上平間かみひらま下平間しもひらま

神明社

  神明社の祭神は天照大神(あまてらすおおみかみ)で、境内社には八坂神社と稲荷神社を祀る。天保12年(1841年)完成の『新編相模国風土記稿』によると上平間と下平間は合同で「神明社」を祀り、神楽殿も設けられ、天正19年(1591年)11月に社領として一石の朱印地が与えられた。神明社には1個の円い石がありこれが昔の神だったと伝えられていて、古松(囲1丈2尺5寸)があり神木とされていた。上平間村には鎮守である神明社の他に「稲荷社」・「天王社」があり、寺院には山城国宇治(京都府宇治市)万福寺の末寺「長安山三観寺(黄檗宗)」、万福寺塔頭獅子林寺の末寺「稲荷山無量寺(黄檗宗)」、下平間村広済寺の末寺「長堤山東円寺(臨済宗)」と「毘沙門法雲寺(臨済宗)」があった。村内の東円寺は大山道の南側に位置するが、本尊地蔵菩薩像は巡礼一番礼所で、境内に船繋ぎの松と呼ばれる古木があった。この正面の低地はかつて沼になっていて、ここから対岸への渡船場があったとされる。
  一方、下平間村では上平間村の神明社を鎮守としていたが、神社はこのほかに「稲荷社(3社)」・「第六天社」・「道祖神社」・「弁天社」・「諏訪社」があった。寺院には鎌倉建長寺の末寺「法運山広済寺(臨済宗)」があり、村の西にあった「ムソン堂」という見捨地には広済寺の茶昆毘所(火葬場)があった場所で、かつて堂宇があったと伝えられている。鎌倉比企谷妙本寺の末寺「覚栄山隆安寺(法華宗)」があり、天正19年(1591年)の棟札によれば永禄5年(1562年)9月に桜井伯耆守蓮俊が開基したとされる。
  村の南部の字上ノ台には高さ七尺五寸(2.25m)の塚があり、隆安寺開基の桜井伯耆守某の墓と伝えられる。この桜井伯耆守は村内隆安寺の開基で、元亀元年(1570年)11月3日没とされる。村内の塚は他に3つあり、2つは大塚戸・聖塚とよばれ、残りの1つには特に呼称がなかった。

参道鳥居
拝殿本殿・幣殿
神楽殿境内社
石造物殉国顕彰碑
境内下平間公民館

  『中郡勢誌』によると、上平間村と下平間村との間で神明社の主導権と祭礼についての悶着があり、その内容を以下の通りである。
  平間村は神明社を鎮守として祀っていた。天正19年(1591年)に御朱印領一石を賜り、別当真福寺が預かるべきであったが、真福寺は沼目村の所在で不便なために当時の名主百姓権左衛門がこれを預かった。権左衛門は神明社を代々相続し、寛永10年(1633年)に平間村が上下に分村した後も続くと、後年は無役の百姓となっても上平間村の権左衛門がそのままとなった。このような経緯から自然権威を盾にして年番名主を凌ぐと、専横の傾向が出てくるようになってきた。文政7年(1824年)に下平間村は神明社を離れて稲荷社の祭典を行うと、この状態が嘉永2年(1849年)までの26年間続いたが、その後は仲裁によって和解となり、両村が共同で祭典を行うこととなった。
  上平間村が主導権的地位にあることを下平間村の人達が怒り、安政4年(1857年)9月に行われた例祭では下平間村のみで20日に行い、上平間村は翌21日に例祭を行った。上平間村は「御朱印あ上平間村に与えられたのであるから、神明社は上平間村の鎮守である。」と主張し、下平間村は「元は一村である時の鎮守であり、分村後も二ヶ村共同の鎮守である。御朱印は便宜上権左衛門に預けられたので、権左衛門や上平間村に下されたものではない。」と主張した。そこで当時の勘定奉行であった本多加賀守の法廷で争い裁決してもらうこととなり、翌安政5年(1858年)4月に「権左衛門の朱印預かりはそのままとし、神明社は同人の管理で毎年9月21日に祭礼を行い、双方村役人が立ち会って万事相談の上で執行するよう」との議定書によって双方が和解することとなった。
  明治6年7月30日に村社に列格された。



