善波
三嶋神社
「三嶋(みしま)神社」の祭神は「大山祇命(おおやまつみのみこと)」・「誉田別命(ほんだわけのみこと)」・「倭建命(やまとたけるのみこと)」であり、境内社には「八坂神社」・「稲荷社」・「金毘羅社」・「秋葉社」・「山之神社」がある。創建は大治元年(1126年)9月29日と伝えられ、天保12年(1841年)完成の『新編相模国風土記稿』によると古くは善波の郷内に「三島社」・「八幡社」・「御嶽社」が各所にあり、それぞれ薬師・弥陀・愛染(あいぜん)を本地仏(ほんじぶつ)としていたという。慶安4年(1651年)に「三島社」は「八幡社」と「御嶽社」を合祀(相殿)して御嶽山中に移遷したが、この地は山の中腹で風烈により社殿が度々破損したため、寛文7年(1667年)に善波太郎重氏の居館跡といわれる現在地に移転したものとされる。
この時、旧社地御嶽草山に社守の宅を造営しようとしたところ、地中に石槨があり、枯骨、大刀二振、矢鏃、瓶子などが出た。鍛冶康継はこの太刀を模して雷電落、至瑞の太刀二振を造り社宝とした。八幡縁起中に八幡は善波重氏の霊を、御嶽はその妻を、三島は重氏の舅紀州熊野新宮の社人の霊を重ねお祀りしたと書かれている。
この他の神社には村民持の「天神社」・「神明社」・「山神社」・「秋葉社」・「金毘羅社」・「諏訪社」などがあり、寺院には「勝興寺(しょうこうじ)」があった。曹洞宗西田原村香雲寺末の勝興寺は慶安元年(1648年)に御朱印により寺領一二石の寄進を受け、勝興寺持に「阿弥陀堂」・「稲荷社」・「天王社」があった。また曹洞宗「長昌院」は廃頽し、慶長年中に北矢名村に移転し寺蹟のみが残されている。
天正11年(1583年)5月に北条氏より社領二貫文、天正19年(1591年)11月には朱印状により社領一石を寄進された。寛文7年(1667年)に草山兵庫が社守になり、後に長く続いている。明治6年(年)7月30日に三島神社と改称し、村社に列せられた。明治32年に再建し、昭和41年(1966年)に現在の覆殿・幣殿・拝殿を新築し、自動車参道も完成した。神楽殿は大正3年3月の建造である。
三嶋神社にはかつて獅子ヶ窪谷戸に宮田があり、名義上三嶋神社のものであったが、実質上は善波52軒の共有財産といえる。付近の宅地造成によって宮田は消滅したが、こうした所有関係から宮田の売却はなされず現在公園となっている。この宮田は希望者が交代で耕作を行い、耕作者は収穫した米から年貢を宮総代に収めていた。なお、『風土記稿』によれば、社殿の現在地への遷座(天皇または神仏の座を他所へうつすこと)と同時に神主宅の築造と神領田の寄進が行われており、宮田はこの社殿の神領田に連なるものと考えてもよいかもしれない。
三嶋神社 | 表参道 |
裏(自動車)参道 | 両部鳥居 |
燈籠 | 水鉢 |
拝殿 | 覆殿・幣殿 |
本殿 | 諏訪社 |
神額・三嶋神社 | 神額・三社宮 |
神楽殿 | 倉庫 |
石祠(社殿左手) | 石祠(社殿裏手) |
石碑(社殿左手) | 石碑(社殿左手) |
神社由緒 | 境内 |
宵宮準備
ここからは平成29年(2017年)3月25日の土曜日に行われた、大祭前日の準備の様子を紹介する。集合時間は8時30分であるが、準備は8時頃から始まり、定刻の8時30分になると宮総代の挨拶で、改めて準備が再開される。準備はまず最初に山車の飾り付けや幟立てを中心に行われる。
裏の参道を上り | 朝8時にお宮に到着 |
8時半集合予定ですが | 社殿の扉と |
神楽殿のシャッターを開け | 準備が始まる |
山車用のトラックが到着し | 神楽殿前に寄せる |
あおりを開き | 荷台から荷物を降ろして |
神楽殿の前へ | シャッターを順番に上げる |
荷物は全て | 太鼓関係の様です |
常設の櫓の下部は | 便利な収納スペースです |
集合予定の8時30分になると | 宮総代の挨拶 |
本格的に準備が始まります | まずは神楽殿に収納してある |
太鼓の山車を | 外へ出し |
トラックの荷台へ | 載せる |
社殿内では掃除が始まる | こちらは酒屋へのお会計 |
太鼓枠を運んで | 山車に設置 |
椅子や | 太鼓の箱を |
荷台へ戻すと | トラックを移動させ |
社殿の | 西側へとめる |
こちらの蓋を開けると | 幟竿用の穴が |
太鼓の山車は | ロープでしっかり固定 |
社殿では扉を外す | 神楽殿から |
支柱を運び出し | 諏訪社の方へ移動 |
2本めの支柱を | 運び出し |
境内の入口付近へ置く | 諏訪社近くにも穴が |
さらに3本目の支柱を | 運び出し |
西側の穴の付近に | 降ろすと |
最初に東側の支柱に | 鉄の棒を通し |
持ち上げて | 穴の中へ |
慎重に下していき | 支柱を立てる |
社殿にはのしを書く机 | 山車のトラックのアオリには |
