寺田縄
日枝神社
「日枝神社」は寺田縄の氏神社で、祭神は「大山咋命」である。創立は永正10年(1513年)後柏原天皇の時で、近江国滋賀郡(滋賀県大津市)坂本の日吉山王大社権現(現山王総本営、日枝大社)を勧請した。天正19年(1591年)11月に徳川家康によって神領高二石の御朱印を賜り、元禄5年(1692年)には社殿を再建している。享保12年(1727年)に拝殿・幣殿他を建立し、享和元年(1801年)に再び社殿を再建している。
昔は藤沢からも見えたという大きな松の木(寺田縄の大松といった)があったが、慶応の時にこの古大松が台風により倒れ、享和の建造物を倒壊した。棟札によれば慶応3年(1867年)に社殿が再建され、これが現社殿であり、お宮の建て替えには倒れた木材を使ったという。この社殿に六尺の羽目があり、これも倒木した大松で造られ、400を数える年輪があった。また、農地解放前は4反の田があった。
天保12年(1841年)完成の『新編相模国風土記稿』によると寺田縄村の鎮守は「山王社」で、拝殿があって神体は長さ五寸の木像であった。鐘楼には延宝2年(1674年)の鐘を掛け、末社には「神明」と「疱瘡神」があった。別当は曹洞宗の「東善寺」で山王山と号した。この他の社には村持ちの「道祖神社」が2つと村民持ちの「稲荷社」が2つあり、稲荷社の1つは「鶴牧稲荷」と号した。明治になって神仏分離のときに日枝神社と改称し現在に至っている。梵鐘は昭和17年(1942年)に供出され、末社の神明と疱瘡神は社殿の両脇に小祠がある。
日枝神社 | 鳥居 |
狛犬 | |
拝殿 | 覆殿 |
神明 | 疱瘡神 |
境内 | 寺田縄自治会館 |
寺田縄1020番地にツルマキサマと呼ばれた鶴牧稲荷があり、元々は小泉家の屋敷にあったようだが、江戸時代に動かしたといわれる。霊験あらたかかな稲荷で、寺田縄に入るときにお稲荷様にお参りしたらよく物が売れたといわれ、魚屋や下駄屋などの行商人がお参りしていた。赤い鳥居が立った稲荷社の基礎部分の空間には元々の古い石祠がそのまま収納されている。蓮昭寺の山門前にも「鶴巻大明神」と刻まれた稲荷社が祀られており、お札には「大正八年二月十一日初午」と記されている。蓮昭寺の山門を入った右側にも稲荷社が祀られている。
西町の路傍には水神の石祠があり、川に近く水害に悩まされていたために祀ったという。元は金目川の旧河道に面して立っていたという。年に一回水神講を行っていた。
例大祭
例祭日は『風土記稿』によると4月中の申日で、その後は4月16日や4月3日になったが、現在は4月第1日曜日である。また祭礼は「雨降り祭り」といわれ、ある年などは4月3日より20日まで降り続いたという。
昔は青年会が祭りに芝居や神楽を主催し、芝居の役者は吉祥院に泊まり接待は青年会がした。食事の支度や風呂の用意などで、このための炊事当番やのぼりの係り等があった。神楽には茅ヶ崎の鯛さんも来ていた。神主は伊勢原から来ていた。
青年会・青年団
「青年会」は昔からのもので、14歳で入り40歳までであった。大正11年(1922年)生まれの石塚二三男氏は戦争から帰ってきて参加したが、当時は寺田縄に30人位の仲間がいた。会には半纏や堤燈があって、お祭りや婚礼の説きに使った。神社の祭礼の事は青年会がやっていて、村芝居を主催した。泊りがけで来ている役者の接待は青年会が行い、食事の支度や風呂の用意もした。このための水事当番や幟の係りなどもあった。また、村に婿が来ると青年会の者達は裸になり、婿を田んぼに連れ出して胴上げし、そのまま田んぼの中に放り投げたそうである。
「青年団」は全国一斉のもので、15歳で加入し25歳までであった。これは青年会とは異なり字毎ではなく、金田全体のまとまりであった。盆踊りを主催したり、小学校の運動場を借りて運動会をした。
寺田縄の歴史
