下糟屋
高部屋神社
「高部屋(たかべや)神社」は『延喜式』の神名帳に記載されている相模国13座の1社で、市内の延喜式内社はこの他に大山の阿夫利神社と三ノ宮の比々多神社がある。もとはこの地より西方700mほどの小名「弥杉(いやすぎ)」(東海大学病院周辺)にあったのを、鎌倉時代に糟屋庄(かすやのしょう)の庄司(しょうじ)であった糟屋氏がみずからの館の近くに移したといわれる。『神祇志料』によると当社がもとこの弥杉にあったのを、のちに現在地に遷祀したものだと記しており、郷土史家の石野瑛氏などもこの説をとっているようである。創建年代は不詳であるが紀元前655年とも言われており、糟屋住吉の大神として又の名を「大住大明神」と呼ばれ、武門・武士を始め万民の崇敬を受けた古社である。文明18年(1486年)に上杉定正大般若経函修理等のことがある。江戸時代中期頃までは、別名「糟屋八幡宮」と呼ばれ名社の名を謳われた。
天保12年(1841年)完成の『新編相模国風土記稿』によると下糟屋村の鎮守は「八幡宮」(現在の高部屋神社)で、その別当は「神宮寺(臨済宗)」で社僧として「円福寺(古義真言宗)」があった。そのほかの社として「若宮八幡宮」は仁寿元年(851年)に東三条左大臣の息子兵庫頭某が当地に下向し、その子の岩若丸が当村の能条氏を継ぎ、父の遺骨をここに納めて八幡宮を勧請したものと伝える。天正19年には社領一石五斗の朱印地が与えられた。「浅間社」には天正19年に社領二石の朱印状が与えられていたが、寛政2年(179年)正月の別当寺の火災で焼失してしまった。『風土記稿』によれば再発行はついでの時にと命じられたと記している。この他には「住吉社」があった。
寺院には鎌倉建長寺の末寺「千秋山普済寺(臨済宗)」があり、慶安元年(1648年)8月に寺領十石の朱印状が与えられている。同じく建長寺の末寺「法雨山大慈寺(臨済宗)」があり、中興開基を大田道灌とする。この他には江戸芝(東京都港区)増上寺の末寺で東台山西光寺と号する「南蓮寺(浄土宗)」、日蓮宗で鎌倉比企谷妙本寺の末寺「学清山法眼寺」があった。村内の西部には大慈寺持の大田道灌の墓と伝わる一区があり、傍らには榎の大樹が繁っていた。上粕屋村にも墓があって胴塚とし、ここは首塚と称している。かつては槽屋荘の開発者糟屋氏系統の人物で源頼朝などに仕えた「糟屋左衛門尉有季」の居蹟なども残っており、旧家として亀井道怡家、山田亀吉、能条安左衛門家などが知られていた。鎌倉時代の御家人糟屋有季(かすやありすえ)の館は、高部屋神社の境内も含めて「東西百間余り(役180m)、南北百十間余(約200m)」にわたって広がっていたという。
古社たる由縁には「汐汲みの神事」があり、更に雅楽3面の古面と、源朝臣・頼重施入の経巻・上杉定正が寄進の大般若経の写経の伝来があり、境内の釣鐘堂には至徳3年(1386年)に平秀憲が寄進した梵鐘(県重要文化財)が今でも時を刻んでいる。京都宇治にある黄檗山万福寺7世で、中国の福建省・泉州府・晋江県からの渡来僧、悦山道宗筆による「八幡宮」の扁額(元禄初期の作)がある。本殿前の狛犬を寄進した行按・行白も臨済宗・黄檗派の僧で、別当「糟屋山神宮寺」と共に黄檗派との関係が深かったと思われる。この神宮寺は鎌倉建長寺(臨済宗)の末寺で、金剛頂寺(古義真言宗)の末寺の「照林円福寺」が社僧をつとめた。この神宮寺と社僧の円福寺は明治維新の神仏分離により、明治10年(1877年)頃に廃寺となっている。
高部屋神社があるこの地は、千鳥ヶ城と呼ばれる要害が北条氏の滅亡まで社地の続きに存在が最近の調査で認められた。鎌倉時代に源頼朝の家人、藤原鎌足・冬嗣の血を引く糟屋庄の地頭「糟屋藤太左兵衛尉有季)の館跡と言われていて、高部屋神社を守護神として社殿を造営した。室町時代に入ると、将軍・足利氏の家人団・上杉一族の関与があったと思われている。糟屋氏・上杉氏と関わった武士達の興亡をのせてきた高部屋神社も、北条氏を迎え、相模国風土記稿に載る、天正9年(1581年)5月10日八幡宮境内の3ヶ条、松山城主・上田能登守長則の禁制(法度)が知られている。
社号柱 | 鳥居 |
神社由緒 | 手水舎 |
八坂神社(神輿殿) | 神楽殿 |
鐘楼 | 御?所 |
拝殿 | 本殿 |
金刀比羅宮 | 稲荷 |
水神 | 庚申 |
境内 | 下糟屋公会堂 |
天文20年(1551年)に地頭・渡辺石見守が社領10石を寄進されて朱印状を頂き、同年に渡辺氏が社殿を造営したものとされる。天保4年(1647年)には元の社殿をそのまま活かして再建し、拝殿と幣殿は慶応元年(1865年)に再建され現在に至っている。草葺き屋根の拝殿(横三間・縦二間)の欄間(らんま)には大きな竜の彫刻などを施しており、正面の頭上に山岡鉄舟の筆による「高部屋神社」の社号額が揚げられている。銅葺きの流れ造りである本殿(五間・二間)は幣殿の北6mほど隔てたところに独立して建っており、地面より3mほどの高さの土台があり、三段に石垣を築いた上に設けられている。正面に向拝があり、周りに回廊をめぐらし、これを支える形のよい柱が四隅に立っており、扉は朱と黒の漆塗りで、木材は全て檜である。この本殿は大正12年(1923年)の関東大震災により倒壊したので、昭和4年(1929年)に復興再建したものであるという。明治6年に村社に、大正6年7月には郷社となる。
高部屋神社の本殿は地方の農村地帯のなかの神社としては、また当社の拝殿その他全体とのつりあいからいっても立派なものである。関東の神社一般においてはかなり規模の大きい神社でも、本殿と拝殿はほとんど相接して建てられており、その間を幣殿でつながれているのが普通であるが、当社の本殿は近畿地方のもののように拝殿よりだいぶ離れて独立して建てられている。また、関東の諸社では拝殿は大きくても本殿は一間四方の小さい殿宇(でんう)であるのが普通であるが、当社の本殿は五間二面と大きい。
本殿と幣殿の間には享保12年(1727年)の作である一対の狛犬が石台の上に置かれ、拝殿の前にも天保11年(1840年)の狛犬一対が置かれている。また、『風土記稿』によれば当社に応永28年(1421年)に奉造された石灯籠のことが記されており、この灯籠は現存していないが同書によると次のような銘が記されてあったという。「奉彫造 相州糟屋惣社 正一位八幡大菩薩御廟前 石灯籠一基(中略) 応永二十八年九月下旬天 勧進主重光敬白」
