西屋にしや

神社の紹介

  「八坂神社」の境内には一基の庚申塔(こうしんとう)があり、高さは2.1mで市内にある庚申塔では最も大きなものである。塔の正面上部には合掌してして立つ青面金剛像(しょうめんこんごうぞう)を彫り、その下に三猿像を刻んでいる。銘文はほとんど摩滅しているが、延宝4年(1676年)の年号が読み取れる。
  庚申信仰は道教(どうきょう)から出たものといわれ、平安時代に日本に伝わり、江戸時代に庚申待(こうしんまち)という行事として庶民の間で大流行した。人間の体内には三尸(さんし)の虫が住んでいて、その人の日頃の行いを監視しており、庚申の夜になるとそっと体内から抜け出してその人が犯した悪行を点帝に報告する。すると天帝がそのひとに罰を下すので、三尸の虫が体から抜け出さないように、仲間と共に飲食をしながら一晩中起きているようになったのが庚申待である。庚申信仰は次第に講の組織をもつようになり、やがて地域の話し合いの場になっていった。なかなか解決のつかない難しい相談は庚申の夜に行えなどと言われていた。
  西谷の庚申塔のように、祭神は青面金剛像で、それに「見ざる」・「言わざる」・「聞かざる」の三猿を配したものが多いが、なかには不動尊や地蔵尊、観世音菩薩などを祀ったものもある。「お庚申講」などと呼ばれ、地元に根差したならわしであったが、今ではあまり行われなくなった。方々の道端で、往時のまま佇んでいる庚申塚や庚申塔がその名残りを今に伝える。

八坂神社鳥居
社殿庚申塔
西屋自治会館


例大祭

  例祭日は7月18日で、立派な神輿と囃子太鼓があり、輿堂もあったが、明治の末に持ちこたえられず秦野方面にいってしまったようである。
  古老の話では沖、西屋、新屋のお祭りは7月18日で、それぞれの輿を担いで大田橋に集まりけんかをしたという。

太鼓

  



西屋の歴史

  西屋の起こりは「長生寺」が一番古いようで、寺の歴史は鎌倉幕府の頃に開山したという話もある。文和5年(1356年)8月21日に死亡したという高木ヨシ左衛門が過去帳の始めに書かれている。寺の本堂と庫裏も大正12年(1923年)の震災で潰れ、昭和3年(1928年)に昔のままに再建した。玉川にかけられていた長生橋はこの寺の住職がかけたのがその名の由来といい、その前は一本橋で運勢橋といっていたようである。
  戸数は明治初期に16戸、明治10年頃は11戸、明治末には22戸、昭和50年以降は旧玉川あとに増加した。かつては玉川の水を利用しており、西屋には一之樋・二之樋、新屋には三之樋・四之樋があり、年に3回位はどうしても水が足りず成瀬に堰切に朝3時から4時頃に出かけたが(昭和3年頃まで)、危険な仕事であったという。
  道路は今の市道62号線はなく、下小稲葉に出るには玉川土手を通っていくか道らしくない仲西に通じる道を使った。沖小稲葉や上谷に行くには仲西に通じる道を50〜60間北に(大神方面)に行き、南に下って大田橋(沖小稲葉の小字)を渡って、糟屋を通って伊勢原に行くようになっていた。


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