中原
神社の紹介
「日枝神社」は中原地区の氏神社で、創設年代は不詳だが昔は「山王社」と称し、最初の地は一本松(現裏宿の西北付近)にあり、徳川家代々崇敬の厚い社で「大山祇命一柱」を祭神としていた。御神体は神躰束幣像(長三尺)で、その胎内には薬師如来の小像が納められていると古来から言い伝えられている。日枝神社の本社は滋賀県大津市の比叡山に鎮座する「日吉大社(山王社)」で、比叡山の地主神でもあり、また神仏習合による天台密教の御法神でもある。
文禄年間(1592〜1596年)に徳川家康公が鷹野の遊殿を中原に建築した際、当社は御殿の鬼門に当たるので方除鎮護のため最三に渡り修営を加え、遊猟の節は幣帛を奉り必ず参拝したという。慶長元年(1596年)の御殿造営時には元山王の地(現横宿・由井氏邸北側)に移設し、寛永17年(1640年)12月には御社を中原御殿の鬼門鎮護として現在の地に遷座した。山王社の当地移設の発頭人は、当地南側にあった山王社の別当寺であった「蔵院得願寺」の開山住職「朴捻」であるといわれている。得願寺は明治元年(1868年)に廃寺となり、本尊の11面観音像は近くの大松寺に併合された。その後、明治3年(1870年)の神仏分離政策により改めて祭神を「大山咋命(おおやまくいのみこと)」とし、社名を「日枝神社」と改称した。また、明治6年(1873年)には村社に列せられた。
明治40年(1907年)2月3日には雑社「東照宮」を合祀し、徳川家康(東照大権現)を祭神として本殿南側の祠に祀っている。その他、境内社として「八坂神社(祭神:スサノオノミコト)」・「稲荷神社(祭神:うがみたまのみこと)」・「神明社(祭神:アマテラスメノオオミカミ)」が祀られている。昭和37年(1962年)10月には現在の社殿を改築した。
日枝神社 | 社号柱 |
鳥居 | 参道 |
旧鳥居遺跡(明和7年建) | |
日露戦記念碑 | |
燈籠 | |
得願寺礎石(基壇) | 鐘 |
神楽殿 | 社務所 |
手水舎 | 神社由緒 |
狛犬 | 燈籠 |
拝殿 | 幣殿・本殿 |
大絵馬 | 大絵馬 |
大絵馬(寛延4(1751)年、神楽絵) | 絵馬 |
天満宮・稲荷大明神・八坂神社 神明社 | 東照宮(東照大權現) |
庚申供養塔(道標) | 境内 |
宵宮祭
宵宮には神輿の自動車渡御による12箇所の神酒所回りが行われる。現在はトラックにて渡御し各神酒所にて神事が行われているが、以前は本祭時に神事を行っていた。コースは宮立→大縄橋→裏宿→小学校→横宿→向原→大景屋→武田下→下宿→追分→共済病院→(旧)県道→宮付となっていた。ただし決まったコースはなく、年度や道路整備により若干ずつ変更されていった。御祝儀の揚がった年は横浜ゴム正門まで行ったこともあったという。また、大縄橋たもとの渋田川で禊をしたこともあったという。
昔は隔年で祭りの前日に神社を出た神輿が元山王の地で仮泊したと言い、神輿が宮入りする際に麦稈を燃やす松明のもとで大綱を引張る行事があった。
例大祭の看板 | 例大祭の広告 |
参道両脇には露天商の準備が | 幟 |
幟竿の彫刻(社務所側) | 幟竿の彫刻(神楽殿側) |
打ち水を行う | テントの準備(上宿) |
演芸の為に準備された神楽殿 | 社殿前に準備された供え物 |
神輿の準備は式典前までに済ませ、鳳凰や鈴などの飾り付けやバッテリーの取り付けなどを行う。
神輿の準備が始まる | バッテリーを取り付ける |
モジリを掛け | 提灯と鈴を付ける |
8時から「遷霊祭式典」が執り行われ、宮司は四之宮の前鳥神社から来ている。神輿と氏子のお祓いをした後に神輿に御霊を入れ、祝詞奏上・玉串奉奠などの神事を経てお神酒で乾杯をする
宮司と神官が現れる | 式典が始まる |
神輿にお祓い | 氏子にもお祓い |
担ぎ手が白い布を持って・・・ | 神輿を覆う |
宮司が御霊を遷す | 神輿に御霊を入れる |
氏子は頭を下げる | 御霊入れが無事終了 |
神輿に礼 | 神輿を鳥居側に向ける |