境内の東南隅近くには鐘楼があり、そこに掛かる古鐘の銘には「相州大住郡糟屋庄惣社 八幡宮鴻鐘銘 夫当社者瑞籬最久 威光森明 星霜甚旧(中略) 仰願者 天地長久 国家治世 信心檀那 家内繁昌 息災増福 志弘法界 一切群類 利益平等 願主平秀憲 至徳三年丙寅十二月 大工河内守国宗」と記されている。また、当社の社宝として古い伎楽面(ぎがくめん)が三面保存されており、これらは明治の中ごろまで雨乞いに使用されていた。神社近くに水神を祀った湧水池があり、早天が続くと神官が祝詞を奏上し、古面をかぶった2人が互いに水をかけあって雨乞いをしたと伝えている。
祭神
現在の祭神は主神が「神倭伊波礼彦命(かむやまといわれひこのみこと)/神武天皇」で、相殿(あいどの)として「誉田別命(ほむだわけのみこと)/応神天皇」・「息気長足姫命(おきながたらしひめのみこと)/神功皇后」・「大鷦鷯命(おおささぎのみこと)/仁徳天皇」・「磐姫之命(いわのひめのみこと)/仁徳天皇の皇后」および「三筒男命(みつつおのみこと)/住吉大神」の五神(三筒男命を三神とすれば七神)を祀っている。ところが、『風土記稿』をみると江戸時代末期における当社の祭神は中央が「応神天皇」で、右に「若宮大神(仁徳天皇)」と「息長足姫大神」、左に「姫宮大神(大日?貴尊(おおひるめむちのみこと)・天照大神)」と「住吉大神(表筒男命(うわつつのおのみこと)・中筒男命(なかつつのおのみこと)・底筒男命(そこつつのおのみこと))」となっている。従って現在のイワレヒコノミコトは祭神となっておらず、同神は明治以降において祭神に加えられたものと思われる。
応神天皇を主神にしたことは、当社がその頃八幡宮と称していたことからも肯定される。なお、幕末の鈴鹿連胤(すずかよりたね)の著作にかかる『神社覈録(かくろく)』にも、高部屋神社の祭神は誉田別尊なりとしている。
宵宮準備/午前 (開始8:30)
ここからは令和6年(2024年)9月14日(土)の宵宮の様子を紹介する。宵宮当日は朝8時30分に高部屋神社に集合し、社殿や神楽殿の掃除、幟の支柱立て、神輿や山車の準備などが行われる。なお、幟は竿の老朽化により立てることが困難な状態であるため、幟の支柱のみを地中に固定するだけで幟を上げていないが、支柱だけでも非常に重厚感があり、支柱に取り付ける彫刻もまた非常に精巧に彫られている。
7時45分にお宮に来ました | 宮総代が社殿の鍵を開け |
幣殿の窓と | 本殿側の戸を開けます |
幣殿と拝殿の間の引き戸を開け | 拝殿正面の戸を開けます |
拝殿には胡床が並びます | こちらは |
社殿を出ると金網と | 持ち手の着いた枡を用意 |
先週、大磯で取って来た砂を | 網でこして行きます |
紙で受けた砂を | 枡の中に入れ |
社務所に移動 | 砂は明日の例大祭で使います |
集合時間の8時半になると | 社務所前に集まります |
ユニック車が到着しました | 準備の段取りを説明し |
御神酒を配ると | 宮総代の挨拶で |
乾杯し | 準備が始まります |
最初に神楽殿へ向かいます | こちらは落ち葉を集める |
神楽殿の横側から | 戸を外し |
八坂神社に立て掛けます | この戸はこの後に |
掲示板として使われます | 神楽殿から神輿の |
馬を運び出す | 今度は正面の戸を外し |
神楽殿の裏へ | 1枚が大きいので |
人出が必要です | 正面は4枚あります |
穴を掘り出しました | 拝殿では戸を拭き掃除 |
続いて右側の戸を外し | 奥の木へ立て掛ける |
もう一枚の戸も外します | 拝殿内でも掃除が始まる |
神楽殿からブルーシートを出し | 地面に重ね置き |
穴掘りが続きます | こちらは拝殿に吊るす |
提灯枠です | 大きいブルーシートを出し |
小さく畳みます | 今回は使いませんが |
幟を吊るすための | 先端部分です |
ブルーシートをもう1枚外すと | 角状のものが出てきました |
上に乗っている彫刻類を | 運び出します |
かなり大きな幟の支柱です | ユニック車を神楽殿前に移動 |
大神輿の台車は | 重いのでフックをかけて |
クレーンで持ち上げて | 境内に下ろします |
子供神輿の台車は小さいので | 人力で下ろします |
台車をおろすといよいよ | 幟の支柱の移動が始まる |
支柱にスリングベルトを巻き | クレーンで横にずらしながら |
神楽殿から出して | 荷台に降ろします |
先ほど掘っていた穴は | 支柱を入れる穴の上面でした |
ユニック車を移動させ | 支柱を上げて |
地面におろすと | スリングベルトを掛け直し |
支柱を縦に持ち上げ | 穴の中へ入れます |
楔で固定して | スリングベルトを外します |
社殿の外廊下をモップ掃除 | ユニック車を再び神楽殿に寄せ |
もう片方の支柱を | 荷台に載せます |
神楽殿から山車の屋根と | 破風を運び出します |
こちらは山車の柱類です | こちらは忌竹用の竹 |
神楽殿から支柱に飾る | 彫刻を運び出す |
非常に貴重な彫刻です | 外した彫刻を掃除します |
もう片方の支柱を | 穴の中に納めます |
子供神輿を神楽殿から出し | 馬の上に降ろします |
準備開始から1時間が経ち | 9時半過ぎにお茶が配られます |
こちらは松の葉のようです | 幟の支柱根元の隙間を |
塞ぐように板を並べ | 砂で埋めていく |
子供神輿の飾り紐をセット | 神楽殿を掃き掃除 |
神楽殿の床下から | 輿棒を取り出します |
続いて階段を取り出し | 神楽殿に掛けます |
10時になると人手を集め | 神輿殿へ向かいます |
中から神輿を引き出し | そのまま抱えて持ち上げると |
神楽殿の前へ移動し | 馬の上に降ろします |
箱台輪から | 運搬用の短い轅を抜き |
神楽殿の床下から | 担ぎ用の轅を抜き取ります |
もう一本の輿棒も取り出し | 地面に並べて置きます |
床下収納の戸を締め | 大神輿に轅を挿し込み |
馬を台輪下からずらして | 轅の下に移動 |
拝殿前には幕を張ります | 子供神輿にも輿棒を入れ |
飾紐で輿棒を固定し | 横棒が2本追加されます |
向拝下に提灯枠を取り付ける | 支柱では菱形に角棒を組み |
砂を積んだ軽トラを寄せて | 砂を曳き詰め根元の隙間を |
松の葉で埋めていきます | 反対側の支柱でも同様に |
砂を敷き詰めます | 松の葉が特徴的ですね |
支柱の根本正面に | 彫り物を取り付けます |
山車のトラックが到着し | 土台を組んで行きます |
高部屋神社の提灯が揃いました | 子供神輿の横棒を固定 |
山車では柱を立て | 棟木と軒桁を渡します |
お祓い所に注連縄を張り | 社殿前に竹竿を立てる |
支柱に付ける屋根を運び | 支柱の上部に取り付けます |
反対側も同様に取り付ける | 彫刻飾りの屋根になります |
山車の柱を荷台に固定 | 手前は屋根のパネルです |