善波太鼓連の | 幕を垂らす |
支柱と穴のすき間には | 楔を入れて固定 |
社殿の右手にある | 物置から |
幟竿を引き抜き | 神楽殿前に置く |
2本目の竿も抜き出し | 神楽殿前へ |
山車には前後にも | 善波太鼓連の幕を垂らす |
もう一本竿を引き抜き | 合計3本に |
竿を1本持ち上げて | 境内を移動 |
諏訪社の方へ向かい | 準備した支柱近くにおろす |
2本目は入口付近に移動し | 丸太をかませる |
竿の先端に付ける竹も | 神楽殿から運び出す |
山車では太鼓枠を固定 | 竹を竿に差し込み |
紐で固定 | 先端には榊を挿す |
思い出しながら縛ります | こちらも念入りに縛ります |
幟を引き上げる輪っか | 諏訪社側でも竹をセット |
常設の太鼓櫓では | シャッターを開け |
窓を開けると | 提灯を付けて行く |
こちらは水鉢を洗浄 | 幟を昇降させる部材を取り付け |
幟竿の準備が整うと | 根元を支柱の間に入れ |
丸棒を通して固定し | 3方向でロープを張る |
1本は神楽殿の南側から | 1本は神楽殿の北側へ向かい |
木に回す | ロープの準備が整うと |
幟竿を持ち上げ | 梯子で持ち上げながら |
慎重に | 竿を立てて行く |
善波では | 昔ながらに |
人力のみで | 幟立てを行います |
途中で桜の枝が | 引っ掛かりましたが |
何とか引き上げ | 竿はほぼ垂直に |
支柱の間に収め | 貫を打ち込む |
境内に冷蔵庫を積んだ | 軽トラックが到着 |
ロープはそのまま木に結び付ける | 社殿にテーブルを運び込む |
枝に掛かったロープを外し | もう一方の幟立てに取り掛かる |
幟竿が干渉しない様に | 東側→西側の順に |
幟立てを行います | 支柱を慎重に穴の中へ |
竿を神楽殿前から運ぶ | 穴のすき間に楔を入れる |
竿の先端を西へ向けて置く | 楔をカケヤで打ち込む |
山車では締太鼓を調整し | 枠に取り付ける |
竿の先端に竹を差す | 幟立ての取材は昨年の |
御門に続いて2回目です | 社殿前では休憩の準備 |
神輿は社殿内で保管 | 宮総代は玉串の準備 |
竿の準備が整うと | 支柱に固定し |
西側の竿を | 立てて行く |
神楽殿の両側から | ロープで引っ張りながら |
竿をゆっくりと | 垂直にすると |
貫を挿して固定 | 東西の幟竿が立ちました |
山車では締太鼓と | 太鼓枠をロープで固定 |
桜の枝が引っ掛かるので | 木に登って枝を切り落とす |
次は諏訪社の方へ移動 | 櫓裏には枝を集める |
山車では大太鼓のセット | 柱にロープで結び付ける |
こちらは日の丸用の竿です | 竿は北東向きに寝かせる |
先端の竹筒の準備 | 社殿では女性陣が花づくり |
神楽殿横のシャッターを開け | 中から山車を引き出す |
かつてはこの山車を | 祭礼で曳いていました |
日の丸の竿を立てて | 貫で固定 |
諏訪社の鳥居に注連縄を張る | 山車を押して |
社殿前を通過し | 常設の櫓の横へ |
梃の原理で山車を持ち上げ | 山車の位置を微調整 |
最後に傾きを直すために | 角材を入れ込む |
舞台から階段をおろし | 柱を立てる |
諏訪社近くの竿では | 日の丸を揚げる |
一方、神楽殿付近では | なにやら穴を掘っています |
角棒を | 四角形状に組んでいく |
幟竿前ではシートを広げ | 幟を取り付ける |
ロープを引っ張り | 幟を上げて行く |
こちらは神輿の行在所用に | 忌竹の土台を軽トラの荷台へ |
神楽殿から補強された | ベニア板を取り出す |
軽トラが行在所へ向かって | お宮を出発 |
ベニア板を4枚枠へはめ込む | 山車では骨組みが完成 |
櫓裏では枝を燃やす | 社殿横にはプロパンのガスコンロ |
東側の幟が上がりました | 天気は曇りです |
パネル同士をボルトで固定 | 幟は西側に取り掛かる |
神楽殿には | ブルーシートを敷く |
組み上がった掲示板を | 立てて |
両足を穴の中に入れ | 土で踏み固めて固定 |
諏訪社側では日の丸が上がり | 紙垂を |
祠と | 鳥居に付けて行く |
掲示板は裏から補強 | 東側の幟を上げる |
10時半頃になると | 休憩の準備が始まる |
神楽殿の奥に | 紅白幕を張る |
お茶とどら焼きをもらい | 休憩を取ります |
10時半頃になると10分ほど休憩を取り、休憩後は大人神輿と子供神輿の捩り掛けを中心に準備が進められる。
10分程で準備再開 | 社殿では鈴緒を上げ |
神輿から | カバーを外す |
社殿奥から | 子供神輿と |
馬を出し | 慎重に階段をおりて |
境内に出して | 馬の上におろす |
