笠窪
神明神社
「神明神社」は笠窪の鎮守であり、祭神に「天照大神」を祀る。
天保12年(1841年)完成の『新編相模国風土記稿』では笠窪村の鎮守を串橋村の「雷電社」としてあり、神明神社は村民持ちの「神明宮」とのみ記し、江戸末期には未だ笠窪が独自の鎮守を持っていなかったことが知られる。笠窪村が雷電社の氏子から抜けた理由や年代などは明らかではないが、雷電社の替わりに村民持ちの神明宮を村の鎮守として祀ったと推測される。笠窪村にはこのほかに村民持ちの「稲荷社」があり、寺院には曹洞宗栗原村保国寺末(ほうこくじまつ)の「保泉寺(ほうせんじ)」、村持の「不動堂」があった。
神明神社は明治6年(1873年)以前に建立されたと伝えられている。昭和28年(1953年)10月1日には宗教法人による承認を受けている。昔の社殿は萱葺き屋根の建物であったが、老朽化のために昭和58年(1983年)4月13日に再建した。しかし、平成13年(2001年)4月25日の不審火により焼失したため、平成14年(2002年)6月23日に再び再建され現在に至る。
昭和8年(1933年)2月14日に建立された鳥居は木造で、20年周期で行われる伊勢神宮の式年遷宮に合わせて昭和28年(1953年)3月5日に同じ木造で再建した。しかし、昭和47年(1972年)10月15日に現在の石造りの鳥居になってからは行われなくなった。
神明神社 | 社号柱 |
鳥居 | 手水舎 |
拝殿 | 幣殿・覆殿 |
境内社 | 倉庫 |
神社由緒 | |
神明神社建設寄進者御芳名 | 境内 |
箕輪駅跡 | |
笠窪公民館 | 昭和47年の社殿 |
笠窪の歴史
笠窪村は糟屋庄に属し、白根郷に属したかどうかは定かではない。隣村の串橋村と分村したと伝えられているが、『北条氏所領役帳』には笠窪が見えず、『正保改定図(しょうほうかいていず)』に両村名が出てくることから、この間の分村かと考えられる。『風土記稿』には串橋村と笠窪村の分損の結果、「地域錯綜」している現況を述べている。小名として「箕輪(みのわ)」・「桐木(きりのき)」・「前谷戸」・「久保方」・「台方」があった。
当地ははじめ直轄領であったが、寛永10年(1633年)に幕領を割いて大久保忠利の所領に宛がわれた。残余の幕領は元禄12年(1699年)正月に武蔵国六浦藩主米倉昌尹領になったが、同12月所領替により幕領に戻され、享保18年(1733年)に奥村矩政領となり幕末まで同氏が継承したので、享保以降は大久保氏と奥村氏の二給で固定した。村の中央には幅三間の善波川が貫流し、坪之内村から湧出の清水を集めた中堀は丸島村に注いで、ヤモイ川と呼称を変えた。寄場組合は伊勢原村外24ヶ村のうちに組み込まれ、高札場が1ヶ所あった。
神明神社前の一帯は「箕の輪(みのわ」とよばれ、かつて東海道の箕輪(みのわ)駅があったといわれている。鎌倉時代以前の古東海道の道筋は足柄峠から関本を通り、坂本(南足柄市)と小総(おぶさ)駅(小田原市)を経て箕輪駅に達し、三浦の走水(はしりみず)から海路を渡り上総木更津に通っていたのである。『和名抄(わみょうしょう)』や『風土記稿』に掲載されている箕輪駅は駅馬12頭を定置させ、国司の送迎や官用に供していたという。こうした宿駅のことを「はゆまや」あるいは「はゆまうまや」と呼んだ。
大祭準備
大祭1週間前の日曜日には大祭に向けて準備が行われ、神社役員・太鼓連・青年会・子供会が協力して進める。神社では櫓立てや境内の整備をし、公民館では花作りやバチ作り、太鼓の準備等が行われる。
●神社での準備
9時に公民館へ集合 | お宮へ向かう |
倉庫から角材を出し | 境内に並べる |
柱を組み立て | 櫓が完成 |
境内の樹木を剪定し | 枝を集める |
トラックにまとめ | 運搬 |
休憩を挟み | 再び境内の整備 |
●公民館での準備
一方、公民館ではバチ作り | 角材を |
丸く削り | 先端を面取り |
紙やすりで仕上げ | バチが完成 |
