四之宮しのみや

神社の紹介

 四之宮地区の鎮守である「前鳥神社」は『延喜式(神名帳)』に載る古社で、社号は「埼取」・「前取」・「左喜登利」などといろいろと用いられてきたが、現在では『延喜式』に基づいて前鳥となっている。明治42年(1909年)2月の四之宮大火の際に社務所(旧雪霜山神光寺鏡智院の建物)が類焼に遭い、社宝や縁起書ならびに古文書一切を焼失したため、現在祭神を知る手掛かりとしては天保12年(1841年)完成の『新編相模国風土記稿』と寛政2年(1790年)鋳造の神鐘の鐘銘だけである。
 『風土記稿』によると四ノ宮村の鎮守は「四ノ宮明神社」と称し、『延喜式』に載る「前鳥神社」がこれにあたるとしている。祭神は『古事記』・『日本書紀』に載るところの応神天皇の王子「菟道稚郎子尊(うじのわきいらつこのみこと)」で、御神体は神體束帶木像(長一尺五寸)としている。幣殿・拝殿・神輿殿・供所などがあり、社前には相模國十三座之内、前取神社と彫られた石標が建つとある。また、末社として「牛頭天王」・「稲荷(2社?)」・「聖天」・「八王子社(定光院持)」・「藏王社(大念寺持)」があり、この他には小名下郷の鎮守である「山王社」があった。山王社はもとは村内観音堂の北、三町許隔てたところにあったが、風雨のためにしばしば破損するので文化年中(1804〜17)に観音堂境内に移し、元の地丹は石の小祠を置いた。山王社の例祭日は旧暦の6月13日で高林寺持ちとなっており、この他にも「諏訪社」・「天満宮」・「稲荷社」があった。
 当神社の創祀の年代に就いては不詳だが、延喜年間(901〜923年)に撰せられた『延喜式巻九 神祇九 神名』上に相模国十三座のうち前鳥神社が記載されている。これには大住(オオスミノ)郡四座として「前鳥(サキトリノ)神社」・「比比多(ヒヒタノ)神社」・「高部屋(タカヘヤノ)神社」・「阿夫利(アフリノ)神社」と記載されている。延喜式内社である前鳥神社は平安時代(794〜1185年)になると、相模国の四之宮として国府祭に参加し、この頃から四之宮の称号が生じて「四之宮大明神」ともいわれてきた。
 鎌倉時代の建久3年(1192年)8月9日に源頼朝が夫人政子の安産祈願にのために、神馬奉納のあったことは東鑑に載るところである。のち天正19年(1592年)には徳川家康が朱印地拾石を寄進し、併せて社地2100余坪を除地とした。なお、前鳥神社は近世初頭から明治維新まで古義真言宗雪霜山鏡智院神光寺を別当とし、祭事の全てを管掌してきた。
 明治4年(1871年)の廃藩置県による全国統一政権が成立すると、寺社領没収により朱印地は悉皆上地となり、翌明治5年(1872年)には相模と伊豆は足柄県となり、大区小区制施行に伴い前鳥神社は郷社に定められた。明治41年(1908年)に神饌幣帛供進神社に指定され、明治43年(1910年)には雑社「日枝神社」の祭神「大山咋命(おおやまくいのみこと)?」を合祀した。
 昭和43年(1968年)には前鳥神社御鎮座1600年式年大祭が元皇族賀陽恒憲(かやつねのり)氏を迎えて斎行され、記念行事として玉垣の新設、忠魂碑の整備、授与所の新設など境内の大整備事業がなされた。この際に、「王仁命」・「阿直岐命(あちきのみこと)」・「菅原道真命(すがわらみちざねのみこと)」を祀る「奨学(しょうがく)神社」が建立され、当社は学問の神様として関東一円に広く信仰を集めているという。昭和53年(1978年)には「神明神社」と「八坂神社」の老朽化により2社を合わせ祀り、「神戸(ごうど)神社」として造営された。

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前鳥神社社号柱
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太鼓橋参道
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鳥居
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狛犬狛犬
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狛犬狛犬
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参道
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手水舎
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拝殿本殿・幣殿
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祖霊社奨学神社
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社務所研修殿神楽殿
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境内

祭神

 前鳥神社の現在の祭神は十五代応神天皇の皇太子「菟道稚郎子命(うじのわきいらつこのみこと)」と「大山祇命(おおやまつみのみこと)」の二神である。そのうち大山祇命は明治年間に当社へ合祀された旧山王社の祭神で、『風土記稿』を見ても本来の祭神は菟道稚郎子命の一柱となっている。
 菟道稚郎子命を祭神とする神社は極めて珍しく、西では京都府宇治市に鎮座する式内の「宇治神社」および「宇治上神社」の他には聞くことはない。ちなみに『延喜式』では「宇治神社二座」とあるが、現在では上記の2社に別れ隣接して鎮座している。前鳥神社においては菟道稚郎子はその晩ひそかに東国に来て、当地を中心として文化・産業の発展に尽くし、当地で亡くなったと伝えている。そして当社から西方約1kmのところにある前方後円墳で、大塚山と呼ばれている古墳は命を葬ったあとであろうとの説がある。


