小鍋島こなべじま

神社の紹介

 小鍋島の鎮守である「八幡神社」の旧称は「八幡宮」で、社殿の建立年代を示す資料はないが、17世紀後半のものと推定される。天保12年(1841年)完成の『新編相模国風土記稿』には小鍋島村の鎮守を「八幡宮」としており、神躰は青石(長六寸許、梵字を彫れり)で、神楽殿があり、鐘楼には享保18年(1733年)の鋳鐘を掛けていた。末社には「金比羅」、「稲荷」・「天王」・「秋葉」・「天神」・「疱瘡神」合祀があり、別当は東福寺(鶴林山と号す)であった。小鍋島にはこの他に小名城東の鎮守であった「三能社」があり、祭神は不詳だが、例祭は4月5日で、沼目村の真福寺持ちであった。小鍋島村にはこの他に村持ちの「浮島辨天社」、「社宮神社」、「第六天社」、「諏訪社」、「神明社」があった。
 大正初期から中期頃までは八幡神社のほかに、長島に「弁天さん」と城東に「山王さん(天王さん)」の両社があったが、当時合併せざるをえなくなり2社共に八幡神社に合祀した。しかし城東では戸主にあたる人が2・3人死ぬという事態が生じ、これは崇りであると考えられ独自に山王さんを祀ってきている。
 当社では神社合祀にあたり次のような伝承がみられる。「弁天様」と「山王様」を合祀する際に、2社のオミタマを絶対に人に見せないようにした。先に神社合祀をした伊勢原市内のある神社から小さい神輿を拝借し、夜中の丑の刻に全ての明かりを消した暗闇の中で、神主がその神輿の中に弁天様と山王様のオミタマを入れた。神主も見てはいけないので目隠しをし、手探り状態でかつ息をかけないように布で口を塞いだ。オミタマの入った神輿を若い衆が担いで八幡神社へ運び、神主が真暗闇の中で手探りでオミタマを取り出し移したという。その後、戸主が2・3人続いて死去したので、「山王様の祟りだ」ということで元の場所に戻して祀っている。

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八幡神社鳥居
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拝殿幣殿・覆殿
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神楽殿
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境内

例大祭

 天保12年(1841年)完成の『新編相模国風土記稿』によれば例祭日は旧暦の8月15日であったが、その後は大正時代の中頃まで9月15日であった。さらに上記2社の合併に伴い、当時近隣のムラでも祭礼日になっていなかった4月6日に変更したが、昭和後半頃から4月第1日曜日になっている。
 大祭当日に神社境内に幟を2本立て、ムラ中の人が全員出席して、大神から神主が来て祝詞をあげてもらう。宮総代は祭りの時に神社境内に露天商が出たので、彼らの監督をして帰るまでニワ番をしたり、神社の屋根を葺き替えるための真茅を刈りに行ったという。その費用はかつて神社が現在の公民館のあたりに土地を所有していたので、その土地を貸して得た小作料をその費用にあてたという。

太鼓

 芝居の幕間には太鼓連が太鼓を叩いた。太鼓は青年団が境内に櫓を組み、その上で叩いた。また「つきあい祭り」といって、城所 大島下島から太鼓を持ち寄り、四地区の太鼓連が叩き合った。互いの祭りに寿司や重箱を持って行った。
 太鼓は昭和の後半に一時途絶えたが、平成4年(1992年)頃に若い人が中心になって太鼓保存会ができた。太鼓は城所の人に教わり、同時にトラック山車2台を作った。曲名は通称「バカ囃子」だという。太鼓保存会は宮の運営とは独立しており、子供会の父兄が中心になる。


