寒川さむかわ

神社の紹介

  「寒川神社」は『延喜式』の神名帳によると相模国高座郡六座のうちの一座で、同国では唯一の名神大社として高い格式を有し、昔から相模国一の宮とも称せられた。
  『六国史』には「寒川神」が承和13年(846年)9月丙午(8日)に従五位下を(続日本後期)、斎衡元年(854年)3月戊戌(14日)従四位下を(文徳実録)、貞観11年(869年)11月19日壬申従四位上を、元慶8年(884年)9月21日戊寅正四位下を授けられた(三代実録)。

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鳥居寒川神社
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鳥居
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燈籠
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参道
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一ノ鳥居由緒
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手水舎
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狛犬狛犬
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絵馬神馬
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拝殿覆殿
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釣燈籠おふだ納め所
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社務所
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境内祓殿
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狛犬狛犬
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参集殿
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少年館


祭神

  寒川神社の祭神がどういう神であるかについては昔から定説がない。当社は元亀(1570〜73年)・天正(1573〜93年)のころと文禄(1593〜96年)年中とに重ねて兵火にかかり、社殿・神宝ともに社記・旧録ことごとく焼失したといわれているが、この点は相模国や武蔵国における他の式内社においてもたいてい事情が似ている。
  平安時代には当社の祭神を単に「寒川神」または「寒河神」といわれたようで、例えば『続日本後紀』承和12年(845年)9月には「相模国無立寒河神」とあり、『文徳実録』斉衡元年(854年)3月にも「相模国寒河神」とある。さらに『三代実録』貞観11年(869年)11月には「相模国従四位下寒川神」、また同書元慶8年(884年)9月には「相模国従四位上寒川神」と記されている。ところが近世になると八幡説が強く『一宮記』には「寒川神社 八幡也。」とあり、『諸国一宮神名帳』や『諸社根元記』には「八幡大菩薩」とあり、さらに『延喜式神名帳比保古』には「寒川神社 名神大 応神天皇也。」と記載している。また、『神祇提要』には「寒川神社 名神大 八幡也。」とあり、天保12年(1841年)完成の『新編相模国風土記稿』では「寒川 左牟加波 神社 神名帳に載る所、当国の大社にして今も一宮と号す。社伝に祭神は応神天皇なり。」とあり、さらに『神社覈録(かくろく)』では「寒川神社、名神大、寒川は佐無加波と訓べし。祭神は八幡大神。」と記している。
  変わったところでは『惣国風土記』の「菊理媛説」があり、その『風土記』残本によると「寒川神社、所祭菊理媛者、古来伊弉冊尊(いざなみのみこと)之別称也。雄略天皇十六年(468年)九月、初奉幣帛。古来之俚俗之談、莫詣熊野多賀、則有此社。往昔東奥之俗多詣此社。」と記されている。また、度会氏の『神名帳考証』では「沢女説」であり、同書によると「寒川神社 名神大 沢女神(中略) 寒与沢音通、相模国名由此而起乎。」とある。さらに『巡拝旧神祇記』は寒川神社の祭神を「素盞鳴?尊(すさのおのみこと)」および「稲田姫命(いなだひめのみこと)」とし、『一宮巡詣記』は「大己貴命(おおむなむちのみこと)」をもって当てている。
  このように当社の祭神については諸説ふんぷんとしていたが、明治7年(1876年)に教部省より『特選神名牒』が撰せられ、『皇太神宮儀式帳』に載せられている末社「牟瀰神社」の祭神が「寒川比古(ひこ)」と「寒川比女(ひめ)」であるから、寒川神社の祭神も同じであろうという新説を出した。さらに教部省は明治9年(1878年)に官社祭神考証を撰するにあたり、この『特選神名牒』の説を採用した。それ以後当社は正式にこの二神すなわち寒川比古と寒川比女を祭神として定めて今日に至っている。しかし、この説もムミ神社の祭神と当社の社号がたまたま一致しているこというだけが根拠であり、当初の祭神であったかどうかについては疑問が残る。



例大祭

  江戸時代には一之宮より四之宮までは国府祭が例祭であり、現在の例祭日は明治以降のものである。

太鼓

●寒川明神ばやし
  宮山地区の「寒川明神ばやし」は「宮山下町おはやし会」によって伝承され、発祥は定かではないが昭和初期には盛んに行われていたという。戦争により一時中断したが、復活した。
  囃子は「大太鼓1」・「小太鼓3」・「鉦1」・「笛1」で構成され、曲目は「屋台(地・かわちぎ・きざみ・乱拍子)」・「宮昇殿」などがある。5月の国府祭や浜降祭、寒川神社祭礼や産業まつりなどで演奏される。