神籬を準備する | 竹に注連縄を回し紙垂を付ける |
神輿に礼 | お祓い |
祝詞奏上 | 玉串奉奠 |
供物を下げる | 御神酒で乾杯 |
式典が終わると9時頃から「神輿自動車渡御」が始まり、神輿を社殿前から神社入り口まで担いで移動した後、神輿をトラックに載せ町内の神酒所を回っていく。
社殿から大太鼓を持ち出し・・・ | トラックに載せる |
神籬を外す | 神輿の上で一本締め |
輿棒に担ぎ手が付く | 神輿渡御が始まる |
石段を降りる | 境内で練る |
参道を進む | 鳥居を潜る |
いよいよ宮立ち | 公道を練る |
トラック山車が神輿を囃す(上宿) | さらしを緩める |
輿棒を抜く | 短い輿棒を挿す |
神輿をトラックに載せる | トラックに固定された神輿 |
大太鼓が出発 | 神輿が出発 |
関係者の車が出発 | 山車が後を追う(上宿) |
各神酒所では式典(神事)を執り行う。
御殿から中宿へ向かう神輿 | 大太鼓が中宿こども広場に到着 |
神輿も到着 | 神輿が広場に入る |
祭壇前に神輿を着ける | 式典の準備 |
神事が始まる | お祓い |
祝詞奏上 | 玉串奉奠 |
テント下で直会 | 大太鼓が出発 |
神輿が上宿へ向かう | 上宿での神事 |
12箇所全ての神酒所で神事を終えた神輿は、神社正面の入り口にトラックを止め、再び担いで宮入りが始まる。
大太鼓が神社に到着 | 氏子が神輿を迎える |
神輿をトラックから降ろす | 馬に乗せる |
さらしを外す | 長い輿棒に交換する |
さらしを巻く | 一本締め |
神輿を持ち上げる | 神社に向かう |
いよいよ宮入 | 鳥居を潜る |
露天商は屋根を上げる | 神輿が参道を進む |
鐘が宮入を告げる | 境内で練る神輿 |
石段を登る | 社殿前で練る神輿 |
旋回して・・・ | 鳥居方向を向く |
神輿を降ろす | 一本締めで無事宮付 |
平成20年度(2008年)の神輿自動車渡御の各町内予定時刻は下記の通りである。
順 番 | 神 酒 所 | 到 着 | 出 発 |
― | 神 社 | ― | 9:00 |
1 | 新 川 端 | 09 : 20 | 09 : 40 |
2 | 伊 勢 山 | 10 : 10 | 10 : 25 |
3 | 東 中 原 | 10 : 35 | 10 : 50 |
4 | 裏 宿 | 11 : 05 | 11 : 20 |
5 | 横 宿 | 11 : 25 | 11 : 40 |
6 | 武 田 下 | 11 : 50 | 12 : 05 |
7 | 下 宿 | 12 : 15 | 13 : 05 |
8 | 六 本 | 13 : 15 | 13 : 30 |
9 | 新 町 | 13 : 45 | 14 : 00 |
10 | 御 殿 | 14 : 20 | 14 : 35 |
11 | 中 宿 | 14 : 50 | 15 : 05 |
12 | 上 宿 | 15 : 15 | 15 : 30 |
― | 神 社 | 15 : 45 | ― |
神輿の宮入が終わると18時から神楽殿にて「奉納演芸大会」が開催される。氏子総代会会長の挨拶から始まり、奉納神輿甚句、奉納舞が行われた後に奉納演芸が始まる。内容は舞踊やカラオケ、フォークダンスやマジックなどが披露される。大会の最後は氏子総代会の副会長により閉会のことばが述べられる。
神楽殿での奉納演芸 | 境内には多くの観客 |
奉祝祭
以前は9月15日の「敬老の日」が大祭日であったが、ハッピーマンデー法施行に伴い9月第3日曜日に奉祝祭を行い、別途15日にも神事を行っている。かつての「つけまつり」の復活により年々盛大になっており、市内でも有数の神社大祭となっている。
拝殿に入る関係者 | 半纏を渡す |
宮司と神官が身を清め・・・ | 拝殿に入る |
式典 | 玉串奉奠 |
境内には子供神輿が集まる | 関係者が拝殿から出る |
神輿に礼 | 氏子総代会会長の挨拶 |
