伊勢原市の祭礼
伊勢原市
昭和29年(1954年)12月1日に伊勢原町・大山町の2町と、高部屋村・比々多村・成瀬村・大田村の4ヶ村が合併して新しい中郡伊勢原町が誕生した。さらに昭和31年(1956年)9月30日に岡崎村の分村合併によって旧馬渡・大句の両村が加わり、現在の伊勢原市域が確定した。そして伊勢原町は昭和46年(1971年)3月1日に、県下15番目となる市制を施行して伊勢原市となった。
伊勢原市は神奈川県のほぼ中央に位置し、市内最高峰の大山は神奈川県北西部から静岡・山梨両県にまたがる丹沢山地の主峰のひとつである。丹沢山地は今から1500万年以上前に南海で噴火した海底火山の噴出物が積もって誕生した島で、これがフィリピン海プレートにのって北上し、600万年前頃に本州となる陸地に衝突して盛り上がり山塊となった。
大山に降った雨は湧水となって地中から湧き出し、いくつもの流れとなって斜面を下り、深い谷を刻む。ふもとの日向や上粕屋地区に見られる扇状地は、こうした川が運び込んだ土砂により数万年前に造りあげられた。また、続く三ノ宮地区や市北東部の高森地区の丘陵地および市街地の大部分がのる伊勢原台地も、火山灰が降り積もった大地を大山に端を発する川が穿ちながら長い時間をかけて形作った地形である。台地は石田・下糟屋・沼目・岡崎付近を境とし、その南東側には海抜数メートルの低地が続く。これは相模川の下流域に広く発達した沖積平野の一部で、最近1万年の間に形成された地質的には若い土地である。
このように伊勢原は北西から南東に向かって山地・丘陵・台地・平野が並ぶ変化に富んだ地形からなっており、大山の山頂から眺めると緑がなす山襞が扇状に開いたような地景になっている。
1.伊勢原・岡崎地区
「伊勢原・岡崎地区」とは現在の町名でいえば、伊勢原市の「伊勢原」・「東大竹」・「田中」・「板戸」・「岡崎」・「八幡台1〜2丁目」・「桜台1〜4丁目」・「伊勢原1〜4丁目」の地に相当する。昭和50年(1975年)代後半に一部で町名変更が行われており、岡崎は馬渡と大句の部分を指し、八幡台は東大竹内に造成された地を中心としたところ、桜台1〜5?丁目は伊勢原地区の伊勢原・東大竹・池端の一部と大田地区の上平間・下平間・沼目の一部を合わせた地、伊勢原1〜4丁目は伊勢原・東大竹・池端・田中の一部を合わせた地である。伊勢原地区は小田急伊勢原駅(昭和2年開通)が設けられていると共に、市役所をはじめ伊勢原市の主たる行政機関はこの地区に設けられている。
東大竹の八幡台遺跡は縄文時代後期の住居跡郡であり、ほかに地区内から弥生式時の発見もなされていることから、この地区に早くから人の居住をみたことは想像できる。『和名類聚鈔』によると平安時代はすでに大住郡に属していたことがわかるが、『伊勢原町勢誌』によると板戸はそのなかの櫛椅郷に、田中は石田郷、池端は渭辺郷、東大竹と岡崎は大服郷にそれぞれ属していたと推測している。
江戸時代初期になると現在の伊勢原市の市街地の中心部が、伊勢原村として開発されて伊勢原地区の原型が整った。それと同時に関東一円からの大山登拝者が増え、幾条もの大山街道の通過地・集中地として伊勢原地区は次第に周辺農村部の中心地となっていた。江戸時代には相模国大住郡の一部をなし、「伊勢原」・「大竹」・「池端」・「田中」・「板戸」・「馬渡」・「大句」という7つの藩制村があった。
