川匂かわわ

川勾神社

  「川勾神社(かわわじんじゃ)」は相模国の二宮で、『延喜式』所載の相模13社のうち余綾(よろぎ)郡における唯一の式内社である。当社は師長国の国造の斎き祀った神社であると思われ、少なくとも初代の頃の国造は当社の近くに住み、この国の統治にあたっていたものと推測される。古くから「二宮大明神」または「二宮明神社」とも称し、
  当社の縁起書によればその創祀は第11代垂仁天皇の朝に、当時余綾足柄両群の東西海浜を磯長(しなが)国と称した頃、その国宰たる「阿屋葉造(あやはのみやつこ)」が勅令を奉じて当国鎮護のため崇祀したと伝えられている。磯長国造「大鷲臣命(おおわしおみのみこと)」・相模国造穂積忍山宿弥(ほづみおしやますくね)・同国造弟武彦命崇敬ありしを始め日本武尊東征の時、源義家東下りの時奉幣祈願あり。人皇十九代允恭天皇の皇妃衣通姫命(そとほりひめのみこと)皇子御誕生安穏のため奉幣祈願あらせられる。
  現宮司二見家の家系記によれば、六十五代一条天皇の御宇永延元年(987年)栗田中納言次男次郎藤原景平当社の初代神官となり爾来今日まで相続き、現宮司に至り四十代に及ぶ。建久3年(1192年)に源頼朝が夫人政子の安産のため神馬を奉納し、かつ当社造営の料として神田および塩田を寄進している。社殿造営の沿革として記録に残っているのは建久年間(1190〜98年)に源頼朝が社領若干を寄附し社殿造営の事あり、時に川勾七郎政頼之を奉公せり。また、建長4年(1252年)には宗尊(むねたか)親王が鎌倉に下向した時に、将軍事始めの儀として奉幣し神馬を納めたという。
  ところが応永年間(1394〜1427年)に至って兵火をこうむり、社殿・宝物・古記録などすべて灰燼(かいじん)に帰した。このとき隋神の木像だけが残こり、これが現在随神門に祀られてある。当社は応永30年(1423年)の頃に再建され、その後は北条相模守、小田原北条、小田原久保等は皆累世崇敬深く造営奉幣の寄進少なからず。永禄4年(1561年)に上杉輝虎が兵を率いて小田原を攻める時、兵火が社殿に及んだため、元亀年間(1570〜73年)に北条氏が改造した。特に小田原城よりは当社が丑寅の方角に当れるを以て北条氏の鬼門守護神として格別崇敬が厚かりし、現社地付近に古大門と唱ふる所あるもその謂なり。
  徳川家康もまた当社を崇敬し、家康公九州名護屋出陣の際祈?札を献上、殊の他喜ばれ天正19年(1591年)に社領五十石の朱印を下付した。爾来徳川累代将軍に及ぶ。正月には必ず江戸城に登城して親しく年礼申上げ御祓札を献ずるのが例となり幕府まで続行せり。相模国で当社より朱印状の多かった神社としては、阿夫利神社寒川神社だけであったことから見ても、当社は当時においても社格の高い神社とされていたようである。
  宝永年中の富士噴火の際、砂石大いに降り社殿が破損したので、二十一代主神太郎長達がこれを修復し、享保10年(1725年)にも三十代神主が最修復を加えた。のちに本殿、幣殿、拝殿などがようやく退廃したため、三十一代神主が広く遠近に勧進して明和4年(1767)に大修理をした。安永9年(1780年)6月には大風雨により社殿が著しく破損したが、三十二代神主二見左門忠良が遠近に勧進して天明7年(1787)12月にこれを再建した。当時地勢に沿革があったため南面して社殿を建設し、以降昭和初年に及ぶ。
  明治6年(1873年)郷社に列せられ、昭和7年(1932年)4月県社昇格の御内示を受け現在に及ぶ。現在の社殿は昭和5年(1930年)に県社昇格申請をしたのち、県社の規格に合するために社殿造営工事に着手し、爾大東亜戦争、終戦等幾多の困難変遷を経て昭和26年(1951年)10月に落成式をあげたものである。

