松田惣領まつだそうりょう

神社の紹介

  相模国で『延喜式』に載せられた式内社十三座のうち、足上郡にあるものは「寒田神社」の一座だけである。創建は人皇第十六代仁徳天皇三年亥十一月(皇紀975年)とされ、古風土記残本や『風土記稿』に載せられている。往古は「相模田神社」・「佐武多神社」・「佐牟太神社」・「佐牟多神社」などと称し、『延喜式』には「寒田神社」とあり、元和6年(1620年)より「寒田神社神田大明神」と称するに至り、明治元年(1868年)より単に寒田神社と称せられた。当社は江戸時代には「神田明神」といわれ、天保12年(1841年)完成の『新編相模国風土記稿』によると「寒田」は本来「サムタ」と訓むのが正しいが、いつしかこれを音訓みにして「カンダ」とよみ「神田」の字を当てるに至ったのであろうといっている。
  「サム」というのは今日普通に用いられている「暑い」の対義語ではなく、「清い」とか「神聖な」とかいう意味であり、相模国一之宮の寒川神社の「寒」も同じことである。すなわち、寒田とは「清い田」という意味であるから、もともとこの神社の付近には清い田があって、その精霊を祀ったのが当社のそもそもの起源であるとも考えられる。『風土記稿』に載せられた寒田神社のさし絵を見ても社前の水田の図が描かれており、『特選神名牒』によると「此社(寒田神社)酒勾川の上にして田の中に川岸に向いてませり」と記してあり、少なくとも明治の頃までは当社の周辺が水田で囲まれていたものと考えられる。
  社格について往古は国弊社なりと伝えられて来たが、『延喜式』によれば東海道神社七百三十一座のうち、大五十一・小百八十とあって当社は小社に属し、相模国十三社の一に位し神貢百束とある。建久4年(1193年)には源頼朝富士の狩にあたり松田御亭より年々米十石社納の事令旨あり、寛永3丙寅年(1626年)には徳川家光より百五十石の朱印を賜っている。明治7年(1874年)に郷社に列し、昭和16年(1941年)7月に県社に列した。昭和27年(1952年)には宗教法人法により宗教法人寒田神社と称し、昭和43年(1968年)1月に神社庁より献幣使の参向する神社に指定され、また昭和46年(1971年)に松田町より史蹟と指定された。
  寒川神社の境内は酒勾川の河原に近い台地の上に鳥居が立ち、それより50mほど真北に拝殿がある。拝殿は五間二面の神明造りで銅葺きの大きな屋根でおおわれ、本殿は一間四方の流れ造りで、屋根は同じく銅葺きで千木を置いている。軒下の彫刻も精巧で、拝殿・本殿ともに明治以降の建築と思われる。

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寒田神社鳥居
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社号碑社号柱
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玉垣神社由緒
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石碑石碑
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燈籠燈籠
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水屋神楽殿
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参集殿
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狛犬狛犬
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燈籠参道
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拝殿幣殿・覆殿
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忠魂碑
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社殿改築記念碑
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石祠
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祖霊社
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歯の供養碑正一位稲荷大明神
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境内

  現在の酒勾川は山北町の南を東流して松田惣領に至るまで北の山際に近くに片寄って流れているが、19世紀末頃に大洪水が起こるまでは現状よりずっと南の方(南足柄町に近いところ)を流れていた。その頃の寒田神社の一の鳥居は、境内よりはるか南1kmほどのところに立っていた。寒田神社はこの酒勾川の河原から5mほども高い台地に立っているにかかわらず、氾濫の際には被害を免れなかったようである。当社の社伝によれば「承応三年(1654年)甲子九月、未曽?有の大洪水により、朱地の八分、神主家族、倉、神馬、禰宜の家宅に至るまで流出し・・・残存地約壱町二反歩程見捨地となり、云々。」と記されており、江戸初期にも大きな水害を受けていた。しかし、当社は創建のとき以来現在地に鎮座していたようで、後になって遷祀された形跡はない。
  神社の位置を示すものとして『延喜式』には相模国足上郡とあり、『吾妻鏡』には相模国松田郷、「万治三年(1660年)庚午検地帳」には松田惣領、「延宝七年(1679年)巳末検地帳」には上松田村、「文政十三年(1830年)人別一紙目録」には大井庄松田惣領、「津久井郡石楯尾神社の天保改刻相模十三社一覧」には松田惣領栢ノ森とある。そして明治9年(1876年)地租改区より神奈川県足柄上郡松田惣領字沢尻1767で、創建以来現在の鎮座地である。なお、古来より松田惣領・松田庶子・神山村清水が氏子で、崇敬者は郡内はもちろん関東各地駿河、北陸・紀伊・四国に及んでいるという。