手水舎に注連縄を張る | ポリバケツを水洗い |
支柱の軒下に | 彫刻飾りを取り付ける |
時刻は11時になりました | 提灯を付けて完成です |
山車では横架材を取り付け | 屋根と破風が付きました |
続いて提灯枠を取り付けます | 竹竿を支柱に縄で固定します |
鳥居の柱には | 笹を結びつけます |
子供神輿に紙垂を付ける | 銀杏の木にも紙垂を付けます |
2枚の布で縄を綯い | 轅の先端に通します |
鳳凰を運び | 露盤に足を差し入れます |
馬尾藻(ホンダワラ)を水に戻し | 柔らかくしていきます |
山車に太鼓枠を取り付ける | 鳥居の注連縄に紙垂を付ける |
11時50分頃に作業を中断し | 昼食を取ります |
宵宮準備/午後 (開始12:15)
昼食を挟んで午後も準備が行われ、お宮関係の準備は15時20分頃に、神輿の準備は17時頃に終了した。
昼食を終えると高神會は | 神輿の掃除 |
山車に提灯を取り付ける | 社殿前でも準備を再開 |
大神輿では | 捩り掛けが始まります |
テントの骨組みを組んでいく | 向拝柱には榊を取り付ける |
晒を折り畳んで | 両端から巻きます |
注連縄に紙垂を付ける | 山車に提灯を取り付ける |
鳥居の注連縄には馬尾藻が | テントに天幕を被せます |
竹竿に吹き流しを取り付け | 下部を巻いて固定します |
大神輿の屋根の上にあがり | 準備した晒を渡すと |
鳳凰から巻き付けて | 蕨手へ伸ばしていく |
山車に幕を回す | 注連縄に馬尾藻を取り付ける |
捩りは蕨手から | 轅へ下り |
きつく巻き付けて固定 | 巻き付けて固定します |
神楽殿には白い化粧幕を張り | 向上高校チアダンス部の張り紙 |
捩り掛けは下締めが終わり | 今度は上締め用の捩りを準備 |
更にきつく締め上げます | 子供神輿に榊を取り付ける |
神楽殿に紅白幕を張る | 境内中央では忌竹の準備 |
13時40分頃になると | 休憩を取ります |
山車には下糟屋太鼓連の青い幕 | タイラップで捩りを固定 |
捩り掛けは大変な作業です | 今年世界大会で優勝しました |
神楽殿の横では杭を打ち | 神楽殿の戸を立てた掲示板 |
熨斗紙を貼る芳名板になります | 神楽殿の両サイドに設置 |
捩り掛けもいよいよ仕上げ | 美しい仕上がりです |
捩り掛けが終わり榊を固定 | 14時50分にお茶休憩 |
大神輿の鳳凰に | 稲穂を取り付けます |
こちらは高部屋神社の幟 | 提灯に防水用のラップを巻き |
軒下の四隅に取り付け | 電球の配線を渡す |
15時20分頃にお宮関係の | 準備が終わり解散します |
提灯に電球が入りました | 轅の段差を均します |
子供神輿を持ち上げ | 神楽殿に載せます |
神輿康さんが鈴を持ってきました | 捩りに鈴を取り付けます |
手綱の結び方を教えて貰います | 高神會は17時頃に準備終了 |
山車出発式 (開始18:00)
太鼓連は17時過ぎから宵宮の巡行に向けて準備を進め、18時からは伊勢原大神宮の宮司によって、山車の出発式が執り行われる。
時刻は17時15分 | 山車に太鼓をセットします |
伊勢原大神宮の宮司が到着 | 山車を中央に移動させ |
山車の前に祭壇を設置 | 神楽殿と大神輿の提灯を点灯 |
太鼓連のメンバーが集まります | 祭壇の準備が整い |
18時に神事が始まります | 山車の巡行の安全を祈願します |
神事が終わると | 太鼓連会長の挨拶があり |
ジュースを配って | 乾杯します |
宵宮巡行 (出発18:30、到着20:55)
山車の出発式が終わると山車は高部屋神社を出発し、約2時間半かけて下糟屋地区を巡行する。巡行後は境内で直会を行い、22時頃に解散となる。なお、宵宮の夜から大祭の朝6時までは警備会社に依頼し、警備員2名が夜通しで警備にあたる。
太鼓連は山車に乗り込み | 神職は祭壇を片付けます |
山車の提灯が点灯し18時半に | “ブッツケ”から屋台を演奏 |
社務所前を通り | 社殿の右手から出発し右折 |
メインの通りに出て右折し | 社殿前を通過 |
交差点で信号待ち | 国道246号を渡ります |
坂を下って | カーブの手間で左折 |
東海大学病院前を通過し | 病院入口の交差点を通過 |
キックボクシング谷山ジムを通過 | 18時55分に渋田川前の |
駐車場に到着して休憩 | 発電機が故障しましたが |
19時15分頃に駐車場を出発 | 来た道を引き返し東へ向かう |
谷山ジム前を通過し | 東海大学病院を通過 |
突き当りを右折し | 国道246号を渡ります |
高部屋神社 | 下糟屋公会堂を通過し |
途中で右折して19時40分頃に | 友禅ふく和に到着し休憩 |
蓄電池で電気を復旧させて | 19時55分頃に出発 |
十字路の交差点を通過し | 途中で左折して |
よろずやで休憩 | 10分弱休憩し |
20時5分頃に出発し | 近藤商会自転車屋のT字路で |
左折して246方面へ下り | 道祖神の所で右折 |
途中で左折し | 突き当りを右折 |
左手に高速が見えます | 途中で右折して |
坂道を上がり法眼寺の | 所でメイン通りに出て左折 |
東へ進んで | 小田急線を横断し |
途中で左折して20時20分に | 休憩場所に到着 |
休憩を終えると20時35分頃に | 出発し来た道を引き返す |
小田急線を渡り | 近藤商会のT字路を通過 |
よろずや | 十字路の交差点を通過 |
ふく和を通過し | お宮の手前で右折し |
20時55分頃に宮入り | 社務所前を通って |
金刀比羅宮の前に停車 | テーブルと椅子を用意し |
叩き手は山車から降ります | 警備員2名が朝6時まで警備 |
太鼓連会長の挨拶で | 食事を取ります |
太鼓連は22時に解散 | 明日はいよいよ例大祭です |
このあとは大祭準備へ。
囃子
下糟屋では「下糟屋太鼓連」が祭り囃子を伝承しており、現在は「ブッツケ」と「屋台(ヤタイ)」のみが伝承されている。令和6年(2024年)の太鼓の練習は7月20日(土)から9月7日(土)の毎週土曜で、時間は19〜20時の1時間である。高部屋神社の祭礼において下糟屋太鼓連は山車の巡行を行うが、メインは宵宮の夜の巡行で、大祭当日は神輿の宮入り前に先導役として巡行し、それ以外は境内で太鼓を叩く。
山車(正面) | 山車(側面) |