参道社号柱
忠魂碑鳥居
燈籠神門
神社由緒手水舎
 神楽殿
御札神納所狛犬
絵馬燈籠
拝殿本殿・幣殿
 
 境内

  石の鳥居を過ぎて30階ほどの石段を上がると、そこに草葺屋根の随神門(ずいじんもん)があり、その正面に南向きに建つ三間二面の胴葺き屋根の拝殿があり、さらにその奥には流れ造りの屋根に千木(ちぎ)を置いた回廊つきの本殿が鎮座している。
  東海道の茶屋町から北におれて当社に向かう道の入り口に石の鳥居があり、その先の広場に薬師堂がある。今は半分以上が民家に使用されているが、本尊の薬師如来は長さ2.7mの木像で、だいぶ破損はしているが鎌倉時代の作と思われる。この薬師堂は当社の別当寺の「成就院(じょうじゅいん)」の所有するものであった。成就院は当社の手前右手にあり、その開山は良伝といい、長保元年(999年)に亡くなったと伝える。また、当寺院は川勾神社の東方600mほど離れた「釜野」というところにあったのを、この地にうつしたものであるという。
  当社の記録にはないようであるが、当社の氏子総代であった古老の話などから綜合すると、現在の社殿の北方500mほどの「宮上(みやうえ)」というところに、中世以前に当社の旧社地があった形跡がある。そこは東方の背後が丘陵で、その前がひらけて水田となっている。もっともそれほど大きな水田ではなく巾300m・奥行800mほどの、小盆地の大部分が稲田となっている。山水を受けて灌漑、耕作されており、きわめて古くからの水田であると思われる。ここが当社の旧社領であったことは神社当局も認めている。なお、その水田地帯からは大正4年(1915年)に発掘された丸木舟の遺物が、社宝として保存されている。ケヤキらしい原木をくりぬいた舟で、その前部の半分が残存しており、長さ1.5m・巾24cm・厚さ5cmのもので、奈良時代のものと推定されている。舟としてはそれほど大きくなく、出土した場所からいっても、おそらく水田に浮かべて田植えなどに用いた田舟であったと思われる。小田原の北条氏は代々当社に帰依し、社殿の造営にも力をつくしたというから、小田原北条氏の時代に当社の社殿を旧社地に遷した可能性も考えられる。



祭神

  当社の現在の祭神は「大名牟遅命(おおなむちのみこと)」・「大物忌命(おおものいみのみこと)」・「級津彦命(しなつひこのみこと)」・「級津姫命(しなつひめのみこと)」の四柱であるが、『風土記稿』によると祭神は三柱で「衣通姫命(そとおりひめのみこと)」・「大物忌命」・「級津彦命」で、『神社覈録(かくろく)』なども同説である。これより、現在の現在の四柱の祭神のうち大名牟遅命と級津姫命は後世になって祀られたものと思われ、共通の祭神としては大物忌命と級津彦命が残る。
  『延喜式』の神名帳では「川勾神社 一座」とあることから、当社の本来の祭神は一柱であったと解される。三柱の祭神のうちいずれが本来の祭神であったかはわかっていないが、菱沼勇氏によると級津彦命であろうと述べている。ちなみに、当社の社伝によれば級津彦命は上古において、相模国がまだ相武国と師長国との二つに分かれていたころ、その師長国を始めて開かれた者であるとしている。級津彦は級長津彦とも書き、シナガを代表する男性という意味である。