明治22年(1889年)の町村制施行によってそれまでの伊勢原村・東大竹村・板戸村・田中村・池端村の5ヶ村が合併して神奈川県大住郡伊勢原町が誕生し(明治29年以降は中郡伊勢原町)、馬渡村と大句村は他の数ヶ村と合併して同県同郡岡崎村が誕生した。伊勢原町の役場は大字伊勢原にあり、岡崎村の場合は最初は矢崎、その後は大畑に置かれていた。大字伊勢原には早くから警察署や郵便局、裁判所の出張所など多くの行政機関が置かれ、現在の伊勢原市域の行政上の中心地でもあった。
2.大田地区
「大田地区」を現在の大字区分でいうと、伊勢原市の「上谷」・「下谷」・「小稲葉」・「上平間」・「下平間」・「沼目」・「沼目1〜7丁目」・「桜台2〜4丁目の一部」と「桜台5丁目」の地に相当する。このうち沼目と沼目1〜7丁目、それに桜台の大田地区分がかつての大字沼目の地である。かつての大字沼目は小田急線伊勢原駅に近く丘陵地帯であるために、比較的早くから宅地造成が進んだ地域である。それゆえ、桜台に続き昭和58年(1983年)に居住表示の変更がなされ、沼目1〜7丁目が新たに設けられた。
沼目の台地の各所からは縄文時代などの居住跡も発掘されているため、沼目や上・下平間に古くから人の居住があったことは推測できる。大田地区内の地名と思われるものが初めて文献に登場するのは、平安時代中期の『倭名類聚鈔』においてであり、相模国大住郡の中に「渭辺(ぬまべ)」とあるのが沼目に比定されるからである。大田地区はその後500年近く全く文献上に名をとどめていないが、応永10年(1403年)の銘を持つ八坂神社(沼目)の鐘に「沼目郷」の名が登場し、この神社(祇園宮とされている)の存在と、当時この辺りを沼目郷と読んでいたことが明らかになる。
中世末期になると永禄2年(1559年)成立の「小田原衆所領役帳」に「谷郷」・「沼部郷」・「平間郷」・「小稲葉新田」の名や、永禄4年(1561年)と天正5年(1577年)の「北条家朱印状」に「平間」・「小稲葉」の名が見える。この頃には近世の大田地区の各村々の原型が整っていたことが推測でき、当時はまだ上平間・下平間は平間郷、上谷・下谷は谷郷として一体だったようである。また、小稲葉は集落が形成されて間もなくなので、小稲葉新田と呼ばれていた可能性がある。
江戸時代になると「元禄郷帳」に「上谷村」・「下谷村」・「小稲葉村」・「上平間村」・「下平間村」・「沼目村」の名が揃って記され、しかもその石高は『旧高旧領取調帳』記載の江戸末期・明治初期の石高とほぼ同じである。このことから、すでに元禄年間(1688〜1704年)には近代の大田村を構成する6ヶ村は成立し、しかも江戸末期・明治前期並みの田畑の開墾は完了していたかと推測される。これらの6つの村は相模国大住郡の一部をなしていた。
明治22年(1889年)の町村制施行にあたって上記の村々は合併して神奈川県大住郡大田村(明治29年に中郡となる)を誕生させ、村名は大水田地帯であることを美称して名付けたものである。
3.大山地区
「大山地区」を現在の町名でいえば、伊勢原市の「大山」と「子易」に相当する。
大山の山頂からは縄文式土器や土師器(はじき)・須恵器(すえき)なども出土するため、信仰の山としての歴史は古いと思われるが、中世までの大山地区の様子は阿夫利神社や大山寺関係のことを除けば、具体的なことはほとんどわかっていない。近世になると大山寺は幕府から寺領を寄進されるなどの庇護を受け、春日局の参詣などもあって栄えることになった。同時に、関東一円と周辺諸国に多くの大山講が組織された結果、庶民の大山登拝が盛んになり、大山地区は繁栄した。『風土記稿』によると、大山地区として「坂本村」・「上子安村」・「下子安村」という3つの藩制村があった。