今度は子供神輿用の轅を | 取り出して大神輿の棒穴へ |
大神輿用の轅も取り出す | 轅を通すと |
裸電球を外し | 神輿を持ち上げて |
拝殿の中央へ | 移動 |
一旦床へおろし | 奥から馬を出すと |
境内へ運び出して | 社殿正面に置く |
再び大神輿を持ち上げ | 上部が当たらない様に |
慎重に | 階段を降りる |
社殿内に神輿を保管する | 神社は多いです |
馬の上におろし | 轅を抜くと |
子供神輿の方へ運ぶ | 社殿から大神輿用の |
轅を運び出し棒穴へ | 善波の神輿は |
秦野の御門・八坂神社から | 譲り受けました |
蕨手に小鳥を差し込む | 子供神輿にも |
轅を挿入 | 大神輿では露盤に |
鳳凰(大鳥)をセット | 小鳥を蕨手へ |
秦野と同様に横棒がある | 水鉢は念入りに掃除 |
捩り掛け用の晒を準備 | 子供神輿にも横棒が付く |
大神輿では横棒を | カケヤを使って縄で固定 |
山車では屋根部に横棒を | 渡して簾(すだれ)を掛ける |
境内では捩り掛けの準備が | 始まります |
子供神輿でも横棒を固定 | 捩り掛けは蕨手から始まり |
露盤へ渡して | 鳳凰に回し |
対角線上の蕨手で結ぶ | もう片方の対角も同様に |
稲穂飾りを子供神輿と | 大神輿の鳳凰の嘴に固定 |
晒を折り畳んでいく | 鳥居に榊を |
飾り付ける | 今度は蕨手から轅へ渡す |
時刻が12時になり | 作業は一旦中断 |
昼食の時間が始まります | 順番にカップ麺とおにぎりを |
受け取り、お湯はセルフです | 私も頂きました |
社殿と神楽殿付近に座り | 40分程昼休憩を取る |
大祭前の準備は午前中で殆ど目途がつき、12時になると40分ほど昼休憩を取って、休憩後は神輿の捩り掛けの続きなどで、13時45分頃に準備が終了する。
捩りにバチを通し | 均等に捩じって |
バチで固定 | 子供神輿でも捩り掛け |
大神輿の捩り掛けが終わると | 馬を抜いて |
180度旋回 | 正面を鳥居側へ向けて |
馬の上におろす | 子供神輿も捩り掛け |
翌日の天候が心配な為 | 大神輿をシートで覆う |
バチで捩りを締め上げる | 掲示板裏では作業が続く |
捩り掛けを終えた | 子供神輿を抱え |
雨対策で | 神楽殿の舞台へ移動 |
どうやら屋根を作るようです | 風に靡く2本の大幟 |
雨が降り込まない様に | 紐で開口部を閉じる |
屋根に補強材を入れ | 下地のベニア板を置く |
幟の方も | 雨が心配なため |
東側から | 幟を下す |
屋根には | ブルシートを張り |
紐で縛って固定 | 幟をおろすと |
一旦広げて | 折り畳む |
西側の幟も | おろして |
折り畳む | 13時45分頃に準備は終わり |
夕方の巡行までは | 一旦解散 |
宵宮巡行
ここでは平成29年(2017年)3月25日の土曜日に行われた、宵宮の巡行の様子を紹介する。宵宮では16時から太鼓の山車のみで善波地区を巡行し、2か所の休憩場所を経て18時30分頃にお宮に到着する。巡行後は社殿内にて直会が30分ほど行われ、最後に戸締りをして19時20分頃に解散となる。
246号線沿いにある行在所 | 15時半頃にお宮に戻ると |
宵宮の巡行に向けて | 山車が社殿前に移動 |
16時になると太鼓連会長の挨拶 | 私を紹介して頂きました |
叩き手が山車に乗り込み | 私も乗り込みます |
宮昇殿を叩いて | お宮を出発 |
鳥居からは出られないので | 裏の自動車参道を下る |
善波の宵宮は約30年振りに | 参加しました(確か中学生の頃) |
国道246号に出て | 右折 |
バイクショップ Ted's Special | 善波バス停 |
トラックSHOP JETを通過すると | 目の前は新善波隧道 |
トンネル前で左折し | ホテル街を |
回って | 元の通りへ戻ると |
再び246号に出て | 右折 |
左折して側道に入り | 店舗裏を通過 |
再び246号に戻り | 左折 |
直ぐに右折し | 坂道を下ると |
民家が見えてきました | この辺りは西部になります |
地元の住民以外は | 通ることのない道です |
山車を止めて | 休憩場所のI宅へ |
乾杯して | ご馳走を頂きます |
50分程で休憩を終え | 山車に乗り込み |
再び出発 | 坂を下り |
左にカーブして | 246号の下を潜る |
左手の道に入り | 坂道を上る |
途中で引き返し | 来た道を引き返すと |
246号に戻り | 左折 |
伊勢原方面へ進むと | 右手には善波児童館 |
善波交差点を通過し | 坂を下って坪ノ内交差点を |
右折(左手はゲオです) | 大住台との境を進み |
直ぐに右折 | 十字路を |