町内会連合会会長の挨拶 | 神輿保存会会長の挨拶 |
宮司の挨拶 | 子供神輿のお祓い |
各町内による玉串奉奠 | 鏡割り |
乾杯 | 宮立ちの準備 |
式典の後は9時30分頃から「神輿かつぎ渡御」が行われる。
18時からは神楽殿にて「奉納演芸」として「劇団勝太郎一行」により寿三番叟、劇や舞踊が披露される。かつては祭礼の時に神楽殿を作り、上・中と裏・下・御殿で交代しながら作った。
若い衆・青年団・青年会
戦前は「ワカイシュ(若い衆)」や「セイネン(青年)」と呼ばれる男子青年の集まりがあり、これと平行して青年団の組織もあったようであるが、その両者の違いや関係などは不明なところが多い。聞き取りでは15歳で元服して若い衆に入り21歳で抜け、兵隊検査までのものであった。セートバライの日に若い衆の仲間入りを行い、この日はお仮屋に世話人たちが集まっているので、若い衆は酒一升を持って挨拶して仲間に入れてもらう。よそから来た者は入ることはなく、上級の学校へ行っている者も入らない。20歳の徴兵検査を済ませるか、所帯を持つと自然と来なくなる。また交友会などを作って月10銭ずつ金を集め、成田山や久能山へ日帰り旅行をすることもあった。若い衆は世話人が世話を焼いて祭りの下準備をした(中宿)。
戦争前には「青年団」があり、大野村青年団中原支部で各村毎に支部があった。支部には支部長があり、若い衆が青年団に入った。青年団で行ったことは弁論大会(四之宮小学校で行った)や運動会などで、町内対抗の駅伝なども行った。また、大根の種や野菜の病気の予防薬、シンクイムシの防除薬をまとめて購入し、注文を取って農家に売りその儲けを青年団の資金などにした。このような活動は昭和の初め頃までで5〜6年続けられ、青年団の産業部で行った。
戦後は各地に「青年会」ができ、中原青年会が創立したのは昭和24年(1949年)で、体育部として活動を始めたのは昭和21年(1946年)であった。戦後に青年会が続々と結成されたのは、昭和20年(1945年)9月25日に文部次官から地方長官宛に出した「青少年団体設置並びに教育に関する件」の影響があったという。戦後の昭和20年(1945年)頃から各地区毎に結成された青年会は、とかくその地区内のみでの活動に終わっていた。そこで、青年会を大野町を統一した組織にしていきたいということで南原青年会から中原青年会に呼びかけ、また八幡・四之宮・真土の青年会に呼びかけたのは昭和26年(1951年)のことである。これにより「大野町青年会連合会」が生まれ、昭和27年(1952年)12月15には大野第1小学校で総会を開き「大野町連合青年会」が生まれた。さらに昭和31年(1956年)には豊田青年会が加入し、6支部の構成となった。会員は農家の長男長女でほとんどが親からの勧めで無意識から加入し、自然脱会が多かったという。
中原の青年会はこの連合青年会の中原支部となり、会員は中原在住の30歳未満の男女であった。昭和33年(1958年)には会員数103(男子79・女子24)で、事業は総務部(ハイキング・下水処理・郷土史講演会・バス旅行)、社会部(公民館についての研究・町会議員との懇談・婦人会との懇談)、体育部(野球大会・バレー大会・各競技会への参加)、文化部(文化祭・演劇研究会・囲碁将棋大会・ダンス講習会)、産業部(特産地の見学・春蒔きあわせ大根研究)、生活改善部(模範部見学・生活水準アンケート調査)であった。
囃子
中原地区の囃子は豊田地区の叩き方とほぼ同じで、非常にゆっくりしたテンポが特徴である。おそらく、伊勢原や秦野など同系の囃子の中では最も遅いテンポで叩かれる。平塚市の重要文化財に指定されている田村ばやしや前鳥囃子と比較してもそのテンポは緩やかで、笛と鉦が共存する囃子と異なり競りが主体となったため、一つ一つの音を大きく叩けるように遅くなっていったのかもしれない。 ちなみに、裏宿では昭和10年代までは笛が吹かれ、鉦も叩かれていたという。伊勢原市の三ノ宮地区である栗原は通常の叩き方とは異なる「抜きばち」という奏法を持っており、競りで抜くために考案されたものでテンポは中原・豊田に近くばち数も減らしている。
