豊田とよだ

豊八幡神社

  豊田地区の総鎮守である「八幡神社」は宮下に鎮座し、別名を「豊八幡神社」または「豊八幡宮」とも称す。祭神は「誉田別命(ほんだわけのみこと)」と、寛永3年(1626年)に後醍醐天皇の第三皇子「護良親王(もりながしんのう)」(若宮八幡宮)を合祀しているという。近隣の村々では一旧村一鎮守の所が多いが、当社は天保12年(1841年)完成の『新編相模国風土記稿』にもあるように、八幡宮は江戸時代から豊田四か庄(豊田本郷村・平等寺村・宮下村・小嶺村)と打間木村を統べる鎮守であった。『風土記稿』に引用する同宮の寛永3年(1626年)の縁起には、宮下村の長尾長右衛門が建武1年(1334年)に護良親王の遺骸の一部を鎌倉より持ち帰ると、豊田宮下の八幡宮に安置してこれを「若宮八幡」と称して祀り、正月の三ヶ日は長右衛門方から御供を献じたことが記されている。
  『風土記稿』によれば八幡宮のある山は「鶴崎山」というとあり、明治初めの神仏分離によって豊田本郷の本宿にあった「鶴崎山八幡宮」が本神社に合祀されたという。別当は本宿分の「福蔵院(古義真言宗)」で、その寺の山号を鶴崎山といったが、現在は廃寺となっており別当の墓が跡地にあるという。今は鶴崎八幡宮の幟だけが残っており(本宿で保管)、八幡神社の祭礼には福蔵院の跡地のそばに立てている。鎌倉の「鶴岡八幡宮」が長男であるならば、茅ヶ崎の「鶴嶺八幡宮」が次男で、平塚浅間町の「平塚八幡宮」が3男、そしてこの鶴崎八幡宮は4男であるといわれた。八幡神社は明治6年(1873年)7月30日に村社となり、昭和18年(1943年)には幣帛供進神社に指定されている(戦後社格は廃止)。
  社殿は本殿内部の頭貫の墨書により元禄9年(1696年)の建立で、明和3年(1766年)に大規模な改修が行われたことがわかる。大正12年(1923年)の関東大震災で社殿・本殿などが壊れかかり、昭和2年(1927年)6月に豊田の氏子達の寄付や篤志家などによって、元社殿と同型・同大の造営が行われた。以前、八幡神社には社有地があり、2反ぐらいの水田で小作に出した。使用料を祭りの費用に充て、費用の不足分を氏子の各戸に割り振っていた。

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豊八幡神社鳥居
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豊田宮下自治会館
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社号柱狛犬
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手水舎
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燈籠
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拝殿覆殿・幣殿
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招魂之碑招魂之碑
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境内


例大祭

  『風土記稿』によると例祭日は旧暦の8月5日であったが、その後は10月1日になった。戦前の一時期には養蚕の関係で10月7日に変更したが、2、3年で元の10月1日に戻った。現在は10月第1土曜日である。
  10月1日に大祭を行っていた頃は9月28日に境内の掃除をし、平等寺を除いた7部落(簀子橋を含む)で分担の場所が決まっていた。八坂神社のまわりを本宿、社殿の前後(南北)と西側を宮下、社殿の東側を小嶺、そのさらに右側の幟等が置いてある所を境に打間木、社殿の中は簀子橋、その入口付近は西町である。祭礼前日の30日はヨミヤといって幟を立てたり、注連縄を張ったり灯篭を立てたりした。昔は長さ15間の大幟を豊田中の全戸から一人ずつ出て立てたが、ある時にこの幟立てで事故があったからは大幟は立てていない。また、各アザの若い衆が宝蔵院に置いてあった用材で神楽殿を設営し、太鼓連の祭りばやしの為に櫓も立てた。
  氏子総代は8部落から2名ずつの16名で、会長1名が加わり計17名で構成されている。氏子総代はお互いの推薦で選ばれ、代わり番に勤めている。主として神社の維持管理や修理、祭典などの運営にあたる。氏子総代は愛甲や円蔵から神楽師を呼んできたといい、その後は芝居になった。また、氏子総代は四之宮の前鳥神社から神主を呼びに行った。
  祭礼の翌日を「ハチハライ」といって、祭りの後始末を行った。



