串橋くしはし

雷電神社

  「雷電(らいでん)神社」の創立年代は不祥だが古くは「雷電社」と称し、平安時代に相模の国府が大住郡にあった時に総社三宮冠大明神の摂社として創立され国司に崇敬された。当郷の民が旧住地より水害を避け居を今の所に移すと、総社に依頼し当時氏神であった「諏訪社」をやめて当社を氏神として奉仕した。元禄16年(1703年)に社殿を再建し今日に至っている。雷電社はもともと串橋村と笠窪村との鎮守であったが、笠窪は分村(年代不詳)し「神明社(現在の神明神社)」を勧請し現在に至っている。
  祭神は「別雷神(わけいかづちのかみ)」である。加茂の神話によると加茂氏に玉依日女(たまよりひめ)という少女がいて、同女が加茂川で拾った丹塗りの矢に感じて懐妊し男の子を産んだ。その子は若雷となって昇天してしまったという。その雷神は京都の加茂に加茂別雷(かもわけいかづち)神社として祀られている。村人は産霊(むすび)の神とあがめいつき祀ったものと思われる。雷が鳴り、稲妻が光ると豊年であると考えられ「稲妻」の字があてられている。
  天保12年(1841年)完成の『新編相模国風土記稿』によると串橋村には笠窪村との鎮守であった「雷電社」のほか、村民持ちの「神明宮」・「諏訪社」・「白山社」があった。寺院は慶安2年(1649年)に朱印六石の寺領を寄進され法華宗身延久遠寺末の「妙蔵寺(みょうぞうじ)」と同宗同末の「長立寺(ちょうりゅうり)」があり、「十王堂」・「阿弥陀堂」は村持ちであった。また、串橋村の条に「諏訪社 古は此社を鎮守とせしと云」と記されており、串橋には鎮守として雷電社よりも諏訪社の方が古くから鎮守であったという伝承がある。諏訪社はかつて現在の雷電神社前あたりの「宮の根」という場所に祀られていたというが定かではなく、この社はかつて善波太郎が信州の諏訪から勧請してきたと説明する人もいる。善波太郎に関する伝承は善波のみならず串橋にもあり、串橋にはこの社のほかに善波太郎一族の墓とされる塚も残されている。現在そこには五輪塔が散乱し、御霊社も祀られている。
  この諏訪社は現在では諏訪八幡社と呼ばれ妙蔵寺の近くに祀られており、代々近くの斉藤博氏宅がカギトリ(鍵取り)として世話をしてきている。古くはこの斉藤博氏宅と今は他出してしまっている別のもう1軒の斉藤家とで世話をしていたというが、その家が他出したあとは斉藤博氏宅が長らく単独で世話をしていた。しかし戦後は斉藤博氏のジエンの家(斉藤姓)も一緒に世話をするようになっている。

雷電神社鳥居
拝殿幣殿・覆殿
石祠石造
山車庫
新設された掲示板神社由緒
境内串橋自治会宮の根集会所


例大祭

  天保12年(1841年)完成の『新編相模国風土記稿』によると例祭日は旧暦の2月15日であったが、大正2年(1913年)の『比々多村史』では4月4日とある。現在は4月の第1日曜日に行われ、式典は11時から三之宮比々多神社の宮司によって執り行われる。
  平成20年(2008年)からは境内に提灯が飾られ、宵宮では提灯に照らされた夜桜が大変優雅である。また大祭当日は桜の舞い散る中で盛大に各行事が執り行われる。

境内に飾られた提灯太鼓用の櫓
式典お餅を待つ長い列
露店臨時に設置された座敷
境内には桜が舞い散る

囃子

  串橋の太鼓は昭和の中頃に一時期途絶えたが、現在の太鼓連が昭和51年(1976年)4月1日に発足し、当時は「串橋囃子太鼓保存会」という名称であった。串橋太鼓連は10月に行われる慰霊祭に参加する。
  宵宮では19時過ぎに花車が神社を出発し、20時過ぎまで串橋地域を巡幸する。大祭当日は13時から15時まで子供神輿と一緒に巡行する。太鼓は櫓と花車に各1カラずつと境内にも1カラ設置され、3カラで競太鼓が行われる。

串橋の花車櫓に設置された太鼓
境内に設置された太鼓宵宮の巡行
宮発ち例大祭の巡行
宮入り境内での競太鼓


神輿

  大祭当日は、昭和60年頃に地元の氏子によって寄付された子供用の樽神輿が子供達によって担がれ、ワッショイ・ワッショイという威勢の良い掛け声と共に串橋地域を花車と一緒に渡御する。途中に休憩所が6箇所あり、子供達にはお菓子やジュースなどが配られる。

子供用の樽神輿宮発ち
山善前での休憩宮入り


串橋の歴史

  「串橋村」は糟屋庄、串橋郷に属し、『風土記稿』では『倭名鈔』にある大住郡郷中の「櫛崎」を当村地に比定し、「串橋」の文字は後世に改めたと推定している。村の北辺を幅9尺の矢倉沢往還(やぐらさわおうかん)が通り、ここから幅9尺の大山道と幅7尺の大磯道が分岐していた。足柄関を越えた古東海道が当地を通り高座郡の伊参駅へ通じる駅家の所在地とも想定され、現在でも近村に比して民戸の多さをその余波と見ている。隣村の笠窪村は古く当村からの分村と伝えられており、笠窪村との境域は不分明で田畑も錯綜していたようである。
  当地ははじめ直轄領であったが、寛永10年(1633年)に蒔田定正領と幕領になり、蒔田領は同18年(1641年)に蒔田定則に分知された。その後、幕領の一部は寛文3年(1663年)に松平乗延に宛われ、更に残余の幕領は元禄10年(1697年)に荒川定昭の所領となり、以降幕末までは三給であった。検地は慶長8年(1603年)に行われている。串橋村の小名として「山王町」・「新田」・「後原」・「中庭」・「竹之花」があり、高札場が1ヵ所あった。寄場組合は伊勢原村外24ヶ村のうちに組み込まれていた。
  村内には幅七間の鈴川が高九尺の堤を設けていて、幅三間の沢山川がこの鈴川に合流して村内を貫流していた。村の北辺を幅九尺の矢倉沢往還が通り、これより幅九尺の大山道と幅七尺の大磯道が分岐していた。高さ5尺の餅刺塚、高さ4尺の辻仏塚、高さ4尺の帳塚と称する塚があった。村の巽(東南)にある一町一段程の白田は近くに馬場(ばば)という字名が残っているので、何某かの屋敷蹟かと『風土記稿』は推察している。また、旧家の十郎兵衛(じゅうろうべえ)という里正(りせい)を勤める家については祖先が足利氏に仕えたといい、天正年中に高座郡俣野郷の川戸(かわど)氏から養子をもらい、川戸氏を名乗って相続しているという伝承を記している。


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