下糟屋しもかすや

高部屋神社

 「高部屋(たかべや)神社」は延長5年(927年)完成、康保4年(967年)施行の『延喜式』の「神名式(延喜式神名帳)」に記載されている相模国13座の1社で、伊勢原市内の延喜式内社としてはこの他に阿夫利神社(大山)と比比多神社(子易三ノ宮が共に論社)が記載されている。由緒によると、創建年代は不詳であるが紀元前660年とも言われており、大住郡127ヶ村の総社と言われていた。糟屋住吉の大神としてまたの名を「住吉大明神」と呼ばれ、武門・武士を始め万民の崇敬を受けた古社である。江戸時代中期頃までは別名「糟屋八幡宮」と呼ばれ、名社の名を謳われた。
 下糟屋に鎮座しているにも関わらず高部屋と名乗る根拠については、高部屋の地に高部屋神社の元宮があったという説があり、平成25年(2013年)2月に高部屋神社の役員により、上粕屋の高部屋地区にある渋田山(渋田川の源流)において2つの祠が発見されている。この場所は古来より高部屋神社所有の飛び地の境内で、この上粕屋の高部屋地区付近一帯は鎌倉時代以前に、糟屋一族の拠点であったと言われている。
 その後は現在の鎮座地より西方600mほどの小名「弥杉(いやすぎ)」(東海大学病院周辺)に遷座し、鎌倉時代に糟屋庄(かすやのしょう)の庄司(しょうじ)であった糟屋氏がみずからの館の近くに移したといわれる。『神祇志料』によると当社がもとこの弥杉にあったのを、のちに現在地に遷祀したものだと記しており、郷土史家の石野瑛氏などもこの説をとっているようである。文明18年(1486年)に上杉定正大般若経函修理等のことがある。下糟屋村の八幡宮は天正19年(1591年)に徳川家康より三之宮村の三宮明神社と同等の十石の朱印状を与えられ、伊勢原市内の神社としては最大の寄進であった。
 天保12年(1841年)完成の『新編相模国風土記稿』によると下糟屋村の鎮守は「八幡宮」で、「當國十三座の内、高部屋神社なり」と記載されていることから、下糟屋に鎮座する八幡宮(現在の高部屋神社)が延喜式内社として認識されている。八幡宮の祭神は次の五座で、中央に應神天皇(神体座像、長二寸、本地佛弥陀)、右に若宮大神(仁徳天皇、神体幣束、下同)と氣長足姫大神(神功皇后)の二座、左に姫宮大神(大日靈貴尊)と住吉大神(表筒男命、中筒男命、底筒男命)の二座であった。末社には「天神」・「稲荷」・「秋葉」・「神明二 内宮 外宮」・「聖天二」・「金毘羅」・「天王」・「水神」があり、「薬師堂」と「観音堂」もあった。更に、『風土記稿』には八幡宮に関して次の記載がされている。

●至徳三年の鐘
 高部屋神社の鐘楼には至徳3年(1386年)に平秀憲が寄進した銅鐘が現存しており、昭和44年(1969年)12月2日に神奈川県の重要文化財に指定されている。鐘に刻まれた銘文には「八幡宮」とあり、この頃には既に高部屋神社ではなく八幡宮と呼ばれていたことが分かる。また、「相州大住郡糟屋庄惣社」とあり、この頃に糟屋庄が大住郡(伊勢原全域、平塚市と秦野市のほぼ全域、厚木市の一部)のどの程度まで及んでいたかは定かではないが、広範囲にわたって崇敬を受けていた神社であることが伺える。伊勢原市内にあった梵鐘・宮鐘の殆どが太平洋戦争の際に供出され、下糟屋の高部屋神社以外の鐘で供出を免れたのは日向の霊山寺(日向薬師)、沼目の天王社、東大竹の八幡神社、下糟屋の大慈寺くらいである。以下に高部屋神社の銘の内容を原文で紹介する。
「 曰、相州大住郡糟屋庄惣社、八幡宮鴻鐘銘、夫当社者、瑞籬最久、威光森明、星霜甚舊、利生倍新、晨晩雲晴、雨排柏城、宵暁月寒、風響宮甍、靈夢靜覺、夜凌五更、鳧鐘待聲、孰驚三聖、因玄?一身微營弘精□、依亡父之宿願、成功□、既醒三熱、眠於棲□寔歸四攝覺於閣遲耳、仰願者、天地長久、國家治世、信心檀那、家門繁昌、息災摯氈A志弘法界、一切群類利益等、願主平秀憲、至徳三年丙寅十二月日、大工河内守國宗、 」

高部屋神社の鐘楼至徳3年(1386)の鐘
高部屋神社梵鐘解説移設前(2007年)

●應永廿八年の石燈籠
 社前に応永28年(1421年)の石燈籠があり、この燈籠は現存していない。以下にその銘の内容を原文で紹介する。
「 銘曰、奉彫造相州糟屋惣社、正一位八幡大菩薩御廟前、石燈籠一基、右意趣者、天地C寧、皇風永扇、殊者同東郡元師身宮安泰、壽算綿延、専祈当庄秋山ク地、及藤原某等、家門繁栄、親屬快樂、天下泰平、國土豊饒者也、應永二十八年九月下旬天、勸進主重先敬白、圖左に載す、 」

●八幡宮の造営
 八幡宮には幣殿と拝殿および神楽殿、圍二丈七寸の槻(欅)の神木があり、華表(鳥居)には神祇伯資延王が書いた神号の額が掛けられていた。当社は天文20年(1550年)9月に地頭渡邉石見守某が造営したとあり、大工は大山の明王太郎が担当した。以下に棟札の内容を原文で記載する。
「 棟札あり、曰、奉造立、大日本國相州大住郡糟屋庄、八幡大菩薩、大檀那、地頭渡邉石見守、小檀那代官、築城太郎左衛門、別当津師賀順、大工明王太郎、本願主得生、鍛冶当村宣朗助次吉次彦右衛門、天文二十年辛亥、九月廿八日、 」

●境内三ヶ條の法度
 天正9年(1581年)5月10日に武蔵国松山城主の上田長則(官位:能登守)により、八幡宮境内における三ヶ条の法度(規則)が定められ、江戸時代の後期まで続いていたと推測される。以下に風土記稿にある社蔵文書の写しの内容を原文で記載する。
「 社藏文書寫曰、相定法度、糟屋之郷八幡御社頭、於左前後、竹木不可剪、扞馬不可繋候事、喧嘩口論不可致候事、扞殺生放火之事、出陣之砌、松山家中衆、別面如斯之法度、致覚悟、以下之者共に、堅可申付候事、右三ヶ條有違犯之輩者、以書付都筑豊後守所へ可申來候、其斷明白可申付候、仍加件、天正九年辛巳年、五月十日、別当法禪坊、能登守長則華押、按ずるに、長則は北條氏の臣なるべし、其氏詳ならず、 」

 次に『風土記稿』の下糟屋村の神社に記載されている、鎮守八幡宮以外の神社を紹介する

●若宮八幡宮
 「若宮八幡宮」は本地佛大日を置き、村民持ちで縁起に記載されている能條太郎兵衛の子孫と云われる。縁起によると仁寿元年(601年)に東三条左大臣の息男であった兵庫頭某が相模国に下向し、その子の岩若丸が当村の豊民であった能條太郎兵衛の家を継ぎ、父の兵庫頭の遺骨をここに納めて若宮八幡と崇めたと伝える。この縁起は延喜17年(919年)に記し、文禄2年(1593年)に改書したと巻末に記されているが、その文は全て近世のものと見られ”原文は注せず”とある。例祭は4月5日で、天正19年(1591年)11月に社領一石五斗の朱印地が与えられた。鐘楼には明和5年(1768年)の鐘を掛け、末社には「稲荷」・「秋葉」・「道了」があった。

●淺間社
 「淺間社」は大慈寺持ちで、例祭は6月18日、天正19年(1591年)に社領二石の朱印状が与えられていたが、寛政2年(1790年)正月の別当寺の火災で焼失し、再発行はついでの時にと命じられたとある。境内には石の小祠2つを建て、鐘楼には寶暦5年(1755年)の鐘を掛けていた。

●住吉社/稲荷社
 「住吉社」は鎮守八幡宮の境内に祀られ、住吉の元宮と伝えられていた。例祭は6月15日で、村民持ちであった。八幡宮の境内にはこの他に「稲荷社」も祀られていた。

