七五三引しめひき(上粕屋)

神社の紹介

  「五霊(ごりょう)神社」は七五三引(〆引)にある小さい社で、祭神は天穂日命(あめのほひのみこと)・少名彦命(すくなひこなのみこと)・大己貴命(おおなむちのみこと)・三穂津姫命(みほつひめのみこと)・宇賀之魂命(うかのみたまのみこと)・事代主命(ことしろぬしのみこと)・太田持資(おおたもちすけ)を祀る。古くは正一位「五霊大明神」と称した。社伝によると大同元年(806年)に三之宮村五霊原に鎮座したあり、もとは三ノ宮御領原(ごりょうはら)にあったと思われ、相模国府の御霊神社であったといわれている。
  略日本紀によれば太制官は各国村に命じ、各国正税三十束を以って五霊会を行わせられ、京都をはじめ各国に五霊神社が創立せられ、年々五霊会を行うとある。武蔵総社資料によれば、相模の国府祭が行われるときは三之宮比々多神社の神輿が一旦五霊神社の神実を持ち出し、神輿の左の蕨手にかけ、神揃山へ出御するとあり、神実を国府の在庁家へ預けおき当日寺坂より先例により蕨手にかけて出御した。諸国々分寺誌によれば各国の府に御霊社があることを記し、相模の部に今大住郡上粕尾七五三引に此の社ありと記す。
  建久年中(1190〜1198年)に源頼朝が帰依して再興したがしたがその後荒廃し、後深草天王の御代、鎌倉の将軍宗尊親王の仰せによって、建長4年(1252年)4月4日山田長忠が興して稲荷大明神を五霊合殿に祭祀した。明応3年(1494年)9月13日に伊勢新九郎長氏(いせしんくろうながうじ)(北条早雲)は旧友大田道灌の非業の死を悼み、家臣山田伊賀守(やまだいがのかみ)に命じて道灌の甲冑や弓矢等を殿内に納めさせ、大田三徳命(おおたさんとくのみこと)として五霊社に合祀した。毎年この日を公の祭日とし、太田家より代参あるを例とした。宝永年中に三之宮より現在地に移転し、社殿を再建して正一位を受ける。

五霊神社
社殿五霊神社由緒

  大山街道が県道大山・上粕屋線と合流するところに石の鳥居が建っているが、もとは五霊神社の前にあった大山阿夫利神社参道「二の大鳥居」である。鳥居の柱に刻まれた銘文には、江戸末期の寛永4年(1851年)11月に当初の地頭、間部藤原詮昌(まなべふじわらあきまさ)が木製から石製の鳥居へ再建したとある。その後、大正12年(1923年)の関東大震災で壊れたものを、昭和3年(1928年)に再び建て直した。その後は道路拡幅のために取り外され、平成3年に現在の場所に移築再建された。ちなみに「一の鳥居」は藤沢市四谷にあり、東海道から大山道へと分岐する道標となっていた。

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二の鳥居鳥居復元の由来


例大祭

  かつては5月5日か? 例祭日は10月5日であったが、現在の祭日は10月の第1日曜日?であるが、式典のみで神輿や太鼓の巡行はない。神事は三之宮の宮司により執り行われる。昔は舞台を用意して芝居などが行われたという。
  8月の第1日曜日には「夏祭り」が行われる。「自治会」・「育成会」・「子供会」が運営する。

太鼓

  七五三引の太鼓は平成3年頃に復活し(大胴には平成3年7月吉日とある)、昔太鼓を叩いていた地元の経験者らが子供達に伝えた。演奏する曲は「ばかっぱやし?」の1曲である。通常6段返しといわれる6回繰返される部分が7回で、8回目で切れるところに特徴がある
  練習は高部屋小学校で行われる「ふるさと祭り」で太鼓を披露するため、その10日前から毎日練習する。地元の夏祭り前はあまり練習しない。練習時間は19時から20時30分頃までで、盆踊りの練習と一緒に行う(練習は21時頃まで)。太鼓は一カラだけなので、叩けない子供はタイヤを使って練習する。

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太鼓の練習タイヤで練習
囃子

神輿

  現在は樽神輿を子供達が担ぐが、昔は山王原に住む大工が作ったといわれる子供神輿があった。しかし、子供の数が少なくなり、担げなくなったのでしまったままである。

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子供神輿の写真

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