大山おおやま

大山阿夫利神社

  「大山阿夫利神社」がいつ頃の創建かの考証は裏付ける正確な資料がなく不明であるが、大山の山岳信仰と密接な関連性を持って創建されたと考えられる。当社が正史に登場するのは『延喜式』で、このなかの神名帳に登載されている相模国の「大住郡四座」のうちの「阿夫利神社」に比定され、市内の延喜式内社はこの他に下糟屋の高部屋神社と三ノ宮の比々多神社がある。この原本である神祇官の台帳は天平年間(729〜749年)にできていたといわれることから、阿夫利神社の存在が中央政府の役人に認識されていたことを考えると、神社の創建は天平時代以前と考えられる。
  社伝によると阿夫利神社は崇神天皇の頃(紀元前97年)の創建と伝えられるが、確たる証拠は存在しない。祭神として「大山祇神(おおやまずみのかみ)」・「大雷神(おおいかづちのかみ)」・「高?神(たかおかみのかみ)」の三神を祀る。さらに大山の姿は遠い海上からもよく見えるため、海人たちにとっても大切な山となっていた。そこで海の守り神として「鳥石楠船神(とりいわくすぶねのかみ)」も山頂の石尊をよりしろとして祀られ、後にはこの石尊の名をとって「石尊社」・「石尊大権現」などと呼ばれるようになった。
  伝承では、大山の開山は天平勝宝7年(755年)に華厳宗の祖「良弁(ろうべん)僧正」によると伝え、良弁が入山して神仏混淆の道場とし、不動堂などの堂塔・僧房などを設けた。それ以降、真言密教の修験道場の淨域として発展し、当社祭神の本地は十一面観世音菩薩とされた。山頂の本社は「石尊大権現(せきそんだいごんげん)」と呼ばれ、別当寺は中腹(旧坂本村)に配置された不動明王を本尊とする「雨降山大山寺(真言宗)」となり、一山組織の形態が整えられた。その後大山寺は一時的に衰微するが、鎌倉時代の後期に願行上人によって再興され、鉄造の本尊不動明王が祀られたと伝えられる。鎌倉幕府は相州の名社として崇敬したのを始め、足利尊氏・基氏・持氏、また小田原北条氏などが相次いで崇敬した。
  江戸時代になって世の中が太平になるとともに、江戸の人を中心として「石尊詣り(大山詣り)」が盛行した。関東に入府した徳川氏によって慶長年間(1596〜1615年)に大山寺の大改革がはかられ、山内の法式を定め造営の資金を給し、大山が門前町として発展する基盤が形成された。当時の例祭は6月27日より7月17日までの20日間で、6月27日より晦日(みそか)までを「初山(はつやま)」、7月朔日(ついたち)より7日までを「七日堂」、8日より12日までを「間(あい)の山」、13日より17日までを「盆山(ぼんやま)」とよんだ。この間に参詣する者ははなはなだ多かったが、女人禁制であり、本坂以上への女性の登山を禁じた。安政年間(1854〜1859年)に山火事があり文書・記録が多く焼亡したが、『風土記稿』には当時の社・寺に仕えた者を供僧・修験・神家・師職別に記されている。
  慶応4年(1868年)3月の太制官布告により神仏分離が敢行されて、仏教色が排除されると大山地区は揺れに揺れた。それまで神仏混淆の地として頂上に「石尊社」を、中腹に「大山寺」を擁していた大山は、大山寺の不動堂をはじめとする堂宇を破却して一山の総称でもあった大山寺を中腹から下ろした。そして山頂の石尊社(石尊大権現)を『延喜式』神名帳登載の旧号「阿夫利神社」に倣い「大山阿夫利神社」と改称して本社(上社)とし、中腹の大山寺不動堂(本堂)跡には新たに拝殿(下社)を置いた。さらに、男坂と女坂の分岐点にあった前不動は「追分社」となった。このように廃仏棄釈は平田学派を奉ずる神主や御師によって徹底的に断行されたが、一山の混乱は収まらず、結局国学者の権田直助を明治6年(1873年)に阿夫利神社祠官として迎えることによって終息をみたのである。権田直助は大山に入ると大山を純神道化するために神事や祭典作法上の様々な改革を行うと共に門下生を育成し、同時に各地の大山講社の人々を結集して大山敬慎協会を組織し講員の教化にもつとめた。現在の大山阿夫利神社は権田直助の路線を継承しており、大山講にもこの考えが及んでいる。一方、大山寺はいったん衰微したようであるが、再び不動尊を中心に独自の信仰を集め、かつての女坂途中に拠を定めて現在まで続いている。
  明治6年(1873年)7月には県社兼郷社に列せられ、第2次世界大戦後に宗教法人となった。しかし、昭和27年(1952年)には神社本庁を離れて単立となり、所属協会50余の包括宗教法人である「大山阿夫利神社本庁」を新たに組織し、先導師約60軒の設置する宗教法人を擁している。ただし、協会は県下にあるだけであるので、大山阿夫利神社本庁は神奈川県知事の所轄になっている。

参道石段
手水舎
狛犬狛犬
狛犬狛犬
社号柱鳥居
下社・社殿
頂上登山口摂社・浅間社
境内境内からの眺め


祭神

  『延喜式』の神名帳では阿夫利神社(アフリノカミ)と記すのみで祭神が明記されていなかったことから、はじめは漠たる自然神で大山を神として崇拝していたことが想像される。その後、産業の分化に伴う職業の多様化や漢字の伝来などによって、自然神は人格神や機能神へと変化し、山の神である「大山祇神(命)」または海神である「鳥石楠船尊」などといわれるようになった。
  『風土記稿』には「石尊社・当山の本宮にして山頂にあり、延喜式神名帳に載せし阿夫利神社なり、祭神鳥石楠船尊神体秘して開扉せず」と記している。また、風土記稿より約40年ほど前に出版された『東海道名所図会』の巻五の「雨降大山山寺」の功には、「石尊大権現社・本堂奥不動(大山寺)より嶮路二十八町にあり、・・・〜祭神大山祇命、神体は巌石にして・・・」とある。これらの祭神はいずれも古事記に記されている神々で、古事記では「大山津見神」が山の神で、「鳥石楠船神」は海の神で弟神である。従って、はじめは農耕民の山神が祀られ、後に漁民の海神が合祀され、一体的な神として信仰されたと考えられる。