●宮山ばやし
  宮山中里地区の「宮山ばやし」は「宮山ばやし保存会中里太鼓連」によって伝承され、囃子は新囃子で「大太鼓」・「締太鼓2または3」・「鉦」・「笛」で構成される。戦後は中断したが、昭和52年(1977年)に復活した。浜降祭や寒川神社、地域行事などで演奏される。



神輿

  寒川神社旧神輿は天保10年(1839年)6月に奉製され、文久3年(1863年)、明治29年(1896年)、大正13年(1924年)の修復を経ている。現在は寒川町有形文化財に指定され、任を終えた旧神輿は新製神輿に道を譲っている。



  現在の高座郡寒川町は明治22年(1889年)の町村制施行までは高座郡一之宮村と称し、江戸時代あるいはそれ以前からその地名は大体において「一宮郷」といわれていたようである。天正19年(1591年)の大納言源朝臣の寄進状、元和3年(1617年)・寛永13年(1636年)・寛文5年(1665年)・貞享2年(1685年)などの各神領安堵状によると、いずれも「一宮領 相模国一宮郷」と記されている。しかし、『和名抄』のころの郷名は同抄に「高座郡寒川郷〔訓、佐無加波〕」とあるので、寒川郷と称したことは明らかである。
  寒川神社に伝わる伝説によると、寒川の土地を初めてひらいた有力者は海上から相模国に上陸したのち、二ヶ所ほどの土地にしばらく住んでから寒川の地に湧水量のきわめて豊富な清泉を見つけ、ここに定着してこの水を利用して農耕に従事したという。



往古の地形

  往古におけるこの付近の地形は今日とはいちじるしく異なっていたと思われ、縄文時代の頃には海水がこの平野の奥深くまで入り込んでいた形跡がある。少なくとも今日の海老名・厚木あたり、それより北4kmほどの依知のあたりまでは海が入江となって湾入していたようである。その後、弥生時代のはじめに海面がいったん低下して来て、海底が地上にあらわれた時代があったが再び海面が上昇し、古墳時代のころには相模平野の相当の部分が海底にあったと思われる。すなわち、古相模湾というべき湾の入口は、東は寒川付近、西は大磯付近で、現在の茅ヶ崎市や平塚市などはその相当部分が海底にあったと推定される。特にこの湾を入った左手、すなわち西側においては海の湾入した地域が広範で、かつての伊勢原町に属する糟屋や三ノ宮の付近では、丘陵のあいだに深く海水が入り込んでいたようである。
  寒川神社が創建されたころには社地の西と南は相模湾の海に面していたと思われ、当社に残っている文書に「相州一宮引着事 社領 東石川、南荒海、西相模河、北門沢橋也」という記載が見られる。この文書がいつの時代に記されてたものであるかは記載を欠くが、文書その他から判断すると中世のものと思われる。これで見ると寒川神社の社領の南は荒海とあるから、中世のころまでも直接相模湾に面していたと思われる。おそらく現在の寒川町の宮山およぼ根岸より南方、すなわち寒川駅付近一帯の地は中世のころまでも入海で、その南方のいま懐島・柳島・中島などといわれる土地は平安期あたりにできていた島であったと思われる。また、現在の茅ヶ崎市の十間坂、南湖あたりの台地が細長く岬のように西に延びたところも当時は社領で、その南はすぐ外海に接していたと思われる。
  前記の古文書は寒川神社の当時の社領の大きさを示している。これによると中世の社領の東限は石川であるが、石川という部落が現藤沢市内の北部にあり、寒川神社の現在地から約6km離れたところである。また、北限であった門沢橋はかつての高座郡海老名町内の南部に部落名として残っており、いまの寒川神社の北3kmほどのところにある。以上から当時の当社の社領は東西6km・南北4kmほどで、広大なものであったことが伺える。



腰掛石

  寒川神社の東方3kmのところの芹沢という部落に「腰掛神社」があり、そこには寒川大神の腰掛けたと伝えられる直径85cmほどの石が存在している。大場磐雄氏の著書『まつり』(学生社)によると、長野県と岐阜県との境の神坂峠の長野県側の麓に、「神坂神社」という日本武尊を祭神とする神社があり、その境内に日本武尊の腰掛石があるという。同氏はこの腰掛石を古来の磐座(いわくら)の遺称であろうといっている。寒田神社はこの酒勾川の河原から5mほども高い台地に立っているにかかわらず、氾濫の際には被害を免れなかったようである。当社の社伝によれば「承応三年(1654年)甲子九月、未曽?有の大洪水により、朱地の八分、神主家族、倉、神馬、禰宜の家宅に至るまで流出し・・・残存地約壱町二反歩程見捨地となり、云々。」と記されており、江戸初期にも大きな水害を受けていた。しかし、当社は創建のとき以来現在地に鎮座していたようで、後になって遷祀された形跡はない。(←後半は寒田神社の記述では?)


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