当地は古来、大山阿夫利神社および雨振山大山寺とともに栄えた地で、関東各地とその周辺諸県から幾条もの大山街道がここで1本に収束して地区内を通り、人家はその左右、標高約100m〜400mの間に帯状に展開している。伊勢原地区では最も山間の地ではあるが、信仰の地・観光の地として多くの人が訪れ、早くからマチ的雰囲気を持っていた地である。俗に「大山千軒、須賀千軒」といわれているように、大山は近辺でも人家密集の地として知られていた。
明治のはじめに上・下の子安村は合併して「子易村」となり、子易村と坂本村(大山町)は他の10ヶ村近くとともに明治初期の大区小区制によって神奈川県の第22大区第7小区に編入された。さらに明治22年(1889年)の町村制施行によってそれまでの坂本町(大山町)と子易村とが合併し、神奈川県大住郡大山町(明治29年からは中郡)が誕生した。
4.高部屋地区
現在の「高部屋地区」とは伊勢原市の「上粕屋」・「西富岡」・「日向」の地に相当する。
西富岡の道替戸には弥生時代後期のものかと思われる竪穴住居跡がみつかり、日向新田の三畝塚には6世紀頃のものと推定される横穴式の石室を持つ古墳が築かれていた。また、大山山麓台地のこの地区には現在の産能大学のある地に縄文時代の居住跡が発見されるなど、早くから人が居住していたことは確実であると思われる。古代から中世までの様子は日向山霊山寺の社寺や、一時粕屋に館を構えていた扇谷上杉氏等々のことがわずかに文書記録に散見されるだけで、常民の各種伝承についてはほとんどわかっていない。
江戸時代には大山信仰が関東一円に広まり、多くの登拝者がこの地区の村々を抜けて行った。近年までお十夜や雨乞いの信者達で賑わった日向の浄発願寺が開かれたのは江戸時代の初期である。大山の石尊社・不動尊、日向薬師、浄発願寺などは近世において栄え、近郷はもちろん遠方から多数の人々を誘引し、それら参詣客相手に生業を営む高部屋地区の人々も少なくなかった。江戸時代後期になると信州高遠領から石工が入り、石山の開発を行うとともに日向を中心に安住して石工家業を発展させていった。また、入会山の争論や水争い、東海道平塚宿の助郷に関すること、年貢納入法の取り決め、農間渡世の実態等々の文書類が残されており、江戸時代になると当時の実生活を垣間見ることができる。
天保12年(1841年)完成の『新編相模国風土記稿』によると当地区は相模国大住郡の一部をなし、「上粕屋村」・「西富岡村」・「日向村」という3つのいわゆる藩制村があった。なお、この地区は江戸時代初期には徳川幕府領であったが、以後100年ほどの間に薬師堂を除く全てが旗本領となり、分給支配がなされるようになった。近代以降現代にいたるまで、例えば上粕屋が一ノ郷中丸・子易・石倉・台久保・山王原・辻尾崎・秋山・七五三引・川上・峰岸、西富岡が宝地九沢長竹・宮下・原、日向が藤野・坊中高橋・洗水・新田というように、旧藩制村を引き継ぐ地域が独立して日常生活上緊密な結合を示すいくつかのムラに分かれている。この現状は前述の複雑な分給支配、さらには中世における村落の成り立ちと関係があるかと思われる。特に上粕屋村内に鎮守と称するものが1つもしくは複数の小名4社もあるのは、村落の発生と複雑な統合の過程を反映したものといえる。
明治22年(1889年)の町村制施行によってそれまでの上粕屋村・西富岡村・日向村の3ヵ村が合併して神奈川県大住郡高部屋村(明治29年以降は中郡高部屋村)が成立し、村名はこのあたりの広い一帯の郷名かという高部屋に因んだものである。
5.成瀬地区
現在の「成瀬地区」とは伊勢原市の「下糟屋」・「東富岡」・「粟窪」・「高森」・「石田」・「見附島」・「下落合」・「高森台1〜3丁目」・「高森1〜5丁目」に相当する。