囃子



神輿

  



祭神

  現在の寒田神社の祭神は「倭建命(やまとたけるのみこと)」・「弟橘比売命(おとたちばなひめのみこと)」・「菅原道真(すがわらみちざね)公」・「誉田別命(ほんだわけのみこと)」の四柱となっている。このうち弟橘比売は文明4年(1472年)に合祀され、菅原道真は大正2年(1913年)の仲谷町と庶子の天神2社を合祀してから祀られるようになった。さらに誉田別命は昭和36年(1961年)に庶子の八幡社を合祀したときから祀られるようになったもので、本来の祭神は倭建命(日本武尊)の一柱であるということになり、『風土記稿』や『神社覈録(かくろく)』なども祭神は「日本武尊」だとしている。
  当社の神体は日本武尊の神像と女神像で、前者は丈107cm・肩胸の巾36cmの木像、後者は丈78cm・肩胸の巾18cmの木像である。いずれも輪郭以外は摩滅してわからないくらい古いもので、おそらく平安期頃の作ではないかと思われる。また、日本武尊使用のものと伝える古い椀が二筒あり、これも部厚い木製のもので、やはり同時代の作ではないかと思われる。
  当社の伝承として倭建命が東征の折、暫く滞在したと言い伝えられている。社前を流れる酒匂川は祭神が東征の幸先を祈ってこの川に酒を流し給われたが、功成って帰還の折もなお酒香が馥郁として残っていたので、酒匂川と名付けられたと伝えられている。「酒匂川たがひなせし古に 神の論旨のかほる川なり」という古歌がある。



例大祭

  往古は定かではないが、文政13年(1830年)庚寅年に徳川幕府に差し出した「人別一紙目録」並びに、別当大蔵院にある「御祭礼覚書」によれば、古来祭典は毎年6月晦日禊、またはお祓いと称し、これを例祭とし、臨時に風祭、雨乞いなど祈願祭を行うことがあった。当社の例祭を「みそげ祭」というのは、古来より6月30日のお祓いに相当するのでみそげ祭という。また、祭神が出雲建を征伐の時、賊徒と結友(うるわしみ)と給いて肥の川に沐されて打平げられたので、年々例祭日には酒匂川に神輿を沐して祭事を行うことを例としている。
  大祭には神輿に御魂を移し奉り、輿丁12人、行列は第一、太鼓2人持ち、次幟1対次獅子2頭4人持ち、次猿田彦1員、次長柄槍10本各1員宛、次赤坂奴(弓1対4人、鳥毛槍3人、毛槍2対8人、先箱1対4人)と徳川氏の行列に同じで、次四神の内二神は神輿の先き、二神は後、次神輿、次神主、称宜、名主、組頭、百姓代、中老、若者頭神社に功労ある物裃を着、氏子、信徒がこれに続く。この行列は昭和46年(1971年)に松田町より無形文化財として指定され、県下においても重要なものとなっている。
  明治5年(1872年)の改暦の令があり、八月は農事繁忙につき7月31日および8月1日の2日間であったが、近年は諸種の事情により7月31日限りとなっている。



松田惣領・庶子

  寒田神社の現在地はかつての松田町大字惣領であるが、江戸時代までは松田惣領という独立の村落であった。そして松田惣領の西隣の地はかつて松田庶子と称する別村であったが、その後は松田町の一部に編入された。本来、惣領というのは平安末期から鎌倉時代を通じて、地方の武士団として勢力を有した一族の長を指称したもので、庶子というのはその族人のことである。それが転じて族長の所領をも惣領と称し、他の族人に属する所領を庶子とも称するようになった。松田惣領や松田庶子という地名も、このような性格を持つものである。
  松田惣領がどのような武士団の族長の所領であったかというと、鎌倉初期の治承の頃に大住郡の住人、波多野右馬允義常の長子の有常が当郷に居住し松田二郎と称し、この有常の所領を松田惣領といったようである。また、有常に二子あり、長子は妾腹であったが、分家させてその所領を松田庶子と称したといわれる。
  現在河流の通っているあたりは松田惣領の賑やかな町の中心地で、寛永年間には銅座があったといわれている。いまでも酒勾川を越えた南側には松田飛地といわれる地名があることから、これらの土地はかつて河中の島を形成していたこともあると推測される。



腰掛石

  当社の境内で本殿の東に2mほど離れたところに「腰掛石」という石があり、日本武尊が腰掛けたという伝説がある。形状は不整形の四角で、縦横ともほぼ1m、高さ0.5mほどもある青黒い石で、地面の上に露出している。

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腰掛石石碑



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