近年まで笛と鉦は伝承されていなかったが、伊勢原市笠窪や前鳥囃子の影響を受けて、現在は上宿や中宿などで笛が吹かれるようになった。また、大祭当日にはオカメとヒョットコのお面をかぶった子供たちが、囃子にあわせて踊る姿が見られる。
腕を上げて締めを叩く(伊勢山) | 大胴も腕を上げる(伊勢山) |
上宿は笛が入る | 中宿も笛が入る |
山車の上で鉦を叩く(上宿) | 裏宿は笛はないが鉦が入る |
山車前で踊るオカメとヒョットコ | 神輿と山車の行列に参加 |
囃子 (上宿) |
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次に、宵宮の夜に行われる2つの「ばち合わせ」について紹介する。
1つ目は「上宿」と「中宿」のばち合わせで、旧県道沿いにある「さつき食堂」前で18時40分頃から約30分間ばち合わせを行う。平成20年(2008年)は最初に中宿が組曲形式で発表し、「ぶっこみ」→「屋台」→「宮昇殿」→「昇殿」→「仕丁舞」→「印場(蝶々蜻蛉)」→「きざみ」→「屋台」の順で演奏した(曲名は全て前鳥囃子を参照)。笛と鉦は入っていないが前鳥囃子と同系統の囃子で、最初の屋台はゆっくりなテンポで叩くが、最後の屋台のテンポを早くし観客が飽きない工夫をしている。
その後には上宿が笛を入れて屋台を演奏し、最後に上宿、中宿の順でぶっこみから屋台に入り競りを行った。
さつき食堂前で・・・ | 上宿と中宿の山車が向き合う |
最初に中宿が発表 | 上宿は待機 |
山車の下では音の鳴りを確認 | 多くの観客 |
続いて上宿の発表 | 上宿は笛が入る |
最後に上宿と・・・ | 中宿が・・・ |
叩き合い | 向かいの歩道にも観客が |
2つ目は平成10年(1998年)から行われている「裏宿」と「御殿」のばち合わせで、ひばり野会館(中原小学校)前で時間は上宿と中宿のばち合わせ後の19時30分から約30分間行われる。平成20年(2008年)は御殿が先に発表し、「ぶっこみ」→「屋台」→「宮昇殿」→「仕丁舞(中宿とは若干異なる)」→「印場」→「昇殿(前鳥囃子とは若干異なる)」→「印場(途中でリズムを少し変える)」→「きざみ」→「屋台」の順で演奏した(曲名は全て前鳥囃子を参照)。
続いて裏宿が発表を行い、「ぶっこみ」から「囃子」に入り、「宮昇殿」・「治昇殿」・「仁馬」・「きざみ」をメドレー風に演奏した(曲名は「裏宿はやしだいこ」を参照)。
裏宿の山車が現れる | 会館前に到着 |
続いて御殿が登場 | 会館前に到着 |
2台の山車が合流 | ばち合わせのために向き合う |
町内にはポスターが張り出される | 山車の間で記念撮影 |
叩き手が山車から降り・・・ | ばち合わせ前の挨拶 |
最初は御殿が発表 | 続いて裏宿が発表 |
昔は太鼓の音が聞こえ出すと子供たちは居ても立ってもおられず、中にはかつて上宿から下宿にかけて群生していた竹林の中に櫓を作り、お盆が過ぎると醤油樽を使い太鼓の練習をしていた子供もいた。太鼓の練習は青年会が行っており子供は教えてもらえなかったので、子供は聞いて覚え、垣根を叩いたり寝る前に自分のお腹を叩いて練習していた。
かつては山車を曳くために祭礼には各町内とも各戸1ずつは出て、今の社務所のある所に5町内の山車を並べた。その前でお神楽などを舞い、太鼓の競演があった。入野・寺田縄などや、豊田・四之宮あたりから若い衆がやってきて叩き比べをした。太鼓は各山車に1組ずつついており、よく締めた太鼓で上手に叩くと他の太鼓の音が聞こえなくなった。この太鼓は浅草の聖天町から買ったという。また、宵宮には各自の町内だけ山車を曳き、上宿と中宿は道の境でぶつかり現在と同じように太鼓の叩き比べをしていた。
現在の盛大な祭りも昭和30〜40年代の約15年間程は、神輿の車渡御のみで山車も囃子も休止状態が続いたため、各町内では祭囃子の伝承が途切れた時期があった(裏宿でもこの間は太鼓を全く叩くことはなかったという)。少しずつ復活し始めたのは昭和40年代後半からであるという。