大山

  大山は標高1253mとさほどの高山ではないが山容の美しいピラミッド型の孤峰で、古くから信仰の霊山・神体山として、常陸の筑波山(875m)・武蔵の御獄山(1070m)とともに関東の三名山の一つとして多くの人々から崇敬されてきた。大山は丹沢山地の東南部を占め、丹沢山地の本体部に対し前山地域を形成し、その主峰となっている。前山地域は本体部(主峰は蛭ヶ岳1672.6m)より一段低く、本体部と接する西側地域ではヤビツ峠(約800m)の鞍部を堺に北流する布川が、南北に走る布川断層の深い谷を形成し中津川に合流している。また、南は春岳沢を水源として南流する金目川によって区分されている。大山山頂からの展望はすばらしく昔から「関八州の展望台」といわれ、また、湘南地方や相模湾上からの遠望もすばらしく雄大で、前山ではあるがむしろ丹沢山地の主峰のようにも見える。
  大山の山中から流下する水は花水川に入り、その流域の田野を広く潤している。したがって古い時代から水神・農耕守護神(いわゆる作神様)として仰がれたことは容易にうなずける。相模平野一帯をはじめ武蔵や房総・伊豆方面からも眺望できる大山は古代から宗教的霊場として開かれた山であったと考えられ、特に別名を「あふりやま」・「あめふりやま」と称するように水を求める農民から水分(みくまり)の神のいます所として崇められてきた。大山はまた「雨降」・「阿部利」・「阿武利」などとも書かれ、「あふり」と読むのが正しいかあるいは「あぶり」かは諸々の説がある。さらに「あふり」の語源については、アイヌ語の「アヌプリ(偉大なる山の意)」から転移したとか、「あらぶる」や「はふる」の転化説もある。このほかにも「大福山」・「如意山」などと呼ばれた。群馬大学の西垣春次氏によると伊勢神宮の建物を記した奈良時代の文書に「阿不理板」というのがあり、これの用途は雨を防ぐものであることから「阿夫利」も雨降に由来すると述べている。
  小田急電鉄伊勢原駅から西北方4kmほど行くと亜夫利神社本庁の事務所(社務局)に達し、これより1km上に「追分社(おいわけしゃ)」がある。ここで登り路が2つに別れ、右側を「男坂」、左側を「女坂」という。男坂を2kmほど登ったところに「下社(頂上の本社のほか2社を合祭した所)」があり、ここで女坂が合流している。下社地より本坂3kmを登ると山頂の「本社」に達し、山頂からは相模平野・伊豆半島・江島・三浦半島などが望まれる。本社の前は右に「奥社(祭神:大雷神)」・「前社(祭神:高?神)」の両社があり、ともに摂社である。その手前に1本の「ナンジャモンジャの木(椈の木)」があり、これが有名な「雨降木」といわれるもので、いかなる晴天にも常に水滴を含み、この木に雲霧がかかると雨が降り出すといわれている。



大山信仰と大山街道

  近世の大山には山頂に石尊社が鎮座し、中腹には大山寺があり、この社寺が一体となって人々の崇敬を受けてきたが、このような大山への登拝を促し大山講を組織していったのは、山麓に蟠踞(ばんきょ)していたかつての修験者や神家の系統をひくかと思われる御師たち(風土記稿では御師の家が166軒あった)であった。大山登拝をしたのは雨乞いや作物の豊穣を願う人々、豊漁祈願の人々、商売繁盛・家内安全を願う人々のほか、火災防止を願う江戸火消たち、7歳とか15歳の年祝いをする青少年、死者の霊を弔う百ケ日参りの遺族などさまざまであった。特に山頂までの登拝が可能になる旧暦の6月27日から7月17日までの夏山期間中には、人々が殺到し大山地区は大いに賑わったのである。
  旱魃の時に農民の代表が大山に登り、竹筒に大山の冷水を入れて持ち帰り、それを田に注ぐと雨が降るという雨乞いの信仰があった。特に盆山参り盛んで、行者姿の人たちは「お山は晴天、六根清場(ろっこんしょうじょう)」と唱えて登った。大山詣りは方詣りはいけないといわれ、大山(男山)と富士山(女山)に登らなければいけないことになっていたが、次第に後者は江ノ島の弁才天詣りに変わってしまった。
  大山は江戸時代に関東一円約70万軒の檀家があったといわれ、これらの檀家が講を作って毎年大山へ参詣した。その参詣道は「大山道」と称せられ、大山へ向かって何条も形成されていった。これらの大山道沿いではそれぞれ7月の夏山には大山燈籠を立てて、毎晩各戸が順番にローソクを灯している地区もある。
  伊勢原市域内には律令時代に官道として整備された古東海道の道筋を通る矢倉沢往還を始めとして、「大山道」・「大山街道」と呼ばれる古道が信仰の山である大山を中心に広がっていた。これらの道は江戸時代中期になると庶民の大山詣りの道として盛んに利用されるようになり、今日でも市域の骨格を形成する国道や県道の道筋として受け継がれている。大山道の主要経路は以下のようである。

大山街道の主要道路
旧街道名経路現在の道路
青山通り大山道
(矢倉沢往還)
江戸から青山、世田谷、二子の渡しを経て厚木から伊勢原を通る国道246号
府中通り大山道府中から小野路、木曽を経て磯部に入り、上依知を経て小野を通過して石倉から大山に至る県道63号
(相模原大磯線)
八王子通り大山道八王子から南下し、橋本、上溝、当麻を経て上依知で府中通りに合流
柏尾通り大山道東海道沿いの下柏尾から長尾、用田、戸田を経て上粕屋から大山への道県道22号
(横浜伊勢原線)
田村通り大山道東海道藤沢宿の西、辻堂・四谷から一之宮、田村、大山への道県道44号
(伊勢原藤沢線)
羽根尾通り大山道前川から羽根尾、遠藤を経て久所で六本松通りと合流県道71号,70号
(秦野二宮線,
秦野清川線)
蓑毛通り大山道蓑毛から大山に至る県道701号
(大山秦野線)
六本松通り大山道多古から曽我別所、久所、井ノ口、大竹、寺山、蓑毛から大山に至る


大山区のその他の神社

  大山山中には阿夫利神社管轄の複数の神社があるが、阿夫利神社と戦前に大山各町内の小祀を合祀した「追分社(八意志兼神社)」以外には地元の人々が信仰し祭祀などに関わりをもつ神社はない。現在では例年9月20日に各町内の氏子総代等が追分社に参拝して合祀祭を行っているが、町内によっては依然として独自の鎮守祭を行っているところもあるという。
  現在、各町内の鎮守社に相当する神社を見ると坂本町が「根之神社」、稲荷町が「通力五社稲荷神社」、開山町が「諏訪神社」、福永町が「愛宕社(松尾社併祀)」、別所町が「井上稲荷神社」である。以下に各町内にある神社について紹介する。