屋内では子供会と打ち合わせ | 食事の手配や巡回路等を確認 |
花作り | 花笠作り |
●太鼓(練習)の準備
畳の上にゴザを敷き | 鋲で固定 |
締太鼓の台を設置 | 椅子を置く |
大胴の枠を設置 | 譜面を掛ける |
太鼓を準備し | 最終確認 |
宵宮
宵宮の日は8時30分に集合し、公民館と神社でそれぞれ準備が行われる。
●神社での準備
社殿周辺の清掃 | 境内の清掃 |
拝殿に幕と | 提灯を掛ける |
花を付ける | 社殿内では整理整頓 |
子供神輿の準備 | |
榊を竿の先端に取り付け | 竿を柱に取り付ける |
幟を立て | 日の丸を揚げる |
櫓に紅白テープを巻付け | |
花と | 提灯を付ける |
テントを組み立て | 設置する |
手水舎にも花を付ける | 休憩 |
●公民館での準備
朝の挨拶 | 神社へ荷物を運ぶ |
屋台を組み立て | 飾り付け |
子供神輿を軽トラに設置 | 照明を取り付ける |
屋内では太鼓の組付 | 革を締める |
●太鼓演奏と笠窪地区巡行
平成5年(1993年)4月に建設された太鼓櫓に太鼓を設置し、トラック屋台1台の太鼓と合わせて15〜17時まで小学生を中心に太鼓を叩く。小学生は宵宮の夜と大祭での巡行中はトラック屋台に乗ることはできないので、宵宮の2時間と大祭の休憩時間が練習の成果を見せる場となる。ここでも練習同様に、中学・高校・大学生の先輩達が小学生をサポートする。
小学生が櫓と | 屋台で |
練習の成果を発表 | 先輩達がフォロー |
最後に先輩達に御礼を言い | 記念撮影 |
15時20分頃から関係者が拝殿に集まり、乾杯の音頭と共に食事が始まる。18時頃になると中学生以上が屋台に乗り込み、20時頃まで笠窪地区を2回巡行する。屋台の巡行中は境内の櫓でも太鼓が叩かれ、宮入り後も21時頃まで囃される。
挨拶 | 乾杯 |
盛り上がってます | 屋台に乗り込み |
宮立ち | 笠窪地区を巡行 |
巡行中の屋台 | 子供神輿は車で渡御 |
境内の櫓でも囃される | 子供神輿の宮入 |
屋台の宮入り | 宮入り後も囃す |
限界に達した革が | 破れる |
例大祭
例祭日は大正2年(1913年)の『比々多村史』によると4月13日であったが、現在は子供達が参加し易いように4月第2日曜日に変更されている。以下に例大祭当日の様子を紹介する。
●例大祭祭祀(10時〜)
例大祭当日の「祭祀」は10時から比々多神社の宮司により執り行われ、笠窪神明神社総代の進行のもとで、1.修祓、2.一拝、3.開扉、4.献饌、5.祝詞奏上、6.玉串奉奠、7.撤饌、8.閉扉、9.一拝の順で進められる。
境内に氏子が集まり | 式典が始まる |
お祓い | 献饌 |
境内社に供える | 供えられた供物 |
●宮立ち式典(10時30分〜)
祭祀が終了すると10時30分頃から「宮立ち式典」が笠窪自治会副会長によって進められ、笠窪神明神社総代代表・笠窪神明神社宮司(比々多神社宮司)・笠窪自治会長の順で挨拶が行われた後に、笠窪太鼓連会長の乾杯で式典が終了する。式典が5分程度で終わると直ぐに宮立ちが始まり、笠窪地区を巡行する(笠窪地区巡行へ)。
宮立ち式典の挨拶 | 神明神社総代代表の挨拶 |
神明神社宮司の挨拶 | 自治会長 |
御神酒を配る | 子供達にはジュース |
太鼓連会長の挨拶で乾杯 | 笠窪神明神社例大祭 式次第 |
出店は綿菓子と | 金魚・スーパーボールすくい |
●昼食(12時〜13時)
午前中の巡行を終えた子供神輿とトラック屋台は12時頃に一旦お宮に戻り、全員で昼食をとる。
シートを協力して | 広げる |
青年会がアルコール類を | 配る |
子供会がオードブルと | トン汁を運び出し |
配る | 昼食の準備が整い |
乾杯 | 子供達もジュースで乾杯 |
●直会(16時〜)
午後の巡行が終わると、境内では昼同様にシートが敷かれる。食事の準備が整うと笠窪神明神社総代の司会の下で「直会」が開かれ、笠窪神明神社総代の挨拶に続き、笠窪子供会育成会会長の乾杯の音頭で直会が始まる。