四之宮

 『和名抄』によると相模国大住郡に「前取(さきとり)郷」があり、前取郷はこの四之宮付近であるといわれている。さらに200年近く前の天平7年(735年)の『相模国封戸租交易帳』によると「大住郡 崎取郷 五十戸 田 一百六十町」とあり、その頃の地名もサキトリ郷であった。この地名の「サキトリ」は奈良時代(710〜794年)以前からあったものと考えられ、一説によるとサキトリ神社の社号からサキトリ郷の地名を生じたというが、社号が先か地名が先かを断定することはできない。なお「サキトリ」の地名は相模川に沿った地形名か、他からの転化名か諸説はあるが定かではない。
 前鳥神社の所在する四之宮部落とその西につらなる真土・中原の両部落ならびに南に隣接する八幡部落は、南方の平塚市街へ連なる湘南砂丘地帯の一部である。この砂丘地帯(南北の長さ約5km・東西の巾約3km)の平均標高は8mで、前鳥神社から南に延びて平塚に至る厚木街道沿いの線と、同社から西に延びて真土神社境内、大塚山等を経て中原の日枝神社に至る線は標高が高い(12〜17m)。このような砂丘地帯がなぜできたかというと、かつて相模川の下流地域は一面の海でいわゆる古相模湾と称した海域であったが、相模川によって運ばれ海に流出していた土砂が当地方に強く吹く西南風のために吹き上げられ、それが土地の隆起現象と相まって陸地に固定したからである。ちなみに、藤沢市辻堂付近から余綾の山地にかけての土地は、関東大震災のとき八幡の鮫川池(さめかわいけ)が干上がった例のように、昔から隆起の盛んな土地として知られている。なお、この湘南砂丘の形成された時代は地質時代で最も新しい時代に属し、弥生式時代中期の遺物がいくつか発見されていることから、弥生式時代前期あたりに形成されたものであると考えられる。
 四之宮の含まれる砂丘地帯の形成については、当初たいへん小さな砂丘の島であったものが、その島が核となってだんだんと砂が寄せられ、また川から流される土砂が堆積して大きなしまとなったと思われる。この砂丘の島のなかで最も土地の高いのは四之宮から西の真土にかけて、ならびに南の八幡・平塚とつらなる台地であって、それから西の方は波状をしながらしだいに低くなっている。右の四之宮や真土からはこの付近でももっとも古い遺物が出土しており、四之宮の鹿見堂(ししみどう)からは弥生式中期に属する久原式の壺が発見され、真土の中学校敷地や八幡の小字坂戸などからもほぼ完全な弥生式中期の壺が出土している。また、四之宮の高林寺境内や前記坂戸からは、農耕に使用したと思われる石斧(いしおの)が発見されている。つまり平塚から北部の砂丘地帯のなかでも、四之宮や真土あたりがもっとも早く島として形成されたところで、ここは弥生時代頃からすでにある程度の数の人々が住みつき、農耕に従事していたと考えられる。
 なお、古相模湾の入口にこのような大きな砂丘の島ができたために、その北方の古相模湾は区切られたような形となり、相模川や渋田川、金目川などが流し出す土砂の堆積と、他方引き続いて起こった土地の隆起により、入海には次第に島や干潟が多くなり、やがてこれらの地域が開拓されて現在のような平野になったものと思われる。いまでも砂丘地帯の北方、渋田川の流域の水田地帯には大島小島小鍋島・沼目(沼辺の転訛か)などの地名が残っているのは、古い時代の地形を物語っているとも思える。
 サキトリ郷の四之宮の地は相模川に沿った沖積地で、地形上前鳥神社以北と以南の二つに区分される。この沖積地は耕地として肥沃な所であり、湘南砂丘地の一環が南西より北東にかけて走り、砂丘列の列上に集落が発達しているため、古い遺跡、遺物が数多く発見されている。特に前鳥神社周辺においては弥生時代の中期の久原武土器が出土し、太平洋戦争前までは古墳群が散在して、その中から金・銀環と鉄鏃等が発見されている。また、前鳥神社の真西(参道の一直線上に1.4kmの所)にはかつて真土大塚山古墳があり、大塚山古墳は古墳時代四世紀頃の円墳で東西約30m、南北約33m、高さ8m余りのものであった。この古墳は現在消滅してしまったが、出土品として三角縁陳是作四神二獣鏡、白銅鏃、巴型銅器、玉類がある。このように、はるかな時代から集落が砂丘上に発生していたことはわかるが、神社創祀の年代は速断できない。但し、参考までに平成20年(2008年)には鎮座1640年式年大祭を斎行している。
 現在の四之宮は平塚市に編入されているが、明治22年(1889年)以前には長い間「四之宮村」という独立の村であった。同年の町村制施行の際、四之宮村のほか八幡真土中原南原の五ヵ村が合併して「大野町」を形成したが、この大野町も昭和31年(1956年)に近隣の神田村・城島村・金田村および金目村の一部とともに平塚市に編入された。そのうち四之宮村は大野町の他の四村に比して、財政上安定していたので平塚市編入に反対していたが、同部落内に新たに公民館を設けるという条件で妥協したということである。
 四之宮には「上郷」・「通町」・「寺の台町」・「南町」・「中庭町」・「観音町」・「下郷」・「西町」というチョウナイ(町内)があったが、第二次世界大戦後に寺の台町と南町が1つになって「東町」となり、新たに「林町」・「神明町」という町内ができている。これらの各町内からは宮世話人が1名ずつ選出され、それとは別に四之宮全体から氏子総代が3名選出された。任務はそれぞれが2年で、再選は妨げられなかったという。この9町内は大きく2分し、観音町以北を一口に「本村(ほんむら)」といい四之宮の中心で、それに「下郷」が対置している。


宵宮祭

 かつては祭りの前日を「ヨミヤ」といい、祭りの準備をした。大門さきに大きな幟を2本立てるが、この仕事には神社に近い東町の人々があたった。本殿の掃除は宮司が行い、神楽殿の清掃は西町や通町、そして神輿のお仮屋作りには通町の人々があたった。また、「ドウバン」といってヨミヤの日に神社へオコモリして、火の用心と盗難除けにあたった。ドウバンは各町内の順番制で、東町(寺の台町→南町)→中庭町→観音町→下郷→西町→通町という順序であった。この順番は昔、相模川の川向うに四之宮分の田畑があり、渡舟に乗って耕作に出かけるために交代でその舟番にあたった時の名残りであるという。ドウバンは5名で、町内の家並順に選ばれた。

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式典前の神輿式典直前に拝殿前に移動
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白装束の仕丁達が集まる神輿に白い布を巻き・・・
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覆えることを確認布を外す
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関係者も集まる先導役の猿田彦命が現れる

 式典の準備が整うと仕丁達が拝殿前に整列し、太鼓の合図とともに神事が始まる。神輿と氏子のお祓いを済ませるといよいよ神輿への御霊入れだが、前鳥神社では照明を全て消した状態で行う。布で神輿を覆う地区はいくつか見られるが、暗闇で御霊入れを行うことは珍しい。

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拝殿前に仕丁が整列
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神輿をお祓い宮世話人と青年会をお祓い
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仕丁をお祓い観客もお祓い
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いよいよ御霊入れだが・・・急に照明が消え・・・
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真っ暗に ^^;あとは想像してください m(_ _)m
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御霊入れが終わり仕丁が再び整列
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神輿に向かい・・・持ち上げ・・・
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神輿を旋回させ・・・鳥居方向に向ける

 御霊入れが終わると、麦振舞の神事が始まる。仕丁達の正面に御座を敷き、力飯を並べていく。御神酒を飲み干すと力飯を頂き、宮立ちの準備に取り掛かる。

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神輿の前に御座を敷く仕丁が整列
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力飯を並べる反対側にも並べる
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仕丁が座る提灯が現れる
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祝詞奏上神輿に礼
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供え物の御神酒を取り・・・仕丁に注ぐ
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杯を持ち・・・飲み干す
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力飯を頂く猿田彦命が登場
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紙吹雪を撒く
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仕丁が立ち上がり・・・御座を片付ける
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観客にも力飯が配られる私も頂きました