かつて下糟屋では青年会の内部に神社の祭礼や盆踊り、また普済寺の4月19日の「半僧坊」の祭礼に、「大太鼓」・「小太鼓」・「横笛」・「擦り鉦」からなる楽器で音曲を披露する太鼓連の組織が古くから伝えられてきた。太鼓連は下糟屋のほか、成瀬村の周辺では伊勢原の池端、東大竹などに組織され、下糟屋と池端は相互の神社の例祭に往来して太鼓を競いあう「ツキアイ村」であった。下粕屋の太鼓連は青年会存続当時は会員全員がメンバーに入るのではなく、内部で関心・興味をもつ者の任意参加となっていた。太鼓の技術や音曲をいつの時代にどこから受け入れたかは今日明らかではない。
かつては、現在叩かれている「屋台(ヤタイ)」以外にも、奏楽順に「マモノ」・「神田丸」・「下がり藤」・「鎌倉」・「仕丁舞」・「ニンバ」というそれぞれ曲調の異なる6曲が伝えられていた。下糟屋では先人が手書きで書いた譜面を平成4年(1992年)から平成23年(2011年)の間にまとめた譜面が残されており、それらを表にまとめたものを下記に記載する。下糟屋の囃子は伊勢原市池端や平塚市城所などと共通点が多く、池端は明治年間(1868〜1912年)に城所から習ったという伝承があることから、下糟屋の囃子も城所との関係性が強いと推測される。
なお、「マモノ」という曲名については平塚市入野に「間物(マモノ)」という組曲が現在でも伝承されており、下糟屋の「マモノ」の譜面を見る限り入野の「間物(マモノ)」の中の「ジショウデン」という曲に類似していることから、下糟屋では「ジショウデン」から始まる組曲である「間物(マモノ)」がそのまま曲名として捉えられた可能性が考えられる。
曲名 | 備考 | |
1 | ブッツケ | 「そうりゃ」の掛け声で屋台に入る |
2 | 屋台(ヤタイ) | この後は『キザミ』→『セメ』→『セメクズシ』→『乱拍子』の順で各間には屋台2回を挟む |
3 | キザミ | 5〜6回繰り返す |
4 | セメ | 5〜6回繰り返す |
5 | セメクズシ | 5〜6回繰り返す |
6 | 乱拍子 (ランビョウシ) | 6〜7回繰り返す |
7 | @マモノ | 何回叩いても良い |
8 | A神田丸 | 1回叩く |
9 | B下がり藤 | 1回叩く |
10 | C鎌倉 | 何回叩いても良い |
11 | D仕丁舞 | 『仕丁舞の地』※何回叩いていも良い→「そうりゃ」→『仕丁舞の玉』※3回叩く |
12 | E神馬/ニンバ/バカッ囃子 | 何回叩いても良い→『乱拍子』→『屋台』→『キリバチ』 |
13 | キリバチ | 全て太鼓が終わる時に叩く |
青年会が成立していた当時、太鼓連は毎月1日と15日のモノビ(農休みの日)の昼間や、神社や寺の祭礼の前には連日夜中まで神社の境内や公会堂に集まって練習に励んだ。そして、とくに神社の祭礼では太鼓連が宵宮で太鼓を披露するほか、当日は神輿の巡行に従い山車に乗ってムラ中を練り歩いた。明治期には山車が2台あり、1台は太鼓を叩くためのもの、また1台は仮面を被った若者達が「ひょっとこ踊り」などを踊りながら巡行するためのものであった。また、昭和20年(1945年)代まで下糟屋周辺のほかのムラの青年会とのあいだに「祭りづきあい」という付き合いがあった。他地区の祭日に太鼓連を中心とする青年会員が月番の準備する弁当を持ち太鼓を担いで行き、神社で太鼓を競争してナハを得てきたのである。この付き合いは成瀬村内では東富岡と行われたことがあるが、下糟屋と同様に太鼓連が組織された旧伊勢原町池端とはもっと親密な関係にあった。
こうした伝統を持った太鼓連も、昭和30年(1955年)頃の青年会の解散に伴って一旦組織を解体した。しかし、その後14、5年を経た昭和45年(1970年)頃から、若い人々の親睦団体が何もない下糟屋で親睦団体を作ろうという動きが特に30歳前後の青年層の間から現れ始め、その手段のひとつとして太鼓連の復活の声が徐々に持ち上がったのである。しかし、太鼓連を復活されるにも太鼓は既に傷みが激しく、法被(はっぴ)などの衣装もなく、さらに以前から伝わってきた太鼓、横笛などの曲調を十分に記憶している人もほとんどなかった。そのため復活は一時頓挫しがちになったが、橋本幸男氏を中心に青年層の相談役にあたった人々がリーダーとなって自治会の役員たちに話をもちかけ、昭和52年(1977年)の春からようやく復活した。その太鼓連は旧来のような青年層だけによるものではなく自治会の有志により組織され、初めは顧問11名、賛助会員1名、会員30名で再出発した。傷んだ太鼓の張り替えや衣装作り、また山車の修復などに要した金額は100万円近くに上がったが、一部自治会からの支出があったとはいえ大部分は「お前たちがやるのなら」と届けられた寄付金によっている。また再発足当時、横笛の曲調を伝承するのは亀井正男氏1名だけで、池端の人の指導も受けたのである。
再発足当時から太鼓連では太鼓・横笛・鉦などを小学生に習わせようという計画があったが、勉強を強いられる子供たちに太鼓連への参加を誘うことも難しかった。青年・中年層が昔からの音曲をマスターし得た頃にようやく7〜8人の高学年児童が太鼓連に参加し、すでに太鼓の叩き方だけは習得した。こうした児童を含めて太鼓連は約50名で組織されるようになり、会員は年額3000円の会費を納め、その会費と祭礼などであがるハナにより楽器などの維持と会の運営が賄われるようになった。
神輿
高部屋神社には大神輿1基と子供神輿1基があり、大神輿は令和5年(2023年)に『神輿提灯工房 茅ヶ崎神輿康』で修復が行われ、その際に見つかった神輿内部の『慶應二丙寅歳八月吉日』の墨書から、慶応2年(1866年)の建造である可能性が高い。また、高部屋神社の社殿には慶応元年(1865年)の棟札が残されており、神輿の墨書と社殿の棟札の書体が非常に似ているため、棟札に記載されている相模国梅沢(現二宮町)の宮大工であった杉崎周助政貴が高部屋神社の神輿を建造したと推測される。神輿に使われている彫刻は全体的に非常に精巧に仕上げられており、桝組の梟(ふくろう)や戸脇で仰向けになって腹を見せる龍は非常に珍しい。
大神輿 | 大神輿 |
神輿の墨書(慶應2年) | 社殿の棟札(慶應元年) |
子供神輿 | 大神輿の精巧な彫刻 |
桝組の梟(ふくろう) | 戸脇で腹を見せる龍 |
令和5年(2023)年の修復で慶應2年(1866)の墨書が発見される前は、大正12年(1923年)9月1日の関東大震災で神輿が潰れ、現在の神輿はそれ以降に作られたものであると考えられていたが、実際は新造ではなく修復された可能性が高いと推測される。その神輿再建の中心を担ったのは当時の青年会で、当時の部落総代に神輿の再建を何回も願い出たが聞き入れられなかったため、米の販売などで貯えた青年会の資金と有志の家から募った寄付金で再建された。神輿の屋根は板金仕上げになっていて、屋根の一部が継ぎ接ぎ状態になっているが、これは神輿の修復時にできたものだという。なお、慶應2年(1866年)の新造時の屋根は木製だと思われるが、いつ頃に板金葺きに変わったかは不明である。神輿は八坂神社の社殿を神輿殿として保管されている。