縄文式土器や弥生式土器の破片に加え石器類が発見されていることから、早くから人が居住していたと推測される。『倭名類聚鈔』によると平安時代前期にはすでに大住郡に属していたことがわかり、そのなかの石田郷は現在の意志だ近辺を指すものと思われる。現在の成瀬地区は平安時代末期から鎌倉・室町時代にかけて、石田庄と糟屋庄にわかれて属していた。『平家物語』に登場する木曽義仲を討ち取った三浦氏一族の石田次郎為久は、この石田の出身だろうと考えられている。
糟屋氏は現在の伊勢原市から平塚市にかけての広い地域を占めていたが、鎌倉時代の末にいたって衰えてしまった。室町時代後期には小田原北条氏の支配下に入っていたが、北条氏が豊臣秀吉に攻め滅ぼされて徳川家康の関東入部となった。
江戸時代には相模国大住郡の一部をなし、下糟屋・東富岡・粟窪・高森・石田・見附島・下落合という7つのいわゆる藩制村がり、いずれも2〜6人の旗本などによる相給の地であった。この7ヵ村は明治時代前期の神奈川県の管轄圏の確定や、大区小区制などの行政区の変遷を経て、明治22年(1889年)の町村制施行によって合併して「成瀬村」を誕生させてその大字となった。その後は旧藩制村の高森が「北高森」・「前高森」・「小金塚」の3つに分かれ、少なくとも大正15年(1926年)以降はそれぞれに字区長が置かれていた。当初は大住郡成瀬村と称していたが、明治29年(1896年)に大住郡が淘綾郡と合併して中郡となったため、伊勢原町等と合併する昭和29年(1954年)までは神奈川県中郡成瀬村として続いた。
6.比々多地区
「比々多地区」とは現在の大字区分でいえば伊勢原市の「神戸」・「串橋」・「坪ノ内」・「笠窪」・「善波」・「白根」・「三ノ宮」と、「鈴川」・「大住台1〜3丁目」の地に相当する。なお、大住台は伊勢原都市計画比々多第一特定土地区画整理事業として、昭和56年(1981年)11月17日に区画の決定がなされたものである。施行地区に含まれた土地の名称は善波の字「上の在家」と「猪の尻」の全部、字「下坂東」・「中坂東」・「上坂東」・「芹?田」・「天神前」の各一部、坪ノ内字「中家」の全部と字「前谷戸岡」・「西ノ前」・「久門寺」の各一部である。新町名「大住台」の由来は明治22年(1889年)の町制改革まで当地が「大住郡」と名付けられていたこと、周辺に類似名の市町村名や郡名などがないことから昭和63年(1988年)に命名されたものである。
三ノ宮の比々多神社から栗原の丘陵地にかけては数々の遺跡が発掘されており、縄文から古墳時代にいたる集落のあったとこが推測される。近辺には相当勢力のある豪族が住んでいたものと思われ、比々多地区は早くから人々の中心的居住地であったことが伺える。
有史時代になると比々多神社が式内社として登場してくるが、この社の創立は上記古墳群にみる諸豪族の信仰と無縁ではなかったと思われる。『吾妻鏡』に登場する三宮次郎(建久元年(1190年)11月7日条)、白根与三次郎(建暦3年(1213年)5月6日条)、善波太郎入道子息又次郎(建長6年(1254年)3月12日条)等々の武将はその苗字から推して比々多地区に関係ある者かと考えられており、鎌倉時代になると比々多神社周辺部には実に多くの人々の動きのあったことが推測される。しかしながら、具体的な人の存在や集落の様子がいくらかでも確実にわかり始めるのは、室町時代末まで待たなければならない。