山車(屋台)
山車は昔からの「上宿」・「中宿」・「裏宿」・「御殿」・「下宿」の5町内がそれぞれ持っていて、平時は解体して祭りの時に組み立てられるので、田村や馬入の屋台に比べると構造は比較的簡単である。目の字形に土台を組んで束を立て、床梁を受ける。屋根を支える4本の柱は床梁上に立つオカグラ造である。正面の柱間には虹梁形差物を入れるが、そのほかは周囲に桁を廻らすのみである。舞台のみで楽屋はなく、四周は全て開放され簡単な刎高欄を廻らす。正面中央部の昇降口には擬宝珠柱を立てる。
昭和30年(1955年)代までの山車の車輪は木製で4輪固定のため、方向転換は山車の片側をテコ棒で持ち上げ、床下中心部と地面との間にT型の棒(チャンチキ)を入れて傾け、山車の横にテコ棒をいれて方向を変えていた。再び進行する際にはこのチャンチキを取り外す。当時のチャンチキは、現在も山車小屋の隅に保管されている。
昭和12年(1937年)頃までは山車が神輿の後追いをする「つけまつり」が盛んであったが、昭和12〜20年(1937〜1945年)に起きた日中戦争を境にまつりは廃れていった。戦後になり震災からの復興とともにかつての「つけまつり」を復活する機運が高まり、戦災で被害を受けた山車を復活させ祭りは盛んになった。当時は祭り当日の夕方になると、神社正面の階段に渡り板を敷いて各部落の山車を引き上げ、旧鳥居の北側を通り現在の社務所当たりに5台の山車を勢揃いさせ、神楽の幕間に叩き合いをしていた。
昭和30年(1955年)代には車輪の老朽化が進んだため、旧山車小屋(現裏宿南・吉野邸地)を現在の神社境内へ移転させる際に、木製車輪から現在のゴムタイヤと操舵輪に改修された。この結果山車の走行性能と安全性は向上したが、昭和33年(1958年)を過ぎると東京オリンピックを境に高度経済成長の波が農村であった中原にもおとずれ、都市化や娯楽の多様化により祭りは再び衰退していった。その後は消防団や上宿の氏子を中心に僅かな人数で神輿を参道のみ担ぎ、山車も中宿を除き小屋にしまいっぱなしとなっていた。
昭和53年(1978年)には東京を発した神輿ブームの波に乗り、平塚近隣でも各地で神輿渡御が復活して戦災で喪失した神輿を再興し、神輿保存会を結成して渡御の復活が盛んになっていった。また、平成2年(1990年)に5町内が山車を再興したことで「つけまつり」復活の元となり、現在はかつての祭りを凌ぐ市内でも有数の神社祭礼の一つとなるに至っている。
以下に5台の本山車と新しく加わった伊勢山の車(トラック)山車を紹介する。
●上宿
現在の山車は昭和62年(1987年)9月に新調されたものである。昭和30年(1955年)頃は電線が張られたこともあり山車が出せない状況であったが、上宿では昭和55年(1980年)に山車を再び曳き出した。
正面 | 横 |
裏 | 舞台は結構広い |
前輪で方向転換 | 夜の巡行 |
●中宿
棟下に「棟梁 中郡大野村中原 磯部雄三氏/彫師 中郡旭村河内 山崎竹次郎氏/昭和三年九月吉日」と記した札が貼り付けられており、建造年代は昭和3年(1928年)であることがわかる。古老の話では、それ以前は山車がなかったと伝えられている。柱寸法は正面が6尺、側面が7尺、舞台は幅7.6尺、奥行8.3尺で、舞台の高さは6尺、床から梁上までは7尺である。正面柱の側面には獅子の木鼻を付け、棟は笈形付き角束で受ける。屋根は正面および背面に唐破風を付け、兎毛通は龍、鬼坂は牙のない鬼の彫刻とする。屋根面は障子である。なお、正面の丈の高い緑葛の両端には木彫りの神楽面が取り付けられる。
昭和20年代までは中宿(当時は中町)と裏宿は一緒の地区であったが、昭和30年に入る頃に分かれている。平成15年(2003年)7月には柱を全数交換し、平成17年(2005年)にはタイヤを全数交換している。
正面 | 横 |
裏 | |