山車と屋台

  かつては欅で作られた頑丈な山車があり、小嶺や宮下には山車があって祭礼の時にこの山車に太鼓連が乗ってアザ中を曳き回した。山車を持たない村は豊作の年に他の村から山車を借りてきて曳き回したといい、豊中はよく中原から借りたという。各アザを回り終えると、山車は神社の前に並んで囃子を競った。大正7〜8年(1918〜19年)頃に電線が張られるようになってからは屋台になったといい、屋台の上には「那須の与一」や「加藤清正」などの人形が飾ってあった。本宿では昔は屋台がなかったので、他の村から借りてきてきていた。
  宵宮(ヨミヤ)の時には屋台を各自の町内の通りを曳いて通るだけで、他の町内へは出かけなかった。屋台を曳く者は各町内の各家から若い衆達(青年)が中心となって参加し、女性はあまり参加しなかった。各町内を回った屋台は現在のバス停留所「豊田本郷駅」辺りに集合し、一斉に各屋台が八幡神社に向かって縦一列に並んで進んだ。屋台は神社前の広場に順番通りに並び競り合いをし、屋台はそのままの状態で朝を迎えた。祭りの当日に屋台は各自の町内をはじめ他の町内の通りを曳いて歩いた。その際にハナが投げられたり、屋台が通る家ではおにぎりを作って、曳いている人に配った。屋台の方向を変える時には、木のワッパを用いて屋台の前輪を背負い上げた。しかし、次第に屋台の曳き手はいなくなり、近隣の青年に応援を頼んだが、現在ではトラックの上に屋台を載せて町内を回っている。
  豊田で使われる屋台はトラックの荷台に積む形式だが、他の地区と違って造りが非常に豪華である。通常は屋台をトラックの荷台に納めて造るが、豊田は荷台からはみ出る大きさで、屋台の高さは新調の度に他の部落に負けまいと次第に高くなっていく。また、彫刻や電飾看板など華やかに見せる工夫が多く見られる。屋台は組み直しが困難なほどしっかりしたものなので、各地区とも専用の倉庫(山車小屋という)に保管している。

宮下宮下
小嶺小嶺
打間木打間木
西町西町
簀子橋簀子橋
本宿本宿
豊中豊中
平等寺平等寺

  宮入りした屋台は八幡神社の境内で西向って整列するが、かつては小嶺の屋台が中心で動くことはなく、その両側に豊中・本宿・西町の豊田本郷三町の組と、宮下・平等寺・打間木の組が挟む様に並び、両組は小嶺を軸にして毎年入れ替わった。本郷三町の3つの屋台は毎年順番に位置を1つずつずらし、もう1組は小嶺側から打間木・平等寺・宮下の順に並ぶようになっていて、宮下は宮元なのでどちらの側へ移動しても必ず端の方に位置した。このように宮下の太鼓は常に右端か左端に位置し、先頭とケツを1年おきに務めることになっていた。しかし、昭和40年(1965年)代頃になるとどこの部落も宮付きを務めることができるようにと、部落長や青年会で相談した結果、ある年に先頭を務めた地区は翌年はケツにまわるようになった。

豊田ばやし

  豊田地区に伝わる囃子は「豊田ばやし」と呼ばれ、豊田地区の鎮守「八幡神社」の氏子に伝わる囃子である。万治年間(1658〜1661年)より始まり、文久初年に創技されたと伝わっている。太鼓は音質に関係なくできるだけ大きな音が出るように叩くのが良いとされ、太鼓の革を張れるだけ張っておいたという。太鼓は家の中でも話ができないほど叩き、どこが一番よく叩けたかなどといってお互いに競い合った。戦後は太鼓を叩く事が一時期途絶えたが、現在では復活している。
  昔は各部落(町内)に太鼓を叩く「太鼓連」があり、青年会に属していた。太鼓は若い衆が叩いたので、近隣の若い衆が太鼓叩きの応援に来てくれた。相手方の祭礼の時にはこちらからも若い衆が応援に行ったといい、例えば小嶺では「真土」・「中原」・「岡崎」・「城所」・「下島」との間でお互いに行き来していた。
  豊田ばやしの由来・系統については不詳だが、『平塚市史民族調査報告書2-豊田・岡崎-(1982)』によると豊田の一部の太鼓は田村ばやしを略したものと記している。打間木・小嶺・宮下には「昇殿」があって田村ばやしをアレンジしたものであるといい、豊田本郷三町(本宿・豊中・西町)は田村ばやしとは別系統で、「宮昇殿」がみられるため金田・中原・平塚と同じ系統であるという。さらに、昇殿はツケが21回叩くうちに、オオドが48回叩く形式と説明している。しかしながら、現在の屋台巡行の際に叩かれる「屋台」を聴くと8町内共にほぼ同じ曲調のもので、田村ばやしと「馬入祇園ばやし」以外の平塚全域に伝わっている囃子と同系統のものである。さらに、田村ばやしには上記の「昇殿」と「宮昇殿」が両方とも含まれており、曲名だけで系統を比較することは難しい。また、豊田では競りが主であるため、現在では「屋台」以外の曲を耳にすることは希である。