小田原に後北条氏が興るにおよんで比々多地区はその支配下に組み込まれ、地区内各地を領した北条氏家臣達の名が『風土記稿』などに伝えられている。そのため、この辺りは小田原城落城の際には、北条軍と豊臣秀吉軍との戦場の場にもなったようである。中世末までのことは断片的にわかっているだけであるが、江戸時代の村々はすでに北条氏の頃には形を整えていたようである。江戸時代のことは『風土記稿』が編纂されたことにより、各ムラのおおよそのことを知ることが可能である。
天保12年(1841年)完成の『新編相模国風土記稿』によると現在の比々多地区は江戸時代には相模国大住郡の一部をなし、「神戸村」・「串橋村」・「坪ノ内村」・「笠窪村」・「白根村」・「三ノ宮村」・「栗原村」という8つの村が存在していた。明治初年には韮山県および神奈川県に編入され、これが明治4年(1871年)に足柄県と改称したが、明治9年(1876年)に神奈川県に編入された。明治22年(1889年)の町村制施行によって、それまでの神戸村・串橋村・坪ノ内村・笠窪村・善波村・白根村・三ノ宮村の7ヶ村が合併し、神奈川県大住郡比々多村が成立した。ちなみに大住郡は明治29年(1896年)に淘綾郡と合併して中郡となった。比々多村の村名については『神奈川県中郡勢誌』によると、『比々多神社伝記』に「当神社は郷名を以て社号とす。比々多郷鎮座の御神なればなり」とあるのに由来するものかという。
地区名 | 神社名 | 鎮座地 | 例祭日 | 神輿 | 山車 | 備考 | 取材年 | |
1 | 池端 | 御嶽神社 | 池端663 | 4/9? | ||||
2 | 伊勢原 | 伊勢原大神宮 | 伊勢原3-8-1 | 9/20前後日 | 大1宮1小3 | 2 | ||
3 | 板戸 | 八雲神社 | 板戸592 | 4/1? | ||||
4 | 片町 | 御嶽神社 | 伊勢原3-21-8 | 7/22に近い日 | 中2小2 | 1 | 昭和30年代の山車が保管 | 14 |
5 | 田中 | 十二柱神社 | 田中742 | 4/第1日? | ||||
6 | 東大竹 | 八幡神社 | 東大竹1194 | 4/第1土 | ||||
7 | 馬渡 | 菅原神社 | 岡崎字山ノ跡5617-3 | 4/29 | 小1 | 1 | 10 | |
8 | 大句 | 腰取神社 | 岡崎5342 | 9/第1土 | 小2 | 1 | 09 |
地区名 | 神社名 | 鎮座地 | 例祭日 | 神輿 | 山車 | 備考 | 取材年 | |
1 | (下)小稲葉 | 八幡神社 | 小稲葉2288-1 | 4/第3日 | ||||
2 | 新屋 | 八坂神社 | 八幡神社の氏子 | |||||
3 | 西屋 | 八坂神社 | 八幡神社の氏子 | |||||
4 | 沖小稲葉 | 八坂神社 | 4/ | 八幡神社の氏子 | ||||
5 | 上平間・下平間 | 神明社 | 上平間東939 | 4/第3土? | ||||
6 | 上谷 | 池田神社 | 上谷88 | 4/ | ||||
7 | 下谷 | 八幡神社 | 下谷561 | 4/第2土? | ||||
8 | 西沼目・原之宿 | 八坂神社 | 沼目612 | 4/第2土 | ||||
9 | 東沼目 | 日月神社 | 沼目2-21-28(旧:沼目741) | 4/29 | 樽1 | 2 | 08 |
地区名 | 神社名 | 鎮座地 | 例祭日 | 神輿 | 山車 | 備考 | 取材年 | |
1 | 大山 | 阿夫利神社 | 大山355 | 8/27〜29 | 0 | 10・11・17 | ||
2 | 子易上 | 諏訪神社 | 子易760 | 4/第1土 | ||||
3 | 子易下 | 比々多神社 | 子易369 | 4/第1土 | 小1 | 1 | 善波が応援 | 08・09 |
