打戻
宇都母知神社
「宇都母知(うつもち)神社」はその西方わずか1kmのところに名神大社の寒川神社が鎮座しているのにもかかわらず、『延喜式』所載の神社として昔から崇敬され、中央政府から幣帛を供せられていた。その理由は当社の所在地が古代より養蚕の盛んなところと知られ、当社はそこにある氏神として中央にも聞こえていたと推測される。『延喜式』のなかの主計式をみると、相模国に課せられた調として綾(あや)十八疋(ひき)・橡帛(しょうはく)十三疋・黄帛(こうはく)十三疋などをあげ、「自余は?布(しふ)を輸(いた)せ」と記してあるから、相模国の調としては絹類が主体であった。養蚕地の宇都母知においてもとうぜん機織が行われ、相当量の絹織物を産出していたものと思われる。
本殿は神明造りで間口三間、奥行二間、銅葺き屋根に千木を置き、周囲に金網をめぐらしてある。以前、宮司の長谷川氏が死去の後は当所に専任の神主がいないので、用心が悪く盗賊の災厄にあったことがあるので、それにこりてこのような金網で囲って本殿を保護しているとのことであった。本殿に続く幣殿は間口二間に奥行二・五間。拝殿は間口三間に奥行三間で、銅葺き屋根にケヤキ材の建物である。その他には、神楽殿・鳥居・鐘楼がある。大正12年(1923年)の関東大震災の際に社殿ことごとく全潰(ぜんかい)したので、大正15年(1926年)に現在の社殿が復興された。全潰前の社殿は文政5年(1822年)の建築で、本殿九坪・拝殿二十坪・幣殿四坪・神楽殿二十坪など、規模がそうとう宏大であったことがわかる。
当社の本殿・拝殿は南面して鎮座しているが、その南120mほどのところの境内の入口に石の鳥居があり、そのそばにかつて神木であった松の老木の切株が残っている。その切株の北側近くに小さな古墳があり、その上に「鳥居建設碑」という石碑が立てられている。
宇都母知神社 | 社号標 |
鳥居 | 玉垣 |
鳥居建設記念碑(平成29年) | 燈籠 |
石造 | 手水舎 |
由緒 | 狛犬 |
農機具等資料館 | 神楽殿 |
社務所・参集殿 | 建設事業完成記念碑(H17年) |
社殿 | 拝殿内部 |
神額 | 本殿 |
水鉢 | 石碑 |
打戻稲荷神社 | 社殿 |
菅原神社 | 社殿 |
絵馬 | 神輿殿 |
鐘楼 | 土地改良事業完成記念碑 |
御神木の | 椎の木 |
囃子
神輿
祭神
宇都母知神社の現在の祭神は「天照皇太神」・「稚産霊神(わかむすびのかみ)」・「若日下部命(わかくさかべのみこと)」の三柱となっている。
例大祭
9月15日?
打戻
打戻という部落は昭和30年(1955年)4月に藤沢市が渋谷町・御所見(ごしょみ)村・小出村を合併するまでは、御所見村に属していた。その御所見村は明治22年(1889年)に打戻・葛原・用田の三村が合併してできた村である。
打戻は現在「ウチモドリ」と呼ばれているが、本来の地名は社名と同じく「ウツモチ」であったのを、打戻という字を当てるようになって現在のような呼称に変わったものと思われる。ウツモチのウツはウチに同じく、モチは古語で「小さい盆地」という意味である。
この打戻あたりの地域は「和名抄」のどの郷に当たるかについて、吉田東伍氏は御見所村・有馬村などは「渭堤(いで)郷」に含まれると推定している。渭堤はイデとよむがこの字は当て字に過ぎずない。山城国・駿河国その他に「井出」の地名があり、相模国高座郡の渭堤郷も同じ意味で、おそらくむかしこの辺りに大きな泉が湧いていて、人々がそれを利用していたことが地名の起源であろうと思われる。いまでも小出川という川が打戻の北と東の二ヵ所から発源して南流し、相模川の河口で同川に注いでいるが、その名は「小渭堤川」の意と思われる。
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