社号柱鳥居
神社由緒手水舎
八坂神社(神輿殿)神楽殿
鐘楼御?所
拝殿本殿
金刀比羅宮稲荷
水神庚申
境内下糟屋公会堂

 高部屋神社があるこの地は、千鳥ヶ城と呼ばれる要害が北条氏の滅亡まで社地の続きに存在していたことが最近の調査で認められた。鎌倉時代に源頼朝の家人、藤原鎌足・冬嗣の血を引く糟屋庄の地頭「糟屋藤太左兵衛尉有季)の館跡と言われていて、高部屋神社を守護神として社殿を造営した。室町時代に入ると、将軍・足利氏の家人団・上杉一族の関与があったと思われている。糟屋氏・上杉氏と関わった武士達の興亡をのせてきた高部屋神社も、北条氏を迎えた。
 拝殿と幣殿は慶応元年(1865年)に相模国梅沢(現材の二宮町)の杉崎周助政貴によって再建され現在に至っている。草葺き屋根の拝殿(横三間・縦二間)の欄間(らんま)には大きな竜の彫刻などを施しており、正面の頭上に山岡鉄舟の筆による「高部屋神社」の社号額が揚げられている。幣殿の北6mほど隔てたところに銅葺きの流れ造りである本殿(五間・二間)が独立して建っている。本殿は正保4年(1647年)に元の本殿をそのまま活かして再建されたが、大正12年(1923年)の関東大震災により倒壊したため、昭和4年(1929年)に柱・彫刻・正面扉等の古材を再利用して復興再建したものである。地面より3mほどの高さの土台があり、三段に石垣を築いた上に設けられている。正面に向拝があり、周りに回廊をめぐらし、これを支える形のよい柱が四隅に立っており、扉は朱と黒の漆塗りで、木材は全て檜である。
 関東の神社一般においてはかなり規模の大きい神社でも、本殿と拝殿はほとんど相接して建てられており、その間を幣殿でつながれているのが普通であるが、当社の本殿は近畿地方のもののように拝殿よりだいぶ離れて独立して建てられている。また、関東の諸社では拝殿は大きくても本殿は一間四方の小さい殿宇(でんう)であるのが普通であるが、当社の本殿は五間二間と大きい。本殿と幣殿の間には享保12年(1727年)の作である一対の狛犬が石台の上に置かれ、拝殿の前にも天保10年(1839年)の狛犬一対が置かれている。八幡宮(高部屋神社)は明治6年に村社に、大正6年7月には郷社となった。
 文明15年(1483年)に上杉定正が寄進した源朝臣・頼重施入の経巻である大般若経の写経が残されている。京都宇治にある黄檗山万福寺7世で、中国の福建省・泉州府・晋江県からの渡来僧、悦山道宗筆による「八幡宮」の扁額(元禄初期の作)がある。本殿前の狛犬を寄進した行按・行白も臨済宗・黄檗派の僧で、別当「糟屋山神宮寺」と共に黄檗派との関係が深かったと思われる。


祭神

 現在の祭神は主神が「神倭伊波礼彦命(かむやまといわれひこのみこと)/神武天皇」で、相殿(あいどの)として「誉田別命(ほむだわけのみこと)/応神天皇」・「息気長足姫命(おきながたらしひめのみこと)/神功皇后」・「大鷦鷯命(おおささぎのみこと)/仁徳天皇」・「磐姫之命(いわのひめのみこと)/仁徳天皇の皇后」および「三筒男命(みつつおのみこと)/住吉大神」の五神(三筒男命を三神とすれば七神)を祀っている。ところが、『風土記稿』をみると江戸時代末期における当社の祭神は中央が「応神天皇」で、右に「若宮大神(仁徳天皇)」と「息長足姫大神」、左に「姫宮大神(大日?貴尊(おおひるめむちのみこと)・天照大神)」と「住吉大神(表筒男命(うわつつのおのみこと)・中筒男命(なかつつのおのみこと)・底筒男命(そこつつのおのみこと))」となっている。従って現在のイワレヒコノミコトは祭神となっておらず、同神は明治以降において祭神に加えられたものと思われる。
 応神天皇を主神にしたことは、当社がその頃八幡宮と称していたことからも肯定される。なお、幕末の鈴鹿連胤(すずかよりたね)の著作にかかる『神社覈録(かくろく)』にも、高部屋神社の祭神は誉田別尊なりとしている。


神宮寺 (八幡宮別当)

 「神宮寺」はかつて八幡宮(現在の高部屋神社)の別当で、「円福寺」が社僧をつとめていた。神宮寺は檀家を持たなかったため、明治維新の廃仏毀釈(神仏分離)により円福寺と共に明治時代初期に廃寺となっている。神宮寺に関する文化財および資料はごく一部を除き失われており、慶応元年(1865年)に拝殿が再建された際の棟札で、「別当・神宮寺」と書かれたものが最後である。高部屋神社の西北方面にある丸山城(千鳥ヶ城)跡の片隅には、慶安元年(1648年)以降の神宮寺の歴代住職の墓石が残されている。現在の丸山城址公園の台地はかつて高部屋神社と地続きで、神社の西側に神宮寺があったとされている。神宮寺の廃寺に伴い僧の墓石は崖に捨てられたが、大正生まれの者たちの会である「下糟屋大正会」により、埋没した墓石を掘り出して洗い清め、整備したと言われている。
 『風土記稿』によると八幡宮の別当は鎌倉建長寺末で糟屋山と号した「神宮寺(臨済宗)」、社僧は岡崎金剛頂寺末で照林山と号した「圓福寺(古義真言宗)」であった。本尊はそれぞれ神宮寺が釈迦、圓福寺が不動であった。神宮寺を開山(寺院を建立)したのは大本師崇山(康永2年(1343年)2月6日卒)で、海岳(慶安元年(1648年)5月3日卒)が中興(復興)している。本社条に引用された天正9年(1581年)の文書に別当法禪坊とあることから、法禪坊を神宮寺の旧号と考察している。
 『風土記稿』の下糟屋村内の寺院にはこの他に、鎌倉建長寺末で千秋山と号す「普濟寺(臨済宗)」があり、慶安元年(1648年)8月に寺領十石の朱印状が与えられ、同じく建長寺寺末の法雨山と号す「大慈寺(臨済宗)」は中興開基を大田道灌とし、芝搶緕尠(現東京都港区)で東臺山西光院と号す「南蓮寺(浄土宗)」、鎌倉比企谷妙本寺末で學C山と号す「法眼寺(法華宗)」が記載されている。


能條家と若宮八幡宮

 下糟屋には能條家の一族を中心として「若宮神社」が祀られ、『風土記稿』に記載されている「若宮八幡宮」のことである。下糟屋の草分けは能條皎家であるといわれ、能條家は文徳天皇の仁寿元年(851年)に、藤原氏の子孫が女と駆け落ちして津久井郡の能條太郎兵衛に匿われ、その子であった岩若丸が下糟屋の地に家を創設したことが始まりと伝えられている。昭和60年(1985年)頃の戸主で60代目となり、この能條家本家とその分家の家々で、能條家の氏神である「若宮神社」が祀られている。なお、下糟屋では能條家の他に、鈴木・高橋・萩原・山田などの姓が古くからの家と言われている。
 昭和60年頃の祭りは正月2日に行われており、神主を呼んで能條三家(東能條・西能條・中能條)が出席して祭典が執り行われている。例年、20数件の家からオソナエがあげられている。


雨乞いの儀

 高部屋神社の社宝として還城楽面(げんじょうらくめん)・陵王面(りょうおうめん)・べしみ面の三面の古い伎楽面(ぎがくめん)が保存されており、これらは「雨乞い」または「雨乞いの儀」といわれる共同祈願に使用されていた。神社近くの東方に水神(水神さん)を祀った湧水池があり、日照りが続くと神官が祝詞を奏上し、古面をかぶった2人が互いに水をかけあって雨乞いをしたと伝えている。最後に行われたのが昭和8年(1933年)で、その前は大正2年(1913年)であったという。昭和8年の雨乞いの儀は次のように行われた。
 まず、面をつけて水の掛け合いを演じる「アマゴイ」と呼ばれる2名を世話人の話し合いで選出し、このアマゴイは年寄りで元気な人が選ばれた。また、雨乞いの儀が行われるときは、下糟屋の各戸から老若男女を問わず1人は出ることになっていた。一同は高部屋神社に参集し、アマゴイ役は社宝の面を着けて蓑を着て笠をかぶり、草鞋を履いて身支度を済ませると、拝殿でお祓いを受けてから行列をなして水神さんの池へ向かった。行列はアマゴイ2人を先頭にして、神主・総代・世話人が後に続き、さらに村人が付き従い、「龍王さん、龍王さん、雨降らせ給え」と口々に繰り返し唱えながら行進した。行列の進路は、神社→中宿→本宿→本宿・下宿の境→中宿・下北ノ根の境→上北ノ根・丸山の境→水神さんの池、であった。
 行列が水神さんの池に到着するとアマゴイの2人が池の中に入って向かい合って立ち、神主が祝詞をあげてお祓いをする。それが済むとアマゴイが互いに「龍王さん、龍王さん、雨降らせ給え」と大声で唱えながら水の掛け合いをし、周りの人も「龍王さん、龍王さん、雨降らせ給え」と大声で唱える。これを暫く続け、神主の掛け声によって終了となる。「糟屋の雨乞いは必ず効く」といわれ、昭和8年の時は7日後に雨が降ったという。
 下糟屋の雨乞いは昭和8年の『(区長)日誌』にも見え、この年は大旱魃の年であった。6月28日の記録には「水田植付不能」とあり、水を得るための諸策がとられ、7月18日に雨乞いが行われている。雨乞いの記述を下記に記す。

当字の雨乞いはやればあれると、めったにやらないからだらう、それを本日執行するのだ
午後三時より
1.やさか神社の祝詞(天王様の当日故)に始まり
2.雨乞祈願の祝詞
3.本日の雨乞の当人
 一、黒面 亀井作助
 二、赤面 近藤鉄五郎
蓑かさ新調して其れをまとひ、神社拝殿より岩本和三郎宅西の道を水神様に向ふ。「龍宮や龍宮や」と亀井作助いへば、「雨を降らせたもれ」と近藤鉄五郎応ず。古き神事であるらしい。水神様に至り、「のりと」ありて池にて二人の者、水をかけあひ、龍宮や龍宮や、雨をふらせたもれといひつつ、あびせる様、其の昔の神事しのばれていとも神々しくありたり。終わりて一同社ム所にて神酒をいただく。参堂するもの五十人、子供七、八十人ありき。これで終わる。