 前鳥囃子の「唐楽」が始まり「鎌倉」へ移ると、神輿はいよいよ宮立ちする。提灯に先導された神輿は鳥居まで担がれ、旋回すると再び社殿に戻り宮付けされる。

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前鳥囃子が始まり・・・神輿が担ぎ上げられる
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いよいよ・・・宮立ち
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境内を進み・・・鳥居を目指す
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鳥居前で・・・提灯が両脇に別れ・・・
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神輿の横を抜けていく神輿を旋回させ・・・
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社殿に向かう境内に入る
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神楽殿横を抜け・・・櫓前を練る
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いよいよ・・・宮入り
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馬を入れ・・・無事宮付け
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テーブルにビールを並べて・・・疲れを癒す

麦振舞神事

 「麦振舞(むぎふるまい)神事」は昭和54年(1979年)に平塚市の重要文化財に指定され、5月5日の「国府祭」と、例大祭の神輿発輿に先立ち9月27日の宵宮祭の19時から執行される。県下でも大変珍しい神輿宮立ちの神事で、かがり火のともる中で白装束の青年たちが力飯を頂いて神輿を担ぎ上げる。
 この麦振舞の献立は折敷(おしき)に里芋の葉を敷き、葉の上に大豆と一緒に炊いたもち米を盛り、里芋の干茎の汁で煮た(刻んだ)干大根の煮付けに唐辛子をまぶしたものを副食として添えてある。箸は細い竹を短く切ったものを使用し、仕丁はこの麦振舞を余すことなく食し、御神酒を頂戴後に威勢を上げて立ち上がり神輿を担ぐ。
 麦振舞は『風土記稿』百二十六巻中、只一つ挙げられている祭事食(行事食)でもあり、風土記稿村里大隈郡巻之三、四之宮村四ノ宮明神社の条に「淘綾郡国府本郷村 神揃山へ渡御あり 国府本郷村 六所明神の條に記載す 但當社神輿供奉の者に 四月晦日 米1升を椀に盛 芋の葉の汁 干??蕃椒(ほしらいふくばんしょ)をあへものとして饗す 是を麥振舞と称せり」とある。
 祭事に用いられている行事食は全国に数多いが、殆どが時季の海の幸・山の幸が使われており、麦振舞のように干??(干大根)と蕃椒(唐辛子)、そして芋の葉の汁を馳走の中に加えているのは稀である。

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力飯を用意するテントテーブルの上で準備
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里芋の葉と杯大豆の入ったもち米
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干大根の煮付けと唐辛子竹の箸
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葉の上に盛り付ける献饌用の御神酒と力飯

 祭事に用いられている行事食は全国に数多いが、殆どが時季の海の幸・山の幸が使われており、麦振舞のように干??(干大根)と蕃椒(唐辛子)、そして芋の葉の汁を馳走の中に加えているのは稀である。
 麦振舞の中の芋と大根は7〜8世紀頃、唐辛子は16世紀頃の渡来植物であるというから、芋と大根は奈良時代頃で、唐辛子は室町時代末期から安土桃山時代以降に食物用調味料として登場することになる。芋と大根が平安時代に栽培され、食用に供せられていたことは延喜式に載せられている。ここに全国の神社の主な献饌もしくは祭食事を挙げると次の諸例がある。

全国の神社の主な献饌(祭食事)
都道府県名神社名例祭日献饌(祭食事)
奈良県竜田神社4/4酒、川魚
愛知県大国魂神社5/6するめ、梅之実
東京都大国神社7/20すもも、栗飯
京都府八坂神社7/31南瓜、笹瓜
鹿児島県大黒主神社8/15薩摩芋、里芋、柿、梨、栗
島根県須佐神社9/9大根、玄米、かぶ
東京都芝神明祭9/16生生姜、餅、魚
埼玉県氷川神社10/9米団子
熊本県北宮阿蘇神社11/12ぼら
千葉県香取神宮11/30三十三個之神饌

                           ※時季順(例祭日順)に列記
 延喜式に中で芋については芋(イエノイモ)、??(トコロクワイ)、??(ヤマノイモ)が載せられているが、麦振舞には往昔どのイモを使ったか疑問とするところである。イモ、大根、唐辛子の食用としての効果であるが、当地方で伝えられている効能は次の通りである。

食物としての効能
食材効能
??ダイコン生食とすると食欲ミ進し痰を除く
卒中で倒れた者に切干の煮汁を与えると回復する
蕃椒トウガラシ食欲増進 消化を良くし、風邪を治す
里芋イエノイモ精をつけ、目の衰えを治す

  次に目的であるが、口伝によると麦振舞は本来、往古本宮祭(旧暦9月28日)の神輿供奉の者達に饗すご馳走で、大住郡内四之宮、真土田村、長沼の各村に及ぶ広域な神領内の神輿渡御に加わる供奉者「仕丁」達の体力を養う「力飯」である。これが旧暦5月5日に斎行される国府祭に参加する神輿渡御に取り入れられ、麦秋の季節に因んで麦振舞の行事となったといわれるが定かではない。


相模人形芝居 前鳥座

 「前鳥座(さきとりざ)」は四之宮地区に伝承されている人形浄瑠璃芝居で、古くは四之宮人形と呼ばれ相模人形芝居五座の1つである。平塚市では相模人形芝居が大神地区と四之宮地区に伝わっていたが、現存するのはこの前鳥座のみである。前鳥座の歴史は前鳥神社の奉納行事として江戸時代中頃または末期頃から始まったと伝えられる。この人形芝居は宵宮祭の20時30分頃から披露される。
 人形浄瑠璃とは浄瑠璃(三味線の伴奏による語り物)に合わせて人形を操りながら演じる芝居をいい、江戸時代に近松門左衛門と竹本義太夫によって大いに発展した。人形は首(かしら)を胴体部になる肩板に差し込み、これに手と足を付けて衣装を着せ、主遣(おもづか)いが人形の首と右手、左遣いが人形の左手、足遣いが人形の両足を操って演技する。この人形芝居の操作は文楽人形と同じ「三人遣い」で、文楽と比較して異なるところは江戸系の「鉄砲ざし」の技法が伝えられている点である。この鉄砲ざしは遣い手の人形の持ち方によるもので、人形の遣い方があたかも鉄砲打ちが獲物に向かって鉄砲を構える時のような格好になるのでこの名称が生まれたという。首の保有数は51で、名品も数多い。
 『大野誌』によると四之宮に人形芝居が伝わった起源として、江戸時代末期に村の有識者が青年達の悪遊びを心配し、人形でも遣わせたら善導できるだろうと考えて健全娯楽のために人形一式を買い求めたのが始まりらしい。しかし、明治42年(1909年)の四之宮大火によりその記録・首・衣装等を消失したので、確実な年代は断定できない。厚木市教育委員会発行の『文化財調査報告書』第一集・林人形座の項によると、現在判明している一番古い人形の師匠は朝右衛門ぢぢい事「吉田朝右衛門」で、安政3年(1856年)頃にこの村で草鞋をぬいだとあり、四之宮村の人形芝居となったのもこの前後と思われる。朝右衛門は大阪の人で約30年に渡り林・長谷・四之宮等の人形芝居を教え、この人形芝居を「吉田人形」という。四之宮村において指導を受けた者は8人であった。明治16年(1883年)の朝右衛門没後の師匠は、上方から来たともいわれる「吉田三十郎」で、三十郎は舞台熱心で引き抜き早がわりが得意で、ユーモラリストであった。四之宮村へ来たときは「ワカ」という妻と清造という養子があり、三人家族で会所に住んで教えた。三十郎の死後は妻のワカが代わって教え、「人形婆さん」と一般から呼ばれた。ワカは人形の他に義太夫も教えていたが、大正3年(1914年)に没した。この他には吉田辰五郎一派に属した「吉田一堯(いっきょう)」が、1年に1度静岡から小竹(小田原市)を経て四之宮に3ヶ月位滞在して教えていた。一説によると一堯は朝右衛門の死後、つまり三十郎より前に来た師匠ともいわれ、四之宮滞在中に没した。明治40年(1907年)頃に江戸人形芝居の「西川伊左衛門(本名は桑島熊雄)」を四之宮に師匠として迎え、現在の芸風を確立した。芸名は始め吉川清三郎であったが、伊左衛門の後に西川伊三子になった。本来は車人形を遣う説教節であったが、この地へ来て江戸系の人形を教え、この教えが現在の下中座・長谷座・林座・前鳥座・足柄座に受け継がれている。