神明神社総代の挨拶 | 子供会育成会会長の音頭で |
乾杯 | 境内は大賑わい |
太鼓連会長の進行で | 善波から奉納演奏 |
次は坪ノ内 | 最後は笠窪が発表 |
善波・坪ノ内と | 笠窪が競り合い |
青年会も参加 | 坪ノ内の革が破れる |
自治会副会長の挨拶で | 最後の締め |
直会の合間には善波太鼓連・坪ノ内太鼓連・笠窪太鼓連の順に奉納演奏が各5分程度で行われ、最後に3地区の太鼓連が一斉に演奏する。16時45分頃になると太鼓連の演奏を止め、笠窪自治会副会長により最後の締めが行われる。その後は境内と公民館に分かれて片づけが行われ、櫓のばらしや片付け切れなかったものは翌日の月曜日に行われる。
直会が終わると | シートをたたむ |
櫓では太鼓を片付け | トラックに載せる |
坪ノ内が出発 | 善波も出発 |
笠窪の屋台はお宮を立ち | 公民館へ向かう |
大祭が終わった次の土曜日には、公民館にて反省会が行われる。
1週間後に反省会 | 子供達も盛り上がる |
囃子と笠窪太鼓連
戦争の影響で一時期太鼓は中断していたが、昭和55年(1980年)11月に「笠窪太鼓連」を結成し、翌昭和56年(1981年)の例大祭で祭囃子を復活させた。当時は戦前に叩いていた経験者や子易上からの移住者、そして近隣の善波などから太鼓を指導してもらった。また、一時期は平塚の吉沢とも交流があり、中吉沢の鈴木建具店を営んでいた鈴木政二氏から寄贈された附胴2個が現在でも使われている。
笠窪太鼓連としての活動は3月の善波三嶋神社の例大祭から始まり、4月の笠窪神明神社例大祭、9月の坪ノ内八幡神社例大祭、10月の慰霊祭と年4回行っている。太鼓の練習は笠窪の宵宮直前の5日間に公民館で行い、19時から20時が子供、20時から21時30分が大人の練習である。以下は、子供の練習の様子である。
太鼓を締めて | 枠に設置 |
布をかぶせる | 竹を用意 |
子供達が集まり始め | 先生の挨拶 |
練習開始 | 低学年は譜面を見る |
順番が来るまで竹で練習 | 中・高生は笛の練習 |
全体練習を途中で止めて | 1人ずつ丁寧に指導 |
中・高生も指導 | 大太鼓も教える |
練習が終わると | 先生と先輩達に御礼の挨拶 |
竹を片付け | 写真撮影 |
子供達は列をつくり | お菓子をもらう |
帰り際に子供達へ | 練習についての資料を配布 |
19時から20時は小学生を中心とした練習で、大太鼓は中学生が中心に練習し、太鼓に合わせて中学生以上が笛の練習を行う。練習の準備や小学生の指導は中学・高校・大学生が積極的に取り組み、練習が終わると子供達が先生や先輩に対して御礼を言う。その後は竹を片付けて写真撮影をするが、これは子供達の顔と名前を覚えるためで、子供達の参加状況や太鼓の指導などに活用している。最後に子供達にはお菓子を配り、帰り際には太鼓の練習をする際に注意する点をまとめたプリントを配布する。1時間しかない練習を効率よく進めるために、公民館では太鼓の叩き方を中心に指導し、練習に当たっての礼儀・作法などは資料を読んでもらうようにしている。
小学生全員には太鼓のバチを配布するので、子供達は家でバチを入れる袋を用意し、太鼓の練習の時には必ず自分のバチを持参する。こういった取り組みも、子供達の参加を促すのに貢献している。また、子供会の親御さん達が協力して子供達の練習に付き添い、練習中だけでなく行き帰りの安全面にも気を配っている。次に、大人の練習の様子を紹介する。大人の練習は中学生以上から参加でき、太鼓をゆるめるなどの後片付けまで協力して行っている。
大人の練習 | 笛も入る |
練習後は皆で太鼓をゆるめる | 太鼓を茶箱にしまう |
練習期間に奉納された日本酒 |
笠窪祭囃子保存会