●追分社(八意思兼神社)
  男坂と女坂に分かれるところにあり、明治44年(1911年)9月20日に大山地区内にある無格社の「春日社」・「根ノ社」・「五社稲荷社」・「諏訪社」・「愛宕社」・「松尾社」・「皇産霊社」の7社を合祀し「坂本神社」と改称されたが、その後再び「追分社」に復称して今日に至っている。9月20日の例祭日には各町内の代表(講元)が参列し、神官の祝詞のあと玉串奉奠が行われ、直会をして解散となる。以前は大山各町内の神社を合祀してあることから秋季大祭には神輿を追分社まで担いでいったが、現在では交通事情や担ぎ手の減少などによりほとんど見られなくなった。

追分社
社殿境内
左手の女坂右手の男坂

●根之神社(坂本町)
  大山ケーブルの追分駅前に祀られており、坂本町では9月1日に祭典を行っている。町内の4人の先導師が毎年交替で神職をつとめることになっている。祭神は「磐拆神(イワサクノカミ)」・「根拆神(ネサクノカミ)」・「石筒之男神(イワツツイオノカミ)」の3神を祀っている。

根之神社社殿

●通力五社稲荷神社(稲荷町)
  稲荷町の和仲荘のところに祀られているが、もとの鎮座地は大山川対岸の千代見橋の近くで、関東大震災のときに社殿が壊れたので現在地へ移したという。『風土記稿』には祭神を「倉稲魂命」・「大己貴命」・「大田命」・「大宮姫命」・「保食神」の5柱とし、師職の和田仲太夫持となっている。

稲荷社社殿

●諏訪神社(開山町)
  『風土記稿』によると諏訪社は永仁3年(1295年)に勧請され、本地仏は薬師であると記されている。また例祭は旧暦の7月27日で、青茅を結び諸神に捧げる神事は大山寺開創以来の慣例と伝えられているが、いつの頃から行われなくなったようである。なお、諏訪社は大山寺承事役の源長坊持であった。
●愛宕社(福永町)
  『風土記稿』によると愛宕社は享保元年(1716年)に勧請され、例祭は7月24日で師職の願成坊持と記されている。

愛宕公園愛宕社
愛宕滝

●井上稲荷神社(別所町)
  児童公園の近くに祀られており、2月初午のときに祭りを行っている。
●水元稲荷(新町)
  新町ではかつて町内で水元(みずもと)稲荷を祀っていたが、関東大震災のときに祠を流失して、その後は水元稲荷の祭りはしていないようである。



大山寺

  神社とともに信仰核の一翼をになっていたのが雨降山「大山寺」を中心とする寺院集団であった。大山寺の創建についても縁起以外に裏付ける正確な資料に乏しく、解明することは困難である。大山寺が正史に記載されたのは鎌倉時代で、『吾妻鏡』の元暦元年(1184年)9月17日の条に「源頼朝が大山寺に寺領として水田五町歩と畠八町歩を先例に従って寄進した」とあるのが所見であるが、寺歴その他についてはふれていない。
  現存する大山縁起に漢文で書かれた真名本縁起と仮名本の絵巻縁起の二種がある。真名本縁起では『風土記稿』に部分転記された大山縁起、『大日本仏教全書寺誌叢書』の大山縁起、内閣文庫所蔵の相模国大山縁起、『続群書類從』の大山縁起などがある。一方、仮名書きにした絵巻縁起では大津浩一郎所蔵の大山寺縁起絵巻、高瀬慎吾所蔵の大山縁起絵巻、大山寺所蔵の大山縁起絵巻および大山史稿本などがある。そのうちの大山縁起絵巻には享禄5年(1532年)に書写されたと記されていることから、記年のある最古の絵巻であると思われる。
  各縁起とも共通している点は、大山寺は「良弁上人」によって創建されたと記していることである。寺伝である「国宝不動尊大山寺縁起」によると良弁僧正によって天平勝宝乙末年(755年)に創建された霊場にして、聖武天皇の勅願寺となった旨を記している。東大寺が聖武天皇の発願によって創建されたのは天平17年(745年)で、開眼供養が行われたのが天平勝宝4年(752年)である。「東大寺別当次第」に天平勝宝4年5月1日に良弁は初代東大寺別当に補任され(時に64才)、相模国人俗姓漆部氏といい、金鷲菩薩といわれたとある。大山寺の創建は縁起・寺伝によると大仏開眼の3年後となるが、実際問題として東大寺の別当良弁僧正が相模国の大山に来山し、寺院創建したとは考え難い。しかし、大山寺は良弁上人の法系に関連する僧侶の手によって開創され、良弁僧正を勧請開山としたのではないかと考えられる。

石段本堂
境内左手大師堂
六地蔵鐘楼・宝篋印塔
龍神堂(八大堂)前不動


御師

  大山御師(おし)は中世以来山内に集住していた修験者が、近世初期の幕命により強制的に山外に居住させられたものが主力であるが、その後に御師となった者もある。近世以降は御師と改称して門前町を形成したが、明治初年の神仏分離以降は「先導師」と改称され、現在に至っている。従って名称の変更に伴い性格も変化した。
  山麓定住後の大山御師は修験時代に保有していた一切の諸特権のほどんどが剥奪され、学頭に隷属その支配下におかれた。従って彼等に残された道は大山への山詣者を対象に宿泊・案内・その他によって生活するとともに、大山信仰を媒介として新たに檀家を獲得することであった。従って彼らの殆どは地元の相模国はいうまでもなく、さらに関東全域・その外縁地域へと在住各層に大山信仰の教線活動を行い檀家の獲得に専念した。さらに、獲得した檀家を対象に行政別・地域別・職業別に講(大山講・阿夫利講)の結成を行い、その講を対象に檀廻(廻檀)活動を行うとともに大山への参詣勧誘を行った。
  参詣者を道者ともいい、道者は同者・同社などと書き、うち連れて社寺に参詣する旅人、道衆・回国巡礼の意である。それら参詣者が大山に集中するのは開山期で、御師は檀那を旦那(梵語の"dana")とよび、それと師旦関係を結んでその維持につとめた。その檀那が来山したときは御師の家を定住または休息所とし、参拝や祈祷をあげる手続きなどを代行した。それは大山に限ったことではなく、古く中世から全国的に信仰を集めている寺院についてもいえることであった。師檀関係は世代から世代へと継承・持続されたため、御師は檀家を一種の財産(株)と看做し、時には譲渡・売買・質入の対象とした。これも大山御師に限ったことではなく、他の御師・先達の間でも行われた。
  明治初年の神仏分離後に御師は先導師と名称が変更された。これまでの御師が神仏両面(阿夫利神社と大山寺)の大山信仰を対象として教線活動を行ってきたのに対し、先導師は大山寺の支配を脱して阿夫利神社の支配下に入るとともに、阿夫利信仰の神道を対象として教線活動を行うこととなった。
  明治6年(1873年)に阿夫利神社の祠官に任命された権田直助(1809〜87)は一山から仏教的慣習を除去し、阿夫利神社を中心とする神道に統一して一山の刷新を行った。そして従来の檀家制度を教会制度に改め、名称を敬慎協会とし、自らが会長となり兼務した。各地方町村に教会を設け、境界を規模の大小に応じて大・中・小の等級に区分し、大先頭・中先頭・小先頭をおき、その下に幹事をおき、実際事務を掌らせた。そして、その受持区域の各町村の教会を分掌管轄する御師を先導師と改め、指導強化に当るように規則をつくった。そして教会内部の巡回指導と、教会祭日には典祭を行い、大祭には一同それぞれ登山し、教会本部を通じて参拝し、神恩に感じ、神徳に浴すべく組織し、これを実行させた。こうした考えは権田氏の恩師平田篤胤の感化とその体験・信仰から得たもので、それを敬慎教会として実践化した。しかし、その後の社会情勢の変化、先導師ならびに教会内部の信仰意識の変化などによって、権田氏の理想の実践化には幾多の障害が生じた。