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舞台の準備が・・・着々と進み・・・
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いよいよ開幕前鳥座についての説明
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浄瑠璃の準備が整い・・・いよいよ・・・
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人形が登場4体の人形が出揃う
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終盤に差し掛かり・・・浄瑠璃も力が入る

 昭和4年(1929年)の昭和恐慌に見舞われ四之宮の地でも人形芝居どころではなく、首・衣装を始め一切を焼き払ってしまおうと相談さえするような深刻な事態となったが、結局は各家に分散して保管して人形遣いを休止した。以来、四之宮の人形芝居は全く忘却されていたが、下中・長谷・林などの人形芝居の復興に関連して、昭和27年(1952年)12月に神奈川県文化財専門委員永田衡吉氏の四之宮来訪が端緒となり、人形連中と中郡大野町当局の熱心な協力のもとに郷土芸能として再興された。
 昭和31年(1956年)の中郡大野町と平塚市の合併にあたってはこの人形座の保存育成が条件の一つとされ、翌昭和32年(1957年)に当時の市長戸川貞雄が地区の鎮守で延喜式内社「先鳥神社」と、古い郷名である「前取郷」にちなんで「前鳥座」と命名された。さらに下中座より小澤彌太郎・小澤考藏の両氏を招いて指導を受け、昭和33年(1958年)5月27日に平塚市の無形文化財に指定された。しかし、指導者である長老の死や高度経済成長政策による都市化の影響によって青年層の娯楽に対する関心が変わり、また、多くの多角経営の農家の仕事に追われて座員は人形芝居どころではなくなり休止の状態となった。このため、平塚市教育委員会から活動停止状態では重要文化財の指定の解除をする旨の線が打ち出されたが、これを憂えた平野博・今泉義廣氏などは平塚市役所の職員の有志を以って継承させることを市教育委員会に訴え、指定取り消しを回避した。
 昭和35年(1960年)にこの平塚市役所職員15人の有志により発足した前鳥座の構成は、座長と副座長を旧座員である地元に委ねた。以来、昭和42年10月に至るまでの7年間その伝統を守り、再び復帰した旧座員に前鳥座を引き継ぎ、座員であった市職員は新たに平塚市役所文学部を結成した。復興した前鳥座は下中座の小澤考藏氏の指導により技を高め、倍旧する公演活動を行い、昭和57年(1982年)2月9日には神奈川県の無形民俗文化財の指定を受けるまでになった。


式年大祭

 神社本庁から献幣使を迎え、氏子崇敬者の参列の元に大祭式典を斎行する。

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境内に準備された神籬境内に関係者が集まる
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社務所から・・・宮司が登場し・・・
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神籬に向かう
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式典が始まる祝詞奏上
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榊を持ち出す
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献幣使?をお祓い
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宮司をお祓い巫女をお祓い
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役員関係者をお祓い榊を戻す
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宮司が神籬を後にし社殿に向かう

 

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献幣使?も後に続く社殿に到着
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関係者も続々と・・・社殿に向かう
2008.9.282008.9.28
太鼓の合図で・・・神事が始まる
2008.9.282008.9.28
太鼓の合図で神事が終了宮司が社殿を発ち・・・
2008.9.282008.9.28
社務所へ戻る関係者も社殿を出る
2008.9.282008.9.28
御神酒をコップに注ぎ・・・配る
2008.9.282008.9.28
関係者にも御神酒を配り乾杯

 式典の後は11時30分頃から「神輿渡御」が行われる。
 かつては祭りの当日をホンミヤ(本祭)といい、神主(宮司)が祝詞をあげてから神輿が渡御した。境内には露店が出たり、余興として愛甲・厚木・茅ヶ崎の円蔵方面から神楽師を呼んで神楽が奉納されたり、厚木・秦野から芝居師をよんで芝居が演じられるなど大変賑わったという。次に昭和33年(1958年)の『大野誌』に記述されている例祭日について紹介する。
 例祭日9月28日に神輿渡御があり、例祭執行後に発輿祭執行の上、氏子の青年により大太鼓・社銘旗を先頭に、神職・氏子総代・大字総代・町代・奉賛会役員などが前後に供奉して、氏子一円を渡御する。字大会原、合併神社、日枝神社跡地に高竹四本を立てて注連縄を張り、神輿を安置して神饌数台を供し、天下泰平・村内安全・五穀豊穣の祈願を行う。これより神社参道に入り粛々と進んで神戸橋まで至る。(これより奏楽)神戸橋より供奉の者が両側に整列して神輿と共に前進し、神職氏子総代代表上下着してその中央に進み先導、なお警護として終戦時までは当年徴兵適齢期の若衆十数人(現在もその年齢者)が上古服裃を着し、両側にそろって進み鳥居前に至ると神輿に木綿(白のサラシ)長さ一反を結びつけ、その先端を神職と裃の氏子総代2人にが持ち拝殿まで誘導する。この布を「前の綱」という。拝殿の前まで至れば総代以下供奉全員警護共新薦を両側に敷き、平伏して神輿拝殿前で着御となる。着御と同時に撒餅式(サジキより切餅を撒くこと)をなす。


神賑行事

 大祭日の18時からは氏子・崇敬者有志による奉納演芸が開演され、「三番叟」・「浦安の舞」・「前鳥音頭」・「先鳥囃子」が披露される。

前鳥囃子(平塚市重要文化財)