神輿

  本宿・宮下・小嶺では子供神輿が昔から出ていた。昭和になってから平等寺・打間木・西町でも子供神輿を作って町内を廻り、一軒一軒から賽銭をもらって歩く。昔はヨミヤの時に各自の町内通りは通過するだけで、他所の町内を廻って賽銭をもらい、祭りの当日に各自の町内を廻って賽銭などをもらった。



その他

  豊田の大祭は競太鼓だけではなく、「花柳勝太郎一座」による芝居や、多くの露店などで賑わう。各地区の山車の前にはどの太鼓が一番音が良いか聞き比べる観客が多い。

続々と宮入りする山車8基の山車による競太鼓
花柳勝太郎一座の芝居賑わう露店


豊田の歴史

  旧豊田村は現在の豊田本郷・豊田宮下・豊田小嶺・豊田打間木・豊田平等寺・南豊田・東豊田・北豊田を含んだ地域で、平塚市の中央部に位置した相模川下流域の沖積低地である。集落は豊田本郷・豊田宮下・豊田小嶺が一つのまとまりとしてあり、豊田打間木と豊田平等寺がそれとはそれぞれ離れあって、3つの集落にまとまっている。中央にある豊田本郷・豊田宮下・豊田小嶺は平塚砂丘の北端である豊田の砂丘上に発達した集落であり、標高は4〜10mである。東端は渋田川(旧玉川)が北より湾流し、豊田の南をほぼ西へ界流しており、豊田打間木の集落はこの流域の自然堤防にある。北豊田・東豊田・南豊田は江戸時代においては耕地であり、耕作土は埴壌土で若干の岩滓と石礫を含んでいる。隣域は東と南に旧大野町、西は旧金田村、北は旧城島村と旧岡崎村に接している。
  大化の改新以後の郷制で豊田村は大住ノ郡仲島郷に属していたと考えられ、天平7年(735年)の『相模国封戸租交易帳』によれば仲島郷は右大臣藤原朝臣武智麻呂の食封で50戸、田216町7反342歩、祖2,840束と記載されている。平安時代には藤原冬嗣7世の孫盛季が荘官となった糟屋庄が起こり、豊田は糟屋庄に包含されることになった。平安後期には八条院を本家とする安楽寿院領糟屋庄となったが、この頃すでに豊田氏が名主であったと考えられ、『吾妻鏡』によれば文治4年(1188年)11月27日に相模国豊田庄にあった大場景宗(豊田次郎景俊の父)の墳墓(大場塚)を郡盗が開掘し、納める所の重宝を持ち去るとあることが豊田氏の所領であったことを裏付ける。
  『吾妻鏡』によると、鎌倉時代になると建久3年(1192年)8月9日に源頼朝の妻政子が安産祈願のため、諸社寺のうち豊田山医王院平等寺が載っており、この時代の豊田平等寺は寺院を中心とした集落が形成されていたものと思われる。宝治1年(1247年)に三浦泰村に味方して北条時頼に敵対した豊田氏は、敗走中に高麗寺の衆徒の訴えにより捕らえられ、以後豊田氏は滅亡した。
  室町期の初めは大森氏の治めるところとなり、後に北条早雲がこれを駆逐して関東を制圧するや、分国に家臣団を配置して一円知行制を展開すると相模国を東郡・中郡・西郡に分割し、中郡をさらに大中郡と小中郡とした。豊田ノ庄は大中郡に属し、この頃から沖積層の湿地も開拓が進み、耕地の広がりとともに村落化も併進したものと思われる。先ず打間木村と平等寺村が分村して元村は豊田本郷村と改称し、小田原の北条氏の家臣団の配置は豊田本郷村に諸足軽衆の玉井帯力左衛門が152貫630文を知行、打間木村と平等寺村には御馬廻衆玉井平六の30貫文と小田原衆布施弾正佐衛門寄子給106貫文が知行した(『小田原衆所領役帳』)。
  徳川家康は関東入国以後、天正19年(1591年)5月には知行宛行状を発給し、直属家臣団の知行割を完了した。豊田本郷村・打間木村・平等寺村は家康の旅館である中原御殿(雲雀野の御殿)の近くにあり、かつ交通に便利で生産力の高い地域であったため、徳川氏の直轄領(のち幕領)となった。『中郡勢誌』によると、宮下村と小嶺村が豊田本郷村から分村したのは正保(1645〜48年)と元禄(1688〜1703年)といわれている。以降、江戸時代に豊田地域各村の変遷を見ると、次の経過をたどる。