 雨乞い後の日誌では、7月27日には僅かの雨が降ったが乾く方が早い位の雨だったとあり、8月3日にも少ないが雨が降り、次いで8月5日には「午後二時、夕立たっぷり、川の水も増す」「明日はおしめり正月、やすみを出すことにせり」と記され、字の役員一同が雨乞いのお礼に区長宅を訪れ、8日の晩には区長宅で雨乞いの会計を行うことを決めている。そして8日には「雨乞い費、御礼費合計約三十円認定す」とみえている。
 雨乞いを行った後、あるいはそこまでいかなくても長い間晴れが続いた後に雨が降ると、「アメップリ正月」といって休みが出された。これもムラまたはムラのなかの集落が単位となって行われ、ほら貝を吹くなどして知らされ、午後から半日仕事が休みとなった。


太田道灌

 村内の西部には大慈寺持の大田道灌の墓と伝わる一区があり、傍らには榎の大樹が繁っていた。上粕屋村にも墓があって胴塚とし、ここは首塚と称している。かつては槽屋荘の開発者糟屋氏系統の人物で源頼朝などに仕えた「糟屋左衛門尉有季」の居蹟なども残っており、旧家として亀井道怡家、山田亀吉、能条安左衛門家などが知られていた。鎌倉時代の御家人糟屋有季(かすやありすえ)の館は、高部屋神社の境内も含めて「東西百間余り(役180m)、南北百十間余(約200m)」にわたって広がっていたという。


宵宮準備/午前 (開始8:30)

 ここからは令和6年(2024年)9月14日(土)の宵宮の様子を紹介する。宵宮当日は朝8時30分に高部屋神社に集合し、社殿や神楽殿の掃除、幟の支柱立て、神輿や山車の準備などが行われる。なお、幟は竿の老朽化により立てることが困難な状態であるため、幟の支柱のみを地中に固定するだけで幟を上げていないが、支柱だけでも非常に重厚感があり、支柱に取り付ける彫刻もまた非常に精巧に彫られている。

7時45分にお宮に来ました宮総代が社殿の鍵を開け
幣殿の窓と本殿側の戸を開けます
幣殿と拝殿の間の引き戸を開け拝殿正面の戸を開けます
拝殿には胡床が並びますこちらは
社殿を出ると金網と持ち手の着いた枡を用意
先週、大磯で取って来た砂を網でこして行きます
紙で受けた砂を枡の中に入れ
社務所に移動砂は明日の例大祭で使います
集合時間の8時半になると社務所前に集まります
ユニック車が到着しました準備の段取りを説明し
御神酒を配ると宮総代の挨拶で
乾杯し準備が始まります
最初に神楽殿へ向かいますこちらは落ち葉を集める
神楽殿の横側から戸を外し
八坂神社に立て掛けますこの戸はこの後に
掲示板として使われます神楽殿から神輿の
馬を運び出す今度は正面の戸を外し
神楽殿の裏へ1枚が大きいので
人出が必要です正面は4枚あります
穴を掘り出しました拝殿では戸を拭き掃除
続いて右側の戸を外し奥の木へ立て掛ける
もう一枚の戸も外します拝殿内でも掃除が始まる
神楽殿からブルーシートを出し地面に重ね置き
穴掘りが続きますこちらは拝殿に吊るす
提灯枠です大きいブルーシートを出し
小さく畳みます今回は使いませんが
幟を吊るすための先端部分です
ブルーシートをもう1枚外すと角状のものが出てきました
上に乗っている彫刻類を運び出します
かなり大きな幟の支柱ですユニック車を神楽殿前に移動
大神輿の台車は重いのでフックをかけて
クレーンで持ち上げて境内に下ろします
子供神輿の台車は小さいので人力で下ろします
台車をおろすといよいよ幟の支柱の移動が始まる
支柱にスリングベルトを巻きクレーンで横にずらしながら
神楽殿から出して荷台に降ろします
先ほど掘っていた穴は支柱を入れる穴の上面でした
ユニック車を移動させ支柱を上げて
地面におろすとスリングベルトを掛け直し
支柱を縦に持ち上げ穴の中へ入れます
楔で固定してスリングベルトを外します
社殿の外廊下をモップ掃除ユニック車を再び神楽殿に寄せ
もう片方の支柱を荷台に載せます
神楽殿から山車の屋根と破風を運び出します
こちらは山車の柱類ですこちらは忌竹用の竹
神楽殿から支柱に飾る彫刻を運び出す
非常に貴重な彫刻です外した彫刻を掃除します
もう片方の支柱を穴の中に納めます
子供神輿を神楽殿から出し馬の上に降ろします
準備開始から1時間が経ち9時半過ぎにお茶が配られます
こちらは松の葉のようです幟の支柱根元の隙間を
塞ぐように板を並べ砂で埋めていく
子供神輿の飾り紐をセット神楽殿を掃き掃除
神楽殿の床下から輿棒を取り出します
続いて階段を取り出し神楽殿に掛けます
10時になると人手を集め神輿殿へ向かいます
中から神輿を引き出しそのまま抱えて持ち上げると
神楽殿の前へ移動し馬の上に降ろします
箱台輪から運搬用の短い轅を抜き
神楽殿の床下から担ぎ用の轅を抜き取ります
もう一本の輿棒も取り出し地面に並べて置きます
床下収納の戸を締め大神輿に轅を挿し込み
馬を台輪下からずらして轅の下に移動
拝殿前には幕を張ります子供神輿にも輿棒を入れ
飾紐で輿棒を固定し横棒が2本追加されます
向拝下に提灯枠を取り付ける支柱では菱形に角棒を組み
砂を積んだ軽トラを寄せて砂を曳き詰め根元の隙間を
松の葉で埋めていきます反対側の支柱でも同様に
砂を敷き詰めます松の葉が特徴的ですね
支柱の根本正面に彫り物を取り付けます
山車のトラックが到着し土台を組んで行きます
高部屋神社の提灯が揃いました子供神輿の横棒を固定
山車では柱を立て棟木と軒桁を渡します
お祓い所に注連縄を張り社殿前に竹竿を立てる
支柱に付ける屋根を運び支柱の上部に取り付けます
反対側も同様に取り付ける彫刻飾りの屋根になります
山車の柱を荷台に固定手前は屋根のパネルです
手水舎に注連縄を張るポリバケツを水洗い
支柱の軒下に彫刻飾りを取り付ける
時刻は11時になりました提灯を付けて完成です
山車では横架材を取り付け屋根と破風が付きました
続いて提灯枠を取り付けます竹竿を支柱に縄で固定します
鳥居の柱には笹を結びつけます
子供神輿に紙垂を付ける銀杏の木にも紙垂を付けます
2枚の布で縄を綯い轅の先端に通します
鳳凰を運び露盤に足を差し入れます
馬尾藻(ホンダワラ)を水に戻し柔らかくしていきます
山車に太鼓枠を取り付ける鳥居の注連縄に紙垂を付ける
11時50分頃に作業を中断し昼食を取ります

宵宮準備/午後 (開始12:15)

 昼食を挟んで午後も準備が行われ、お宮関係の準備は15時20分頃に、神輿の準備は17時頃に終了した。

昼食を終えると高神會は神輿の掃除
山車に提灯を取り付ける社殿前でも準備を再開
大神輿では捩り掛けが始まります
テントの骨組みを組んでいく向拝柱には榊を取り付ける
晒を折り畳んで両端から巻きます
注連縄に紙垂を付ける山車に提灯を取り付ける
鳥居の注連縄には馬尾藻がテントに天幕を被せます
竹竿に吹き流しを取り付け下部を巻いて固定します
大神輿の屋根の上にあがり準備した晒を渡すと
鳳凰から巻き付けて蕨手へ伸ばしていく
山車に幕を回す注連縄に馬尾藻を取り付ける
捩りは蕨手から轅へ下り
きつく巻き付けて固定巻き付けて固定します
神楽殿には白い化粧幕を張り向上高校チアダンス部の張り紙
捩り掛けは下締めが終わり今度は上締め用の捩りを準備
更にきつく締め上げます子供神輿に榊を取り付ける
神楽殿に紅白幕を張る境内中央では忌竹の準備
13時40分頃になると休憩を取ります
山車には下糟屋太鼓連の青い幕タイラップで捩りを固定
捩り掛けは大変な作業です今年世界大会で優勝しました
神楽殿の横では杭を打ち神楽殿の戸を立てた掲示板
熨斗紙を貼る芳名板になります神楽殿の両サイドに設置
捩り掛けもいよいよ仕上げ美しい仕上がりです
捩り掛けが終わり榊を固定14時50分にお茶休憩
大神輿の鳳凰に稲穂を取り付けます
こちらは高部屋神社の幟提灯に防水用のラップを巻き
軒下の四隅に取り付け電球の配線を渡す
15時20分頃にお宮関係の準備が終わり解散します
提灯に電球が入りました轅の段差を均します
子供神輿を持ち上げ神楽殿に載せます
神輿康さんが鈴を持ってきました捩りに鈴を取り付けます
手綱の結び方を教えて貰います高神會は17時頃に準備終了

山車出発式 (開始18:00)

 太鼓連は17時過ぎから宵宮の巡行に向けて準備を進め、18時からは伊勢原大神宮の宮司によって、山車の出発式が執り行われる。

時刻は17時15分山車に太鼓をセットします
伊勢原大神宮の宮司が到着山車を中央に移動させ
山車の前に祭壇を設置神楽殿と大神輿の提灯を点灯
太鼓連のメンバーが集まります祭壇の準備が整い
18時に神事が始まります山車の巡行の安全を祈願します
神事が終わると太鼓連会長の挨拶があり
ジュースを配って乾杯します

宵宮巡行 (出発18:30、到着20:55)