大山の地区区分

  天保12年(1841年)完成の『新編相模国風土記稿』によると大山地区には「坂本村」・「上子安村」・「下子安村」という3つの藩政村があり(3村全てが大山寺領)、坂本村は「坂本町」・「稲荷町」・「開山町」・「福永町」・「別所町」・「新町」に分かれていていた。新町は上子安村(現子易)の土地であったが、寛文6年(1666年)の洪水によりこの付近一帯が流失してしまった。そこで翌年の寛文7年(1667年)に当時の坂本村では村内の別の土地との替地を申し出て認められ、新たに町づくりを推進したのである。従って歴史的に見ると、新町は大山区の中で最も新しく開けた町内であるといえよう。なお、大山登拝の拠点であった坂本村を人々は坂本村と呼ばず「大山町」と呼んでいた。
  江戸時代当初より大山寺領で幕末まで続き、検地は慶長年間(1596〜1615年)頃に行われたらしいが、詳細は不明である。明治初年には畑が五町七反余、屋敷は六町三反余とあり、田はなく屋敷地が畑を凌ぐことがわかる。道は富士道が幅六尺で通り、小田原道とも日向越とも呼ばれた。当村は丹沢山地の中にあり、村内最高峰の大山の他には、堂山・壁土山・扇平・浅間山・笈平・鐘ケ嶽などの名がある。それらの山々の谷合からの清水が集まって大山川となり、幅四間で上下子安村へと流れて鈴川の源流になる。村内には大滝・愛宕滝・良弁滝・本滝と呼ばれる4ヶ所の滝がある。
  各町内の鎮守であると明確に規定されている神社は坂本町の鎮守「根之神社」、稲荷町の鎮守「稲荷社」と開山町の鎮守「諏訪社」がある。このほかには御師(特定の社寺に所属して参詣者を案内し、参拝・宿泊などの世話をする者)個人持ちの社など大くの神社があった。寺院には「成就俺(臨済宗)」・「大泉寺(黄檗宗)」・「西迎寺(浄土宗)」・「西岸寺(浄土宗)」・「相頓寺(浄土宗)」・「観音寺(古義真言宗)」などのほか、大山寺八大坊の末寺も数ケ寺あり、禊などをする滝も多かった。

明王太郎

  手中家が関与した仕事の所在地は横浜・八王子・鎌倉などに広く分布しており、関東西南部の広い範囲で活躍していた。棟札などに記録された明王太郎の活動の足跡は15世紀から20世紀までの400年以上にわたっており、大工の世代の継承が数十代にわたって続いたことになる。明王太郎は世襲の大工で、工匠家が永く存続するためには優れた技術の継承が一番大切となる。明王太郎は技術を重んじるがために、弟子の中に秀でた人物がいると養子に迎えて継がせることがあった。
  明王太郎は大山寺の創建のときから寺の大工を勤めてきたといわれ、その経緯が『風土記稿』に次のように記述されている。

  「工匠手中明王太郎 当山(雨振山)開闢のとき良弁に従い来り、堂宇建立の匠を司りしより、今も山中造営の事あれば預れり。坂本村に住す。坂本村旧家の条に詳載す。
  旧家手中明王太郎 工匠にて師職を兼帯す。師職にては小川監物と称せり。元禄中の記録に、先祖明王太郎、安永中の記には金丸左衛門尉信常の子、太郎文観という者濃州岐阜に住し、十六歳のとき勅によりて南都東大寺造立の棟梁を勤め、その功によりて従六位下に叙し、飛騨守に任ぜられ、後明王太郎と称すという。
  大山寺建立のとき棟梁たり。そのとき明王権現(大山寺境内に鎮座)の告ありて明王太郎と称せしより、世々通称とす。文観濃州岐阜に一寺を建立し、文観寺と号す。宝亀五年八月二十八日死すと、安永の記に見えたり。また安永二年白川家に請いて、その霊を神に祀りし免状を蔵す。
  大山寺石尊および明王社修造には必ず棟梁を奉り、かつ両社少破のときは、太郎一人内陣に入りて修補し、他人の入事を禁ず。また大山寺祈?幣束の串は世々この家にて造る事例なりという。古くは大山寺仁王門の辺りに住せしが、慶長十年正月妻帯の者、下山すべき命ありしより、この地に住し、今に大山寺の工匠たり。」

  この話は多分に伝説的な内容を含んでいると思われ、奈良の東大寺建立のときの番匠の一人が文勘と呼ばれ、明王太郎の祖先であったという。文観は良弁僧正に随行して相模の国にやって来て、その地に大山寺の堂塔伽藍を建立した。このとき明王権現の告があって、明王太郎と称するようになったという。これは奈良時代の話であり、話を裏付ける証拠は現在までに見つかっていない。
  江戸時代の明王太郎は相模国ではよく知られた大工であり、ときには普請の注文が重なって一時期に2つの寺社の普請を掛け持ちで進めることがあった。また、昼間は神社の普請を、夜には神輿の建造を手がけるケースもあった。明王太郎の名は相模国内にとどまらず隣国にも知れ、普請の注文が入った。遠い例では天明4年(年)の駿河国茶畑村鎮守浅間神社、文政10年(年)甲斐国上野原戌嶋宮、天保6年(年)の高尾山薬王院表門などがある。遠方へ弟子たちと共に出かけ、そこに逗留して普請の仕事をした。
  姓については「手中」・「田中」・「金丸」の3つの姓が時代の変遷に伴って使われ、大山寺創建のときの明王太郎の元祖の太郎文観は金丸姓であり、時に子孫が金丸姓を使うことがあった。その後、江戸時代中期頃に至るまで単に明王太郎と称したり、あるいは田中姓を名のり田中明王太郎と称した。手中については江戸時代中期の景直(1786年没)の世代になってから名のった姓で、以後は手中明王太郎が代々の世襲名となった。現在では明王太郎の子孫は手中姓を名のっている。