神輿

 車の付いた樽神輿は平成8、9年(1996、97年)に太鼓保存会が手作りで作ったという。


小鍋島の歴史と氏子組織

 小鍋島はかつて小鍋島草分け十九軒などといわれた。天保12年(1841年)完成の『新編相模国風土記稿』には戸数70、『皇国地誌』では本籍平民73戸で人口488人、大正7年(1918年)の『城島村々勢要覧』では八幡神社の氏子数75戸と、江戸時代から戸数はあまり増えていないことが分かる。第二次世界大戦後しばらくは80〜90戸の時代が続き、平成16年(2004年)1月の世帯数は403戸、人口は1204人である。
 『風土記稿』の小鍋島村の小名には「長嶋」と「城東」が記されている。集落としては村の北西にあり、城所と接しているところにある10戸余りの城東(きっとう)、さらに北部の大山道と糟屋道の交差するあたりの三戸ばかりを指す長嶋(ながじま)が区分されている。城東は小鍋島の元祖であるともいわれ、昔、小鍋島のお宮の近くにあった秋山家の分かれの人が住み始めたから秋山姓ばかりであるといわれている。古くは6軒で、その後は10軒になり、近年は42軒に増加している。長嶋は3軒だったが、近年は2軒に減少している。
 小鍋島の古くからの家々は10組のトナリグミに分かれていた。カミには北(キタ)・袋(フクロ)・西(ニシ)・南河内(ミナゴウチ)の組があり、ナカは中(ナカ)・小橋(コバシ)・小境(コザカイ)があり、シモは東と西に分かれ、城東は一組であった。長島は北の組に入る。こうした組が講中の範囲と重なる場合もあった。小鍋島の区分として道普請、道の草刈り、ホリザライ(セギザライ)あるいはモクとりなどを行う際の区分は上(かみ)・中(なか)・下(しも)・城東である。(中略)公民館付近の中という区分はこのような賦役などの区分として用いられるが、現在の自治会あるいは諸組合の場合にはこの区分は使われない。公民館を境に北が上、南が下に分けられ、その際に城東は下に入る。城東の人たちは昔は八幡社のそばに屋敷を持っていたので、下の付き合いをするという。ここは現在は城東の人達の所有する畑になっており、元屋敷といわれる。現在は小鍋島全体で41組の隣組がある。
 宮総代はカミ・ナカ・シモ・城東から各1名ずつ出していたが、その後はナカを2つに分けたので5名となった。一時期、秋山常吉氏宅を社務所にしたことがあり、その時に秋山氏を総代に加えて6名になったことがある。宮総代の任期は2年であった。現在の宮総代は7人で、カミ3人、ナカ2人、シモ1人、城東1で、1期4年で交代する。この他に自治会から宮の世話人として16人いて、2〜3組から1人の割合で出している。選出はいずれも昔から自治会の総会で決めていて、任期は4年である。祭りには太鼓保存会と女の人が中心の子供会が共同参加で加わる。


青年会

 「青年会」は「青年団」へと変わったが、かなり以前に「匡風会」という会があったという話もある。かつては小学校を卒業すると次三男もすべて加入し、25歳までかあるいは結婚して抜けた。当時は誰もが当然に青年団に加入し、加入したばかりはワカイシュといってはしり使いをさせられたが、聟養子であると年をとってもコワカイシュからつとめた。
 青年団の主な仕事は村の祭礼に関するもので、その他に神社の清掃・道路の修繕などがあった。祭の仕事とは幟立て、提灯の補修、神楽殿の掃除、むしろ集め(桟敷作りに用いる)、神楽役者用の弁当を各家から集めること、役者用の風呂の用意などたくさんあった。青年会の役員が余興として、神楽・芝居などの交渉をして連れてきた。茅ヶ崎の円蔵から神楽師を呼んできて、この神楽師は面をとって芝居もしたという。第二次世界大戦後はやらなくなったという。また、中郡北部10ヶ村の青年団に城島が加わっていた頃は、地区対抗競技を盛んに行っていてた。
 対村外的には城島青年団として4部落が1つになっていた。昭和8年(1933年)当時には120〜130人の団員がいたが、昭和54年(1979年)は2人、翌昭和55年(1980年)は7〜8人であったという。


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