 山車の出発式が終わると山車は高部屋神社を出発し、約2時間半かけて下糟屋地区を巡行する。巡行後は境内で直会を行い、22時頃に解散となる。なお、宵宮の夜から大祭の朝6時までは警備会社に依頼し、警備員2名が夜通しで警備にあたる。

太鼓連は山車に乗り込み神職は祭壇を片付けます
山車の提灯が点灯し18時半に“ブッツケ”から屋台を演奏
社務所前を通り社殿の右手から出発し右折
メインの通りに出て右折し社殿前を通過
交差点で信号待ち国道246号を渡ります
坂を下ってカーブの手間で左折
東海大学病院前を通過し病院入口の交差点を通過
キックボクシング谷山ジムを通過18時55分に渋田川前の
駐車場に到着して休憩発電機が故障しましたが
19時15分頃に駐車場を出発来た道を引き返し東へ向かう
谷山ジム前を通過し東海大学病院を通過
突き当りを右折し国道246号を渡ります
高部屋神社下糟屋公会堂を通過し
途中で右折して19時40分頃に友禅ふく和に到着し休憩
蓄電池で電気を復旧させて19時55分頃に出発
十字路の交差点を通過し途中で左折して
よろずやで休憩10分弱休憩し
20時5分頃に出発し近藤商会自転車屋のT字路で
左折して246方面へ下り道祖神の所で右折
途中で左折し突き当りを右折
左手に高速が見えます途中で右折して
坂道を上がり法眼寺の所でメイン通りに出て左折
東へ進んで小田急線を横断し
途中で左折して20時20分に休憩場所に到着
休憩を終えると20時35分頃に出発し来た道を引き返す
小田急線を渡り近藤商会のT字路を通過
よろずや十字路の交差点を通過
ふく和を通過しお宮の手前で右折し
20時55分頃に宮入り社務所前を通って
金刀比羅宮の前に停車テーブルと椅子を用意し
叩き手は山車から降ります警備員2名が朝6時まで警備
太鼓連会長の挨拶で食事を取ります
太鼓連は22時に解散明日はいよいよ例大祭です

  このあとは大祭準備へ。

囃子

 下糟屋では「下糟屋太鼓連」が祭り囃子を伝承しており、現在は「ブッツケ」と「屋台(ヤタイ)」のみが伝承されている。高部屋神社の祭礼において下糟屋太鼓連は山車の巡行を行うが、メインは宵宮の夜の巡行で、大祭当日は神輿の宮入り前に先導役として巡行し、それ以外は境内で太鼓を叩く。

山車(正面)山車(側面)

 かつて下糟屋では青年会の内部に神社の祭礼や盆踊り、また普済寺の4月19日の「半僧坊」の祭礼に、「大太鼓」・「小太鼓」・「横笛」・「擦り鉦」からなる楽器で音曲を披露する太鼓連の組織が古くから伝えられてきた。太鼓連は下糟屋のほか、成瀬村の周辺では伊勢原の池端東大竹などに組織されていた。下糟屋と池端は相互の神社の例祭に往来して太鼓を競いあう「ツキアイ村」で、下糟屋は東富岡と付き合いを行ったこともあった。下粕屋の太鼓連は青年会存続当時は会員全員がメンバーに入るのではなく、内部で関心・興味をもつ者の任意参加となっていた。太鼓の技術や音曲をいつの時代にどこから受け入れたかは定かではない。
 かつては、現在叩かれている「屋台(ヤタイ)」以外にも、奏楽順に「マモノ」・「神田丸」・「下がり藤」・「鎌倉」・「仕丁舞」・「ニンバ」というそれぞれ曲調の異なる6曲が伝えられていた。下糟屋では先人が手書きで書いた譜面を平成4年(1992年)から平成23年(2011年)の間にまとめた譜面が残されており、それらを表にまとめたものを下記に記載する。下糟屋の囃子は伊勢原市池端や平塚市城所などと共通点が多く、池端は明治年間(1868〜1912年)に城所から習ったという伝承があることから、下糟屋の囃子も城所との関係性が強いと推測される。
 なお、「マモノ」という曲名については平塚市入野に「間物(マモノ)」という組曲が現在でも伝承されており、下糟屋の「マモノ」の譜面を見る限り入野の「間物(マモノ)」の中の「ジショウデン」という曲に類似していることから、下糟屋では「ジショウデン」から始まる組曲である「間物(マモノ)」がそのまま曲名として捉えられた可能性が考えられる。

囃子の曲目
曲名備考
1ブッツケ「そうりゃ」の掛け声で屋台に入る
2屋台(ヤタイ)この後は『キザミ』→『セメ』→『セメクズシ』→『乱拍子』の順で各間には屋台2回を挟む
3キザミ5〜6回繰り返す
4セメ5〜6回繰り返す
5セメクズシ5〜6回繰り返す
6乱拍子
(ランビョウシ)
6〜7回繰り返す
7@マモノ何回叩いても良い
8A神田丸1回叩く
9B下がり藤1回叩く
10C鎌倉何回叩いても良い
11D仕丁舞『仕丁舞の地』※何回叩いていも良い→「そうりゃ」→『仕丁舞の玉』※3回叩く
12E神馬/ニンバ/バカッ囃子何回叩いても良い→『乱拍子』→『屋台』→『キリバチ』
13キリバチ全て太鼓が終わる時に叩く

 青年会が成立していた当時、太鼓連は毎月1日と15日のモノビ(農休みの日)の昼間や、神社や寺の祭礼の前には連日夜中まで神社の境内や公会堂に集まって練習に励んだ。そして、とくに神社の祭礼では太鼓連が宵宮で太鼓を披露するほか、当日は神輿の巡行に従い山車に乗ってムラ中を練り歩いた。明治期には山車が2台あり、1台は太鼓を叩くためのもの、また1台は仮面を被った若者達が「ひょっとこ踊り」などを踊りながら巡行するためのものであった。また、昭和20年(1945年)代まで下糟屋周辺のほかのムラの青年会とのあいだに「祭りづきあい」という付き合いがあった。他地区の祭日に太鼓連を中心とする青年会員が月番の準備する弁当を持ち太鼓を担いで行き、神社で太鼓を競争してナハを得てきたのである。この付き合いは成瀬村内では東富岡と行われたことがあるが、下糟屋と同様に太鼓連が組織された旧伊勢原町池端とはもっと親密な関係にあった。
 こうした伝統を持った太鼓連も、昭和30年(1955年)頃の青年会の解散に伴って一旦組織を解体した。しかし、その後14、5年を経た昭和45年(1970年)頃から、若い人々の親睦団体が何もない下糟屋で親睦団体を作ろうという動きが特に30歳前後の青年層の間から現れ始め、その手段のひとつとして太鼓連の復活の声が徐々に持ち上がったのである。しかし、太鼓連を復活されるにも太鼓は既に傷みが激しく、法被(はっぴ)などの衣装もなく、さらに以前から伝わってきた太鼓、横笛などの曲調を十分に記憶している人もほとんどなかった。そのため復活は一時頓挫しがちになったが、橋本幸男氏を中心に青年層の相談役にあたった人々がリーダーとなって自治会の役員たちに話をもちかけ、昭和52年(1977年)の春からようやく復活した。その太鼓連は旧来のような青年層だけによるものではなく自治会の有志により組織され、初めは顧問11名、賛助会員1名、会員30名で再出発した。傷んだ太鼓の張り替えや衣装作り、また山車の修復などに要した金額は100万円近くに上がったが、一部自治会からの支出があったとはいえ大部分は「お前たちがやるのなら」と届けられた寄付金によっている。また再発足当時、横笛の曲調を伝承するのは亀井正男氏1名だけで、池端の人の指導も受けたのである。
 再発足当時から太鼓連では太鼓・横笛・鉦などを小学生に習わせようという計画があったが、勉強を強いられる子供たちに太鼓連への参加を誘うことも難しかった。青年・中年層が昔からの音曲をマスターし得た頃にようやく7〜8人の高学年児童が太鼓連に参加し、すでに太鼓の叩き方だけは習得した。こうした児童を含めて太鼓連は約50名で組織されるようになり、会員は年額3000円の会費を納め、その会費と祭礼などであがるハナにより楽器などの維持と会の運営が賄われるようになった。昭和60年(1985年)頃から普済寺半僧坊の祭りが休止状態になり、8月の盆踊り・納涼大会や9月の祭礼に参加するために、太鼓連は主に夏休みから9月にかけて毎晩2時間ほど練習を繰り返し、祭礼の直前には深夜まで及ぶこともあった。当時は夜の練習ということで太鼓や笛の音がうるさいとの苦情もあり、練習の場所は人家から離れた畑のビニールハウスを借りていた時期もあった。


太鼓練習

 下糟屋太鼓連は例大祭の1ヶ月前から高部屋神社の境内で練習を行っており、令和6年(2024年)は7月20日(土)から9月7日(土)の毎週土曜で、時間は19〜20時の1時間となっている。下記に令和7年(2025年)8月9日(土)に行われた練習の様子を紹介する。

練習の準備が始まります下糟屋公会堂に移動し
太鼓を運び出しますお宮へ戻り
大太鼓と締太鼓を台にセット
こちらは初心者用の太鼓です時刻は19時になりました
子供たちが集まり手作りの杉バチを配布
会長の挨拶で練習が始まります
初心者の子供達には譜面と叩き方を丁寧に説明
途中で休憩を挟み再び練習再開
境内に響き渡る祭り囃子20時になると練習を終え
太鼓を公会堂へ運びます会長の挨拶
太鼓の台も片付けて解散します