屋根の修復跡 | 八坂神社(神輿殿) |
修復された神輿は昭和30年(1955年)代の前半頃まで担がれていて、当時は三之宮比々多神社と同じ「ヤートーサッセ」の掛け声で担いでいた。青年会の35歳くらいまでの若い衆30人で担いだが、90貫(約340kg)という重い神輿なので50人くらいが交代で担いだ。渡御の行列は太鼓3名(担ぎ手2名、打ち手1名)、猿田彦1名(矛を持ち面をつけて足駄を履く)、榊2名(白木の枠に横木を渡し、中央に榊を飾り付けたものを前後で担ぐ)、神輿40〜50名、神主の順であった。渡御の順路は神社→宮坂→弥杉→宮坂→神社→中宿→本宿→下宿→菖蒲田→下宿→中宿→神社の順で、途中で神輿を降ろして休むところは弥杉、久保、丸山と中宿の境、本宿と下宿の境の4ヵ所くらいであった。なお、高部屋神社の祭礼で子供神輿が出るようになったのは近年になってからである。
昭和30年代の後半頃から神輿は担がれなくなったが、太鼓連の復活の声が上がった当時から、一部の人たちのあいだで神輿の巡行も復活させようという意見があった。しかし、神輿の修復に相当の金額が必要なこと、また昭和52年(1977年)に山車を復活させた時でさえ巡行には小田急線と国道246号線を横断するため警察の許可が簡単には下りず、折衝の末ようやく昔からの習慣だからということで承認された経緯から、神輿の巡行となるとその折衝も容易ではないことなどを理由に、神輿の復活は自治会で公的な話題にならなかった。しかしながら、平成元年(1989年)頃に高部屋神社の神輿会として『高神會(こうじんかい)』が結成され、初代会長の斎藤勇らの尽力により神輿渡御が復活した。なお、神輿を担ぐ時の掛け声は『どっこい』に変わっている。
青年会
成瀬地区においては明治44年(1911年)5月に成瀬村統一青年会が成立する以前から各集落に若者の組織があり、ムラの生活の中でさまざまな役割を担ってきた。この青年会に統一される以前の若者の組織は集落個々に名称を持ち、下糟屋では明治初期には一時「国民義勇軍」とも称したというが、明治40年(1907年)代には「若連」とよばれた。
下粕屋の青年会は長男、二男を問わず15〜35歳の男子によって構成された。昭和30年(1955年)頃に解散するまでこの年齢幅は守られ、戦後の教育制度の改革後は中学2年生を終えると青年会に加入した。加入・脱退するのは1月15日の戦前には「お日待ち」とよんだ集会の席であり、この集会は昭和12,13(1937,1938)年に公会堂が完成する以前には多人数が入れる大きな家を借りてカミとシモに分かれて行われた。この集会で役員の改選やその年の事業計画を話し合い、そのあとに新入りの者を会場の上座に据え、卒倒するまで酒を無理強いに飲ませて無礼講を開いた。青年会に加入すると「一人前」とみなされ、ムラの各種の共同労働で家を代表することができた。青年会の定期的な集会はこの1月15日のほか、5月5日(成瀬村青年会の創立記念日)、そして高部屋神社の祭礼の前後であった。
青年会の役員には会長・副会長・幹事の三役があり選挙で選ばれ、通常は役員には34,5歳の年長者が選ばれた。青年会の内部では例えば集会などでの席順は年齢順が守られ、年が上であることがひとつの権威となった。しかし、神奈川県の沿岸地方に見られるような年齢層によって幾つかの段階に区別される内部の名称区分はない。青年会では1月の集会の時に全員が籤(くじ)をひいて「月番」を定め、当番の月には種々の役割を努めることになっていたが、15〜35歳までと構成員に年齢幅があるため、若い者、とくに新入りの者は年長者に何かと指示され下働きに追い回された。また35歳までは婿養子にきた者も加入し、年少者と同様の扱いを受けた。
青年会の会費の多くは青年会内部に組織された太鼓連に祭礼などであがるハナ(御祝儀)で賄われ、大正期から昭和の初期にかけては下糟屋字域内の田へ水を引く堀の土地を地主から借り、そこに会員が自宅から持ち寄った稲苗を植えて収穫し、その米を稲束のまま字内の家に買い取ってもらいこの金を会費に充てたこともあった。通常は8表、多い年には10表収穫でき、昭和初期の安いときで1表13円で売れた。
青年会の役割の中心は祭礼の準備と後片付け、そして祭礼の花形である神輿や山車の運行、余興の開催である。大正期までは若連ないし青年会に入ると義太夫を習い、祭礼の余興として披露し、またその頃には現在の厚木市愛甲から師匠を招き「三番叟」から始まる神楽や芝居を習って披露したこともある。昭和30年(1955年)頃に青年会が解散したひとつの要因は、下糟屋内の道路に車の通行量が増し、高部屋神社の祭礼の時に青年会により長年立てられてきたカミ、シモ2ヶ所の幟が立てられなくなり、また神輿と山車の運行ができなくなったことという。現在、山車の運行だけは太鼓連の人たちにより復活したが、重量があり担ぎ手に少なくとも40〜50人を要する神輿の運行は、また逆に青年会の解散により不可能になった。
これら祭礼の準備や遂行には青年会の成員がすべて参加し、祭礼の翌日に後片付けが済むと「ハチハライ」とよんで祭礼にあがったハナを計算し、祭礼の経費を差し引いた金と会費を出し合って、多くは伊勢原の料亭「伊勢作」を会場に慰労会をもった。ところで、明治の末まで下糟屋には旧宿場町の名残りとして「フカワ」・「イツツヤ」(屋号)など2、3軒の料亭が残っており、若者達は夜になるとこれら料亭の前の家に集まり、料亭の女中たちを冷やかしては主人に叱られた。時には水を掛けられたこともあり、そのような主人のところには祭礼の時に神輿を練り込ませ、憂さ晴らしをしたのだという。当時は休日に平塚などへ出て遊郭に足を運ぶ若者もあった。
青年会は祭礼に関する役割のほかに、例えば成瀬村の連合運動会など村や集落の各種の全体的な行事での活動の中心となった。また、成瀬村青年会の下部組織として文集作りやスポーツ活動など自主的な活動も盛んであった。
糟屋地区
高部屋神社は『延喜式』の神名帳に載せられた官社であるから、平安初期はもとより、それよりずっと以前から霊験あらたかなりと知られた神社であったと思われる。そして著名になった一つの理由としては当社が古代の交通路に面していたからであったと考えられる。相模の下流の相模平野の大部分がまだ沼沢であったころ、交通路の幹線としては箱根の足柄峠を超え、松田から音無川の渓谷を経て秦野に入り、それより善波峠を越えて笠窪・串橋を通って糟屋に至り、東北に進んで相模川を渡ったものと思われる。高部屋神社は糟屋の往還に直接面して鎮座しており、旅人はいずれもその前を通って当社に参拝して旅の安全を祈ったことから、その名もおのずから遠方に聞こえたと考えられる。