左折し | 今度はT字路を右折 |
この辺りは東部になります | 山の手前でUターンし |
来た道を引き返すと | 左手の民家へバックで入り |
宮総代宅に到着 | 今年は異常に寒いです |
山車を降りて事務所へ入ると | 恵みの薪ストーブ |
軽食を頂いて | 30分程で休憩を終える |
こちらはみかんのオーナーです | 山車の提灯を点灯し |
山車に乗り込むと | 18時10分に出発 |
辺りはだんだん | 暗くなってきました |
来た道を引き返しバス通りへ | 坪ノ内交差点を左折し |
246号線を秦野方面へ | 途中で右折し |
脇の低い道に入り | 246号の北側を巡行 |
このあたりは善波地区の | 中部にあたります |
妙寶山勝興寺で引き返し | 再び246号線に戻って |
左折し | 善波交差点で直ぐに右折 |
善波児童館の裏を抜けて | 再び246号へ |
左折して秦野方面へ進み | 途中で右折 |
脇道を進み | 右折して裏の参道を上る |
約2時間半の巡行を終え | 18時35分にお宮に到着 |
締太鼓と | 大太鼓を外し |
社殿へ運んでいく | 社殿内に集まると |
締太鼓をゆるめ | 直会が行われる |
19時15分頃に終わると | 外に出て |
櫓の雨戸を閉め | 神楽殿のシャッターを閉める |
19時20分頃に解散 | 明日はいよいよ大祭です |
この後は大祭準備へ。
祭礼の歴史
『風土記稿』によると例祭日は旧暦の6月26日と9月29日であったが、大正2年(1913年)の『比々多村史』では3月26日とある。大正の初めから変動していなかった3月26日の祭日は、時代の移り変わりとともに3月の最終日曜日となった。かつては宵宮の留守番として青年が夜泊まり込んでいた。また、祭典にあわせて様々な行事が行われ、終戦までは草競馬が催され人気を集め、約100mほどの馬場で農耕馬を走らせ勝者には旗が授与された。この他には剣道大会が開かれたり、俳句や和歌の発表会が催され、よしず張りの中に短冊に記した優秀作が展示された。夜になると厚木あたりから買ってきた芝居や神楽が行われていた。
現在は上記の催し物は行われず、神輿の渡御と太鼓の演奏がメインである。式典は秦野市の出雲大社の神主が祝詞を挙げている。境内にはしだれ桜が咲き乱れ、一般の人々が花見に訪れる。
善波の歴史
善波地区は善波川沿いに農地や集落を形成しており、かつての善波村は糟屋庄、白根郷に属していた。村名は善波太郎重氏の居住地に因むといわれるが、『中郡勢誌』では谷上の地形の意として「狭場(せば)」を村名の起こりとしている。当地ははじめ直轄領であったが、これを寛永10年(1633年)に渡辺綱貞が一給支配し、天和元年(1681年)の幕領に復するまで継承した。この幕領は元禄11年(1698年)に竹尾俊常の知行となり、以降幕末まで竹尾氏の一給所領となった。
当地は南西北の三方を山で囲まれ、山・坂の多い土地柄にあった。善波村は連なった山からなる峯境を村境とし、「御嶽」・「妙宝」・「弦シメシ」・「扇タテ」・「立石」などの字名があった。また、善波川の水源の駒ヶ滝、今井沢・日陰沢などの沢があった。小名は「久保」・「今井」・「鹿窪」・「斎玉(さいたま)」があり、高札場が1ヶ所あった。寄場組合は伊勢原村外24ヶ村のうちに組み込まれた。
村内には矢倉沢往還が貫通しており、秦野道とも呼ぶ幅1間の往還が通っていた。その西はずれには善波峠があって、ここの切り通しは往還の難所の一つであったようである。ここへかかる道には坂道が多く、また、路次の所々にある老松は旅行社の好目標になったいた。寛政末から文化初年の頃より矢倉沢往還通行の御鷹御用の時に、伊勢原村・曾屋村・神戸村へ人馬(じんば)の継ぎ立てを勤め、坪之内村・笠窪村・串橋村から助人馬の提供を受けていた。また、秣場も5ヶ所あった。
現在の善波地区は大まかに西部・東部・中部の3地区に分かれており、新善波隧道(善波トンネル)側の起伏の激しい地域が西部、大住台側の起伏の緩やかな地域が東部、お宮の周辺にある地域が中部となっている。
善波太郎
善波氏は『東鏡』に記載されている鎌倉幕府の御家人で、この後も善波氏の名は屡々史料に散見される。『風土記稿』に引く八幡縁起によれば、八幡は善波重氏、御嶽はその妻、三島は重氏の舅である紀州熊野新宮の社人を祀ったものとされる。御嶽山中にあった三島社は重氏の居蹟と伝えられ、この旧社地の社守宅を造営した処からは埋納されていた石槨(墓室内で棺を納める石造施設)が発見、骨・鏃・瓶子などが出土され、重氏の墓かとも思われたがそのまま埋め戻したと同書には記されている。