神輿

 高部屋神社には大神輿1基と子供神輿1基があり、大神輿は令和5年(2023年)に「神輿提灯工房 茅ヶ崎神輿康」で修復が行われ、その際に見つかった神輿内部の『慶應二丙寅歳八月吉日』の墨書から、慶応2年(1866年)の建造である可能性が高い。また、高部屋神社の社殿には慶応元年(1865年)の棟札が残されており、神輿の墨書と社殿の棟札の書体が非常に似ているため、棟札に記載されている相模国梅沢(現二宮町)の宮大工であった杉崎周助政貴が高部屋神社の神輿を建造したと推測される。神輿に使われている彫刻は全体的に非常に精巧に仕上げられており、桝組の梟(ふくろう)や戸脇で仰向けになって腹を見せる龍は非常に珍しい。なお、神輿の屋根は真鍮の板金仕上げになっているが、新造当時からかのものか途中で変更されたかどうかは定かではない。

大神輿大神輿
神輿の墨書(慶應2年)社殿の棟札(慶應元年)
子供神輿大神輿の精巧な彫刻
桝組の梟(ふくろう)戸脇で腹を見せる龍

 令和5年(2023)年の修復で慶應2年(1866)の墨書が発見される前は、大正12年(1923年)9月1日の関東大震災で神輿が潰れ、現在の神輿はそれ以降に作られたものであると考えられていたが、実際は新造ではなく修復された可能性が高いと推測される。その神輿再建の中心を担ったのは当時の青年会で、当時の部落総代に神輿の再建を何回も願い出たが聞き入れられなかったため、米の販売などで貯えた青年会の資金と有志の家から募った寄付金で再建された。屋根の一部が継ぎ接ぎ状態になっているが、これは神輿の修復時のものだと言われている。神輿は八坂神社の社殿を神輿殿として保管されている。

屋根の修復跡八坂神社(神輿殿)

 修復された神輿は昭和30年(1955年)代の前半頃まで担がれていて、当時は三之宮比々多神社と同じ「ヤートーサッセ」の掛け声で担いでいた。青年会の35歳くらいまでの若い衆30人で担いだが、90貫(約340kg)という重い神輿なので50人くらいが交代で担いだ。渡御の行列は太鼓3名(担ぎ手2名、打ち手1名)、猿田彦1名(矛を持ち面をつけて足駄を履く)、榊2名(白木の枠に横木を渡し、中央に榊を飾り付けたものを前後で担ぐ)、神輿40〜50名、神主の順であった。渡御の順路は神社→宮坂→弥杉→宮坂→神社→中宿→本宿→下宿→菖蒲田→下宿→中宿→神社の順で、途中で神輿を降ろして休むところは弥杉、久保、丸山と中宿の境、本宿と下宿の境の4ヵ所くらいであった。なお、高部屋神社の祭礼で子供神輿が出るようになったのは近年になってからである。
 昭和30年代の後半頃から神輿は担がれなくなったが、太鼓連の復活の声が上がった当時から、一部の人たちのあいだで神輿の巡行も復活させようという意見があった。しかし、神輿の修復に相当の金額が必要なこと、また昭和52年(1977年)に山車を復活させた時でさえ巡行には小田急線と国道246号線を横断するため警察の許可が簡単には下りず、折衝の末ようやく昔からの習慣だからということで承認された経緯から、神輿の巡行となるとその折衝も容易ではないことなどを理由に、神輿の復活は自治会で公的な話題にならなかった。しかしながら、平成元年(1989年)頃に高部屋神社の神輿会として「高神會(こうじんかい)」が結成され、初代会長の斎藤勇らの尽力により神輿渡御が復活した。なお、神輿を担ぐ時の掛け声はこの時から「どっこい」に変わっている。


青年会

 成瀬地区においては明治44年(1911年)5月に成瀬村統一青年会が成立する以前から各集落に若者の組織があり、ムラの生活の中でさまざまな役割を担ってきた。この青年会に統一される以前の若者の組織は集落個々に名称を持ち、下糟屋では明治初期には一時「国民義勇軍」とも称したというが、明治40年(1907年)代には「若連」とよばれた。明治末の青年会はそれまでの伝統を受け継ぎ、大正10年(1921年)の官製的な「青年団」の成立後も、集落の青年会は一方で独自の歩みを進めたのである。
 下粕屋の青年会は長男、二男を問わず15〜35歳の男子によって構成された。昭和30年(1955年)頃に解散するまでこの年齢幅は守られ、戦後の教育制度の改革後は中学2年生を終えると青年会に加入した。加入・脱退するのは1月15日の戦前には「お日待ち」とよんだ集会の席であり、この集会は昭和12,13(1937,1938)年に公会堂が完成する以前には多人数が入れる大きな家を借りてカミとシモに分かれて行われた。この集会で役員の改選やその年の事業計画を話し合い、そのあとに新入りの者を会場の上座に据え、卒倒するまで酒を無理強いに飲ませて無礼講を開いた。青年会に加入すると「一人前」とみなされ、ムラの各種の共同労働で家を代表することができた。青年会の定期的な集会はこの1月15日のほか、5月5日(成瀬村青年会の創立記念日)、そして高部屋神社の祭礼の前後であった。
 青年会の役員には会長・副会長・幹事の三役があり選挙で選ばれ、通常は役員には34,5歳の年長者が選ばれた。青年会の内部では例えば集会などでの席順は年齢順が守られ、年が上であることがひとつの権威となった。しかし、神奈川県の沿岸地方に見られるような年齢層によって幾つかの段階に区別される内部の名称区分はない。青年会では1月の集会の時に全員が籤(くじ)をひいて「月番」を定め、当番の月には種々の役割を努めることになっていたが、15〜35歳までと構成員に年齢幅があるため、若い者、とくに新入りの者は年長者に何かと指示され下働きに追い回された。また35歳までは婿養子にきた者も加入し、年少者と同様の扱いを受けた。
 青年会の会費の多くは青年会内部に組織された太鼓連に祭礼などであがるハナ(御祝儀)で賄われ、大正期から昭和の初期にかけては下糟屋字域内の田へ水を引く堀の土地を地主から借り、そこに会員が自宅から持ち寄った稲苗を植えて収穫し、その米を稲束のまま字内の家に買い取ってもらいこの金を会費に充てたこともあった。通常は8表、多い年には10表収穫でき、昭和初期の安いときで1表13円で売れた。
 青年会の役割の中心は祭礼の準備と後片付け、そして祭礼の花形である神輿や山車の運行、余興の開催である。大正期までは若連ないし青年会に入ると義太夫を習い、祭礼の余興として披露し、またその頃には現在の厚木市愛甲から師匠を招き「三番叟」から始まる神楽や芝居を習って披露したこともある。昭和30年(1955年)頃に青年会が解散したひとつの要因は、下糟屋内の道路に車の通行量が増し、高部屋神社の祭礼の時に青年会により長年立てられてきたカミ、シモ2ヶ所の幟が立てられなくなり、また神輿と山車の運行ができなくなったことという。現在、山車の運行だけは太鼓連の人たちにより復活したが、重量があり担ぎ手に少なくとも40〜50人を要する神輿の運行は、また逆に青年会の解散により不可能になった。
 これら祭礼の準備や遂行には青年会の成員がすべて参加し、祭礼の翌日に後片付けが済むと「ハチハライ」とよんで祭礼にあがったハナを計算し、祭礼の経費を差し引いた金と会費を出し合って、多くは伊勢原の料亭「伊勢作」を会場に慰労会をもった。ところで、明治の末まで下糟屋には旧宿場町の名残りとして「フカワ」・「イツツヤ」(屋号)など2、3軒の料亭が残っており、若者達は夜になるとこれら料亭の前の家に集まり、料亭の女中たちを冷やかしては主人に叱られた。時には水を掛けられたこともあり、そのような主人のところには祭礼の時に神輿を練り込ませ、憂さ晴らしをしたのだという。当時は休日に平塚などへ出て遊郭に足を運ぶ若者もあった。
 青年会は祭礼に関する役割のほかに、例えば成瀬村の連合運動会など村や集落の各種の全体的な行事での活動の中心となった。また、成瀬村青年会の下部組織として文集作りやスポーツ活動など自主的な活動も盛んであった。


糟屋地区

 高部屋神社は『延喜式』の神名帳に載せられた官社であるから、平安初期はもとより、それよりずっと以前から霊験あらたかなりと知られた神社であったと思われる。そして著名になった一つの理由としては当社が古代の交通路に面していたからであったと考えられる。相模の下流の相模平野の大部分がまだ沼沢であったころ、交通路の幹線としては箱根の足柄峠を超え、松田から音無川の渓谷を経て秦野に入り、それより善波峠を越えて笠窪串橋を通って糟屋に至り、東北に進んで相模川を渡ったものと思われる。高部屋神社は糟屋の往還に直接面して鎮座しており、旅人はいずれもその前を通って当社に参拝して旅の安全を祈ったことから、その名もおのずから遠方に聞こえたと考えられる。
 しかし、高部屋神社が神社としてもっとも勢力を持ち、広い信仰圏を保持した時期は、この付近が糟屋庄の中心地となり、当社が実力者であった糟屋庄司の厚い崇敬と庇護を受けるようになってからであろうと考えられる。当社はそのころには糟屋庄の惣社または大住大明神として、大住郡の代表的神社となっていたと思われる。
 平安末期から鎌倉時代にわたって「糟屋庄」という大きな荘園(中央貴族や寺社による私的大土地所有の形態)があり、その範囲は大住郡の大部分におよぶほどで、相模国ではきわめて勢力のある荘園であったが、その中心地が「下糟屋」であった。この糟屋一帯の地域が『和名抄』に記載された相模国大住郡の諸郷のうちどの郷に属するかについては、村岡良弼氏の『日本地理志料』によると「日田郷」であるとしている。「三ノ宮、日向(ひなた)、糟屋、東富岡、上子安、下子安、坂本、大山の諸邑に亘って、糟屋ノ荘と称す。是れその地(日田郷)なり。」と記している。