地区名 | 神社名 | 鎮座地 | 例祭日 | 神輿 | 山車 | 備考 | 取材年 | |
1 | 一之郷 | 神奈山神社 | 上粕屋一之郷2496 | |||||
2 | 石倉 | 石倉神社 | 上粕屋 | |||||
3 | 川上 | 熊野神社 | 上粕屋字川上109 | |||||
4 | 子易 | 比比多神社 | 上粕屋1763 | 7/15前後日 | ||||
5 | 子易 | 金比羅神社 | 上粕屋 | 4/10? | ||||
6 | 山王原 | 上粕屋神社 | 上粕屋1334 | 4/ | ||||
7 | 七五三引 | 五霊神社 | 上粕屋790 | 10/第1日? | 小1樽1 | 1 | 夏祭は8/第1日 | |
8 | 西富岡 | 八幡神社 | 西富岡890 | 4/第1日? | ||||
9 | 洗水 | 諏訪神社 | 日向洗水700 | 7/26? | ||||
10 | 新田 | 飯綱神社 | 日向新田279 | 7/25? | ||||
11 | 日向 | 白髯神社 | 日向1670 | 8/4? |
地区名 | 神社名 | 鎮座地 | 例祭日 | 神輿 | 山車 | 備考 | 取材年 | |
1 | 粟窪 | 粟窪神社 | 粟窪73 | 9/15? | ||||
2 | 石田 | 子安神社 | 石田707 | 4/第2日? | ||||
3 | 北高森 | 高森神社 | 高森527 | 4/第2日 | ||||
4 | 前高森 | 八幡神社 | 高森2448(旧社地) | 4/第3日 | 小1 | 1 | '06年に境内移設 | 08 |
5 | 小金塚 | 小金神社 | 高森小金塚ヶ谷入1093 | 4/24 | ||||
6 | 下落合 | 八幡神社 | 下落合16 | 9/第2日 | ||||
7 | 下糟屋 | 高部屋神社 | 下糟屋2202 | 9/第3日 | 大1小1 | 1 | 延喜式内社 | 24 |
8 | 東富岡 | 八幡神社 | 東富岡357 | 4/第1日 | ||||
9 | 見附島 | 八幡神社 | 見附島259 | 4/15? |
地区名 | 神社名 | 鎮座地 | 例祭日 | 神輿 | 山車 | 備考 | 取材年 | |
1 | 笠窪 | 神明神社 | 笠窪503 | 4/第2日 | 小1 | 2 | 善波と坪ノ内が応援 | 08・09 |
2 | 串橋 | 雷電神社 | 串橋264 | 4/第1日 | 小1 | 1 | 08 | |
3 | 神戸 | 木下神社 | 神戸518 | 1/14? | ||||
4 | 三ノ宮 | 比々多神社 | 三ノ宮1472 | 4/22 | 大1大古1宮1 | 人形3・トラック3 | 三ノ宮・栗原・神戸の合同 | 18 |
5 | 白根 | 神明社 | 白根427 | 4/2 | 樽1 | 1 | 納涼大会は7/第4土? | 08 |
6 | 善波 | 三嶋神社 | 善波714 | 3/最終日 | 大1小1 | 本1・トラック1 | 子易下・笠窪・坪ノ内が応援 | 08・09・17・18 |
7 | 坪ノ内 | 八幡神社 | 坪ノ内572 | 9/第2日 | 小1 | 1 | 善波と笠窪が応援 | 17 |
祭名 | 開催地 | 住所 | 祭日 | 神輿 | 山車 | 備考 | 取材年 | |
1 | 伊勢原観光 道灌まつり | 伊勢原駅周辺 | 伊勢原市 | 10/第1土 | 13? | 11 | 囃子パレードは11団体参加 | 07・09・13 |
