下谷
八幡神社
天保12年(1841年)完成の『新編相模国風土記稿』でみると、下谷村は鎮守「八幡社」のほか「山王社」・「神明社(例祭6月16日)」を祀り、これらはともに小田原玉龍坊霞下で普照山京円寺と合した「教学院(本山修験)」が別当を勤めた。寺院には他に村内に観音堂を持つ鎌倉建長寺の末寺「大健山幢昌寺(臨済宗)」、その幢昌寺の末寺「糟屋山西光寺(臨済宗)」、廃寺となった幢昌寺の末寺「宝養寺」の跡地があった。
かつて上谷と下谷は共に「池田正八幡宮」と称していたという言伝えがあり、『中郡勢誌』では上谷村との分村時に池田大明神と分祀したものと記している。下谷では明治10年(1877年)に村内の神明社などを合祀して現在の「八幡神社」と改称したようである。祭神は「誉田別命」である。八幡神社境内にはかつて村内の字「山免」にあり、のちに現在の地に遷座されたものとされる山王社がある。
八幡神社 | 鳥居 |
鐘楼 | 下谷児童館 |
拝殿 | 本殿・幣殿 |
例大祭
『風土記稿』によると例祭日は旧暦の6月15日で、その後は4月7日であったが、平成3年度(1991年)から4月の第1土曜日に行うようになった。4月6日が幟立てで8日が幟返しであったが、昭和30年(1955年)頃には幟を立てなくなった。また例祭に神楽を奉納していたのは戦前までで、芝居をよぶこともあったが、神楽よりも芝居の方が費用がかかるのでそれほど多くはなかった。戦後しばらくは若い衆が中心になって素人芝居を上演していた。
太鼓
下谷には太鼓連は結成されていない。
神輿
下谷の歴史
言い伝えによるとかつて上谷と下谷は「谷村(やむら)」という1つの村であったが、上・下に別れて上谷村と下谷村になったという。分村した時期は代官頭彦坂元正によって実施された慶長8年(1603年)の検地の前後と考えられる(詳細は上谷の歴史を参照)。
江戸時代当初は直轄地で、寛永10年(1633年)の地方直しにより近藤用尹・石川重俊・渡辺忠綱領となる。享保12年(1727年)に渡辺氏は領地を蔵米知行に変更したため直轄地に戻ったが、享保13年(1728年)にその直轄地は下野国烏山藩主大久保常春領となり、近藤・石川氏と烏山藩の支配は幕末まで続いた。
下谷村内には大山道が村の南部を東西に幅一丈(3m)で通り、渋田川に沿って伝馬往来と呼ぶ道路が幅二間(3.6m)で通過していた。河川は村の北部で幅八尺(2.4m)の筒川が渋田川に合流し、幅二間(3.6m)で南北に流れ、南部で東に方向を変えた。また、東の境界に荒屋川(歌川)が流れ、いずれの河川にも堤が設けられた。小名には「上」・「下」・「荒屋」があり、高札場は3ヶ所、元禄15年(1702年)より平塚宿大助郷となり、文政寄場(改革)組合は田村外三五ヶ村組合に属した。
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