、さらに陶製も生まれた。木彫りでは彩色のあるものとないものがある。今日に残る著名な獅子・狛犬は、いずれも鎌倉時代以降のものである。
次に、燈籠は照明用であり「立て燈籠」と「釣り燈籠」がある。立て燈籠は金属(かね)または石で作り、参道・拝殿前またはその周辺に立てておくもので、寺院では東大寺大仏殿前の金銅燈籠が古く永観2年(984年)の作である。一般に立て燈籠の構成は、「基礎(地輪)」・「竿(さお)」・「中台(受台)」・「火袋」・「笠」・「宝珠」の6つの部分を積み重ねていく。また、釣り燈籠は骨を竹か木または金属で造り、それに紙や布帛を張って社殿周辺の柱や軒端にかけておくものである。
手水舎・絵馬
手水舎は「チョウズヤ」または「テミズヤ」と訓み、参拝者はここで手を洗い口を漱(すす)ぐ。神社に参るものは、古くは神前に流れる川水を利用した。伊勢神宮の参拝者が五十鈴(いすず)川の手洗場でこれを行うのはその遺風である。現在の五十鈴川の手洗場にある石垣は、将軍徳川綱吉の母桂昌院の造るところと伝えられる(神宮年表 元禄5年)。五十鈴川はいまでも清流を保っているが、一般の神社では神前の流水が汚染されるにつれて、境内に手洗所を設けるようになった。手水舎のうちには水盤が置かれ水がたたえられ、また柄杓(ひしゃく)が備えられる。水盤には古来「洗心」と刻されたものが多い。
日光東照宮の手水舎は水屋と呼び、唐破風造、銅瓦葺で、その鉢石に「元和四年四月十七日、鍋島勝茂奉献」の銘があり、現在、重要文化財に指定されている。また京都東山五条の若宮八幡の水盤も著名で、至徳3年(1386年)の銘がある。
神社に供物を奉献することは古代から行われており、神馬の献上もまたその一つであった。平安時代の中頃になると生き馬にかえて土馬・木馬・紙馬の献上が行われ、さらに神馬の姿を絵に描いた額を奉献することが起こり、これが「絵馬(えま)」というものである。文献上での絵馬の所見は本朝文粋で、寛弘9年(1012年)6月に大江匡衡(まきひら)が北野天神へ色紙神馬三疋を画いたものを奉献したとある。大和の丹生(にう)川上神社などでは、雨乞いには黒馬を、止雨祈願には白馬を献上した風習があったが、古代の絵馬にも願意によって黒白を描き分けたものが少なくない。
板に描いた絵馬のことは今昔物語にも見え、鎌倉時代には絵馬の習慣が一般化した。江戸時代になると絵馬といってもそこに描かれたものは馬には限らず、器物や船、祈願文そのもの、あるいは合戦の図、時には子供の夜泣き封じのために鳥を描くなど数々のユニークな図柄の絵馬が奉納された。現在では、受験生の合格祈願などに人気がある。
舞殿・神楽殿
「舞殿(まいどの)」は神前において舞踊を行う施設であり、神話に天岩戸の前で天宇受売命(あめのうずめのみこと)(天細女命)が神楽を行ったとあり、神前で歌舞を奉することは古くから行われた。のちに中央の大社から次第にこのための殿舎が設けられるようになった。京都の賀茂御祖神社(下鴨)に舞殿があり、上賀茂ではこれを「橋殿」と呼んでいた。このほか石清水八幡宮の舞殿(百練抄)、摂津国広田神社の舞殿(壬生家文書)、春日神社の舞殿(春日祭旧例)などが知られる。また、鎌倉鶴岡八幡宮の石階下の舞殿は、源頼朝の命で静御前が舞を舞い、
舞殿に対して神楽を奏することから「神楽殿」と呼ぶところもあり、その名は舞殿よりも新しく近世に入ってからと考えられる。
なお、伊勢神宮と熱田神宮には特定の舞殿がなく、舞を舞うときには瑞垣(みずがき)のうち神殿の前に「幄社(あくしゃ)(仮設の小屋)」を設ける。ただし両神宮ともに現在神楽殿があるが、これは明治以降の施設で、一般人の希望に応じて神楽が奉せられるところである。
神楽殿(八幡神社) |
社務所(庁屋)
神社では事務を執るところが必要で、今日一般には「社務所」という。この社務所に当たるものを、主として大社において古くは「庁屋(ちょうや)」と呼んだ。寛元2年(1244年)12月の壬生(みぶ)家文書に上賀茂社の庁屋が見える。しかし伊勢神宮では、皇太神宮儀式帳に「務所屋(まんどころや)」とあり、訓を改めて記せば「政所屋」でもある。務所屋は明治以降、神宮司庁と称された。熱田神宮では庁屋のことを「宮庁」と呼んでいる。そのほか神戸の長田神社には、「神人等所」というものがあったことが、同社の保元4年(1159年)3月2日の古文書に見える。
社務所は神職が参集して事務を取るかたわら、会議などを行う必要上屋内に比較的広い部屋が設けられた。そしてここはまた氏子たちの会合にも使用されたが、さらに祭礼が終ったあと神職や氏子代表らが集まって饗膳を共にするのにも使われた。この場合、この行事を「直会の儀」といい、直会とは「直(な)り会(あ)>う」で祭礼の緊張感を解き平常の生活に戻ることを指している。
続日本紀、天平神護元年(765年)11月の条に「奈保良比」とあるのが直会の語の所見である。直会の儀は社務所でなければ拝殿などを臨時に使用するのが一般の神社の例であるが、特別の大社にあっては直会のための殿舎を別に構築した。これを「直会殿」といい、神道名目類聚抄に「神官会集シテ、神饌神酒等ヲ戴キ嘗メル所ナリ」と説明している。
関連
項目 | 備考 |
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タイトル | 著者/編集 | 出版/発行 | 出版年 |
相模の古社 | 菱沼勇/梅田義彦 | (株)學生社 | 1971年(昭46) |
日本史小百科 神社 | 岡田米夫 | 今泉弘勝 | 1977(昭52) |
神奈川県神社誌 | 神奈川県神社庁 | (株)桜楓社 | 1981(昭56) |
日本の神々 神社と聖地 第十一巻 関東 | 谷川健一 | (株)白水社 | 1984(昭59) |
神奈川の古寺社縁起 −知られざる伝承・霊験譚− | 稲葉博 | (株)暁印書館 | 1988(昭63) |
宮大工 千年の「手と技」 | 松浦昭次 | 祥伝社 | 2001(平13) |
知識ゼロからの神社と祭り 入門 | 瓜生中 | 幻冬舎 | 2003(平15) |
木の教え | 塩野米松 | 草思社 | 2004(平16) |
神社の本殿 建築にみる神の空間 | 三浦正幸 | 吉川弘文館 | 2013(平25) |
※上記の文献は他のページでも引用していることがあります。