車輪(ブレーキ付) | |
柱の上部には獅子が | 夜の巡行 |
●裏宿
製作年代は不詳だが、100年以上前のものといわれている。裏宿の山車は昭和60年(1985年)から町内巡行が再開されたが、山車本体の老朽化に伴い町内有志の寄付を基に、町内の大工(原富男棟梁)の手による大修復が行われた。新装になった山車は旧部材の本体枠やお飾り等の一部を残しつつ、屋根・花飾り・提灯枠等に新しいアイディアが取り入られ、発動発電機が2台搭載された。新しく生まれ変わった山車は、平成4年(1992年)9月には町内にお披露目された。
車輪のゴムタイヤは老朽化のため、平成元年(1989年)と平成17年(2005年)8月にゴム部を交換している。また、山車周りの花飾りは昔から紅白のみであったという。
正面 | 横 |
裏 | 車輪 |
夜の巡行 |
●御殿
昭和61年(1986年)9月に修復した山車である。
正面 | 横 |
裏 | 車輪 |
はしご | 夜の巡行 |
●下宿
昭和31年(1956年)に一度改造しており、昭和61年(1986年)9月に新たに改修した山車である。
正面 | 横 |
裏 | 車輪 |
提灯 | 夜の巡行 |
●伊勢山
平成17年(2005年)に新調した車山車である。
正面 | 横 |
夜の巡行 |
●車(トラック)山車
5基の本山車に加え、「伊勢山(上記記載)」・「上宿」・「中宿」・「御殿」の4町内で車山車を巡行させている。
上宿(昼) | 上宿(夜) |
中宿(昼) | 中宿(夜) |
御殿(昼) | 御殿(夜) |
5基の山車は神社境内の北側にある山車小屋に格納する。祭りの際には手で押して各町内まで移動し、柱と屋根を組み立てて提灯や花などの飾り付けを行う。仕舞う時には屋根と柱をばらし、舞台から下の部分はそのまま小屋に入れる。
山車小屋 | 飾り付けをする上宿 |
移動は手で押す | 山車小屋に到着 |
向きを変え・・・ | 小屋に入れる |
屋根と柱はばらしてトラックに | 降ろして小屋にしまう |
続々と山車が到着 | 収納された山車 |
神輿
江戸時代の末期に寒川神社へ2基の神輿が納められた際、その1基を譲り受けたものが日枝神社の神輿であったと伝えられている。古老の話によるとこの神輿は200年前に造られ、阿夫利山の宮大工「手中明王太郎」の作という言い伝えもあるが確かな証拠はなく、正式な制作年代および製作者は不明である。元は素木造だったが明治26年(1893年)に塗装を施し、大正7〜8年(1918〜1919年)に再度塗り替えがなされた。当時は100戸無い中原で20〜30銭集めて大磯で修復され、この塗りは昭和57年(1982年)の修復の際に葉山の塗師から絶賛されたという。また、大正12年(1923年)には大掛かりな修理が行われたようである。昭和57年(1982年)には屋根だけの修理塗り替えが行われ、昭和62年(1987年)にも修復が行われている。
市内では少数派である四方唐破風の屋根、右三つ巴紋が三盛の屋根紋、和様四手先船肘木桝組、螺細塗の胴、頭部の赤い前傾姿勢の鳳凰などの特徴を持つ神輿である。昭和53年(1978年)8月20日の修理前の写真を見ると、現在とは異なり桶提灯は台輪の外に飾られ、風鐸瓔珞、弓張提灯がつけれれている。また、社務所の左横にある倉庫にはもう一基神輿があり、この神輿はかつて御殿で担がれていた子供神輿だったが、神社が譲り受けたものであるという。子供神輿にしては大きなもので、近年はあまり表に出る機会はない。
農作業や天秤棒で鍛えられていた時代は、現在よりも少人数で担いでおり、輿棒1本に4人程度であった。青年会が中心となり町内渡しで渡御していたが、神社から遠く昼休憩前後に到着する竹田下では担ぎ手が減り、体力的にもきつくなるため左に畑、右に田のところでしょっちゅう左にひっくり返した。担ぎ手は酔っ払っていたので他の場所でもひっくり返すことはよくあり、蕨手を折ることも多く毎年神輿を直していた。昭和57年(1982年)の修復の際には、屋根裏をサツマイモの出荷箱で補修した跡が見つかっている。日頃から気に入らない家や御祝儀の揚がらない家、準備会合で反対をした家には神輿が突っ込み、垣根や壁などを壊すこともあった。また、日頃の取締りに反感を持っていた村民が神輿を駐在所に突っ込んだため、宮総代が平塚警察署に連行されることもあった。