寺田縄村は初めは幕府領で、寛文6年(1666年)に板倉重矩(中嶋藩)加封の地に充てられ、寛文12年(1672年)の転封の際に幕府領に復した。寛延2年(1749年)に松平朝矩(前橋藩)の領地となり、後に朝矩が川越藩主となって川越藩領となる。文化8年(1811年)には転封により同年に旗本近藤孟卿と同白須政徳の旗本2給の地となり明治に至る。大昔の寺田縄は13軒だったといわれ、『風土記稿』による天保年間の戸数は53戸、明治24年(1891年)は64戸(387人)、平成25年(2013年)は1023世帯(2857人)である。
『風土記稿』には小名として「東町」・「西町」・「中町」・「北町」が記されているが、現在の町内は日枝神社周辺の北町、鈴川沿いの東町、西に延びる西町の3つに区分されている。西町の東寄りにある7軒ほどの家々を中条といい、これが中町に相当する区分である可能性が考えられる。昭和39年(1964年)に新幹線が開通して金田地区を通っているが、入野と長持は新幹線の西側に耕地が広がっているのに対し、寺田縄では家々を二分するように斜めに通っており、数件の家が西側へ移転するなどその影響を最も大きく受けている。
古道については『風土記稿』に「曾屋道(幅二間)、大山道(幅七尺餘)の二條係る」とあり、曾屋道は現在の平塚秦野線で、大山道については長持と入野では「伊勢原道」と記されている。大山道は地区内の主要道で、長持と入野を通って寺田縄へ入り、東橋で鈴川を渡って豊田本郷へ抜け、鈴川沿いに岡崎を経て伊勢原と大山へ至る道である。寺田縄では入野に通じる道が村の入口で、戦争中に出征兵士を送るときには入口から送った。それに対して出口は豊田本郷に通じる東橋と飯島へ行く道で、出征兵士は出口から送ると死ぬといわれたという。
囃子
青年会の中で祭ばやしが好きな者は「太鼓連」を作っていた。祭りに屋台を出して村中を回り、神輿を出すのも太鼓連の役目であった。
神輿
日枝神社の神輿は最初は伊勢原市三之宮の比々多神社の神輿で、三之宮の暴れ神輿として国府祭に出御し、遠路大磯町の神揃山へと渡御した記録が残っている。慶応2年(1866年)7月7日に神輿は縁あって三之宮から寺田縄村に譲渡され、下記の「比々多神社冠大神御輿控」よると三之宮神輿の錺金物が外され、寺田縄へ金十両で譲渡されたと記されている。
「 慶応二年寅七月七日
一金拾両也 古神輿、但し金物相除き申し候。右は古神輿木地代代金に御座候。同国寺田縄村鎮守山王宮若者世話人罷り出で候。外に又赤飯代金二歩ならびに酒二歩分、これは直にて持参。明王太郎仲立ちを仕り古御神輿請け取り、相渡し申し候。御役人中方村中お見送りなられ候。明王太郎、伊勢原村山田伊兵衛殿宅まで相送り申し候。」
その直後の慶応2年7月28日に、今度は寺田縄村の山王宮(現在の日枝神社)と大山の大工「手中明王太郎景元」との間で神輿の大改修の契約が取り交わされ、このことが『寺田縄村山王宮神輿控帳』に詳しく記されている。
●請負証文
明王太郎が慶応2年(1866年)に書き記した『寺田縄村山王宮神輿控帳』に請負証文が記載されており、証文によると慶応2年7月28日に代金七十六両一分で、神輿の普請を明王太郎が請け負った。当時の山王宮の面倒を見ていたのは別当の「山王山東善寺」で、請負証文はこの東善寺と神輿世話人に宛てて出された。請負人は「請負の諸方手落ちなどこれ無きよう、念入り出来(しゅったい)差出し仕る可く候」と述べた上で、万一仕様巨細(こさい)帳と相違の所があれば、指図通りにきっと直しますと結んでいる。明王太郎は手付金三十両を受け取り、神輿の大改修に取り掛かった。以下に仕様の細目の記述の中で、改造を加える部分のみを抜粋する。
「 一、箱台輪 手入これなく候。
一、鳥居 四ヶ所、但し新造出来申し候。山王宮鳥居冠笠木中に造るもの也。
一、幣軸 四ヶ所、但しこれ迄三之御輿にはこれ無く、この度新造出来、戸脇に上下雲龍八枚彫り入れ申し候。
一、須弥台輪 四隅共、但しこれ迄三之宮ござ無く、この度新造出来申し候。