下糟屋の歴史

 下糟屋は糟谷・粕屋(谷)とも記すが、明治前期には下糟屋村が正式に表記となる。古くは上粕屋村と一村をなし、室町時代の僧万里(ばんり)の著わした『梅花無尽蔵』によると「文明十七年(1485年)九月晦日、関本を出でて糟屋に宿す」とあり、そのころには上下糟屋の区別はなかったようである。それから百余年を経た天正19年(1591年)に村内の神社に下付された朱印状には「上粕屋郷」と記されてあるので、その中間の時期に始めて上下の区分ができたと考えられる。古くは毎月五・十の日に市が立てられたが、江戸時代の初頭には廃絶している。
 江戸時代当初は直轄地で、寛永10年(1633年)の地方直しにより旗本中川忠次・若林包盛・宇都野正長に分地され、残余は直轄地として残された。明暦2年(1656年)に直轄地を分割して旗本御手洗定重量となったが、元禄4年(1691年)にその子の四兵衛某は失心により職を解かれ、領地を没収されて直轄地に戻された。元禄10年(1697年)の地方直しにより直轄地の一部が岡部直好領となり、享保13年(1728年)に残りの直轄地が下野国烏山藩主大久保常春領となった。以後、旗本中川・若林・宇都野・岡部と烏山藩領の五給の村として幕末まで続いた。なお、若林氏領は天明年間(1781〜89年)頃に一旦上知された後、同氏に返還されている。検地は貞享2年(1685年)に直轄地のみを、成瀬五左衛門重頼・八木仁兵衛長信によって実施されている。
 下糟屋村は平塚大助郷になり、矢倉沢道の馬継がなされ、北は愛甲郡愛甲村へ一里、南は伊勢原村へ一八町の継ぎ立てをし、大山道では西側の上粕屋村へ一里、東側の戸田村へ一里の継ぎ立てをなした。文政寄場組合は伊勢原村外二四ヶ村組合に属した。高森村より矢倉沢道が村内に入り、集落の中央を東西に幅二間で通り田中村へと向かった。集落の西部で矢倉沢道が分かれる伊勢原道が幅二間で南に向った。また村の東部で戸田村から下落合村を経て通る大山道と、上谷村を経て通る田村道が矢倉沢道に合流し、共に道幅は二間とされる。集落の南側の淵を渋田川が幅五間で東西に流れ、ここにせきと橋と横町橋が掛かり、高さ九尺の堤を設けていた。集落の台地の北側を歌川が幅二間で流れ、ほかに筒川が幅二間で流れていた。村内の小名には「横町(よこちょう)」・「宮坂(みやさか)」・「琵琶久保(びわくぼ)」があり、高札場は一ヶ所であった。
 明治22年(1889年)に成瀬村ができると下糟屋は成瀬村に属したが、下糟屋の西方に隣接して「高部屋村」という一村があり、上粕屋などはこの高部屋村に属していた。これはむかし、この辺りが「高部屋郷」と呼ばれたことがあったとの故事に基づいてその地名を復活したものと思われるが、下糟屋は高部屋村ではなく成瀬村の方に編入された。成瀬村時代の下糟屋は村内で最大級の世帯・人口数を有し、明治以降から第二次世界大戦前まではほぼ100戸前後で構成されてきた。明治中期以降の宿場町の衰退、大正12年(1923年)の関東大震災や第二次世界大戦を契機に、家の盛衰がかなり激しかったことが伺える。戦後は主に分家慣行により漸次世帯数が増加し、昭和40年(1965年)代に入ると小田急線伊勢原駅から比較的近いことにより、東京や横浜の近郊地として外部からの転入が始まった。昭和50年(1975年)には東海大学医学部付属病院が完成すると、地元の人々によって病院の夜勤務者や学生を対象とするアパート経営なども始まり、下糟屋の世帯数と人口は激増した。
 下糟屋の地区区分で最大の範囲は「カミ」・「シモ」の地区を二分する単位で、集落のほぼ中央に位置する普済寺の前の道路を境に、西側がカミ、東側がシモである。この集落を二分する単位は下記のように村の生活に根付いていた。

@かつては氏神の祭礼日に両区域にそれぞれ幟を立てた
A昭和12,13(1937,38)年に公会堂が設けられる以前は、青年会の集会は両方に分かれて開催されていた。
B昭和14,15(1939,40)年までは婿養子は結婚後にムラ中全戸へ挨拶に回り、その後はカミ・シモそれぞれ所属する範囲の家に縮小された。
C戦後、生産組合は両区域に分けて組織されている。

 現在、このカミ・シモをさらに地区的に細分する単位は「町会」で、カミには「弥杉」・「久保」・「丸山」・「中宿」の4町会が、シモには「本宿」・「下宿」の2町会が含まれる。この町会という名称は昭和40(1965)年代後半から使用され始め、それ以前は現在の町会に相当する組織を「更生区」と呼び、更生区は1から5までの5区に分けられていた。
 下糟屋は旧高部屋村の地内に字の飛地を有しており、すなわち「渋田山」で、この山は江戸時代には上粕屋(高部屋村)と下糟屋の共有山であった。しかし、渋田山はその後に分割され、近代には下糟屋の持ち分として約17町歩が有された。ところが大正7年(1918年)頃に高部屋神社が県の管轄下に置かれることになり、それについては神社に資産が必要であったことから、下糟屋では共有山を神社名義の財産に変更した。それ以前の共有山は時に薪の調達などに利用され、入会地としての性格を持っていたが、名義変更によりムラの人々の立ち入りは大きく制限されることとなった。とはいえ、下記の様にある程度の使用権は保持されていた様である。

@関東大震災の後には各家に木材を分けた。
A字内の橋の架け替えには山の木を利用できた。
B薪の値段が高騰した大正の後期から12、3件の家で神社に使用料を払って薪山として利用し、それはガスへのエネルギー転換が進む昭和30年(1955年)頃まで続いていた。

 戦時中の木材の供出で荒れた山に、終戦直後は「ムラ仕事」として各家から人が出て植林やその育成が行われたが、結局その利益は享受できないままになっている。一部の山は戦後の農地改革で畑に開いて払い下げられたため、昭和60年(1985年)時点では約12町歩となっており、山の維持と管理(見回りなど)は氏子総代と自治会役員を担当する役員に任せられている。戦前には神社の役職として氏子総代以外に、「渋田係」という山の管理を担当する役員が3名選ばれていた。


糟屋氏

 糟屋庄の起源は平安中期にまでさかのぼる。左大臣藤原冬嗣五世の孫の如丘(ゆきたか)という者は相模の国司として下向したが、任期満了後も帰京せずに糟屋に居住し、合法非合法の手段を用いて私領の拡張を図った。その子の元方にいたって他からの侵略を防ぐため武器をとって武士となり、糟屋太郎元方と称し、その子孫は連綿として糟屋庄を領有した。糟屋氏の系図は次の通りである。

 冬嗣―良方―常興―輔相―如丘―元方(糟屋太郎)―盛季(糟屋庄司)―久季(糟屋次郎)―家季(十郎兵衛家忠と改む)―義忠(岡本太郎)―光綱(糟屋庄司小太郎)―盛久(従五位以下筑後守)―久綱(糟屋庄司)―有季

 糟屋元方より八世の孫の糟屋藤太兵衛尉有季は、祖父の業を継いで当庄の庄司となった。それとともに、新興武士の棟梁である源頼朝の家人となり、当地の地頭職に補せられ、頼朝・頼家の二代に仕えてしばしば功を立てたことが、『吾妻鏡』や『源平盛衰記』などに記されている。しかし、有季は比企官能員の女婿であったため、建仁3年(1203年)の乱に組して敗れ、比企一族とともに自害して滅びた。高部屋神社の境内を含めた一帯の地を「丸山」と称し、この地に糟屋有季の居蹟があったと伝えられている。ここは東西180m、南北200mほどで、今でもところどころに周囲の堀の遺形が残っており、この辺りの小名を「殿の窪」といっている。
 有季の没後の承久3年(1221年)に「承久の乱」が起こり、有季の子である左衛門尉有久は後鳥羽院の武者所に弟次郎長久とともに仕えていた関係から、後鳥羽上皇方に属して戦死した。しかし、三郎有近と弟の四郎久季は鎌倉幕府の軍中にあって功を立て、それぞれ上皇方の兵一名を討ち取っているので、有季の死後は2人のうちのいずれかが丸山の居館を維持していたと思われるが、もちろん糟屋庄司としての昔日の勢力は失われていたと考えられる。高部屋神社としてもその神威を誇っていた最盛期は糟屋有季のときまでであったと思われ、最盛期には当社は大住郡127ヶ村の総鎮守であったといわている。その範囲は大住郡のほとんど全域に及んでいたので「大住大明神」といわれ、また大住郡惣社とも称せられた。そのころには、毎月五と十の日に下糟屋において市が立ち、群集が集まって賑わったと伝えているが、おそらく当社を中心として市が立てられたと思われる。
 享徳年間(1452〜55年)になると扇谷上杉の憲忠が古河公方の足利成氏と戦って糟屋に陣しており、さらに文明18年(1486年)に上杉定正はその糟屋の居館に、功臣の大田道灌資長をあざむき招いてその風呂場で暗殺している。もっとも、そのときの定正の居館は下糟屋ではなく上糟屋にあったようで、石野瑛氏によれば定正の館址は上糟屋の中ほどの館原(やかたばら)というところにあり、東西四、五町(約430〜540m)ばかりで、四周に空濠をめぐらす一帯の台地で、東南に遠く相模平野を見下ろす形勝の地であるという。このように上杉定正の居館は上糟屋にあったが、これと隣接する下糟屋も当時は同じく糟屋と呼ばれ、上下の区別なく定正の支配下の領域となっていたと考えられることから、高部屋神社も前々から上杉家の庇護と崇敬を受けていたと思われる。しかし、定正が道灌を殺害した後は扇谷と山内の両上杉氏は不和となり、ついには互いに戦うに至った。上粕屋と西富岡の両部落にまたがって「実蒔原(さねまきばら)」とう高原があるが(現在の高部屋小学校の北方)、ここは両上杉の戦った古戦場であると伝えられている。そのころ、高部屋神社はおそらく戦火を受けてその社殿はまったくなくなったように思われる。その理由として道灌の死後60年余を経た天文20年(1551年)に、時の地頭渡辺石見守なるものが当社の社殿を再建造営したことが、そのときの棟札によって判明していることがあげられる。
 江戸時代になると上下の糟屋村は何人もの徳川氏の御家人の分領するところとなって、高部屋神社としても勢力のある保護者を持つに至らなかったと思われる。明治以降においては郷社となり、下糟屋の鎮守として現在に至っている。