三島神社の前一帯は鎌倉時代の伝説の武将「善波太郎重氏(ぜんばたろうしげうじ)」居館のあったところといわれる。重氏は若い頃に召使と通じたことから父の怒りにふれ、善波の館を出て流浪の旅に出てしまった。重氏が館を去ると悪臣どもがはびこり、重氏の父亡き後に善波の館は社領と共に悪臣どもに奪われてしまった。このことを知った重氏は三島神社、諏訪明神(子易)、石尊権現(大山)の助けにより一挙に悪臣どもを滅ぼし、善波の館の主になったと言い伝えられている。このあたりは重氏が館を出て召使の千子女(ちこめ)と雨露をしのいだ「虎杖窪(いたどりくぼ)」、弓絃(つるしべ)を湿したという「絃(つる)しめし」、悪臣どもを滅ぼすため伏兵をしのばせた「千人がくれ」などの地名が残っている。
善波一族館址 | 歴代の善波氏 |
明神・八幡神・御嶽権現 | 三柱建立由緒 |
大住台に近い国道246号の南側には「善波太郎のちから石」があり、太郎の郷づくり協議会の解説によると、石の上部にある二本の筋状の部分は、善波太郎が下駄で力踏した時の跡と言い伝えられているとある。
太郎のちから石 | 二本の筋らしき窪みが見える |
解説文 | 石碑 |
囃子と山車
善波で祭囃子を伝承している組織は善波太鼓連であり、使用される楽器は締太鼓2個と大太鼓1個で1カラの構成となっている。昔は笛があったといわれるが、現在は伝承されていない。演奏される曲目は「宮昇殿」と「屋台囃子」の2曲で、宮昇殿は宮出しと宮入りの時のみ叩かれる。善波は笠窪と坪ノ内、さらに子易下の町家クラブに太鼓を指導した経歴を持つ。高森のあかね台太鼓保存会には笠窪が協力して指導にあたった。例大祭当日は子易下・笠窪・坪ノ内が付き合いで参加し、笠窪と坪ノ内は太鼓を持参、子易下は境内に置かれた山車(太鼓は善波が準備)で演奏する。善波太鼓連は10月に行われる慰霊祭に参加する。
毎年、境内に設置される山車は昭和22年(1947年)に製作されたもので、当初は善波地区を曳いて巡行していたが、人手不足もあり現在は境内で居囃子化している。この山車には三ノ宮の人形山車と同じ様に、善波太郎の人形を上部に乗せ、カラクリで人形を動かす計画もあったが実現しなかった。普段は舞台の上部のみをバラし、神楽殿横の倉庫に保管している。
現在ではトラックの荷台に櫓を載せた山車が、善波地区を巡行している。善波の山車は一般的な山車と比べて天井が低いが、これは神楽殿にバラさずにしまうことを前提として設計された為である。高さは低いが、屋根部が銅葺きとなっているため、山車の重量が重くなっている。また、以前は笠窪太鼓連と坪ノ内友の会太鼓連は神楽殿で太鼓を叩いていたが、平成22年(2010年)に常設の太鼓櫓が境内に新築されたため、太鼓は櫓で叩かれるようになった。
昭和22年製作の山車 | 車輪は木に鉄の板を巻く |
トラック山車(側面) | トラック山車(正面) |
屋根は珍しい銅葺き | 平成22年完成の常設の太鼓櫓 |
櫓が出来る以前は | 神楽殿で太鼓を叩いていた |
囃子 (屋台) |
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善波の太鼓練習は3月に入り、大祭前の毎週日曜日(直前の日曜日を除く)に行われ、平成31年(2019年)は3月3日・10日・17日の3日、昼過ぎから夕方頃まで行われた。かつては三嶋神社で練習を行っていたが、現在はみかん農園である「あかざと園」か「三岳園」で行なっている。
三岳園での練習 | 前に譜面を置く |
神輿
善波の大人神輿は昭和23年(1948年)に秦野の御門から中古で購入したもので、御門から善波まで担いで引き渡されたという。当時は善波青年会が御門と付き合いがあり、御門の祭礼には善波青年会が神輿を担ぎに行っていた。この神輿は一時期担がれていなかったが、昭和56年(1981年)に修復が行われ、再び担がれるようになった。さらに、平成13年(2001年)3月にも修復が行われ、同年に東部(シシクボ)地区、翌平成14年(2002年)に中部(カサヤト)地区、更に翌平成15年(2003年)に西部(サイタマ)地区で担がれた。
大人神輿 | 大人神輿(捩り掛け後) |
鳳凰(大鳥) | 屋根大紋 |
組物・垂木周辺 | 鳥居 |
井垣・胴回り | 箱台輪の格狭間 |
子供神輿 | 子供神輿捩り掛け後 |
神輿のお祓い | 子供神輿の宮立ち |
大人神輿の宮立ち | 参道を降る大人神輿 |
国道沿いに準備された行在所 | 行在所に安置された大人神輿 |
子供神輿はトラックにのせ | 善波地区を巡行 |
近年はお宮から裏参道の入口付近(国道246号沿い)に設置された行在所までの間でのみ渡御が行われ、山車が善波地区を巡行している間は大人神輿が行在所に安置され、子供神輿は行在所まで渡御された後にトラックにのせられ、山車と一緒に巡行した。これは2016年(平成28年)まで行われ、翌2017年(平成29年)は雨のため巡行が行われず、2018年(平成30年)からは担ぎ手の減少もあり、境内の諏訪社近くにある広場に行在所を設置して、渡御経路が縮小された。