「笠窪祭囃子保存会」は平成20年(2008年)に結成され、笠窪神明神社の氏子中で祭り囃子に熱意を持つ有志が集まっている。活動は笠窪太鼓連が参加する行事以外で市内外を問わず、他地区との交流や祭り囃子の発展に貢献できるような活動を目指している。最初の舞台は第2回ひらつか囃子太鼓フェスティバルで、今後も舞台演奏を中心とした活動を予定している。
演奏される曲目は「屋台」・「宮昇殿」・「昇殿」・「神田丸」・「唐楽」・「鎌倉」・「四丁目」・「印場」・「きざみ」・「乱拍子」の10曲で、「笛」・「鉦」・「里神楽」にも力を入れている。
神輿
笠窪には昭和54年(1979年)に浅草で購入した子供神輿があり、例大祭に合わせて昭和55年(1980年)4月13日に神社へ奉納している。大祭当日は子供神輿が子供達に担がれ、トラック屋台の太鼓に囃されながら笠窪地域を渡御する。宵宮にも夕方18時頃から山車1台と子供神輿をトラックに載せ巡行する。
子供神輿 | 大祭当日は神籬に収める |
笠窪地区巡行
例大祭では午前と午後に分かれて笠窪地区を巡行し、昼はお宮に戻って昼食をとる。午前中はもえぎ台地区を回り、午後はそれ以外の地区を回る。以下に巡行の様子を紹介する。
●宮立ち
式典が終わると直ぐに宮立ちとなり、子供神輿が青年会によって担がれて宮立ちする。囃子は宮昇殿から始まり、善波・坪ノ内に見送られながらトラック屋台が子供神輿に続いて宮立ちする。屋台は昭和58年(1983年)4月3日に1台が建設されたが、太鼓を叩く青年が増えてきたため平成7年(1995年)4月にもう1台が建設され、現在は2台で巡行する。
櫓では善波・坪ノ内が準備 | 笠窪も屋台に乗り込む |
小学生達が列をつくる | 金棒・花傘・うちわを渡す |
金棒を先頭に | 境内を出発 |
一方、青年会が神輿に集まり | 神輿を神籬から出す |
境内を一周して | 宮立ち |
石段を降りる | 善波・坪ノ内に見送られ |
笠窪の屋台が宮立ち | 受付のワゴン車も続く |
境内を出発し | もえぎ台公園を目指す |
●もえぎ台公園
青年会によって境内を出発した子供神輿は小学生達に手渡され、2台のトラック屋台と共にもえぎ台地区を巡行する。11時頃にもえぎ台公園に到着すると神輿を降ろし、子供達は子供会の親御さん達にアイスをもらう。また、小学生達には巡行経路が書かれたシートが事前に配られており、各休憩場所でもらうシールを全部集めて貼ると、祭りの最後にお菓子をもらうことができる。各休憩場所では子供たちが屋台に乗り込み、太鼓連の管理の下で太鼓を叩く。11時10分頃にはもえぎ台公園を出発し、次の休憩場所へ向かう。
境内を出発した一行は | もえぎ台地区を巡行 |
もえぎ台公園に到着し | 神輿を降ろす |
公園に子供達が集まり | アイスをもらう |
シールをもらい | シートに貼る |
小学生は屋台に乗り | 太鼓を叩く |
休憩が終わると | 次の休憩場所に向かう |
●民家(その1)
11時20分頃に次の休憩場所に到着し、10分程休憩した後に杉崎工務店を目指す。
次の休憩場所に着くと | 神輿を降ろす |
太鼓連も屋台を降りる | 酒類が振舞われる |
つまみを食べ | 酒を頂く |
青年会の合図で休憩終了 | 神輿が出発 |
屋台に叩き手が乗り込み | 次の休憩場所を目指す |
●杉崎工務店
次の休憩場所は笠窪の屋台と、神明神社の社殿を建設した杉崎工務店である。途中で太い道路を通過するため、小学生の代わりに青年会が神輿を担ぐ。11時30分過ぎに工務店に到着し、午前中の休憩場所はここが最後なので、休憩後はお宮を目指す。
太い道路は危ないので | 青年会が担ぐ |
工務店に到着し | 家の前で神輿を振る |
ここでも食べ物が振舞われ | 皆でいただく |
野菜を味噌につけて食べる | ここでも小学生が叩く |
休憩が終わり再び青年会が担ぐ | ヘアーサロン アクターで神輿を振る |
お宮を目指す | 屋台も続く |
●宮入り(午前の部)
午前中最後の休憩を終えた一行はお宮を目指し、お宮の直前になるとそれまで囃してた屋台を止め、宮昇殿を囃し始める。12時頃には宮入りをし、子供神輿は境内を練ることなくそのまま神籬に納められる。その後は直ぐに昼食が始まる。