しかし、高部屋神社が神社としてもっとも勢力を持ち、広い信仰圏を保持した時期は、この付近が糟屋庄の中心地となり、当社が実力者であった糟屋庄司の厚い崇敬と庇護を受けるようになってからであろうと考えられる。当社はそのころには糟屋庄の惣社または大住大明神として、大住郡の代表的神社となっていたと思われる。
平安末期から鎌倉時代にわたって「糟屋庄」という大きな荘園(中央貴族や寺社による私的大土地所有の形態)があり、その範囲は大住郡の大部分におよぶほどで、相模国ではきわめて勢力のある荘園であったが、その中心地が「下糟屋」であった。この糟屋一帯の地域が『和名抄』に記載された相模国大住郡の諸郷のうちどの郷に属するかについては、村岡良弼氏の『日本地理志料』によると「日田郷」であるとしている。「三ノ宮、日向(ひなた)、糟屋、東富岡、上子安、下子安、坂本、大山の諸邑に亘って、糟屋ノ荘と称す。是れその地(日田郷)なり。」と記している。
下糟屋の歴史
下糟屋は糟谷・粕屋(谷)とも記すが、明治前期には下糟屋村が正式に表記となる。古くは上粕屋村と一村をなし、室町時代の僧万里(ばんり)の著わした『梅花無尽蔵』によると「文明十七年(1485年)九月晦日、関本を出でて糟屋に宿す」とあり、そのころには上下糟屋の区別はなかったようである。それから百余年を経た天正19年(1591年)に村内の神社に下付された朱印状には「上粕屋郷」と記されてあるので、その中間の時期に始めて上下の区分ができたと考えられる。古くは毎月五・十の日に市が立てられたが、江戸時代の初頭には廃絶している。
江戸時代当初は直轄地で、寛永10年(1633年)の地方直しにより旗本中川忠次・若林包盛・宇都野正長に分地され、残余は直轄地として残された。明暦2年(1656年)に直轄地を分割して旗本御手洗定重量となったが、元禄4年(1691年)にその子の四兵衛某は失心により職を解かれ、領地を没収されて直轄地に戻された。元禄10年(1697年)の地方直しにより直轄地の一部が岡部直好領となり、享保13年(1728年)に残りの直轄地が下野国烏山藩主大久保常春領となった。以後、旗本中川・若林・宇都野・岡部と烏山藩領の五給の村として幕末まで続いた。なお、若林氏領は天明年間(1781〜89年)頃に一旦上知された後、同氏に返還されている。検地は貞享2年(1685年)に直轄地のみを、成瀬五左衛門重頼・八木仁兵衛長信によって実施されている。
下糟屋村は平塚大助郷になり、矢倉沢道の馬継がなされ、北は愛甲郡愛甲村へ一里、南は伊勢原村へ一八町の継ぎ立てをし、大山道では西側の上粕屋村へ一里、東側の戸田村へ一里の継ぎ立てをなした。文政寄場組合は伊勢原村外二四ヶ村組合に属した。高森村より矢倉沢道が村内に入り、集落の中央を東西に幅二間で通り田中村へと向かった。集落の西部で矢倉沢道が分かれる伊勢原道が幅二間で南に向った。また村の東部で戸田村から下落合村を経て通る大山道と、上谷村を経て通る田村道が矢倉沢道に合流し、共に道幅は二間とされる。集落の南側の淵を渋田川が幅五間で東西に流れ、ここにせきと橋と横町橋が掛かり、高さ九尺の堤を設けていた。集落の台地の北側を歌川が幅二間で流れ、ほかに筒川が幅二間で流れていた。村内の小名には「横町(よこちょう)」・「宮坂(みやさか)」・「琵琶久保(びわくぼ)」があり、高札場は一ヶ所であった。
明治22年(1889年)に成瀬村ができると下糟屋は成瀬村に属したが、下糟屋の西方に隣接して「高部屋村」という一村があり、上粕屋などはこの高部屋村に属していた。これはむかし、この辺りが「高部屋郷」と呼ばれたことがあったとの故事に基づいてその地名を復活したものと思われるが、下糟屋は高部屋村ではなく成瀬村の方に編入された。
糟屋氏
糟屋庄の起源は平安中期にまでさかのぼる。左大臣藤原冬嗣五世の孫の如丘(ゆきたか)という者は相模の国司として下向したが、任期満了後も帰京せずに糟屋に居住し、合法非合法の手段を用いて私領の拡張を図った。その子の元方にいたって他からの侵略を防ぐため武器をとって武士となり、糟屋太郎元方と称し、その子孫は連綿として糟屋庄を領有した。糟屋氏の系図は次の通りである。
冬嗣―良方―常興―輔相―如丘―元方(糟屋太郎)―盛季(糟屋庄司)―久季(糟屋次郎)―家季(十郎兵衛家忠と改む)―義忠(岡本太郎)―光綱(糟屋庄司小太郎)―盛久(従五位以下筑後守)―久綱(糟屋庄司)―有季
糟屋元方より八世の孫の糟屋藤太兵衛尉有季は、祖父の業を継いで当庄の庄司となった。それとともに、新興武士の棟梁である源頼朝の家人となり、当地の地頭職に補せられ、頼朝・頼家の二代に仕えてしばしば功を立てたことが、『吾妻鏡』や『源平盛衰記』などに記されている。しかし、有季は比企官能員の女婿であったため、建仁3年(1203年)の乱に組して敗れ、比企一族とともに自害して滅びた。高部屋神社の境内を含めた一帯の地を「丸山」と称し、この地に糟屋有季の居蹟があったと伝えられている。ここは東西180m、南北200mほどで、今でもところどころに周囲の堀の遺形が残っており、この辺りの小名を「殿の窪」といっている。
有季の没後の承久3年(1221年)に「承久の乱」が起こり、有季の子である左衛門尉有久は後鳥羽院の武者所に弟次郎長久とともに仕えていた関係から、後鳥羽上皇方に属して戦死した。しかし、三郎有近と弟の四郎久季は鎌倉幕府の軍中にあって功を立て、それぞれ上皇方の兵一名を討ち取っているので、有季の死後は2人のうちのいずれかが丸山の居館を維持していたと思われるが、もちろん糟屋庄司としての昔日の勢力は失われていたと考えられる。高部屋神社としてもその神威を誇っていた最盛期は糟屋有季のときまでであったと思われ、最盛期には当社は大住郡127ヶ村の総鎮守であったといわている。その範囲は大住郡のほとんど全域に及んでいたので「大住大明神」といわれ、また大住郡惣社とも称せられた。そのころには、毎月五と十の日に下糟屋において市が立ち、群集が集まって賑わったと伝えているが、おそらく当社を中心として市が立てられたと思われる。