諏訪社近くの行在所 | 行在所に安置された神輿 |
大祭準備
2017年(平成29年)の例大祭は悪天候により、神輿渡御が中止になるなど祭礼が縮小されたため、ここからは2018年(平成30年)3月25日に行われた例大祭の様子を紹介する。朝の準備は集合時間が8時30分で、式典の準備や幟上げ、神輿や太鼓の準備が行われる。笠窪と坪ノ内は軽トラックに太鼓を積んで、境内の櫓に太鼓をセットする。
昨年の大祭は雨だったので | 今年は大祭のみ再取材です |
朝8時にやって来ました | 夜露から神輿を守るブルーシート |
子供神輿からシートを外し | 折り畳む |
今年は屋根がいりません | 社殿の鍵を開ける |
大神輿のシートも外します | 今年は珍しく宵宮と |
大祭の両日とも天気が良いです | 社殿の扉を外していく |
神楽殿のシャッターを開け | 中柱を外す |
社殿から | 賽銭箱を運び出し |
幟柱の間へ置く | 山車を社殿側へ寄せる |
太鼓櫓の扉を外し | 下の収納へ |
茶箱から締太鼓を出し | 革を締めて行く |
社殿横では豚汁の準備 | 本殿前では祭壇の準備 |
幟付近に脚立を立て | 桜の枝を切り落とす |
締太鼓を山車へ運ぶ | 桜の枝を容器の中へ |
社殿ではスピーカーの準備 | 社殿内を掃き掃除 |
定刻の8時30分になると | 宮総代の挨拶 |
改めて準備を再開 | 山車に太鼓を載せる |
幟を準備 | 諏訪社横では日の丸の準備 |
山車の太鼓枠に | 締太鼓を設置 |
日の丸を上げて行く | 社殿では受付の準備 |
山車の屋根に桜の枝を差す | 三柱横の枝を剪定 |
本山車の太鼓枠にも | 締太鼓を設置 |
昨年は雨で上がらなかった | 幟が空に聳えます |
山車に大太鼓を固定 | 屋根に本物の桜を差すのを |
初めて見ました | 本山車にも大太鼓を固定 |
東側の幟も上がり | 2本の大幟が揃う |
社殿横では | 豚汁の準備 |
10時の式典に向けて | 準備が進められます |
大神輿と | 子供神輿を社殿前へ移動 |
今年から行在所は諏訪社近くの | 空いたスペースに設置 |
社殿で書いたのし紙を | 掲示板へ貼っていく |
祭壇の準備が整い | 拝殿に胡床を並べる |
9時20分頃に笠窪が到着 | 軽トラから太鼓を櫓へ運ぶ |
出雲大社から神職と | 巫女が到着し社殿へあがる |
続いて坪ノ内の軽トラが到着 | 荷台から太鼓を降ろしていく |
笠窪が幕を取り付け | 笠窪太鼓連のメンバーも到着 |
坪之内友の会のメンバーも到着 | 掲示板が埋まってきました |
坪之内も幕を設置 | 笠窪が締太鼓を調整 |
太鼓枠が用意されているので | 太鼓を嵌めるだけです |
式典
9時50分からは式典が行われ、秦野市の出雲大社の神職により社殿内にて神事が執り行われる。10時15分からは場所を境内に移し、神輿の前で発御祭が執り行われる。神事が終わると宮総代の挨拶があり、自治会長の挨拶で乾杯が行われ、10時30分に式典が終了となる。
9時50分になると社殿に集まり | 太鼓の合図で神事が始まる |
神職自ら竜笛を吹きます | 三嶋神社大祭の神事です |
開扉を行い祭壇と | 巫女 |
役員 | 参列者を修祓 |
祝詞を奏上し | 神職から玉串拝礼 |
続いて役員らが拝礼し | 善波太鼓連 |
笠窪太鼓連 | 坪之内友の会太鼓連が続く |
閉扉が行われ | 最後に神職の挨拶 |
竜笛が吹かれて神事が終わると | 参列者は境内へ降りる |
神職と巫女も境内におり | 発御祭が始まる |
神事は竜笛で始まります | 中央に置かれた八足台 |
大神輿と | 子供神輿 |
山車をお祓い | 最後に出席者の修祓 |
続いて大神輿と | 子供神輿に御霊を遷す |
神職が祝詞を奏上し | 大神輿と |
子供神輿に玉串拝礼 | 最後に竜笛が吹かれ |
発御祭が終了 | お神酒を配ります |
神職と巫女は社殿へ | 実行委員長(宮総代)の挨拶 |
続いて自治会長の挨拶で | 乾杯 |
山車が先に出発し | 諏訪社前へ移動 |
子供神輿から先に | お立ち |
笠窪と坪之内 | 善波が宮昇殿を演奏 |
子供神輿は参道を下り | 諏訪社前で |
左手の広場へ | 今年からここが行在所です |
続いて大神輿が宮立ち | 去年は雨で担げませんでしたが |
今年は天候に恵まれました | 諏訪社前まで来ました |
子供神輿が忌竹に輿をおろす | 例年では246号まで下りましたが |
担ぎ手の減少で | 境内のみの渡御となりました |
南側の広場におりた大神輿は | 180度旋回し |
行在所に輿をおろすと | 忌竹で大神輿を囲む |
山車は出発して巡行へ向かう | 櫓では笠窪と坪之内の競り合い |