神輿の飾り付けは昔は年によって異なっており、クジャクに稲穂をつけなかったこともあった。標は毎年同じ人がやっており、なかなか他の人には教えてもらえなかった。また、輿棒が漆塗りだった時期があり、担ぐと肩がかぶれる腫れることがあった。旱魃が続くと祭りに関係なく神輿を担ぎ、雨乞いをしたこともあったという。作物の枯れている所を鎮守様に見てもらうといって神輿を出し、水の不足している田畑を担いだ。大山に水をもらいに行き、神輿を担いで渋田川に入ったこともある。この雨乞いは大正末頃まで行われていた。
現在の掛け声は「ドッコイ」であるが、昔は「ワッショイ、ワッショイ」のほか、「ヤッショ、コーレ」・「ヤート、ヤッセ」・「エートコ、サッセ」・「オラショ、コーリャ」などそれぞれおもいおもいの声を出していた。今日のような甚句などはないが、目に付いたものを即興で歌にしたり、デタラメに適当なくだらない節回しを歌ったり、時には「大野っ子節」を歌ったこともあったという。
神輿殿 | |
神輿 | 中型の神輿 |
現在、神輿の運営管理は「日枝神社神輿保存会」が行っている。昔は日枝神社の神輿は神社の祭礼にしか出さなかったので、この保存会ができることについてもやたらな時に神輿を担ぐものではないという意見から、なかなか村の許可が出なかったという。しかし、若い人たちの熱心さと担ぐ機会を守るということで、昭和54年(1979年)に発会した。平成20年(2008年)6月1日には神社境内にて三十周年記念式を執り行っている。十周年、二十周年共に権現祭と同時に行っていたが、三十周年は「昔のまつり」をコンセプトに、従来家族レクレーションを行っていた6月第1日曜日に別途記念事業を行うこととなった。第1部として会員が拝殿にて「奉告祭」、第2部には古式に則った神輿渡御の再現、第3部には餅つき大会を行い、上宿太鼓保存会においては山車を出すなど氏子関係者を含め三十周年を祝った。
中原には大人神輿の他にも8つの自治会で子供神輿を所有しており、奉祝祭では9基全ての神輿が神社に集結する。この中で上宿は2基の子供神輿を所有しており、大きいほうの子供神輿は昭和56年(1981年)4月の製作で大磯の「清水千代造氏」によるものである。ちなみにこの神輿の重量は55kgで、買値は190万円であった。もう一基の子供神輿は地元の材木屋であった「大塚氏」が寄付したものである。
裏宿の子供神輿は昭和53年(1978年)9月に町内有志の寄付を募り、神社神輿をモデルに原富男棟梁により製作された。当時、神輿の飾り金具の入手には東京神田まで出向いたが、なかなか手に入らず大変な苦労があったという。
上宿 | 上宿 |
中宿 | 下宿 |
裏宿 | 御殿 |
伊勢山 | 新町 大原 |
新川端 | 境内に並んだ9基の子供神輿 |
例大祭
例祭日は『風土記稿』によると旧暦の6月15日(隔年に14日)で、神輿が宿中を巡行して元山王の仮屋に止まり、明くる15日午後歸座すると記されている。明治3年(1870年)の神仏分離政策で「日枝神社」と改称した際に、例祭日も9月15日に改められた。
例祭日が9月15日になった由来の一説としては、徳川家康が関ヶ原の合戦に勝利したのが慶長5年(1600年)9月15日であり、その頃江戸で開催されていた神田明神の「神田祭」が起因している(神田祭は明治25年から5月に変更)。この神田祭は天和元年(1681年)以後に「山王日枝神社」の「山王祭(6月15日)」と共に隔年毎の交代で行われるようになり、中原の日枝神社の例祭日は徳川家康ゆかりの吉日の祭り日として農繁期の6月に代わり9月15日となったと推測される。