川匂祭囃子

  「川匂祭囃子」は「川匂祭囃子保存会」によって伝承され、「大山囃子」の流れを汲む中里祭囃子保存会の指導を仰ぎ、昭和52年(1977年)に保存会を発足した。入川勾地区の子供を対象にして活動しているが、現在は40代前後の大人も練習に加わってきている。
  囃子は「大太鼓1」・「小太鼓2」・「鉦1」で構成され、曲目は「宮昇殿」・「きざみ」・「屋台」・「治昇殿」・「四丁目」・「仁羽」がある。保存会の主な活動は、年始の川匂神社境内において行われる元旦初打ち太鼓の奉納や2月の節分祭、7月に行われる元町八坂神社の祭礼、川勾神社の秋の例大祭などがある。川勾神社の宮元であることから、夜の大神輿の宮入には囃子山車で先導する。



神輿

  国府祭に使用される宮神輿は昭和16年(1941年)に紀元二千六百年を記念してつくられたもので、大山の宮大工がつくったものであるという。それ以前に使用していたものは今のものよりもう少し小さく軽いものであったというが、年代などは不詳である。

神輿殿


川匂の歴史

  『風土記稿』によると川匂村はもとは山西村と1区をなしており、戸数は40で、小名は押切・雲雀田・上さ(カサ)・下川・宮・坂下・寺久保であった。明治10年(1877年)の戸数は49であった。川匂は東海道線によって分断され、小田原市とも複雑に入り組んでいる。行政区分では通川匂と入川匂に分けられ、通川匂は押切といい比較的新しく開けたところであり、入川匂は古くから開けたところであるという。川匂の押切区長によると、川匂地区には新茶屋組(二宮)・笠組(小田原)・雲雀田組(二宮)・東浜組(二宮・小田原)、西浜組(二宮・小田原)の五組があるという。
  山西部落は少なくとも江戸時代以来は長らく「山西村」という独立の一村であったが、昭和22年(1947年)に付近の五ヵ村とともに「吾妻村」となり、のちに「二宮町」に偏入された。村岡良弼の名著『日本地理志科』によると山西村は『和名抄』の「霜見郷」であろうとしており、いまでも二宮町のなかに「塩海」という小名があり、また塩海川という小河川もあるのがその遺名であるといっている。そして霜見郷の範囲については、「図を按ずるに、二宮、川勾、山西、中里、一色、西久保の数邑を二宮荘と称す。塩海川これを貫通す、蓋しその域なり。」と記している。
  川勾神社の所在地が川匂村ではなくその隣村の山西村にあることは、いちおう奇異の感を抱かせる。川勾神社の社地はかつて現社地の北方500mほどのところにあったという形跡があるが、その旧社地もやはり山西に属する。ところが川勾村も山西村も以前にはあわせて一つの区画であり、「梅沢の里」と称せられていた。文明年間(1469〜86年)に准后道興(どうこう)の著わした『回国雑記』のなかに、「梅沢の里を過ぎ侍るとて、 旅ごろも 春待つこころ替らねば 聞くもなつかし 梅沢の里」という一首を記している。この梅沢の里は昔から梅の木の多いところとして知られ、江戸初期の正保図をみても「梅沢村」と記されていることから、その頃までその村名が存在していたと思われる。
  しかし川勾という地名は梅沢の里のころはもとより、それよりはるか以前から存在し、川勾神社の社号もその地名から生じたものと推測される。川勾の「カワワ」は「川輪」の意で、川の曲流する様子を意味する。川勾神社のすぐ西にあって北方から流下している川に「押切川」がある。この川は長さ10kmあまりで足柄下郡大井町高尾の西北の山中に源を発し、いったん東南に流れ田中・小竹などの部落を経て、小船のあたりから幾度か曲流を重ねながら南下し、現在は押切付近でそのまま相模湾に注いでいる。しかし、中古以前は押切の手前で東海道に沿って西流し、押切の西方3kmの前川のあたりで海に注いでいたことから、押切川の曲流のとくにはななだしい地域をカワワと称していたものと思われる。


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