稲荷神社

  上平間と下平間は合同で「神明社」を祀り、さらに下平間では独自に「稲荷神社」を祀っている。下平間の稲荷神社は「西の稲荷」と「東の稲荷」の2社祀られており、毎年交代で祭りを行っている。西の稲荷神社は広済寺(臨済宗建長寺派)が管理している神社である。祭日は2月8日で幟を立て、神職をよんで祭典を行う。以前に1回だけ2月は寒の最中で雪が降って大変なので、秋に延期して祭典を行ったところ、その年に地域に火事があったり病気が流行ったりしたので、その後は2月8日にしっかり行うことにしているという。また、この日に親戚がお年始めを兼ねて集って来ることになっているともいう。かつては若い衆が中心となって組み立て式の神楽殿を設け、愛甲から神楽師をよんで神楽を奉納した。平塚から青年男女が見物に訪れ、露天も出て賑わったという。西の稲荷神社は広済寺(臨済宗建長寺派)が管理している神社である。
  また、下平間には「諏訪社」という小さな祠があり、『風土記稿』には広済寺持ちとなっているが、いつしか個人持ちとなっている。かつて悪い病気が流行らないようにと祈って8月28日に各戸でボタモチなどを作って供えに行った。終戦後まで同じ8月27日に祭りをして、当日は万才や神楽があって賑やかであったというが、現在は個人持ちということもあって訪れる人もあまりいないという。かつては伊勢原駅の近くにいた「豆八」という夫婦でやっていた万歳師をよんだりした。



宵宮

  祭りの前日は早朝から宮世話人を中心に氏子が境内に集ると、掃除をしたり、クレーン車によって幟が立てられる。



例大祭

  『風土記稿』によると神明社の例祭日は旧暦の9月21日であったが、戦後の食糧難のときに米などがまだある春の時期に祭りをやろうということで、4月21日に変更されたという。現在は日曜日に行うようになり、上・下が隔年に当番を務めて行われる。また、『風土記稿』には「下村にては、11月16日を祭礼とす。」とあることから、かつて下平間村は上平間村とは異なる11月16日に祭りを行っていたことが推測される。尚、祭司については伊勢原大神宮より神官を招いていたが、何時の頃からか比々多神社に変更となっている。
  かつて例祭当日は祭典の他に愛甲(厚木市)や円蔵(茅ヶ崎市)から神楽師を招き、また座間や秦野からシバヤシ(芝居師)を招いたりしていた。神輿や山車はないが、一日中賑やかであったという。例祭の時には御供の儀礼が行われ、オソナエの餅はいただいて帰り家族みんなで焼いて食べるという。22日はハチハライといい幟を納め戸締りをし、祭り費用の清算をしたあとに直会をして終了する。
  現在は午前9時半頃に三之宮の比々多神社から神官を招き、神明社の拝殿で式典を執り行う。祝詞を奏上してお祓いをすると、代表者等が玉串を奉奠する。拝殿前での式典が終わると「殉国顕彰碑」前で同じく式典を行い、それが終わると簡単な直会をする。この時は上平間自治会長も参加する。
  大祭当日は境内に小さい店が立ち並び、午後には近隣の人達が多数参拝に訪れ、太鼓連はトラックに乗って平間地区を巡行する。

太鼓

  祭りの前日の夜は青年達が太鼓を叩く。



神輿

  



上平間の歴史

  永禄2年(1559年)の『北条氏所領役帳』には中郡平間郷とみえ、慶長8年(1603年)の検地帳には平間郷と記し、寛永10年(1633年)の地方直しまでに上下に分村した。『中郡勢誌』には村名の由来を新開を意味する「開区(ひらま)」によるとしている。
  江戸時代当初は幕府直轄地で、寛永10年(1633年)の地方直しで宇都野正長領となり、以後幕末まで続いた。検地は慶長8年に実施されたが、検地役人は不明である。さらに享保3年(1718年)に領主の宇都野氏によって2度目の検地が行われた。元禄15年(1702年)に平塚宿大助郷になり、文政寄場(改革)組合は田村外三五ヶ村組合に属した。
  小名には「浮蓋(うきぶた)」・「稲荷山(いなりやま)」・「尾崎前(おざきまえ)」があり、高札場が1ヶ所あった。村内には大山道が幅二間(3.6m)と中原道が幅9尺(2.7m)で通り抜けていた。



下平間の歴史

  江戸時代当初は直轄地で寛永10年(1633年)の地方直しにより旗本佐橋吉金に与えられ、一部が上平間村の領主宇都正長の越石になり、以後幕末まで続いた。検地は慶長8年に実施されているが、検地役員は不明である。『風土記稿』では元禄16年(1703年)に佐橋内蔵助佳純が実施したと記している。元禄15年(1702年)に平塚大助郷となり、享保3年(1718年)には同宿定助郷、享保10年(1725年)には同宿大助郷になった。文政寄場(改革)組合では田村外三五ヶ村組合に属した。
  小名には「西(にし)」・「水草(みずくさ)」・「丸山(まるやま)」があり、高札場が1ヶ所あった。上平間村との境界は入り組んでて、上・下二村入会秣場があった。村内には大山道が一丈二尺(3.6m)で、中原道が九尺(2.7m)で通り抜けていた。


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