2 | 慰霊祭 | 比々多神社 | 三ノ宮1472 | 10/17近日 | 0 | 7 | 比々多7地区の競太鼓 | 07・08 |
3 | まが玉祭 | 比々多神社 | 三ノ宮1472 | 5/第3土日 | 0 | 0 | 青少年協会と池端樹に亜会が参加 | 08 |
4 | ふるさと祭り? | 高部屋小学校 | 西富岡1090-1 | 7/第4土? | 1 | 太鼓は山王原・七五三引・洗水・子易 |
タイトル | 著者/編集 | 出版/発行 | 出版年 |
伊勢原町勢誌 | 伊勢原町勢誌編纂委員会 | 伊勢原町役場 | 1943(昭38) |
伊勢原市の指定文化財 | 伊勢原市教育委員会社会教育課 | 伊勢原市教育委員会 | 1978(昭53) |
伊勢原史話 第1集 | 伊勢原市教育委員会社会教育課 | 伊勢原市教育委員会 | 1983(昭58) |
伊勢原市石田の歴史 | 大田重良 | 丸井図書出版株式会社 | 1983(昭58) |
江戸時代の白根村 -古文書調査の成果から- | 伊勢原市教育委員会 | 伊勢原市教育委員会 | 1986(昭61) |
伊勢原市史民族調査報告書1 伊勢原の民族 -成瀬地区- | 伊勢原市史編集委員会 | 伊勢原市 | 1988(昭63) |
伊勢原市史民族調査報告書2 伊勢原の民族 -岡崎地区- | 伊勢原市史編集委員会 | 伊勢原市 | 1989(平元) |
みんなで語りつごう むかし・今 | 伊勢原市立大田公民館 | 伊勢原市教育委員会 | 1989(平元) |
大山門前町の地理的研究 | 有賀密夫 | 藤沢市文化財保護委員 | 1989(平元) |
伊勢原市史民族調査報告書3 伊勢原の民族 -大山地区- | 伊勢原市史編集委員会 | 伊勢原市 | 1990(平2) |
白根のうつりかわり | 白根のうつりかわり編集委員会 | 白根自治会 | 1990(平2) |
いせはら大住台 伊勢原都市計画事業 比々多第一特定土地区画整理事業 事業誌 | 住宅・都市整備公団 首都圏都市開発本部 神奈川中部宅地開発事務所 | 同左 | 1990(平2) |
伊勢原市史民族調査報告書4 伊勢原の民族 -高部屋地区- | 伊勢原市史編集委員会 | 伊勢原市 | 1991(平3) |
伊勢原市史民族調査報告書5 伊勢原の民族 -比々多地区- | 伊勢原市史編集委員会 | 伊勢原市 | 1992(平4) |
伊勢原大神宮史 | 小松馨 | 伊勢原大神宮社務所 | 1992(平4) |
伊勢原市史民族調査報告書6 伊勢原の民族 -大田地区- | 伊勢原市史編集委員会 | 伊勢原市 | 1993(平5) |
伊勢原の地質をさぐる | 飯塚貞夫 | 伊勢原市立子ども科学館 | 1993(平5) |
伊勢原市史 | 伊勢原市史編集委員会 | 伊勢原市 | 1997(平9) |
史跡と文化財のまち いせはら | 伊勢原市教育委員会社会教育課 | 同左 | 2001(平13) |
地図で見る伊勢原の変遷 | 伊勢原市役所市長公室企画調整室 | 同左 | 2001(平13) |
写真で見る伊勢原・石田の100年 | 石田地区編集委員会 | 石田商工振興会 | 2002(平14) |
相州中郡 平間郷の昔から現在へ | 荻野尭 | 伊勢原市文化財教会 | 2006(平18) |
大原町郷土誌 温故知新 | 大原町郷土誌編集委員会 | 大原町郷土史研究会 | 2007(平19) |
伊勢原市史 通史編 近世 | 伊勢原市史編集委員会 | 伊勢原市 | 2010(平22) |
※上記の文献は他のページでも引用していることがあります。