宮立ち後は諏訪社での神事 | 社殿をお祓いし |
巫女と役員を修祓 | 祝詞を奏上し |
玉串拝礼 | 神事が終わると社殿へ戻る |
笠窪と坪之内は神楽殿へ | 子易下の町家クラブが到着 |
以前はここで太鼓を叩きました | 社殿横では豚汁をよそう |
町家クラブが社殿へあがり | 拝殿で直会 |
町家クラブが山車へあがり | 囃子を披露 |
10時45分になると | 山車が移動を始める |
櫓でも笠窪と坪ノ内がスタンバイ | 宮昇殿の演奏で |
山車が境内を出発 | 裏参道をおり |
246号に出て | 右折 |
秦野方面へ向かい | Ted's Special前で左折 |
坂道をおり | 西部地区へ |
途中でご祝儀をもらう | 巡行中は終始演奏 |
宵宮と同じルートで | 246号下を潜る |
善波は基本的に | アップダウンが激しいです |
坂道の途中で引き返し | 来た道を引き返す |
ここでもご祝儀を頂く | さらに坂を下り |
246号に出て | 左折 |
行在所前 | 善波交差点を通過 |
坪ノ内交差点で | 右折し |
坪ノ内バス停を通過 | 直ぐに右折し |
ここからは | 東部地区になります |
大住台との境を進み | 右折 |
宵宮と同じ敷地で | 引き返し |
道の途中で | 左手の宮総代宅へ |
山車をおりて | 暖炉のある事務所へ |
30分程休憩を取り | 11時45分に |
総代宅を出発 | 左折して |
来た道を引き返していく | 善波は市街化調整区域の為 |
新しい住宅が増えません | バス通りに戻り |
左折 | 国道246号に出て左折し |
秦野方面へ進むと | 直ぐに右折し |
一段低い側道を | 通り |
246号に戻らずに | 北側の中部地区へ |
三叉路を | 右折し |
細い道を | 道沿いに左折 |
途中で右折するとこの辺りは | 住宅が割と多く並びます |
奥で引き返し | 来た道を戻ると |
突き当りを右折 | 行き止まりになり |
右手にある敷地内に | 山車を入れる |
どうやらここが | 昼休憩の場所の様です |
基礎を利用した地下室で | 12時から昼食を取る |
太鼓の練習もこのお宅を | お借りしています |
12時55分に山車に乗り込み | 午後の巡行に出発 |
来た道を引き返し | 三叉路を左折 |
246号に出て | 善波交差点を |
直進し | 善波児童館を通過 |
246号に戻り | 左折して秦野方向へ |
直ぐに中央へ寄り | 右折して |
直ぐのお宅で山車をおりる | お宮から太鼓の音がします |
駐車場を利用して | 30分ほど小休憩 |
13時半頃に | 出発し |
行在所で | 右折 |
裏の参道を | のぼっていく |
三嶋神社には正面の | 鳥居側に参道がありますが |
車は通れないので | 裏の参道がメインになります |
13時35分に | 山車が宮入り |
櫓では坪ノ内と笠窪が | 迎え太鼓 |
善波の山車は | 社殿横へ |
三地区の | 競り太鼓 |
宮入り
ここからは再び2018年(平成30年)3月25日に行われた宮入りの様子を紹介する。この年から巡行時間が短縮され、10時40分に境内を出発した山車は11時40分頃に宮入りし、昼食を境内で一緒にとった。
13時20分過ぎになると子供神輿が行在所をお立ちして宮付けされ、続いて大人神輿がお立ちし、13時30分頃に神輿渡御が終了となる。その後は再び境内にブルーシートが敷かれて食事が振る舞われ、櫓と山車では太鼓が叩かれる。15時になると笠窪→坪之内→善波の順で発表演奏が行われ、その後は再び競り合いが行われ、15時20分に大祭が終了となった。
今年から山車は | 午前中で巡行を終え |
11時40分頃に宮入り | 本山車の奥へ止めると |
ブルーシートを広げ | 昼食の準備 |
あかね台(高森)が参加し | 4カラの叩き合い |
11時50分頃に太鼓を止めると | 配膳を進め |
善波・笠窪・坪ノ内・子易下 | あかね台の4地区で昼食を取る |
今年は桜が満開で | 最高の花見日和です |
12時半過ぎになると太鼓が再開 | 善波も山車で演奏 |
12時45分に昼食を終え | シートを撤収 |
笠窪と坪ノ内も加わり | 再び四カラでの競り合い |
本山車では善波太鼓連と | 町家クラブの競演 |
13時20分過ぎになると | 子供神輿が行在所をお立ち |
宮入りは子供も担ぎます | 予定より1時間以上早いです |
境内を | 反時計回りに |
大きく | 一周 |
行在所では | 続いて大神輿がお立ち |
246号まで降りないのは | 寂しいですが |
担ぎ手の減少では | 致し方ありません |
太鼓に囃され | 社殿前を |