●明王太郎神輿の所在分布
  大工の明王太郎は幾代にも渡って神輿を造り、建造した神輿の中で現存し所在の確認されたものが19棟(基)ある。この19棟の神輿は棟札や請負証文などの確かな資料が存在し、明王太郎の作であることが確認できたもので、それら以外に明王太郎作の言い伝えをもつが、確証を得られないものが10余棟存在する。

明王太郎神輿の所在
神輿名所在地請負年完成年普請作者
1上秦野神社
八幡神輿
秦野市
菖蒲
天明5
(1785)
天明5
(1785)
新造景直
2須賀神社神輿秦野市
羽根
寛政12
(1800)
享和元
(1801)
新造信景
3田名公所神輿相模原市
田名
享和2享和3新造
4曽屋神社神輿秦野市
曽屋
弘化2(1845)以前作
文久元(1861)曽屋村譲渡
敏景
5前鳥神社神輿平塚市
四之宮
万延元
(1860)
文久元
(1861)
新造景元
6三之宮比々多
神社神輿
伊勢原市
三之宮
慶応2
(1866)
慶応3
(1867)
新造
7日枝神社神輿平塚市
寺田縄
改造
8金刀比羅神社
神輿
茅ヶ崎市
南湖
明治明治10新造
9寄木神社
八坂神輿
平塚市
大神
明治12(1879年)明治12
(1879)
新造
10福田神社
八坂神輿
大和市
福田
明治20明治20新造
11四之宮
八坂神輿
平塚市
四之宮
明治22
(1889)
明治23
(1890)
新造
12御霊神社神輿平塚市
横内
明治26
(1893)
明治26
(1893)
新造
13菅原神社神輿厚木市
戸田
明治29明治29新造
14朝日神社神輿秦野市
東田原
明治30明治31新造
15渋谷神社神輿海老名市
門沢橋
大正5大正6改修景堯
16子之社神輿綾瀬市
寺尾中
大正5大正6新造
17乳牛鎮守神輿秦野市
水神町
大正8大正8新造
18腰掛神社神輿茅ヶ崎市
芹沢
昭和9昭和10新造
19大山新町神輿伊勢原市
大山
昭和10昭和11新造

  この中で一番古い歴史をもつものは天明5年(1785年)に景直が造った上秦野神社の神輿で、最も新しいものは太平洋戦争前の昭和11年(1936年)に景堯によって造られた。この間151年に渡って神輿の制作活動が続き、景直(かげなお)・信景・敏景・景元・景堯の五代が建造にたずさわった。
  明王太郎は神輿を大住郡大山町で造り、最も遠い所からの注文は直線距離で19kmも離れている大和市の福田神社からであった。従って大山町を中心として半径19kmの円を描くと、その内に全ての神輿が分布することになる。昔は神輿が完成すると長い道のりを大勢の担ぎ手によって運んだが、運ぶのに一昼夜をかけるのが限度であった。19kmの円はその境を示し、それより遠方からの神輿の注文はなかった。



神輿

  大山の門前町・御師(おし)の町が山のふもとに存在し、その中の一地区として前述の新町があり、大工の「手中明王太郎」の地元でもある。ここに町内神輿があり、阿夫利神社の8月の祭礼のときに担がれる。普段は大山の三ノ鳥居近くの神輿舎に安置され、祭りになると新町の青年衆によって担ぎ出される。
  神輿は昭和11年(1936年)8月に「手中明王太郎景堯」によって造られ、景堯44歳のときの作である。景堯が自ら書き写した神輿の棟札の写しがあり、主文に「奉新造大山新町小供神輿壱字」と墨書きされており、当時子供用に造られたことが分かる。しかしこの神輿は子供が担ぐには大きくて重く、現在では大人が担ぐ寸法であり、戦後になると青年が担ぐようになる。昭和11年は太平洋戦争の5年前であり神輿を造る余裕のある頃であったが、やがて戦争となり神輿や寺社建造の注文はなくなり、宮大工にとって苦しい時代を迎えるようになる。太平洋戦争が終わった2年後の昭和22年(1947年)8月に、神輿は彫刻の追加工事が行われた。
  阿夫利神社の愁季祭が8月27日から29日に渡って行われ、大山の各町内は木戸ごとに斎竹を立て神輿巡幸の道に沿って注連縄を張り巡らす。祭りの初日に山の中腹の阿夫利神社から御旅所の里の社務所へ神幸の御下(おくだ)りがあり、切麻・金棒・前駆を先導に衣冠・裃(かみしも)・浄衣・衣袴姿の宮司・神職・神部・巫女・楽師・世話人たちが、鉾・旗・唐櫃・神籬(ひもろぎ)・御幣・神輿などと共に大行列をなして下りてくる。
  各町内の神輿も祭りの夜に同じ御旅所へ一斉に集まり、新町の神輿も27日と28日の2日に渡って、夜になると御旅所の社務所境内へ渡御する。境内には灯籠や提灯に明かりがともされ、お囃子が祭りの調べを奏で、能舞台においては典雅な狂言・素揺・仕舞が奉奏されて、華やかな夜祭の光景が繰り広げられる。