例大祭

 本祭の祭日は天保12年(1841年)完成の『新編相模国風土記稿』によると旧暦の7月7日で、明治20年(1887年)の『下糟屋村外六ケ村地誌』によると10月10日になっている。祭日は第二次大戦後も4月になったり10月になったりその時々で変更されてきたが、昭和50年(1975年)代以降は9月15日に定着し、近年は9月第3日曜日となっている。大祭のほか正月、2月、11月、12月に小祭を営む。以下に、9月15日に例大祭を行っていた頃の、祭礼の流れを紹介する。
 祭礼は9月13日の幟立てから始まったが、昭和30年(1955年)代の前半頃から幟は立てられなくなっている。幟は2枚を1組としそれぞれに「高部屋神社」と「八幡大菩薩」と書かれており、神社前、中宿と下宿の境、宮坂、弥杉の4ヵ所に矢倉沢往還を挟んで立てられた。
 翌9月14日には「汐汲み」または「汐汲みの儀」と呼ばれる神事が行われ、6つの町内が年番で務める宮当番が大磯町の照ケ崎海岸へ出向き、シオ(海水)一升、海藻のホンダワラと砂を採ってくる。汲んできた海水は一升瓶に入れたまま「鎮火水」と書いた紙を張って神前に供え、ホンダワラは注連縄につけて拝殿の入り口と鳥居の2ヵ所に飾り付け、砂は拝殿に保管しておく。戦前までは14日のヨミヤに神楽や芝居を厚木の方から呼んでいた。カカリ(費用)を出すとツボ(桟敷)がとれ、さらにハナ(寄附)を掛けると前の方の良いツボがとれたという。カカリアツメ(費用集め)は宮総代がする建前であったが、役者と交渉や段取りなどはすべて若い衆にまかされていたという。
 9月15日の本祭には高部屋神社の隣に建つ公会堂へ午前9時30分頃までに関係者が集まり、砂も拝殿より公会堂へ移しておく。10時に公会堂から砂まき(1名)を先頭にして、錫杖(2名)、宮総代(1名)、宮司(1名)、神官(2名)、役員の順で行列を作り神社の拝殿まで行進する。砂まきは盆に盛った砂を撒いて道を浄めながらゆっくりとした足取りで進む。かつては出発前に関係者が公会堂に一座してお茶が出されており、また公会堂ができる前はヤドを務める宮当番の家から出発していた。行列が拝殿入り口に着くと御祓いをうけてから昇殿して式典が執り行われる。神前には鎮火水とともにスルメ・コブ・オソナエ(カガミモチ)・赤飯・尾頭付き(魚を2尾腹合わせにして供える)・野菜(ショウガ・ネギ・ナス・サツマイモなど)・御神酒が供えられる。式典終了後は公会堂に関係者一同が会して直会が行われる。
 12月末の高部屋神社の大祓と正月六日の消防団の出初式には9月14日に採取した「鎮火水」が用いられ、大祓いには神社の北に祀られている水神近くに生えている斧を採ってきて宮自宅で微塵切りにし、それを本祭りの際に神前に供えた一升瓶の鎮火水に入れる。出初式には神前に供えてある鎮火水を下げて防火水槽と神社拝殿の屋根にふりかけ、それから各家を回って庭先に出してあるバケツに注ぎ入れたり、屋根に少しずつふりかけた。
 昭和60年(1985年)頃の下糟屋の宮総代6名は各チョウナイ(町内)から話し合いで1名ずつ選出され、任期は一応2年であるが、辞める時は後任者を推薦して他の宮総代の承認を受けなくてはならない。宮総代は高部屋神社の全行事に正装して参加することになっている。また、宮当番といわれる役があり、弥杉・久保・丸山(上宿)・中宿・本宿・下宿の6つのチョウナイが年番でつとめる。宮当番にあたったチョウナイでは20名程度が出て、宮掃除・注連縄張り・直会の準備・後片付けなどをする。なお、神社の祭典等の諸費用はアザヒ(字費)として各戸1,000円ずつ徴収して、そこから出している。


汐汲み神事(汐汲みの儀)

 現在の高部屋神社の例大祭は毎年9月の第3日曜日に行われ、例大祭の1週間前の土曜日に「汐汲み神事(汐汲みの儀)」が執り行われる。当神事は平安時代から大磯の照ヶ崎海岸で行われていたとされ、江戸時代までは僧侶が祭司を伴い執行したという言い伝えがあり、徒歩で照ヶ崎を往復していたと思われる。明治初年頃までは宮当番が神主を伴って照ケ崎海岸まで出向き、「受け取りの儀」を執り行っていたという。そして汲んできた海水で赤飯を蒸して神饌とし、砂は本祭の前に祭場となる社殿とヤドから拝殿までの通路を清めるために一部を撒いていたという。また、高部屋神社の旧社地だといわれるところに住吉様(住吉大明神)の石祠が祀られているが、住吉様に採ってきた海水・ホンダワラ・砂を供えて「仮祭り」をしていたとも伝えられている。
 当神事は明治初年頃の廃仏毀釈(神仏分離)の影響により途切れてしまい、昭和23年(1948年)頃まではこの汐汲みの役は青年会が担当していたという。その後は神社総代が使者として大磯まで出向き、海水・海藻・浜砂を採取して高部屋神社に持ち帰っていた。そのような状況で、全国でも非常に珍しい高部屋神社の汐汲みを復活させたいという思いから、明治元年(1868年)から150年目の節目にあたる平成29年(2017年)に正式な神事として復活させ、同年の9月9日(土)に約150年ぶりの汐汲み神事が行われた。
 現在の汐汲み神事は高部屋神社と大磯の照ヶ崎を車を使って移動し、照ヶ崎の海岸で伊勢原大神宮の宮司を祭主として神事が執り行われる。照ヶ崎の砂浜に忌竹(結界)を立てて茣蓙の上に祭壇を準備すると、氏子総代の挨拶で汐汲み神事が開始され、修祓や献饌、祝詞奏上などが行われる。神事の途中で白装束の3人の使者役が順番に呼ばれると「オー」という返事をし、3人は海へ入って海水、馬尾藻(ホンダワラ)、浜砂の順で採取し、これらは宮司に手渡されて祭壇に奉納される。なお、ホンダワラは事前に入手したものを重石に結び付けて海に沈めておき、鎌(カマ)で根元を切り取って採取する。その後は玉串拝礼や撤饌などが行われ、最後に宮司の挨拶で約30分間の神事が終了する。

汐汲み神事白丁装束の3名の使者役
柄杓で海水を汲む鎌でホンダワラを切り取る
竹筒で浜砂を採取汐汲み神事で使われる道具

 神事後に浜砂は追加で採取され、海水は一升瓶いっぱいに汲まれる。なお、3名の使者役は下糟屋自治会の自治会長1名と高部屋神社の役員1名、そして下糟屋地区代表1名の計3名となっている。海から採取した3種は高部屋神社に持ち帰られ、ホンダワラは鳥居の注連縄に飾られ、浜砂は金網のふるいで濾過して例大祭の「浜砂撒きの神事」で清めの塩の代わりとして使われる。海水は火難除けを祈願して、「鎮火水」として地元の消防団が地域を回る際に霧吹きを使って建物などに吹き付ける。なお、この「鎮火水」の名そのものは明治35年(1902年)の下糟屋の火災以来のものと言われている。
 この汐汲み神事では何故、遠く離れた大磯の海岸まで移動して神事を執り行っていたかは分かっていないが、高部屋神社の歴史を研究している同神社の元総代である服部登志夫氏によると、日本書紀に書かれている天智天皇5年(666年)に高句麗から日本へ来た使者であった玄武若光(高麗若光)との関係を指摘している。高句麗は668年に唐と新羅の連合軍に滅ぼされているが、若光はその後、高句麗へ戻らずに大磯の高麗地域を拠点に大陸文化を持ち込み、相模国の開拓・発展に関与したと考えられている。
 服部氏によれば高部屋神社とその祖神である「住吉大神」との関係を次のように推測している。大山の山頂に祀られているのは海の守り神である「鳥石楠船神(とりいわくすぶねのかみ)」で、後の「石尊大権現(せきそんだいごんげん)」である。そして大山の麓の日向地区に白髭神社(現在の日向神社)があり、御神体は若光とも言われる白鬚明神である。霊亀2年(716年)に若光が埼玉県日高市に移る前に、拠点である大磯の高麗から平塚市の白鬚橋(現在の矢崎に架かる橋)を通り、高部屋地区の渋田川の源流がある澁田山の古来の祭場に、若光が高句麗を出航してから航海の神として崇めていた「住吉大神」を、海の守り神の山である大山の麓にあえて合祀したと推測している。
 令和7年(2025年)9月6日(土)に行われた汐汲み神事は下記を参照。