 「前鳥囃子」は江戸時代中期より継承されたといわれる囃子で、神社名をもって前鳥囃子と称している。曲目から類推して隣地の「田村ばやし」が直接・間接的に基流となっているといわれるが、確かな証拠はない。田村ばやしと前鳥囃子の差異は、田村ばやしが主に屋台で演奏されるのに対し、前鳥囃子は里神楽に合わせて演じられる点である。また古老談によると、江戸の住人「松之市」が平塚宿に逗留した際に近辺の人々に江戸囃子を伝授したという。
 明治42年(1909年)の四之宮大火では当時個人宅に保管していた面・衣装・古文書などが失われ、火事の後は村の復興のために囃子と仮面芸は中断を余儀なくされた。大正5年(1916年)に復活して細々ながら継承されてきた前鳥囃子だったが、昭和31年(1956年)の大野町と平塚市の合併に伴う急激な営農の変化により、後継者の育成もままならず一時期は全曲を聞くことがことができないほど衰退した。しかしながら、前鳥神社の鎮座1600年祭である昭和43年(1968年)を契機に祭り囃子復活の気運が高まり、祭り囃子全曲と共に里神楽も復活し、前鳥囃子として公開された。昭和49年(1974年)7月には「前鳥囃子太鼓保存会」が発足し、地元住民の熱意により後継者の育成が図られた。一方、里神楽は今泉義廣氏の指導により、太鼓保存会員のへの育成が図られ、四之宮の伝統文化として復活した。
 昭和52年(1977年)7月には八幡八坂神社囃子太鼓保存会の新人育成に参加し、八幡でも笛が吹かれるようになっている。保存会の活動が軌道に乗った昭和54年(1979年)から3年間、栃木県小山市で行われた「関東郷土おはやしコンクール大会」に参加し、昭和56年(1981年)の時には子供連も参加した。前鳥囃子は昭和61年(1986年)1月24日に平塚市重要文化財(無形:民俗)に指定され、昭和62年(1987年)には茅ケ崎市中島日枝神社中島太鼓同好会の新人育成に参加した。平成2年(1990年)には「前鳥囃子太鼓保存会」から「前鳥神社囃子太鼓保存会」へ名称を改称して現在に至っている。
 現在の楽器構成は大胴1・附け4・笛1・鉦1であるが、祭礼時の演奏形態は附け2でありこれが本来の構成と思われる。現存する曲目は下表の9曲であり、曲は祭りの進行に合わせて編曲されたといわれ、笛のリードによって曲の転換がなされる。前鳥囃子の9曲を説明すると、祭りの進行に合わせて編曲されていることが分かる。前鳥囃子は平成4年(1992年)11月にビデオ撮影が行われ、平成9年(1997年)には平塚市文化財調査による採譜調査(譜面作成)が行われている。

前鳥囃子の曲目
曲名解説
屋台
(やたい)
神輿で村内を巡行する神霊の送迎曲、神霊を勇める曲ともいわれる。附けの「ぶっ込み」から始まり、祭り囃子の代表的な曲。四之宮では通称「はやし」という。
宮昇殿
()
屋台と同様に行道の曲といわれ、村内巡行の神霊が神社に近づいたことを知らせると同時に、巡行の労を犒い神霊を勇める曲ともいわれる。
昇殿
(しょうでん)
神霊の宮入りを告げる曲で、宮入りの無事を促す曲ともいわれる。
神田丸
(かんだまる)
神霊が宮入りする時に留守居の客人神(まろうど)、または土地神が迎える曲といわれる。
唐楽
(とうがく)
献饌の曲で神霊の鎮魂曲といわれる。
鎌倉
(かまくら)
神霊に対する余興楽で應神天皇の出生を喜ぶ舞が奉納され、この舞は本来神官が演ずるものだといわれる。笛による子守唄が入る。
仕丁舞
(しちょうめ)
神霊を宿した神輿の担ぎ手である仕丁達の舞曲で、無事に神霊を宮居に奉祀した後の解放感に溢れる曲といわれる。「しっちょうめ」ともいう。曲の途中で「珠入れ(たまいれ)」とう大間が入る。
印場
(にんば)
俗にいう「ばかばやし」で、祭りの一切が終わり屋台の帰路に叩かれる。
きざみ屋台のうちの継ぎの曲であるが、前鳥囃子では打ち止めの曲で一曲に数えられている。

山田鉄五郎 (前鳥囃子と笛の伝承者)

 ここでは昭和61年(1986年)に発行された『前鳥囃子と笛の伝承者』の中で紹介されている、笛の伝承者であった「山田鉄五郎」について記載する。鉄五郎は昭和61年(1986年)に「前鳥囃子」が平塚市重要文化財に指定された時のただ一人の笛の伝承者で、当時は85歳で70余年ものあいだ笛を吹き続けてきた。
 鉄五郎は明治34年(1901年)3月19日に神奈川県中郡大野町四之宮939番地で飯野秀吉とタイの三男として生まれ、昭和3年(1928年)10月24日に山田金太郎の三女であったクラと婚姻婿養子縁組をした。姓は飯野から山田に変わり、五男三女の子宝に恵まれた。
 鉄五郎の少年時代は太鼓の叩き手が多く、その上餓鬼大将が幅をきかせていたので順番の”撥(ばち)”が回ってきても、まごまごしていると撥をひったくられてしまい滅多に叩くことが出来なかったという。「こんなことぢゃあーばかばかしいから笛をふくことにした、笛ならいくたりでやってもひったくられるこたねえからなー。」13歳の鉄五郎は「おれは太鼓(テエーコ)たたかねえー、そのかわり笛をみっちり覚えるんだ。」そう決心したという。この頃は四之宮にも”長島乙二郎”という笛の名人がいたが、駿河銀行の「るしい」に行ってしまった為に教わることが出来ず、辻を超えて真土の明治5年(1872年)5月5日生まれの”山田長五郎(通称黒長さん)”に師事することにしたという。
 黒長さんは渾名の通り大柄な黒い人だったといい、この人に「笛を教えてもらいてー。」と頼みに行ったところ、「どうだあーおめえ、しめえまで通えるか。」と念を押され、「四之宮から何人も来られるが、しめえまで来た人がねえー。しめえまで来るなら教えてやんべー。しめえまでこれなきゃあーだめだ。」と言われたという。そこで「しめえまで来るから教えてくれ。」と一生懸命頼み込んで、漸く引き受けてもらったという。鉄五郎は農繁期は練習を休んだようであるが、「そのかわり行始めたら、きめられた時季にやあー雨が降ろうが何が何でも通い通したよ」と語っており、まる3年通い通して漸く一通りを覚えたと言われる。
 一番最初に「宮昇殿」と「屋台」を教わるが、大抵の者がここから来なくなってしまうと言われる。鉄五郎は「まあ1年かな。これが常識のようだ。しかしわしは一生懸命通った」と何回も繰り返した。当時は「ガンド場(現在の通町)」から真土の黒長さんまで家が一軒もなかったので、暗い夜道は非常に寂しかったという。この夜道を習い覚えた笛を吹きながら通いとおした、飯野少年の姿が偲ばれる。
 前鳥囃子を一通り出来る人は数少ないといわれ、鉄五郎から聞いた名前を記述すると次の方々である。