秋季祭

  8月27日から29日までの3日間に行われる秋季祭は通称「大山祭り」といわれ、大山の一大イベントであり6町を挙げて祭礼が執り行われる伝統は古い。時代の推移とともに祭礼の様式には様々な部分で簡略化が図られたり、新たな要素が添加される、また規制が緩和されるなど大小の変化はあるが、祭礼は阿夫利神社と大山の各町会との連携によって大枠は伝統的な形式に則って執行される。この秋季祭の一連の過程には各町内の子供中心の祭祀「天神講」や町内の神輿巡行などが組み入れられ、阿夫利神社だけではなく大山の各町会を挙げての祭礼という意味合いを持つのである。大正6年(1917年)の『雪岳大山』によると9月8日から10日にかけて行われていたが、『大山阿夫利神社年中祭事記』によると大正年間に現在の日程に変更されている。明治44年(1911年)の『中郡町村誌』によると、「大山の氏子が報謝の誠意を表する祭典にて、小字六ケ町にて一ケ年づつ年番となり、行宮をつくり祭日中神輿を此所に奉安し各種の神事を行う。其渡御の行列の如き氏子全般挙りて供奉し、実に盛大なり」とあり、昔からかなり盛大な祭りであったことがうかがえる。
  秋季祭では大山の6町会が毎年交替で年番を務め祭礼執行の責任を負い、年番は大山への登攀順つまり「新町」・「別所町」・「福永町」・「開山町」・「稲荷町」・「坂本町」の順に6年に1度ずつ務める。年番の町会では年番長を選出し、年番長の采配に従って町会の惣役で祭礼の準備、執行、片付けなどが進められる。年番の役割は実質的には前年の祭礼の後片付けへの立会いから始まる。すなわち社務所に作られた行在所や境内の片付けの際に、翌年の町会から町会長や祭り世話人などの主だった人が作業に立ち会い、提燈、花など各種の道具がどれだけの数、どこに、どのように仕舞われているかを確認する。逆に年番は翌年の年番の代表者が到着しないうちは片付けに着手できない。その後、祭礼を終えた8月末から9月上旬に神社社務所で正式な引き継ぎが行われ、この時には町会長、組長、講元、倶楽部会長などの主だった役員が出席して帳簿などを引き継ぐ。
  年番の町会が祭礼の準備に着手するのは7月に入ってからで、上記の主だった役員が適宣会合を持ち、6年前に年番を担当した時の役割分担を参照しておおよその役割配分を定める。そして町会の常会を開いて全員で審議し、最終決定して8月上旬には文書で各戸に配布し確認を図る。年番にあたる町会の役割には社務所内の行在所の設置、境内の飾り付けと設営、祭礼期間中の行在所への立ち会いと当直、社務所境内での接待、その他があり、昭和34,35年(1959,60年)までは余興の開催と舞台設営も年番町会に任されていた。こうした年番としての務めのほかには自町内の注連縄張りや小行在所(神輿渡御の休憩所)の設営、神輿や天神講の祭壇作り、作物の準備、その他実に多様な作業があり、とくに年番の年には町会を挙げて任務を分かち合うことが不可欠となる。
  年番以外の町会では町内の注連縄張りは各戸半日の惣役で行われるものの、その他の祭礼準備や片付けは毎年輪番で、「祭り世話人(什人)」の組と倶楽部、子供会が担当する。また、祭礼に掛かる「一山費(いっさんひ)」を各戸から徴収するもの「祭り世話人」の担当である。

・8月27日・・・遷幸祭(おくだり)
・8月28日・・・本祭典
・8月29日・・・還幸祭(おのぼり)



宵宮(8月26日)

  8月26日には各町内の所定の広場に祭場が設けられ、大小の神輿が安置され、天神講の菅原社が祀られて飾り付けが行われる。例えば、別所町では児童公園の入口近くにある広場にテントを張って祭場を設営し、子供たちは山から「富士砂」を採ってきて菅原社を祀る場所に敷き、その上に神輿小屋から社殿を出して安置する。この富士砂は富士山噴火の時に降ったものといわれ、清浄な砂とされている。菅原社の祭壇も作られ、供物を供えて飾り付けが行われる。また、子供たちはお盆過ぎから行灯作りの準備を始め、枠に紙を張って絵を描いたり、家内安全・町内安全などの文字を書いたりして宵宮までに用意される。
  このように準備が整うと各町内毎に夕方から祭場で祭典が執行され、神輿の渡御が行われる。稲荷町では旅館和仲荘前の駐車場に祭場が設けられ、19時から神官を中心にして祭典が行われる。祭典が終わると参加者に御神酒が振舞われる。大小の神輿が担ぎ出されると坂本町との境まで巡行し、再び引き返して19時40分頃に終了となる。
  なお、大山区の家々では屋内に外から見えるような位置に祭壇を置き、祭りの期間中飾っている。祭壇には幣束や榊が立てられ、鏡餅や野菜・果物などが供えられる。こうした各家の祭壇に町場の祭礼の雰囲気を見ることができる。また、追分社から新町の三の鳥居まで、神輿が通る道路の両側にはオシメ(注連縄)が各町内の総役で張られる。



主な祭祀

  1月7日・・・筒粥祭  引目祭
  4月5〜20日・・・春山祭
  4月25日・・・祖霊社大祭
  5月下旬・・・酒祭祈願祭
  7月27日〜8月17日・・・夏山大祭(7月27日は例祭)
  8月27〜29日・・・秋季大祭
  10月20日〜11月20日・・・紅葉祭
  12月5日・・・新穀感謝祭



青年倶楽部

  大山・子易両地域の各町会ごとに「倶楽部(クラブ)」と称される青年による団体が組織されている。青年の組織といえば一般には若い衆や若者組の組織と、明治末から大正期にかけて国家的政策の中で組織された「青年会」・「青年団」にその典型をみるのが通常であるが、大山の場合は江戸時代以来信仰の町として栄え各地からの参詣者が訪れる門前町として発達したためか、市域の農村部とは異なり青年の組織も比較的早い時期に各町内の倶楽部と大山町青年団の二重構造として定着していたようである。一方、農村的色彩を濃くしてきた子易では近年は子易上の「諏訪倶楽部」と子易下の「町屋倶楽部」の名称が定着しているが、かつて上は「諏訪連」、下は「町屋連」と名乗っていた。
  大山では各町会を単位に青年層を中心に結成された倶楽部は、現在も町会を支える重要な団体である。元来倶楽部は「若い衆」の組織を基に再編制されたものといわれ、大正末から昭和初期にかけて各町内に設立された。設立当初から任意加入団体であり強制的に加入すべき集団ではなかったが、地域に生まれ育ちあるいは婿養子として定着した人々の殆どが倶楽部員としての体験を有し、また現に倶楽部員を構成する。倶楽部は6つの町内毎に組織運営され、その連合体として「大青倶楽部」がある。各町内の倶楽部名は下記の通りである。

    ●坂本町・・・雲井倶楽部
    ●稲荷町・・・千代見倶楽部
    ●開山町・・・日乃出倶楽部
    ●福永町・・・愛宕倶楽部
    ●別所町・・・霞倶楽部
    ●新町・・・新玉倶楽部