祭囃子に囃されながら | 神輿がお宮へ向かう |
いよいよお宮に近づき | 子供神輿が宮入り |
神輿は直ぐに神籬に収められる | 善波・坪の内が迎える中 |
笠窪の屋台が宮入り | 入口付近に駐車する |
●宮立ち(午後の部)
昼の休憩が終わると13時頃に再び宮立ちをして、笠窪地区を巡行する。
●民家(その2)
お宮を出発した一行は小田急線の線路近くまで進むとUターンして、午後の最初の休憩場所へ向かう。
午後の部で最初の休憩 | 料理が振舞われる |
休憩後に出発 | 次の休憩場所を目指す |
●民家(その3)
14時10分頃には次の休憩場所に到着し、ここでは農家ということもあってトマトとイチゴが振舞われる。
うちわで担ぎ手を扇ぐ | 寄り道して宴会 |
太鼓も盛り上がり | 休憩場所に神輿が到着 |
屋台も到着 | ここではトマトとイチゴが |
子供達に大人気 | 休憩が終わり再出発 |
●エンジェルみのり(アパート)
14時45分頃にはアパートの前の駐車場を借りて休憩する。
太鼓が鳴り響く | 途中でお賽銭をもらう |
休憩して | 再び出発 |
●民家(その4)
15時頃に公民館下の民家へ到着し、ここでは豆腐が振舞われる。休憩後は次の休憩場所に行く途中にケアハウス鶴巻温泉に寄って、お年寄りに子供神輿とオカメ・ヒョットコの踊りを披露する。
公民館の通りに出る | 休憩場所に到着 |
家の前で神輿を振る | 屋台も到着 |
ここでは | 豆腐が人気 |
休憩後はケアハウスに寄り | お年寄りに神輿と |
オカメ・ヒョットコの | 踊りを披露 |
●コーポみのり(アパート)
15時20分頃には最後の休憩場所に到着し、休憩後は桜坂付近を巡行する。
休憩場所に到着 | 小学生にお菓子を配る |
休憩を終え | 246号線に向かう |
よろずやに寄り | メカスタジオに寄る |
屋台も後に続く | 受付にご祝儀を渡す |
笛が入る | お宮までの直線道は |
青年会が担ぐ | 屋台と共に走る |
●宮入り
桜坂から公民館までは休むことなく直進し、15時45分頃になると公民館の前で一時待機する。全員が揃うとお宮に向かい、子供神輿は青年会に担がれたまま急な石段を一気に上る。神輿が宮入りすると子供たちに渡して境内を一周し、青年会でもう一周する。その後は拝殿に上がり、神輿を安置して16時頃に宮入りが終了する。
一行は公民館前に到着 | 小学生を安全に渡す |
青年会は再び走る | 成田畳店で神輿を振る |
いよいよお宮に近づく | 神輿が石段を |
上り | 鳥居を潜って宮入り |
善波・坪ノ内が迎える中 | 笠窪の屋台が宮入り |
境内で旋回し | 2台並べて停める |
神輿は青年会から | 子供達に渡され |
境内を1周 | 最後に青年会が |
走ってもう1周 | 拝殿前で大きく振る |
そのまま拝殿に上がり | 神輿を降ろす |
万歳三唱 | 安置された神輿 |
かつての祭り
かつて青年の活動が盛んだった頃には夜に愛甲(現厚木市)辺りから神楽・芝居を買ってきて見せており、昭和15年(1940年)頃に鳥居の遷宮(神社の本殿の造営修理に際し、神体を遷すこと)をした時には、柿之一座や源五郎一座といった芸達者の人々がやってきた。昭和22年(1947年)に神楽殿が納められていた境内の倉庫が火事で焼失してしまった。その後2,3年間は青年会が秦野の神楽師に芝居を習いに行き、例祭日に芝居を披露したという。昭和28年(1953年)4月には組み立て式の神楽殿を建設し、この神楽殿を組み立てて神楽や芝居を見せていたが、テレビの普及に伴い衰退したという。
神明神社に限ることではないが、こうした祭りの折には方々から若者たちが遊びにきて、それをきっかけに縁談が持ち上がったこともしばしばであったという。当時の若者は大方一里四方の祭には出掛けたとのことである。
戻る(伊勢原市の祭礼)