●豊田本郷村
  豊田本郷村は幕領であったが、延享1年(1744年)に老中酒井雅楽頭忠恭の転封の領地(前橋藩)となった。寛延2年(1749年)に酒井忠恭は姫路藩へ移封され、同年に松平大和守朝矩へ引き継がれた(前橋藩)。後に松平朝矩が川越藩へ転封されたので、豊田本郷村も川越藩領となった。文化8年(1811年)の領地替えにより藩領は旗本山名豊孝と白須甲斐守政徳の2給地に分割され、以後明治に至る。
●宮下村・平等寺村
  両村は初め幕領であったが、宝暦10年(1760年)に老中堀田備中守正亮の1万石加封の領地に加えられ、佐倉藩領となって明治に至るまで藩領となる。
●小嶺村
  小嶺村も幕領であったが、享保18年(1733年)に旗本奥村市正矩政の釆地となり、明治まで旗本領であった。
●打間木村
  打間木村は幕領であったが、寛永10年(1633年)の地方見直しで旗本石川太郎右衛門忠重の釆地なった。享保18年(1733年)に至り三代後太郎右衛門寿員のときに釆地が蔵米取りに改められ、再び幕領復し、宝暦10年(1760年)に老中堀田備中守の領地(佐倉藩)となり明治に至る。

  明治4年(1871年)7月の廃藩置県に際して、豊田地域の各村の藩領と旗本領は佐倉県と韮山県とになり、同年に足柄県へ統合され、明治9年(1876年)4月に足柄県が廃されるに及び神奈川県に移管された。この時、豊田各村は第22大区8小区に編入された。なお、明治初年の各村の戸数などは現在のところ不明なので、参考までに天保12年(1841年)完成の『新編相模国風土記稿』所載の戸数を記すと、豊田本郷村74戸、宮下村51戸、小嶺村29戸、平等寺村23戸、打間木村36戸である。明治22年(1889年)の町村制施行により、豊田本郷村・宮下村・小嶺村・平等寺村・打間木村の5ヶ村が合併して大住郡豊田村となり、明治29年(1896年)に中郡豊田村となった。明治34年(1901年)頃の人口は1,727人、戸数は219戸を数えた。
  大正12年(1923年)9月1日に起きた関東大震災は、鈴川と渋田川に挟まれた沖積地の砂丘と自然堤防上の集落を襲い、完全なる形容を保った民家は僅かに1戸という災害を及ぼした。全戸数258戸に対して罹災戸数257戸(全潰138、半潰97戸、破損20戸)、死亡者6名、負傷者2名であった。また、耕地には地割れが各所に起こり、当時の主要産業の一つである養蚕の蚕室も被害があり、養蚕戸数110戸のほとんどが倒半潰した。昭和31年(1956年)4月1日に、中郡豊田村は町村合併促進法により隣の大野町と合併し、合併時の戸数389戸、人口2,101人となり、さらに同年9月30日に大野町は平塚市と合併した。



豊田七部落

  豊田には「豊田七部落」・「豊田七アザ」といい、旧豊田村内に7つのムラ組織がある。この7つは「打間木(うちまぎ)」・「平等寺(びょうどうじ)」・「小嶺(こみね)」・「宮下(みやした)」・「豊中(ぐちゅう)」・「本宿(ほんしゅく)」・「西町(にしまち)」で、打間木から宮下までは旧村がそのまま使われており、豊中・本宿・西町は旧豊田本郷村の内部区分である。現在はこの7区分に「簀子橋(すのこばし)」と呼ばれる小集落が加わって8区分されている。


豊田8地区
自治会旧村名活動拠点
豊中豊田
本郷村
豊中自治会館
本宿本宿自治会館
西町
簀子橋
打間木打間木村
平等寺平等寺村
宮下宮下村豊田宮下自治会館
小嶺小嶺村豊田小嶺自治会館


部落(町内)で祀る神

  豊田全体の鎮守は八幡社であるが、部落毎に祀る神々をもっている。『風土記稿』によると近世村であった豊田本郷・打間木・平等寺・宮下・小嶺のそれぞれの村に氏神社があったわけではなく、氏神社としては宮下の八幡神社のみが記されている。



青年会と青年団

  青年会の方が古くからあり、中古青年団がそれよりも新しく組織された。青年会は各部落にあった。平等寺では青年会は男子15才で加入し、35才で抜けた。毎年の新年会では、その年に会員になった者は酒を一升持って参加した。豊中では青年会は15才で一升出して加入し、結婚すれば抜けた。部落ごとにあった青年会を統括した豊田青年会もあったという。また、中戸川快三氏が30才で青年会の役をしている頃、青年会はもう古いということで、親和会という新しい青年の集団組織を作ったことがある。これは各部落毎にあった青年会を廃止して組織したという。
  青年会でやったことはどこの部落でも主として祭礼に関することで、部落毎の太鼓連は青年会の者達が主役であった。八幡宮の祭礼には各部落から山車にのって各囃子を叩きながら神社へ集まり、境内に揃うと競争となり、響きが悪いと他の部落に負けてしまう。また、祭礼の折の神楽や芝居の手作りも青年会が担当していた。


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