  各町内とも大山川に架かる橋の名前から取られており、加入年齢は17,18歳(高校卒業)以上で40ないし45歳(別所町)までで、最年長者の中から部長が選ばれる。この年齢は昭和の初期から変わっておらず、戦前でも子供が嫁・婿を迎える頃になって退会した人が多い。当時は婿養子として他地から大山に入った人も40歳頃までは倶楽部に加入していたが、戦後は婿養子の人は必ずしも全員が倶楽部に加入しておらず、任意加入の度合いが強くなった。昭和20年(1945年)代まではソウリョウ(長男)以外の人も地区内で職を得ることが普通だったため、加入者が多く各倶楽部とも常時20〜30名の部員を確保できた。しかしその後は部員の減少は激しく、中には稲荷町のように昭和37〜41年(1962〜1966年)の間に一時解散し、42年に再興した倶楽部もある。また倶楽部は元来男子だけを成員としたが、稲荷町の千代見倶楽部のように、最近は女子でも加入希望する人については加入を認める度合いが強くなった。
  倶楽部は部員の親睦機関であると同時に、各町内の自治組織に組み込まれている。現在では終戦後の頃と比較すれば、町会との一体度は弱まっているとはいえ、とくに阿夫利神社秋季祭や各町会の氏神祭祀においてはその運営母体としての性格を持ち、さらに大山に伝統的な5月節供の凧揚げ行事の推進母体となってきた。以下に倶楽部の活動の推移について記す。
  各倶楽部には発足以来の活動記録が保持されており、ここでは稲荷町千代見倶楽部の記録を抄録した昭和54年(1979年)の『千代見倶楽部五十年史』を例に紹介する。この50周年記念誌には昭和54年までの50年間に、社会の変化に対応する大山の青年組織の推移が興味深く示されている。千代見倶楽部は昭和3年(1928年)10月13日に22名をもって発会し、発会の経緯についてはかつての若者の組織が再編されたこと以外は明確ではない。倶楽部の活動内容は時代の推移とともに種々の面で移り変わりがあるが、その中でも倶楽部の主要な活動は@阿夫利神社秋季祭における諸活動、A5月節供の凧揚げの主催・協賛、B町会あるいは地域への奉仕作業である。

@阿夫利神社秋季祭における諸活動
  昭和34,35年(1959,60年)までは秋季祭には年番に当たった町会の倶楽部が祭礼の余興に芝居を勧請して興行し、そのための舞台も年番町内の広場に倶楽部で雇った職人に倶楽部員が協力して設営した。当時は神輿が神社下社に「お上り」になった8月29日夜から30日の朝方まで、夜を徹して芝居がうたれた。芝居は大正期には厚木、昭和に入ってからは渋沢の興行師から買い、また舞台作りの職人を雇いそれぞれに酒・弁当を賄えば戦前でも4,5万を要したという。その金は芝居の開催時にあがるハナ(祝儀)で大部分は賄われたものの、万が一、当日台風が襲来して芝居をうてないこともあり得るため、ハナは勘定に入れずに倶楽部で準備する必要があった。そのため、各倶楽部では次に年番が回ってくるまでの6年間、当時の大山町や個人から山仕事でも土方仕事でも何でも惣役で請け負って稼いだり、箒(ほうき)を大量に仕入れて大山中を売り歩いたり、また映画を買ってきて学校の講堂で入場料を取って見せるなど、ありとあらゆる方法で資金を稼いだ。
  こうして無事芝居が終わり祭礼が終了すると、倶楽部では芝居にあがったハナを資金に熱海や湯河原などに出かけて鉢払いを開催した。旅行にでるのは終戦直前までは年番の年だけであったが、その後は倶楽部の年中行事に定着した。秋季祭において倶楽部で芝居を開催しなくなってからは、年番の年には神輿の渡御などについて警察への届出を担当するなど主に事務的な役割を務め、また各町内では天神講と町内神輿の設営や渡御を担当することだけとなった。
A5月節供の凧揚げの主催・協賛
  凧揚げ行事は大山では古くからの伝統を持ち、元来、町内で初節供を迎える男子を祝うために各倶楽部が個々に子供の名前を書き入れた大凧を作って揚げるもので、期日も5月5日に限ることなく5月中の風が吹く日には何日も倶楽部員が「千畳敷」という山の頂上に出向いて行われた。初節供の子を持つ家では倶楽部員が山に行くたびに赤飯・煮しめ・柏餅・握り飯・酒・菓子などを準備して持っていかなけらばならず、その経費は馬鹿にならなかったという。昭和43年(1968年)に大山子供会が設立されて以来、この行事は以前とはやや性格を変えてきており、現在は子易をも混じえて子易の龍泉寺前の水田で行われる。
B町会や地域への奉仕作業
  大正の末に大山入口の鳥居から開山町までの階段が外されて道路が開かれた時や、戦時中の大山ケーブルの取り外しと戦後の再敷設など、地域の共同工事に大きく寄与したのも倶楽部員であった。さらに各町内の奉仕作業として、例えば千代見倶楽部では氏神社や参詣道の整備・清掃、共有山の火防線手入れ、茶湯寺の花祭りへの奉仕など各種の仕事が、また開山町日乃出倶楽部では昭和10年(1935年)頃に現在の権田公園を倶楽部員の奉仕作業で築造した。こうした惣役に出られぬ者には出不足金の支払いが命じられてきた。しかし、最近は祭礼以外には倶楽部の奉仕作業や惣役の機会はほどんどなくなった。



大山門前町

  大山の門前町は講義には大山側の坂本町蓑毛側の「坂本」からなり、両町を区別するために大山側を「東坂本」、蓑毛側を「西坂本」とも呼んでいた。これは比叡山の門前町、東側を東坂本、西側にあった西坂本(修学院から一乗寺あたり)と似ている。大山門前町の形成の母体は、中世以来山内に集住していた修験集落が幕命により解体し、その殆どが大山と蓑毛の山麓に移住して集落を形成し、この御師集落が拡大して門前町となったものである。門前町形成後は各地から参詣者が徐々に増加し、門前町としての形態を整えその宿泊基地として、また大山の場合は山内の需要に供する物資の兵坦基地的役割をかねて発展した。

●大山(東坂本)門前町
  この門前町は大山の表参道の前不動(追分社)から大山川に沿う河成段丘上に形成されている。風土記稿の坂本村の条に「大山町と称し、村名を唱へず、天平勝宝年中、良弁大山寺草創の時此の地を開けりと伝う」とあり、天平年中云々は別としても集落の形成はかなり古いものと考えられる。
  近世初め、ここへ中世以来山内に集住していた修験集団の大部分が移住し、以後御師として集落を形成したことは風土記稿の記事でも明らかである。風土記稿には「今大山寺領也戸数311、内大山寺師職の者149皆往来の左右に連なる」とあるが、これは天保年代の門前町の状況と考えられ、それ以前の記事としては風土記稿の大山寺の条に「修験3(笹之坊・藤之坊・繁昌坊)・神家2(大満坊・若満坊)師職兼帯5(閼伽井坊・内海式部大夫・内海刑部大夫・内海兵部大夫・佐藤中務)・師職166、承仕4(岩本坊・源長坊。祐泉坊・正本坊)・工匠・(手中明王太郎)・・・これらは皆山中に住せし修験者なりしが、慶長10年命によりて下山し、師職となれり・・・」とある。
  このような点から考えると大山門前町の形成は、近世以前から定住していた既成集落に、中世来山内に集住していた修験集団が合流して、近世の大山門前町が形成されたといえる。初めは坂本町とか大山町とよばれていたが、その後は門前町が次第に拡大して上分と下分とよばれた。上分は坂本町・稲荷町・開山町とにわかれ、下分は福永町・別所町に新町が加わり、以上6町で大山門前町を構成するようになった。