一、下長押 同断、但しこの口は破じ候に付き新造。
一、桝組 十二備、但しこれ迄三之御宮にては出組と申し候仕法造り方にござ候ところ、この度二手先き桝組に直す。
一、露盤 仕直し、但し先造三之御宮にては、箱仕立て出来にござ候。然る所台輪付き柱立新造出来。
一、唐戸 八枚、但し三之御宮神輿は正面古和戸造り、入口一ヶ所。然る所この度四面唐戸に成り、表裏とも開きに相成り候。左右は開き申さず候。棹は上下とも七本に出来申し候。 」
●神輿の改造
慶応2年(1866年)に三之宮から山王宮に移ったときの大改造が『寺田縄村山王宮神輿控帳』に克明に記されており、神輿製作の仕様が図解入りで書かれている。この細工仕様書には、まず初めに神輿の改造前と後とを図入りで説明しており、山王鳥居が改造後の図として描かれ、扉の改造も図に描かれている。図に続いて神輿改造の仕様の細目が記述されている。木地方についての主な改造点は次のようであった。
@「和戸」を「唐戸」に改造・・・改造前の三之宮神輿は胴が正面を除いて扉がなく、胴羽目となっていて、正面の扉は古和戸造と呼ばれる鏡板2面の開き扉であった。それを4面とも唐戸に改造し、正面と背面の2面が開閉可、両側面は閉じたままのものに改めた。
A鳥居の改造・・・鳥居は「神明鳥居」であったものを「山王鳥居」に造り変えた。鳥居の笠木(かさぎ)の上に山形の冠が付いているのが特徴である。
B組物の改造・・・軒を支える組物は簡単なものから順に、「出組」・「二手先」・「三手先」と複雑になっていく。改造前は出組であったが、装飾性のよい二手先に改造した。
これら木地方の改造に加え、更に彫刻を追加して新しい錺金物を取り付け、漆を塗りなおした。このように日枝神社神輿は三之宮神輿を大改修したものであるが、本質はあまり変わっておらず、「真柱のない構造」・「太い蕨手」は神輿を丈夫にするためのものである。しかしながら、この神輿のユニークな特徴として「山王鳥居」があげられ、神輿に山王鳥居が付いているのは全国的にも珍しい。神輿の鳥居は「神明鳥居」が一般的であるが、山王鳥居は鳥居の笠木の上に合掌形の冠が付いており、神仏の融合した形を表すとされている。
●三枚の棟札
神輿は翌年の慶応3年(1867年)4月3日の祭礼日に完成し、寺田縄の山王宮において神輿の披露と祭りの神輿渡御が行われた。さらに、明治28年(1895年)4月に再び景元によって大修理が行われ、昭和4年(1929年)10月には地元の大工「二宮寿」および東京の塗師「若松屋長次」により修理が行われ塗り直された。これらの修理に関する棟札3枚は日枝神社に保存されている。
最初の棟札は寺田縄の山王宮(現日枝神社)の別当東善寺の住職が墨書きしたもので、銘文を見ると棟札の主文は「奉請鎮守山王大権現山門繁昌」となっているが、その後の神仏分離により山王権現は日枝神社と改称している。主文には神輿と書かれていないが、これは神輿の棟札である。それは裏面の銘文の中の「欲作新輿一統挙」が語るように、新しく神輿を造ろうと一統をあげての志であったことからも分かる。棟札の日付として表に「慶応三丁卯歳孟夏祭禮日」、裏に「此年丁卯孟夏上澣日」と銘記されており、これは慶応3年4月3日に神輿の完成祝いと祭礼が執り行われたことを表している。ちなみに孟夏上澣(もうかじょうかん)は4月上旬を意味する。
棟札の裏面の後部に「両歳摧心遂此神 高輿幾許盡金銀 大山工匠顕名術 抃躍無窮門外新」という漢詩があり、大意は「2年の歳月をかけ、心をくだき、資金を尽くして、大山の名工匠に神輿を造ってもらったことを皆して喜んだ。」ということである。棟札の末尾に「現住十五世哲成叟敬記之」と記されていて、東善寺の住職がこの棟札を書いたことが分かる。棟札には村役人11人の名が載っていて、その筆頭に寺田縄きっての旧家である石塚権兵衛の名があり、若者頭に石塚重太郎や後に村長を務めた吉河長五郎たち8人が名を連ねている。