 長嶋乙次郎 慶應元年(1865年)6月26日生 四之宮610番地
 飯野惣太郎 明治7年(1874年)1月30日生 四之宮750番地
 飯野音次郎 明治19年(1886年)2月11日生 四之宮713番地
 相原 酉三 明治30年(1897年)1月8日生 四之宮851番地
 長島 重治 明治32年(1899年)12月14日生 四之宮932番地
 諸伏喜太郎 明治33年(1900年)11月11日生 四之宮752番地
 田辺 定吉 明治37年(1904年)9月9日生 四之宮932番地
 高梨 銀作 明治39年(1906年)10月24日生 四之宮911番地
 高梨 寿  明治41年(1908年)3月10日生 四之宮799番地
 飯野 惣吉 明治41年(1908年)11月21日生 四之宮750番地

 この本の著者である相原一郎氏の父親の相原酉三も笛をやっていたようで、子供の頃によく口ずさんでいるのを聞いたという。鉄五郎は相原酉三の次の世代の伝承者で、後継者の育成にも勤め、自分の町内の後輩に引き継ぎたいと言うことで、高梨寿・高梨銀作の両氏に伝授したが、早く他界したことを非常に残念がっていた。多くの人に教えたが一通り吹ける只一人の後継者は高梨晴吉だけで、鉄五郎の期待も大きかった。
 鉄五郎が頼まれて笛を吹きに行った範囲は相当広い範囲に渡っており、四之宮が教えた戸田の中分は勿論のこと、近在では春日神社八坂神社八幡宮岡崎豊田、小山、寒川一之宮、小田原などあらゆる祭りに行ったという。また、関東地区の「おはやしコンクール」にも出場したという。
 鉄五郎は男竹と女竹の笛を持っていたが、愛用していたいのは男竹の方であった。女竹の笛は遠音がたたず、男竹の笛は遠音がきくので、祭り囃子の笛は男竹に限ると語っていた。また、鉄五郎は自分で笛も作り、自作の男竹の笛を愛用していた。


里神楽

 四之宮に伝承されている仮面芸の里神楽については、江戸時代中期頃より江戸文化の影響を受けて発祥したといわれる。四之宮の里神楽は囃子と同様に一時期衰退したが、平塚市中原在住の舞の研究者である今泉義廣氏の指導によって復活した。この里神楽では踵をやや上げ爪先立ちで、膝をバネとして調子をとり、手を陰陽に所作するなどは江戸系であると見られる。一方で手振りについては四之宮地区でいう「ナンバ」、即ち右手右足、左手左足の同一歩行動作は、明治以前の農民の農耕動作であり、江戸系の所作の残滓は足だけであるといえる。このナンバは農民が踊りやすいように変化したと考えられ、踊り手に聞くと曲に合い踊りやすいという。
 次に基本の型であるが、見様見真似で伝承したということではなく、きっちりした型を教えていたことは注目に値する。現在残る型としては「男舞」・「女舞」・「猿田彦」・「天狗」・「狐」があり、さらに「笑い」・「泣き」・「びっくり」・「よろけ」・「よっぱらい」・「けんけん」・「けんけん飛び」・「飛行」・「いばる」などがあり、秘伝として「指し扇」がある。前鳥囃子の里神楽はこれらの型を組み合わせて演目を構成している。また、印場のおかめとひょっとこは祭りの終わりに氏子の疲れを鼓舞するために演じられた「ばかおどり」が元で、後に仮面をつけるようになり形式化され、独立した踊りとして神楽殿で奉納されるようになった。この里神楽は江戸の庶民芸を四之宮の農民芸にしたため消滅することなく継承されたものと言われる。以下に演目を記す。

里神楽の演目
演目曲名
猿田彦と天狗(現在は恵比寿)鎌倉
天狗と狐仕丁舞
おかめ(お多福)と塩吹き(ひょっとこ)印場

神輿

 前鳥神社の神輿は文久元年(1861年)4月28日に大山の大工「手中明王太郎景元」によって造られた。大山で完成した神輿は四之宮村まで担いで運ばれ、翌4月29日には前鳥神社境内にてめでたく御棟祭が行われている。景元はこのとき満41歳で最も腕のたつときであり、円熟した腕を存分にふるって生涯の中でも傑作の神輿を残すに至った。
 建造後21年が経った明治15年(1882年)6月1日に、同じく明王太郎により修理が行われた。小破の箇所の修理、前面漆塗り直し、錺(かざり)金物の箔置き直しが行われ、そのときの修理棟札が今も神輿に付いている。昭和56年(1981)9月には小田原市中村原の梅沢流神輿師により大修理が行われ、塗り直されて神輿は再び新しくなった。
 この神輿の前には形と造りが全く同じもので更に一回り大型の別の神輿があったが、文久元年(1861年)に曽屋村の曽屋神社へ譲渡された。

●文久元年の棟札
 新造時の神輿の棟札が現在も真柱に取り付けられていて、その銘文が当時の様子を物語ってくれる。まず、棟札の主文「奉新造前鳥神社御輿天津祝詞氏子安全祈攸」と記されており、前鳥神社にはそれまでに神輿があったがその修理ではなく、新しく神輿を建造したものである。裏面に「于時文久元稔辛酉四月下旬造之」とあり、神輿の建造年月が明らかにされる。江戸幕府が終焉を迎えようとする歴史の大転換期の文久元年に神輿は造られたのであった。棟札の表を見ると右上に「雪霜山神光寺鏡智院」とあり、この寺院は前鳥神社の別当寺として祭事・社務を司っていた。神仏分離令のとき別当は神職となり、祭事を継承したのであった。
 棟札の下段に記されている新倉杢左衛門・坂部惣右衛門たち4人の名主は神輿の普請の立て役者で、特に新倉杢左衛門は世話役の筆頭として活躍したことが『明王太郎日記』に記されている。この神輿を造るには巨額の資金が入用で、その大金を用意したこれら名主と四之宮村は裕福であったと思われる。名主の横には大工棟梁・塗師・仏師・錺方の4職人の名前が並んでいて、大工1人が造ったのではなく4職人が専門とするところを受け持ち、分業で神輿建造に取り組み完成させたことが分かる。
 大工は阿夫利山棟梁手中明王太郎忌部影元とあり、神輿の木地方と彫刻を担当し、また他の3職人のまとめ役でもあった。神輿の木地が出来上がると塗師の出番であり、阿夫利山の塗師原田平陸が漆塗りをし、地元新土村の仏師福田藤吉が彫刻や組物などに箔置きを行った。そして伊勢原村の錺方山田伊兵衛が錺金物を作ったのである。