享徳年間(1452〜55年)になると扇谷上杉の憲忠が古河公方の足利成氏と戦って糟屋に陣しており、さらに文明18年(1486年)に上杉定正はその糟屋の居館に、功臣の大田道灌資長をあざむき招いてその風呂場で暗殺している。もっとも、そのときの定正の居館は下糟屋ではなく上糟屋にあったようで、石野瑛氏によれば定正の館址は上糟屋の中ほどの館原(やかたばら)というところにあり、東西四、五町(約430〜540m)ばかりで、四周に空濠をめぐらす一帯の台地で、東南に遠く相模平野を見下ろす形勝の地であるという。このように上杉定正の居館は上糟屋にあったが、これと隣接する下糟屋も当時は同じく糟屋と呼ばれ、上下の区別なく定正の支配下の領域となっていたと考えられることから、高部屋神社も前々から上杉家の庇護と崇敬を受けていたと思われる。しかし、定正が道灌を殺害した後は扇谷と山内の両上杉氏は不和となり、ついには互いに戦うに至った。上粕屋と西富岡の両部落にまたがって「実蒔原(さねまきばら)」とう高原があるが(現在の高部屋小学校の北方)、ここは両上杉の戦った古戦場であると伝えられている。そのころ、高部屋神社はおそらく戦火を受けてその社殿はまったくなくなったように思われる。その理由として道灌の死後60年余を経た天文20年(1551年)に、時の地頭渡辺石見守なるものが当社の社殿を再建造営したことが、そのときの棟札によって判明していることがあげられる。
江戸時代になると上下の糟屋村は何人もの徳川氏の御家人の分領するところとなって、高部屋神社としても勢力のある保護者を持つに至らなかったと思われる。明治以降においては郷社となり、下糟屋の鎮守として現在に至っている。
例大祭
本祭の祭日は天保12年(1841年)完成の『新編相模風土記稿』によると旧暦の7月7日で、明治20年(1887年)の『下糟屋村外六ケ村地誌』によると10月10日になっている。祭日は第二次大戦後も4月になったり10月になったりその時々で変更されてきたが、昭和50年(1975年)代以降は9月15日に定着し、近年は9月第3日曜日となっている。大祭のほか正月、2月、11月、12月に小祭を営む。
祭礼は9月13日の幟立てから始まったが、昭和30年(1955年)代の前半頃から幟は立てられなくなっている。幟は2枚を1組としそれぞれに「高部屋神社」と「八幡大菩薩」と書かれており、神社前、中宿と下宿の境、宮坂、弥杉の4ヵ所に矢倉沢往還を挟んで立てられた。
翌9月14日には「汐汲み」または「汐汲みの儀」と呼ばれる神事が行われ、6つの町内が年番で務める宮当番が大磯町の照ケ崎海岸へ出向き、シオ(海水)一升、海藻のホンダワラと砂を採ってくる。汲んできた海水は一升瓶に入れたまま「鎮火水」と書いた紙を張って神前に供え、ホンダワラは注連縄につけて拝殿の入り口と鳥居の2ヵ所に飾り付け、砂は拝殿に保管しておく。昭和23年(1948年)頃まではこの汐汲みの役は青年会が担当していたという。古老の言い伝えでは、明治初年頃まで汐汲みの儀は宮当番が神主を伴って照ケ崎海岸まで出向き、「受け取りの儀」を執り行っていたという。そして汲んできた海水で赤飯を蒸して神饌とし、砂は本祭の前に祭場となる社殿とヤドから拝殿までの通路を清めるために一部を撒いていたという。また、高部屋神社の旧社地だといわれるところに住吉様(住吉大明神)の石祠が祀られているが、住吉様に採ってきた海水・ホンダワラ・砂を供えて「仮祭り」をしていたとも伝えられている。
戦前までは14日のヨミヤに神楽や芝居を厚木の方から呼んでいた。カカリ(費用)を出すとツボ(桟敷)がとれ、さらにハナ(寄附)を掛けると前の方の良いツボがとれたという。カカリアツメ(費用集め)は宮総代がする建前であったが、役者と交渉や段取りなどはすべて若い衆にまかされていたという。
9月15日の本祭には高部屋神社の隣に建つ公会堂へ午前9時30分頃までに関係者が集まり、砂も拝殿より公会堂へ移しておく。10時に公会堂から砂まき(1名)を先頭にして、錫杖(2名)、宮総代(1名)、宮司(1名)、神官(2名)、役員の順で行列を作り神社の拝殿まで行進する。砂まきは盆に盛った砂を撒いて道を浄めながらゆっくりとした足取りで進む。かつては出発前に関係者が公会堂に一座してお茶が出されており、また公会堂ができる前はヤドを務める宮当番の家から出発していた。行列が拝殿入り口に着くと御祓いをうけてから昇殿して式典が執り行われる。神前には鎮火水とともにスルメ・コブ・オソナエ(カガミモチ)・赤飯・尾頭付き(魚を2尾腹合わせにして供える)・野菜(ショウガ・ネギ・ナス・サツマイモなど)・御神酒が供えられる。式典終了後は公会堂に関係者一同が会して直会が行われる。
大祭準備 (集合8:30)
ここからは令和6年(2024年)9月15日(日)に行われた大祭当日の様子を紹介する。大祭も宵宮と同様に8時30分に集合し、祭壇の準備やテントの設営などの準備が行われる。9時50分頃になると太鼓連により祭り囃子が演奏され、社殿周りに大磯で採集されたお清め用の砂が撒かれる。
8時にお宮にやって来ました | 既に掃除を始めています |
昨日の掃除で綺麗です | 本殿までは橋が架けられている |
太鼓連の会長が大太鼓と | 締太鼓を山車へ移動 |
集合時間の8時半になりました | 宮総代は祭壇の準備 |
金棒と傘 | 高張提灯を外に出します |
テントを立ち上げ | 足を杭で固定 |
パイプ椅子を並べます | 山車では太鼓をセット |
祭壇には野菜や果物などの | 供物が並べられます |
階段にスリッパを並べる | テント下にテーブルを設置 |
露店のトラックが到着 | 掲示板に熨斗紙を張ります |
神輿の屋根を磨く | テントは高神會の受付になります |
トラックが続々と到着します | 吹き流しの止め紐を外す |
大神宮の宮司が到着しました | 熨斗紙が増えていきます |
9時50分頃になると太鼓連が | 山車で太鼓を叩き |
社殿では傘を広げて | 腰に固定し |
砂を撒きながら | 本殿裏から回っていきます |
本殿前に来ると | 橋を潜って正面を通過 |
本殿を1周します | 角付近で砂を撒きます |
出発地点まで戻ると拝殿前を | 通過して反対側の角に砂を撒く |
浜砂撒きの儀〜例大祭式典 (開始10:00、終了10:50)
社殿周りに砂を撒き終わると、神社役員と伊勢原大神宮の宮司らは下糟屋公会堂へ移動し、10時丁度になると公会堂を出発して砂を撒きながら高部屋神社へ移動する。一行は鳥居を潜ると手水舎で身を清め、御祓所前で修祓を行ってから社殿にて例大祭の神事が執り行われる。
社殿周りに砂を撒き終わると | 神社の役員達は鐘楼横から |
お宮を出発し | メイン通りに出て左折 |
下糟屋公会堂の敷地に入り | 10時丁度になると |
砂を撒きながら公会堂を出発 | 砂撒きを先頭に金棒2名と |
傘持ちと宮司が続き | 一行は鳥居から宮入り |
手水舎ではお清めの準備 | 一行は手水舎前に来ると |
宮司から順番に | 参列者が身を清めていく |
一行は再び列を整え | 社殿へ向かいます |
御祓所の前まで来ると | 参道を挟んで整列 |
高部屋神社の神事は | 特徴があります |
神職により社殿をお祓いし | 続いて宮司 |