2枚目の棟札は明治28年4月20日の修理のときのものであり、現在も神輿内部に取り付けてある。神輿世話人として小泉弥太郎を筆頭に、6人の名が裏面に列記してある。また、昭和4年10月10日の修理のときの棟札には「奉日枝神社神輿、東京塗師若松屋長次、大工二宮壽、弟子二宮海蔵、鐡葉職松本嘉之助、昭和四年十月十日遷座」の銘文と共に、寺田縄神輿世話人として吉川令夫・石塚英三たち8人の名前が列記されている。
神輿は建造してから100余年の長い歳月が経ち、氏子の人達は保存を考えこの神輿と同寸法・同形状の新しい神輿を自らの手で造り昭和62年(1987年)4月に完成させ、現在は元の神輿を神社拝殿に安置している。日枝神社の神輿は「ケンカゴシ」といって、祭の時にはよくひっくり返したが、怪我人が出なかったという。祭の時には人気の悪い家にぶつけた。
寺田縄
寺田縄という地名は吉祥院や蓮昭寺の寺領があり、その寺領への「縄入(検地)」に由来するといわれている。これとは別に北の岡崎地区に「北大縄」、東南部の南豊田地区に「大縄橋」という地名があることから、「寺田大縄」の略語ではないかという説もある。町内のまとまりは神社の側の「北町」、鈴川に沿った「東町」、用水に沿って西に伸びる「西町」の3町内であったが、現在は町内の付き合いが具体的に表れることはない。
北部の水田の中に「大山」・「東郷」・「連勝」という名の付いたところがあり、これらは明治37,38年(1904,05年)の日露戦争に関係した地名である。日本の勝利で幕を閉じた日露戦争において満州軍総司令官だったのが「大山元巌帥」、日本海海戦でバルチック艦隊を全滅させた海軍提督が「東郷平八郎」だったことで、大山と東郷は共に日露戦争での将軍名を借用したものである。また、連勝はその戦績を謳ったものである。当地区は明治37年(1904年)に耕地整理が実施され明治40年(1907年)に終了したが、その完成で新耕地に名前を付ける段になり、その時期が丁度日露戦争当時だったため、その戦勝を末永く留めるためにこのような名を付けることになった。旧平塚市肉食センターの正門の南東部一帯の耕地を東郷と名付け、その西側一帯が大山で、東郷の南側に連勝という地名が付けられた。また、この他に「明治」と「三七起(ミナキ)」という地名があり、これは耕地整理実施の年号と年次を表したものである。なお、寺田縄飯島線が古川(金目川の旧流路)を越える所に架かっている橋の名は、その地名をとって「三七起橋」と命名された。
当地区の北東部には「会下後(エゲウシロ)」という地名があり、場所は上述の旧食肉センターと三州園で占められている所である。これは禅宗の僧侶の修行寺であった吉祥院(連勝の東隣の出口にある)の"後"の土地を意味したもので、"会下"とは自分の寺を持たず学寮で師僧について修行する僧のことをいい、当地では会下後を「えのうしろ」と呼んでいる。
当地の中ほどには「仲条」という地名があり、寺田縄地区集落の発祥地を意味するものである。かつてはここを中心として寺田縄館という館があり、室町時代末期に秩父の豪族畠山重忠の十三代目定重が扇谷上杉家から与えられ、ここに館を構えていたといわれている。その後は北条早雲が小田原に拠るにおよんで、北条氏から信任された布施氏が当地を領して佐渡守を称していた。寺田縄館はJR新幹線の西側にある石川氏の宅地内で、そこを「御屋敷(おやしき)」と伝承されている。そこは少し小高くなっていて、周囲に堀が配置されていたようで、仲条の南北の道路を中心として南北百間・東西百間がこの館の範囲だったようである。そのため東西の集落という意味の「東棲(トウセイ)」や「西棲(ニシズミ)」、寺田縄集落から鈴川の対岸に出る出口の意味である「出内」は、この館に関係したものと考えられる。
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