●神輿請負仕様書
 四之宮村の神輿世話人と請け負った職人との間で神輿建造の請負証文と仕様書が取り交わされ、請負仕様書は4通あり大工・塗師・仏師・錺師の各々のものがある。江戸時代のことではあるが神輿の請負を一括契約とはせずに、各職人ごとに請負証文をつくり、きちんとした契約に基づいて仕事を請け負った。これらの請負仕様書には神輿建造の詳細な仕様が記されており、次に4つの資料を順に見ていく。
 木地方法書の内容を見ると、まず冒頭部分に「酉年四月廿八日に目出たく神輿相渡し候」とあることから、この記録は神輿完成後に書き写したものであると思われる。同じく冒頭には「元年申す九月より諸事始り」とあり、万延元年申9月より神輿の諸事が始まり、請負から完成までが6ヶ月半と実に短期である。木地の使用を見てみると、まず柱間(はしらま)が二尺一寸の寸法となっている。様式は軒が二軒扇垂木、三十軒付、そして八支掛け三手先の組物、間柱は八角柱、丸柱が二重柱(添柱)造り、須弥台輪付きなどとなっている。特に注目されるのは露盤の記述で「二重側にギヤマン板を張り」とあり、当時貴重なギヤマン板(ガラス板)を露盤に使った珍しい構造となっている。使用する木材も記されており、構造材の柱・長押・頭貫・箱台輪などに丈夫な欅を用い、また垂木・組物・井垣(いがき)などに朴(ほお)を使い、屋根板に檜板を使用している。
 仕様書の後半は彫刻の請負の内容が載っている。明王太郎は宮大工であるが、彫刻も請け負い腕をふるった。彫刻はずれも籠彫(かごほり)で、朴木と桜木が使われている。特筆するのは「覆盤入側、四隅柱野筋に添え目貫龍(めぬきりゅう)の彫刻、四疋」と記されており、前鳥神社神輿のシンボルである屋根の上の目貫龍の彫刻が仕様書上に明記されている。頭貫木鼻の彫刻は獅子頭が普通であるが、この神輿は「獅子頭−牡丹まり獅子籠彫、八頭」と記されているように、獅子頭に牡丹の花と鞠(まり)が添えてあって、手のいった細工を施している。腰羽目の彫刻として「波に犀(さい)」と記されており、犀は江戸時代には想像上の動物であった。この神輿の犀の彫刻はまず体が馬のようで、背中に亀の甲羅を背負い、頭に一本の角を持ち、波間にいる。すなわち時代ものの彫刻である。
 神輿の建造にたずさわった塗師・仏師・錺師の三職人の仕様書は『明王太郎日記』に記録されており、順に見ていく。
 まず、塗師方の請負契約は大山町の原田平陸との間で結ばれた。仕様書には屋根と台輪に「布着せ堅地蝋?色(かたじろいろ)」と黒漆の中でも最上のものが指定されている。丸柱は「白檀塗」であったが、昭和の修理で金箔置きに変わった。唐戸周りの幣軸の塗仕様は「幣軸平?色、面梨子地」と指定してあり、幣軸(へいじく)は蝋色塗とし、面取りした部分は梨子地塗(なしじぬり)となっていて品のある塗仕様である。
 次に仏師方の請負証文を見てみる。仏師は棟札に新土村福田藤吉とあり、四之宮の隣村の職人である。神輿の彫刻や組物に金箔を押す仕事をし、使用した金箔は2800枚と多量の箔を用いる契約内容となっている。日頃、仏像彫刻を手がけ、仕上げの箔押しは得意とする業であり、その腕をかわれて神輿の仕事に加わった。金箔2800枚を平面に並べると1枚が三寸四分の大きさとして30u(畳18枚分)の広さとなり、用いた金箔が多いように金色に輝く神輿となった。
 錺金物の請負契約は文久元年3月1日に伊勢原村山田伊兵衛との間で結ばれ、鳳凰・屋根大紋・風鐸・台輪隅貝折金物などの多数の錺金物が作られた。証文の文面に「先造仕様の通り、地金細工等相違請など仕る間敷く候」とあることこから、旧神輿の金物そっくりに造られたようである。

●神輿の請負金
 四職人が請け負った代金はそれぞれ次ぎのようになっており、合計一四九両一分となった。錺金物が五十両と四職人の中で一番高額な請負代金となっている。
   ・木地と彫刻代金・・・四十五両
   ・塗師方代金・・・二十四両
   ・仏師方代金・・・三十両一分
   ・錺金物代金・・・五十両
 意外なのは大工の請負代金で、木地(塗り前の素木の神輿)と彫刻の両方を合わせて金四十五両で請け負っている。この額は神輿全体の代金の30%に相当するが、これが神輿本体の代金であり、残りの70%が錺や塗りなどである。神輿は一般的に木地本体よりも漆塗りや装飾にコストがかかる。

●神輿建造の様子
 大工明王太郎景元は前鳥神社の神輿建造の様子を万延2年(文久元年)の日記に詳しく書き記した。まず驚かされるのが仕事の早さである。請負契約は万延元年10月に行われたが、実質的な仕事の開始は万延2年1月17日の神輿の形尺杖の細工からで、この初期段階から3ヶ月半後の同年4月28日には完成し神輿を引き渡している。短期間に仕上げたにもかかわらず、この神輿は景元の名作となった。更に驚くのは同じ時期に伊勢原の大山寺大堂の普請を行っていて、明王太郎は大工棟梁として忙しい日々を送っていたことが日記に書き記されている。従って雨天の時など、寺院造営の仕事の手があけばきまって神輿の仕事に励んだ。
 仕事の進め方で注目する点がいくつか日記に書かれており、それは形尺杖・形板・扇垂木形などの形(かた)の作成が頻繁に出てくることで、仕事の半分は形作りであるかのようにさえ見える。続いて墨掛けや木取りの仕事もよく出てくる。神輿や寺院の建築にはそういった仕事が、大工の実際の重要な仕事となっていたことが窺える。正月20日の記録は大工が木割に従って仕事をしていることが書かれている。例えば「化粧垂木、但し三十二枝に定め割也」と記してあり、垂木の三十二枝掛は明王太郎の標準的な木割手法となっていた。
 日記に「四月二十八日、四之宮村前鳥明神御輿いよいよ皆出来に相成り」とあるように、漆塗りの最適時に神輿は完成した。