巫女と参列者を修祓 | 10時10分頃に宮司は社殿へ |
参列者も社殿へ上がり | 拝殿で着席します |
太鼓の合図で神事開始 | 途中で巫女舞が入ります |
10時45分頃に神事が終了し | お神酒を配り |
国会議員と | 県議会議員が挨拶 |
最後に宮総代の挨拶で | 乾杯 |
10時50分に解散します | 社務所横ではゴミ箱を設置 |
露店の準備も着々と | 進んで行きます |
子供神輿発御 (式典開始12:05、出発12:40)
例大祭の神事が終わると、子供神輿では出発式が執り行われ、神事が終わると子供神輿は高部屋神社を出発して、下糟屋地区を巡行する。
例大祭の神事が終わると | 高神會は人出を集め |
神輿を担ぎ上げて | 社殿前に降ろします |
神楽殿から子供神輿を降ろし | 神楽殿前に置きます |
社殿から白い布を出して | 宮司が神輿に御霊を入れる |
高神會は飲み物の準備 | 神輿に忌竹を設置 |
高神會のテントでは神輿の | 友好団体が受付 |
12時5分になると子供神輿の | 出発式が始まります |
修祓、祝詞奏上に続き | 玉串拝礼 |
子供会に続き | 交通安全指導員 |
最後は太鼓連の会長 | 乾杯で12時15分頃に終了 |
太鼓連は山車で太鼓を演奏 | 友好団体が続々と到着します |
子供会は台車を裏から移動し | 鳥居前に止めます |
大神輿の忌竹を外し | 神輿を担ぎ上げて |
180度旋回し | 正面を鳥居側へ向ける |
子供神輿が移動を開始し | 鳥居を潜って |
一旦台車の上に乗せ | 子供たちを集めると台車を抜き |
担いでお宮を出発 | 下糟屋地区を練り歩く |
神輿発御 (発輿祭開始12:45、宮立13:15)
子供神輿が高部屋神社を出発すると大神輿前では発輿祭が執り行われ、神事後は高神會の司会進行で友好団体の紹介が行われる。式典が終わると一本締めで神輿が担がれ、境内で甚句を交えながら神輿を揉み、高部屋神社をお発ちして下糟屋地区を渡御する。
子供神輿が出発すると | 大神輿前では発輿祭が始まる |
玉串奉奠は高神會会長 | 宮総代 |
太鼓連会長に続き | 最後は高神會の初代会長 |
10分ほどで神事を終え | ここからは高神會の司会進行 |
最初に高神會会長の挨拶 | 続いて宮総代の挨拶 |
続いて友好団体の紹介 | 代表者が前に出て |
挨拶をします | 紹介が終わるとお神酒を配り |
前宮総代の挨拶で | 乾杯 |
一本締めて | 神輿を担ぎ上げます |
太鼓連が太鼓を演奏 | 神輿では甚句を入れながら |
境内で5分ほど | 神輿を揉むと |
鳥居へ向かい | 一旦肩から下ろして |
鳥居を潜ります | 高張提灯が神輿を先導します |
再び神輿を担ぎ上げ | 甚句を入れながら |
ゆっくりと西へ進みます | 下糟屋は甚句が良く入ります |
暫く進むと | 前方の台車が後退し |
ここからは台車での移動です | これから下糟屋地区を練り歩く |
※このあとは神輿渡御へ。
神輿宮入 (宮入19:10、着御19:20)
最後の休憩場所である友禅ふく和をお立ちした神輿は、鳥居前で甚句を入れながら暫く揉み、19時10分に宮入りした。神輿は甚句を交えながら境内で揉まれ、芯出しを終えて馬の上に下ろされると、最後は高神會会長の三本締めで神輿渡御が終了する。宮付け後は直ぐに神輿から御霊が抜かれ、友好団体は境内で直会を行う。
境内では太鼓連が演奏を再開 | 宮入に向けて参道を開けます |
先導の高張提灯が到着し | 先に宮入りして社殿へ向かう |
神輿も鳥居前に到着しますが | 直ぐには宮入りせず |
迫る神輿を | 押し返し |
甚句を入れて | 神輿を揉みます |
鳥居前で5分弱ほど | 神輿を揉むと |
轅を抱えて | 19時10分に宮入り |
再び神輿を担ぎ上げる | ここで甚句を入れ |
参道で神輿を揉みます | 芯出しに備える高神會会長 |
神輿は社殿へ向かい | 社殿前に押し寄せます |
神輿をいったん後退させ | 甚句を入れて揉みます |
境内は熱気に包まれます | 甚句を入れながら |
芯出しを繰り返します | 友好団体が次々と甚句を入れる |
芯出しは後半に差し掛かります | ボルテージは最高潮に |
芯出しを見守る宮総代 | 最後は高神會が甚句を入れ |
神輿を揉むと | 社殿に押し寄せます |
会長の拍子木が打たれ | 神輿を馬の上におろします |
無事に宮付けされると最後は | 高神會会長の三本締め |
宮付け後は直ぐに | 白いシートで神輿前を覆い |
神輿から御霊を抜きます | 友好団体は境内で直会 |
余興、還御祭、片付け
神輿が宮付けされると社殿では還御祭が執り行われ、神楽殿では余興としてビンゴ大会と餅撒きが行われる。19時50分には全ての行事が終わり、21時頃まで後片付けが行われる。
神輿が宮付けされると | 神楽殿前には地元住民が集まり |
19時半からビンゴ大会が始まる | 盛り上がっています |
社殿では還御祭 | こちらは神輿前で記念撮影 |
ビンゴ大会が終わると | 餅撒きが行われます |
餅撒きが終わると | 19時50分に宮総代の挨拶で |
全ての行事が終わりました | 住民は帰路に就きます |
私も餅を拾いました | 10円玉が入っています |
高神會は友好団体をお見送り | 神輿では片付けが始まります |
鈴を外し | 捩りを解きます |
子供神輿でも片付けの準備 | 飾りを全て外すと |
馬を轅側にずらし | 楔を外します |
子供神輿を持ち上げ | 神楽殿の上へ |
運搬用の轅を縁の下から出し | 大神輿の担ぎ棒を抜いて |
短い轅を通します | 轅を抱えて神輿を持ち上げ |
神輿殿へ移動し | 大神輿を納めます |
轅は抜いて神楽殿横へ | 太鼓連は山車の横で直会 |
社殿では提灯を外す | 露天商も撤収の準備 |
幟の支柱は彫刻を外し | 神楽殿へ運ぶ |
轅は神楽殿の縁の下へ収納 | 神楽殿から紅白幕を外します |
子供神輿を抱え上げ | 裏側に降ろし |
運搬用の棒を抜いて | 箱の中に納めます |
大神輿の馬 | 子供神輿の台車 |
子供神輿の馬を神楽殿へ上げ | 本日の神楽殿の片付けは終了 |
幟支柱の提灯を外します | 時刻は21時です |
高神會は片付けを終えると | 会長の挨拶 |
手締めで解散します | 社殿では幕を畳み |
戸締りをして解散します | 明日は片付けがあります |
例大祭の翌日は朝から片付けが行われ、幟の支柱外しや山車の解体などが行われる。
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