●蓑毛(西坂本)門前町
  蓑毛の門前町は元禄時代(1688〜1703年)を境に「元宿」と称する初期の門前町と、「宿分」と称する後期の門前町とに区別することができる。
  初期門前町が形成されたころは金目側の上流、蓑毛橋より約500m上流(この辺の河川名を春嶽川ともいう)左岸と右岸の河川段丘上に形成されていた。当時の集落遺跡と思われる屋敷跡の大部分は森林に覆われているが、墓地に利用されているところもある。元禄2年(1689年)の古図をみると現在の蓑毛橋を渡った右岸に立地している御嶽神社・大日堂・茶湯寺などは元宿の北側付近にあった。集落は下流の現在大山への登山道入口の文化2年(1805年)の常夜灯付近まで、約200m参道に面して両岸に約30軒ほどの集落が立地していたようである。当時の石尊社への登山道は、この元宿を基点に春嶽川に沿って山頂に向かったと考えられる。
  後期の門前町が形成されたところは蓑毛橋以南の宿分と呼ばれる地域で、前期古地図の作成年代が元禄2年(1689年)であることから推定すると、元宿から現在地に移動した時期はそれ以後と考えられる。しかしながら、とくに坂本道の開通によって蓑毛の門前町は次第に衰退の方向に向かったと考えられる。



大山門前町の地区別構造

  大山門前町は幕府の解体によってその支援を失い、またその後の神仏分離令によって一時"死の町"と化した。それは富士山麓の御師集落にみられた現象と共通するものがある。しかし、その後は再び活気を取り戻し現在に至っている。

●坂本地区(旧坂本町)
  坂本地区の門前町はもとは大山川に架す雲井橋(高度約390m)から流れに沿い、左岸の河岸段丘と右岸の山麓南斜面上に立地形成していた。高度は390〜360m、その間の長さは約200m、古くから大山寺と山頂の石尊社への表参詣道入口の基地の町として、重要な役割をもって発展してきた。現在でも、もっとも典型的な門前町を形成している地区といえる。
  江戸時代には雲井橋より奥の山内は聖域とされ、25人の清僧以外の居住は認められず、一般俗人においては参詣以外の入山は厳禁された。開山期に限り男子は山頂まで登拝を許されたが、女子は大山寺(現在の下社)までしか行けなかった。しかし、神仏分離後はそうして制約は撤廃され、自由に参詣・登山ができるようになった。したがって参詣者のみでなく一般の来山者も次第に増加し、それに対応するために登山道の要所に茶店も開設された。

●稲荷地区(旧稲荷町)
  坂本地区の次が稲荷地区の門前町で、高度は360〜300、長さは約350mである。坂本地区と同じく概ね大山川の左岸、河岸段丘と右岸の山麓南斜上に立地形成していて、落差も大で階段が多い。ここの商店街も対向形態をとっているものが多く、集落形成も右側が古くからのもので、左側はその後に形成されたのが多い。先導師の家の多くが参道右側に立地しているのに対し、商家の多くは左側に立地して、坂本地区と比較的類似性をもった門前町といえる。
  坂本地区の鎮守が追分駅側の根之神社であるのに対し、この地区の鎮守は和田仲太夫側の五社稲荷である。稲荷町の名称はこの社に起因するという。

●開山地区(旧開山町)
  これまでの2区が大山川の左岸を中心に立地しているのに対し、この地区は主として大山川右岸の河岸段丘と、浅間山(679.6m)東斜面部を利用して立地している。高度は300m〜260m、長さは約350mで、開亀橋を境に上下二区からなっている。産業構成としては建築業として近世の宮大工・箱屋などの系譜に連なると考えられるものがあり、前期2地区と若干異なった要素をもった門前町といえる。
  上地区の集落の多くは旧参道に沿って分布していたが、その東側に新道が開通したので、旧道右側の集落は新道にはさまれたた両面利用形態に改造した家もある。一方、下地区はかつて御師集落の密集地域を構成していたが、現在ではその景観が一変している。下地区の鎮守は上地区の諏訪神社で永仁3年(1295年)の勧請と伝承されている。下地区には良弁幼少の像を安置する良弁堂があり、開山町の名はこの良弁が大山を開山したことに起因するという。

●福永地区
  この地区は大山川を挟んで両側に立地している門前町で、高度は260m〜220mと比較的ゆるやかで、長さは約300mである。愛宕橋を境に上地区と下地区に分かれており、上地区は大山川右岸で開山町と同じように河岸段丘上に立地しているが、下地区は大山川左岸の段丘面上と左側の山麓面上に立地している。
  福永町はもと政庁の中心下寺(下屋敷)がおかれた地区で、町名は一山の繁栄を願い、美化して名付けられたという。その下寺は安政の大火に焼失してからは再建みずに明治維新を向かえ、その後は跡地に宿舎翠浪閣が建てられたが、現在は神社の社務所がおかれている。また、石材店などもあり、これまでの地区とは若干違った特色をもった門前町である。

●別所地区(旧別所町)
  この地区は福永地区と同じく大山川の河岸段丘上に形成された門前町で、高度は200〜190mと福永地区よりさらに傾斜はゆるやかで、長さは次の新町との境まで約400mある。加寿美橋を境に上地区と下地区にわかれ、上地区は新道に沿って若干集落が立地しているが、大部分は左岸の旧参道両側に立地分布し、下地区は大山川の右岸段丘面上の参道両側に立地分布している。
  別所町の地名は高野山の別所が高野聖の念仏結衆に発したように、ここも別時念仏の道場があったことに起因するものと考えられる。現在でも門前町としての性格を保持している地区といえ、なかでも旅館の軒数は6地区のなかでは最多となっている。

●新町地区(旧新町)
  新玉橋から三の鳥居までの約400mの区間が新町で、高度は170〜160mと6地区のうちで最も平坦な地区である。大山川は新玉橋から流路をかえ、南側山地のすそを流れている関係上、集落は大山川左側の段丘面上と北側山地斜面上に立地形成している。
  神仏分離以前は三ノ鳥居以内は準聖域とみなされ、これよりさきはカゴや馬での登拝は禁止されていた。従って昔は鳥居をくぐると左側に馬つなぎ場所があり、その道を馬入り道といったという。現在の門前町は直線道だが、昔は鳥居をくぐると150m先で右に曲がり、さらに左へ、そして新玉橋から別所へと進んだ。従って参道両脇には一膳飯屋・商家・先導師宅などが並んでいたというが、明治以後はその多くが転廃業・転出入などで門前町は大きく変貌した。
  このように新町地区はこれまで記した門前町とは全く違った構成へと変貌しており、現在ではかろうじて門前町の名目を保持している程度で、6地区の中では門前町としての性格がもっとも希薄な地区と特色づけることができる。


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