練る大神輿 | 満開の桜を背景に |
境内を反時計回りに | 移動 |
御門から譲り受けた | 歴史の深い神輿です |
5分ほど練ると | 馬を入れて |
輿をおろし | 無事に宮付け |
諏訪社前で待機していた山車は | バックで境内へ移動 |
太鼓を打ち鳴らしながら | 本山車の右手に停車 |
再び四カラの競り太鼓 | 境内にはブルーシートが |
敷かれ | 食事が振る舞われます |
15時になると笠窪 | 坪ノ内 |
善波の順で | 発表演奏 |
発表後は再び | 競り合いが始まる |
10分程で | 競り合いを終え |
15時20分に | 大祭が終わる |
片付け
大祭が終了すると後片付けが始まり、神輿は捩りが外されて社殿内に保管され、太鼓の山車は神楽殿へしまわれる。最後に幟竿が倒されて社殿横にしまうと17時10分頃に片付けが終了し、残りの片付けは翌日の月曜日に行われる。
本山車と | トラック山車では締太鼓を外す |
直会が終わり | 境内の後片付け |
締太鼓を | 緩める |
櫓では坪ノ内が | 締太鼓と幕を外し |
軽トラへ積んでいく | ブルーシートを掃き掃除 |
幟をおろす | 社殿横ではゴミ集め |
ブルーシートを折り畳む | 幟をリングから外す |
山車のトラックを | 社殿横へ移動 |
大神輿では捩りを外す | 外した幟を畳んでいく |
山車から | 大太鼓を外す |
坪ノ内の軽トラックが | 憩の家へ帰っていく |
昔は善波青年会が | 御門へ担ぎに行っていました |
子供神輿も捩りを外す | 山車の幕を外す |
太鼓の箱は | 倉庫へしまう |
本山車の簾を外す | 大神輿から |
鳳凰を抜き | こちらも倉庫へしまう |
捩りを外した大神輿から | 馬を抜き |
社殿へ移動 | 向拝下で前棒をおろす |
本山車では舞台上を解体 | 大神輿から |
轅を抜きます | 山車の裏から荷物を積んだ |
笠窪のトラックが移動 | 笠窪公民館へ帰っていく |
大神輿に子供神輿の轅を挿し | 抱え上げると |
拝殿の中へ移動し | 馬を入れて輿をおろす |
櫓では提灯を外す | 大神輿の轅は |
社殿の奥へしまいます | 大神輿にカバーを掛ける |
子供神輿は | 4人で持ち上げ |
社殿内へ | 本殿の横で保管 |
埃除けのカバーになります | 幟前に置いた賽銭箱を |
運び | 拝殿へ入れる |
太鼓の櫓は | 雨戸を嵌めて戸締り |
豚汁用の鍋と | 竈を軽トラへ積む |
神楽殿の紅白幕を剥がす | 太鼓の枠は神楽殿へ |
直会で使ったテーブルを | 神楽殿の外へ |
山車から桜の枝を抜く | 掲示板ではのし紙を剥がす |
テーブルを軽トラの | 荷台へ積んでいく |
掲示板の | ベニア板を外し |
地面から | 柱を引き抜き |
境内を移動 | 幟竿に立て掛ける |
飾り付けを外した山車は | バックで神楽殿へ移動 |
山車は解体せずに | 持ち上げて |
神楽殿の中で | 保管します |
続いて本山車は | 鉄パイプで方向転換 |
山車をおろしたトラックは | 櫓前に移動 |
本山車の舞台に | 階段を載せ |
人力で押して | 境内を移動 |
社殿前で方向転換し | 神楽殿の方へ移動 |
神楽殿前で | 向きを変え |
社殿横の倉庫へ | 最後に微調整し |
本山車を | 倉庫へ入れる |
掲示板は解体し | 部材は神楽殿へ収納 |
社殿の扉を閉める | 最後に残るのは幟倒し |
ロープで引っ張りながら | 梯子を使って |
ゆっくりと | 竿を倒していく |
幟の先端から | 滑車等の部品を取り外し |
竿を持ち上げて | 神楽殿側へ移動 |
先端を社殿側へ向け | 収納庫へしまう |
支え柱を固定する楔を抜き | 支え柱を穴から抜くと |
そのまま抱えて | 神楽殿へ |
穴は鉄板の蓋を被せる | 支え柱は神楽殿の中へ収納 |
続いて東側の幟竿を | 倒していく |
ロープは木に巻き付けて | 倒す速度を調整 |
ゆっくりと | 幟竿を倒し |
先端の部品を取り外して | 境内で旋回 |
近年 | 幟の取材が増えて来ました |
楔を外し | 支え柱を抜き |
神楽殿の中へ | 最後に穴に蓋をします |
大幟の竿倒しが終わると | 諏訪社近くの竿に移動 |
行在所では忌竹を撤去 | 日の丸をおろして象鼻を抜き |
梯子で竿を支える | 木に結んでいた |
ロープを緩め | 日の丸の竿を |
倒して | 木の丸棒を抜く |
竿を抱えて | 社殿横へ移動 |
昔は毎年竿用の | 穴を掘っていました |
常設の穴は助かります | 支え柱を運び |
神楽殿へしまうと | 神楽殿のシャッターを |
閉めて行く | 大祭の片付けが終わり |
宮総代の挨拶で解散 | 残りの片付けはまた明日 |
戻る(伊勢原市の祭礼)