昭和41年(1966年)から9月15日が「敬老の日」として国民の祝日となったが、平成13年(2001年)の祝日法改正(ハッピーマンデー制度の適用)によって平成16年(2003年)からは9月の第3月曜日が祝日に変更され、祝日に合わせた土曜日に宵宮祭を、日曜日に奉祝祭を執り行うようになった。15日が土日に重なる場合は宵宮や奉祝祭と一緒に式典を執り行うが、重ならない場合は15日の10時から別途式典のみ執り行い(約30分程度)、その後は社務所にて直会が行われる。
社殿に向かう関係者 | 拝殿に入る |
宮司と神官が身を清め・・・ | 拝殿に向かう |
式典 | 宮司と神官が拝殿を出る |
関係者も出てきて・・・ | 社務所へ向かう |
直会が始まる | 町内会連合会会長の挨拶 |
神輿保存会会長の挨拶 | 宮司の挨拶 |
乾杯 | 最後の締め |
ここで、昔の祭りの準備や大祭当日の様子などについて触れておく。
今とは違い回覧板などの案内はなく、お盆を過ぎると自然に祭りの準備をする流れになっており、各戸・各町内が準備に取り掛かり始めた。青年会は日頃から夜警や電気料金の集金などを行い、運営費や太鼓の革を買う資金に充てた。また、「えびす屋」という呉服屋が反物を持ってきて、その年の町内の揃いの柄を毎年選んだ。大人や男の子は半纏、女の子は浴衣などを各家庭で縫った。祭りまで待ちきれなくて出来上がった半纏を着て学校に行ってしまう子も多かったという。また、この半纏は祭り後の芋掘りの祭にも着用した。
5町内各2箇所に御神燈が置かれ、町内毎に幟も立てられた。まだ路面が舗装されていない旧県道沿いに立てられた幟は風になびき、その軋む音にはなんとも言えない風情があったとう。また、神輿のクジャク(鳳凰)や蕨手が木の枝に引っ掛かり破損することが多々あったため、消防団が道路に張り出した木の枝を切りに回った。
小学校では神社参拝といって、学校行事として大祭にお参りに行った。かつて同じ中原小学区であった南原諏訪神社の例大祭は9月10日であり、日枝神社の氏子の子供達は揃いの半纏に袴、白足袋を着用して南原の祭りでも境内で太鼓を叩かせてもらった。
昔はおまつりの日だけ神社と駐在所の間を1銭で走る「1銭自動車」が走っていて、下宿までは2銭だった。自動車で席のあるリヤカーのようなものを牽き、5〜6人程度乗れたという。
中原について
天保12年(1841年)完成の『新編相模国風土紀稿』の中原の項によると中原は「上宿」と「下宿」の2つに分かれていて、下宿は低いところで上宿は高い砂地であったという。中原上宿と中原下宿は古くは「中原村」あるいは「中原町」と称して1つの村を形成し、明暦2年(1656年)に上下二宿に分かれた。元禄8年(1695年)年に再度合わせて中原村と称したが、宝暦4年(1754年)に再び二宿に分かれた。上宿は慶長年間(1596〜1615年)の当所御殿造営後に、豊田本郷村の民が開墾して移住したことから「豊田新宿」とも唱えていたと伝える。慶長14年(1609年)に中原御殿を建設すると、豊田村の村民が中原上宿を開いて移住したという。このとき両宿の鎮守である山王社は上宿にあり、幣殿・拝殿などもあった。また、末社として「天満宮」・「稲荷」・「疱瘡神」・「天王」があったと記されている。
中原には現在21の自治会があり、自治会は「町内会」とよぶ。「上町東」・「上宿南」・「上宿北」・「中宿東」・「中宿西」・「裏宿東」・「裏宿西」・「裏宿南」・「裏宿北」・「御殿東」・「御殿西」・「御殿南」・「御殿北」・「下宿東」・「下宿西」・「下宿南」・「下宿北」の17の町内会以外に、集合住宅やまとまった分譲住宅はそれぞれに自治会を組織していて、「新川端」・「上宿住宅」・「子の神住宅」・「下宿住宅」の4つの自治会がある。各町内会の名前からも分かるように、「上」・「中」・「裏」・「御殿」・「下」の5つのまとまりが先にあって、人口の増加によりさらに分裂していったものである。
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