●神輿の特色
 露盤宝珠は他の明王太郎神輿には見られない、この神輿のみの特色ある造りとなっている。一般に神輿の宝形屋根の頂上には露盤と呼ばれる四角い箱型の台が取り付けられ、その露盤の上には鳳凰が載っていることが多く、地域によっては宝珠が載っている神輿もある。前鳥神社神輿は特別に工夫が施され、その両者が取り付けられた。即ち、瑞鳥の鳳凰と願いを叶えてくれる如意宝珠の大事なもの2つが、屋根の頂点の1箇所に取り付けられた。宝珠については他では見られない特別な構造になっており、露盤を形づくる4本の柱が2重に組まれ、中心に球形の宝珠が安置されている。更に内側の柱間にはギヤマン(硝子)が嵌められていて、宝珠を保護すると共に、透明な硝子を通して外から金色に輝く如意宝珠を拝することができるようになっている。
 野筋龍の彫刻がこの神輿のシンボルとなっている。神輿の屋根の頂上から四方の蕨手に向かって4本の野筋が伸びており、その野筋の上に4頭の龍が露盤の如意宝珠を護るような形で配してある。龍は籠彫の彫刻で精緻に彫られ、玉眼入り、朱の炎を吹き、人目を引く。その意味でこの龍を目貫龍(めぬきりゅう)と明王太郎が呼んでいる。野筋に目貫龍のある神輿は全国的にも珍しく、神奈川県内では数件見られるが、いずれも明王太郎作の神輿となっている。しかも、製作年代を調べると前鳥神輿が最も古く、即ち最初に前鳥神輿の野筋に目貫龍が取り付けられ、その後に明王太郎自らの手で他の特定の神輿にも取り付けられた。

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大人神輿
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子供神輿境内に並ぶ2基の神輿

さきとり幼稚園の子共神輿

 例大祭の9時過ぎ頃にはさきとり幼稚園の園児によって、境内や参道で2基の子共神輿が担がれる。始めは参道横の待機所を出発し、鳥居を潜って社殿前で輿を降ろす。そこで担ぎ手が交代し、再び待機所へ向かって神輿が担がれる。これを何往復かした後に、11時近くになってさきとり幼稚園へ戻る。

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子供神輿は・・・2基
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大鳥は稲穂をくわえる園児待機所に揃う2基の神輿
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待機所を出発社殿を目指す
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階段はゆっくり境内を進む
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社殿前に到着し・・・輿を降ろす
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園児は帽子を脱ぎ・・・礼儀正しく2拝2拍手1拝
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再び神輿を担ぎ・・・今度は鳥居を目指す
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鳥居を潜る親たちは撮影に大忙し
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待機所に到着青年会の方にお礼を言う
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渡御が終わると幼稚園に戻る
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神輿をしまうと・・・青年会は神社へ戻る

神輿渡御

 

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式典中に神輿を社殿前に移動神輿の写真撮影
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氏子青年会で記念撮影宮世話人で記念撮影
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神籬の準備注連縄を回し紙垂を付ける
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鈴を巻き付ける今年は稲穂をくわえる

 

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輿棒に就き・・・神輿を担ぎ上げる
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太鼓に先導されて・・・宮立ち
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櫓前まで進み・・・神楽殿の方へそれる
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境内を練りながら・・・一周回る
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境内を離れ・・・社殿を横切り・・・
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櫓の横を通過裏の鳥居を目指す
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太鼓が先に・・・鳥居を通過
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外では神輿用のトラックが移動神輿もいよいよ・・・
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鳥居を・・・潜る

 

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宮立ちした神輿が・・・町内を進む
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前方にはトラックが待機山車では太鼓が囃す
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大勢のカメラマンお賽銭をもらう
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町内を練る神輿トラックでは神輿を待つ
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神輿がトラックの後方に到着輿を降ろす
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さらしを緩める楔を抜く
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輿棒を抜き・・・後方に移動
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輿棒をひっくり返し後方から差し込む
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トラックの準備が整い・・・神輿に近づける
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輿棒に就き・・・担ぎ上げ・・・
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トラックに載せる輿棒を抜く
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短い輿棒を入れる馬と輿棒はトラックへ
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交通指導車に先導され・・・山車と・・・
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太鼓が出発神輿と・・・
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輿棒も続く担ぎ手は神社へ戻る

 かつては各町内に1ヵ所ずつ神輿が休むお旅所を作り、お神酒を供えた。このことを町内御神酒といい、各町内ではこのお酒をふるまったという。

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下郷神酒所(旧二徳運輸倉庫)倉庫には馬と輿棒が
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神輿を待つ中・・・太鼓のトラック山車が到着
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太鼓のトラックも到着道路脇に待機
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いよいよ・・・神輿が到着
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短い輿棒を抜き・・・長い輿棒を入れる
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神輿を少しずらし・・・輿棒を深く入れる
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神輿を担ぎ上げ・・・トラックから降ろす
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輿を降ろすトラックを神酒所から出し・・・
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神輿を中央へ移動再び輿を降ろす
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後方から輿棒を抜き・・・前から入れる
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輿棒を固定し・・・さらしを締めていく
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鈴を取り付ける神籬を設置し準備完了
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消防車が到着神輿の友好団体が・・・
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続々と到着テントで食事を取る
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アナウンスが入り・・・神輿の周りに関係者が整列
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太鼓の合図で・・・式典が始まる
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宮司をお祓い氏子をお祓い
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友好団体をお祓い消防団をお祓い
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玉串奉奠
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友好団体に襷を渡す一本締め
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いよいよ・・・担ぎ渡御が始まる
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太鼓に先導され・・・神主が続く
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消防団に誘導され神輿が出発
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町内を練る
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トラック山車が先導し・・・最後尾には消防車がつく

神輿宮入り神事(平塚市重要文化財)

 「神輿宮入神事」は昭和54年(1979年)に平塚市の重要文化財に指定された。
 神社を出発した神輿が氏子圏である各町内を渡御した後、夕刻、奏楽の響く中を神社へ向かい、鳥居の手前で待ち受けている氏子総代が、その神輿に白絹でつくった「奠(でん)の綱」と呼ばれる神を導く綱をつけて社殿まで誘導して終わる。
 祭り日の翌日をハチハライといい、祭りの後片付けを行う。


青年会

 青年会が集まって「大野町青年団」になり、16歳から入会し30歳位までの人が加入していた。これに入ると一人前に認められ、村役に親の代理で行くことができた。入会の手続きはお宮で仲間入りし、加入者が呼ばれて会員に紹介された。村に住む16歳は全員加入し、年になると自然脱会した。
 その後は戦争中に会員が少なくなり「青壮年」となり、お宮の祭りはこの青壮年が行った。


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