 ※汐汲み神事へ。


大祭準備 (集合8:30)

 ここからは令和6年(2024年)9月15日(日)に行われた大祭当日の様子を紹介する。大祭も宵宮と同様に8時30分に集合し、祭壇の準備やテントの設営などの準備が行われる。9時50分頃になると太鼓連により祭り囃子が演奏され、社殿周りに大磯で採集されたお清め用の砂が撒かれる。

8時にお宮にやって来ました既に掃除を始めています
昨日の掃除で綺麗です本殿までは橋が架けられている
太鼓連の会長が大太鼓と締太鼓を山車へ移動
集合時間の8時半になりました宮総代は祭壇の準備
金棒と傘高張提灯を外に出します
テントを立ち上げ足を杭で固定
パイプ椅子を並べます山車では太鼓をセット
祭壇には野菜や果物などの供物が並べられます
階段にスリッパを並べるテント下にテーブルを設置
露店のトラックが到着掲示板に熨斗紙を張ります
神輿の屋根を磨くテントは高神會の受付になります
トラックが続々と到着します吹き流しの止め紐を外す
大神宮の宮司が到着しました熨斗紙が増えていきます
9時50分頃になると太鼓連が山車で太鼓を叩き
社殿では傘を広げて腰に固定し
砂を撒きながら本殿裏から回っていきます
本殿前に来ると橋を潜って正面を通過
本殿を1周します角付近で砂を撒きます
出発地点まで戻ると拝殿前を通過して反対側の角に砂を撒く

浜砂撒きの儀〜例大祭式典 (開始10:00、終了10:50)

 社殿周りに砂を撒き終わると、神社役員と伊勢原大神宮の宮司らは下糟屋公会堂へ移動し、10時丁度になると公会堂を出発して砂を撒きながら高部屋神社へ移動する。一行は鳥居を潜ると手水舎で身を清め、御祓所前で修祓を行ってから社殿にて例大祭の神事が執り行われる。

社殿周りに砂を撒き終わると神社の役員達は鐘楼横から
お宮を出発しメイン通りに出て左折
下糟屋公会堂の敷地に入り10時丁度になると
砂を撒きながら公会堂を出発砂撒きを先頭に金棒2名と
傘持ちと宮司が続き一行は鳥居から宮入り
手水舎ではお清めの準備一行は手水舎前に来ると
宮司から順番に参列者が身を清めていく
一行は再び列を整え社殿へ向かいます
御祓所の前まで来ると参道を挟んで整列
高部屋神社の神事は特徴があります
神職により社殿をお祓いし続いて宮司
巫女と参列者を修祓10時10分頃に宮司は社殿へ
参列者も社殿へ上がり拝殿で着席します
太鼓の合図で神事開始途中で巫女舞が入ります
10時45分頃に神事が終了しお神酒を配り
国会議員と県議会議員が挨拶
最後に宮総代の挨拶で乾杯
10時50分に解散します社務所横ではゴミ箱を設置
露店の準備も着々と進んで行きます

子供神輿発御 (式典開始12:05、出発12:40)

 例大祭の神事が終わると、子供神輿では出発式が執り行われ、神事が終わると子供神輿は高部屋神社を出発して、下糟屋地区を巡行する。

例大祭の神事が終わると高神會は人出を集め
神輿を担ぎ上げて社殿前に降ろします
神楽殿から子供神輿を降ろし神楽殿前に置きます
社殿から白い布を出して宮司が神輿に御霊を入れる
高神會は飲み物の準備神輿に忌竹を設置
高神會のテントでは神輿の友好団体が受付
12時5分になると子供神輿の出発式が始まります
修祓、祝詞奏上に続き玉串拝礼
子供会に続き交通安全指導員
最後は太鼓連の会長乾杯で12時15分頃に終了
太鼓連は山車で太鼓を演奏友好団体が続々と到着します
子供会は台車を裏から移動し鳥居前に止めます
大神輿の忌竹を外し神輿を担ぎ上げて
180度旋回し正面を鳥居側へ向ける
子供神輿が移動を開始し鳥居を潜って
一旦台車の上に乗せ子供たちを集めると台車を抜き
担いでお宮を出発下糟屋地区を練り歩く

神輿発御 (発輿祭開始12:45、宮立13:15)

 子供神輿が高部屋神社を出発すると大神輿前では発輿祭が執り行われ、神事後は高神會の司会進行で友好団体の紹介が行われる。式典が終わると一本締めで神輿が担がれ、境内で甚句を交えながら神輿を揉み、高部屋神社をお発ちして下糟屋地区を渡御する。

子供神輿が出発すると大神輿前では発輿祭が始まる
玉串奉奠は高神會会長宮総代
太鼓連会長に続き最後は高神會の初代会長
10分ほどで神事を終えここからは高神會の司会進行
最初に高神會会長の挨拶続いて宮総代の挨拶
続いて友好団体の紹介代表者が前に出て
挨拶をします紹介が終わるとお神酒を配り
前宮総代の挨拶で乾杯
一本締めて神輿を担ぎ上げます
太鼓連が太鼓を演奏神輿では甚句を入れながら
境内で5分ほど神輿を揉むと
鳥居へ向かい一旦肩から下ろして
鳥居を潜ります高張提灯が神輿を先導します
再び神輿を担ぎ上げ甚句を入れながら
ゆっくりと西へ進みます下糟屋は甚句が良く入ります
暫く進むと前方の台車が後退し
ここからは台車での移動ですこれから下糟屋地区を練り歩く

  ※このあとは神輿渡御へ。


神輿宮入 (宮入19:10、着御19:20)

 最後の休憩場所である友禅ふく和をお立ちした神輿は、鳥居前で甚句を入れながら暫く揉み、19時10分に宮入りした。神輿は甚句を交えながら境内で揉まれ、芯出しを終えて馬の上に下ろされると、最後は高神會会長の三本締めで神輿渡御が終了する。宮付け後は直ぐに神輿から御霊が抜かれ、友好団体は境内で直会を行う。

境内では太鼓連が演奏を再開宮入に向けて参道を開けます
先導の高張提灯が到着し先に宮入りして社殿へ向かう
神輿も鳥居前に到着しますが直ぐには宮入りせず
迫る神輿を押し返し
甚句を入れて神輿を揉みます
鳥居前で5分弱ほど神輿を揉むと
轅を抱えて19時10分に宮入り
再び神輿を担ぎ上げるここで甚句を入れ
参道で神輿を揉みます芯出しに備える高神會会長
神輿は社殿へ向かい社殿前に押し寄せます
神輿をいったん後退させ甚句を入れて揉みます
境内は熱気に包まれます甚句を入れながら
芯出しを繰り返します友好団体が次々と甚句を入れる
芯出しは後半に差し掛かりますボルテージは最高潮に
芯出しを見守る宮総代最後は高神會が甚句を入れ
神輿を揉むと社殿に押し寄せます
会長の拍子木が打たれ神輿を馬の上におろします
無事に宮付けされると最後は高神會会長の三本締め
宮付け後は直ぐに白いシートで神輿前を覆い
神輿から御霊を抜きます友好団体は境内で直会

余興、還御祭、片付け

 神輿が宮付けされると社殿では還御祭が執り行われ、神楽殿では余興としてビンゴ大会と餅撒きが行われる。19時50分には全ての行事が終わり、21時頃まで後片付けが行われる。

神輿が宮付けされると神楽殿前には地元住民が集まり
19時半からビンゴ大会が始まる盛り上がっています
社殿では還御祭こちらは神輿前で記念撮影
ビンゴ大会が終わると餅撒きが行われます
餅撒きが終わると19時50分に宮総代の挨拶で
全ての行事が終わりました住民は帰路に就きます
私も餅を拾いました10円玉が入っています
高神會は友好団体をお見送り神輿では片付けが始まります
鈴を外し捩りを解きます
子供神輿でも片付けの準備飾りを全て外すと
馬を轅側にずらし楔を外します
子供神輿を持ち上げ神楽殿の上へ
運搬用の轅を縁の下から出し大神輿の担ぎ棒を抜いて
短い轅を通します轅を抱えて神輿を持ち上げ
神輿殿へ移動し大神輿を納めます
轅は抜いて神楽殿横へ太鼓連は山車の横で直会
社殿では提灯を外す露天商も撤収の準備
幟の支柱は彫刻を外し神楽殿へ運ぶ
轅は神楽殿の縁の下へ収納神楽殿から紅白幕を外します
子供神輿を抱え上げ裏側に降ろし
運搬用の棒を抜いて箱の中に納めます
大神輿の馬子供神輿の台車
子供神輿の馬を神楽殿へ上げ本日の神楽殿の片付けは終了
幟支柱の提灯を外します時刻は21時です
高神會は片付けを終えると会長の挨拶
手締めで解散します社殿では幕を畳み
戸締りをして解散します明日は片付けがあります

 例大祭の翌日は朝から片付けが行われ、幟の支柱外しや山車の解体などが行われる。



             



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